この顔が画面に大写しになるたび、暗澹たる気分になる。麻生太郞財務相のことだ。先進国なら一発レッドの御仁が居座っていること自体、この国が非民主主義国家である証左といえる。セクハラ擁護など女性侮蔑発言に事欠かず、ナチス礼賛は海外で物議を醸した。
故野中広務氏について「あの男は出身だからトップに据えることはあり得ない」と洩らし、総務会で当人に面罵された。麻生炭鉱は強制連行された朝鮮人を劣悪な条件下で働かせ、多くを死に至らしめた。蓄積された汚れた富が、力の源泉(麻生派は60人弱)になっている。
麻生氏と対照的に、ロッカーの暴言には知性やユーモアを感じることもある。イアン・マカロック、モリッシー、ノエル&リアムのギャラガー兄弟とUKロックは暴言男の宝庫だが、他の追随を許さないのはジョン・レノンだ。「ビートルズはキリストより有名」発言はアメリカで不買運動を引き起こす。
レノンは他のジャンル、とりわけジャズに辛辣で、<好むのは一部のインテリ。終わった音楽>と攻撃していた。半世紀を経て、ロックが死に瀕している。欧米の野外フェスではチケット売れ行きに貢献しなくなったことで、〝ロック枠〟を制限する動きがある。ロック衰退を象徴的に示す出来事が今年、連続して起きた。
ローリング・ストーン誌はビヨンセのコーチェラにおけるパフォーマンスを、<かつて、カルチャーのターニングポイント、記念碑的瞬間として、ウッドストック、モンタレーポップ、アイル・オブ・ワイトがあった。我々には2018年、コーチェラのビヨンセがあった>と絶賛した。
今夏のフジロックに出演するケンドリック・ラマーはピュリツァー賞を受賞した。クラシック、ジャズ以外では初めてである。ビヨンセはR&Bとソウル、ラマーはヒップホップにカテゴライズされている。廃れゆくロックと心中する俺は、これからも聴くことはないだろう。
ロッキン・オン誌で〝衝撃的〟、あるいは〝ラディカル〟と紹介されるアーティストはアフリカ系が大半だ。ロックは反骨精神と世界観を失ってしまったのだろう。現役の著名バンドで孤塁を守っているのは、パール・ジャム、ミューズ、そして以下に紹介するマニック・ストリート・プリーチャーズぐらいではないか。
13thアルバム「レジスタンス・イズ・フュータイル」を購入した。<身内を褒めない>京都人として、馴染みのバンドを激賞するのは気が引けるが、声を大に言う。邦訳すれば「抵抗は無駄」の本作は、5th「ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ」(98年)に匹敵する傑作だ。
ロックとは微分係数で、瞬間最大風速だ。デビュー盤が代表作というバンドも少なくない。30歳前の俺は、スミス、アズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズの1stに感応し、擦り切れるまで聴き込んだ。そして、デビュー27年、50歳前後のおっさん3人が奏でる〝青春の音〟が、還暦を過ぎた俺にとって麻薬になった。
話は逸れるが、「闇の伴走者」(全5話/WOWOW、15年)を再放送で一気に見た。敏腕編集者の醍醐(古田新太)は調査員の優希(松下奈緒)に、漫画における編集の意味を説く。<凡百の漫画家と手塚治虫、白土三平、楳図かずおを分かつものは編集の力だ。画稿を配置する順番を入れ替え、構成を変えることによって、駄作が傑作になり得る>(要旨)。
♯2「インターナショナル・ブルー、♯9「イン・エターニティ」を筆頭に、メロディーがキャッチーで全曲シングルカットが可能な本作をさらなる高みに押し上げたのは、上記の編集の力ではないか。曲の連なりがナチュラルで、小説でいえば一貫したテーマに基づく短編集といった赴きだ。躍動感、リリシズム、ノスタルジーに溢れた本作は、廃れゆくロックの〝最後の燦めき〟だと思う。
暴力的、スキャンダラスなイメージでキャリアをスタートさせたマニックスは、リッチーの失踪と死亡認定を経て、苦悩、成熟、怒りを作品に刻んできた。詩人トリオの一角は崩れたが、本作も知性が溢れている。メッセージ性は相変わらずだが、諦念、人生の断片、老いらくの恋めいたものがちりばめられている。マニックスは四半世紀を濾し取ったのだろう。だから、純水の清々しさを湛えたアルバムが誕生したのだ。
メンバーの誰かが日本文学に言及していた記憶がある。資本主義への絶望を込めた「享楽都市の孤独」のPVは日本で撮影されたし、本作のジャケットは、ニッキーが偶然発見した侍の写真だ。彼らは日本と縁がある。秋には実現するはずの来日公演に足を運びたい。
故野中広務氏について「あの男は出身だからトップに据えることはあり得ない」と洩らし、総務会で当人に面罵された。麻生炭鉱は強制連行された朝鮮人を劣悪な条件下で働かせ、多くを死に至らしめた。蓄積された汚れた富が、力の源泉(麻生派は60人弱)になっている。
麻生氏と対照的に、ロッカーの暴言には知性やユーモアを感じることもある。イアン・マカロック、モリッシー、ノエル&リアムのギャラガー兄弟とUKロックは暴言男の宝庫だが、他の追随を許さないのはジョン・レノンだ。「ビートルズはキリストより有名」発言はアメリカで不買運動を引き起こす。
レノンは他のジャンル、とりわけジャズに辛辣で、<好むのは一部のインテリ。終わった音楽>と攻撃していた。半世紀を経て、ロックが死に瀕している。欧米の野外フェスではチケット売れ行きに貢献しなくなったことで、〝ロック枠〟を制限する動きがある。ロック衰退を象徴的に示す出来事が今年、連続して起きた。
ローリング・ストーン誌はビヨンセのコーチェラにおけるパフォーマンスを、<かつて、カルチャーのターニングポイント、記念碑的瞬間として、ウッドストック、モンタレーポップ、アイル・オブ・ワイトがあった。我々には2018年、コーチェラのビヨンセがあった>と絶賛した。
今夏のフジロックに出演するケンドリック・ラマーはピュリツァー賞を受賞した。クラシック、ジャズ以外では初めてである。ビヨンセはR&Bとソウル、ラマーはヒップホップにカテゴライズされている。廃れゆくロックと心中する俺は、これからも聴くことはないだろう。
ロッキン・オン誌で〝衝撃的〟、あるいは〝ラディカル〟と紹介されるアーティストはアフリカ系が大半だ。ロックは反骨精神と世界観を失ってしまったのだろう。現役の著名バンドで孤塁を守っているのは、パール・ジャム、ミューズ、そして以下に紹介するマニック・ストリート・プリーチャーズぐらいではないか。
13thアルバム「レジスタンス・イズ・フュータイル」を購入した。<身内を褒めない>京都人として、馴染みのバンドを激賞するのは気が引けるが、声を大に言う。邦訳すれば「抵抗は無駄」の本作は、5th「ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ」(98年)に匹敵する傑作だ。
ロックとは微分係数で、瞬間最大風速だ。デビュー盤が代表作というバンドも少なくない。30歳前の俺は、スミス、アズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズの1stに感応し、擦り切れるまで聴き込んだ。そして、デビュー27年、50歳前後のおっさん3人が奏でる〝青春の音〟が、還暦を過ぎた俺にとって麻薬になった。
話は逸れるが、「闇の伴走者」(全5話/WOWOW、15年)を再放送で一気に見た。敏腕編集者の醍醐(古田新太)は調査員の優希(松下奈緒)に、漫画における編集の意味を説く。<凡百の漫画家と手塚治虫、白土三平、楳図かずおを分かつものは編集の力だ。画稿を配置する順番を入れ替え、構成を変えることによって、駄作が傑作になり得る>(要旨)。
♯2「インターナショナル・ブルー、♯9「イン・エターニティ」を筆頭に、メロディーがキャッチーで全曲シングルカットが可能な本作をさらなる高みに押し上げたのは、上記の編集の力ではないか。曲の連なりがナチュラルで、小説でいえば一貫したテーマに基づく短編集といった赴きだ。躍動感、リリシズム、ノスタルジーに溢れた本作は、廃れゆくロックの〝最後の燦めき〟だと思う。
暴力的、スキャンダラスなイメージでキャリアをスタートさせたマニックスは、リッチーの失踪と死亡認定を経て、苦悩、成熟、怒りを作品に刻んできた。詩人トリオの一角は崩れたが、本作も知性が溢れている。メッセージ性は相変わらずだが、諦念、人生の断片、老いらくの恋めいたものがちりばめられている。マニックスは四半世紀を濾し取ったのだろう。だから、純水の清々しさを湛えたアルバムが誕生したのだ。
メンバーの誰かが日本文学に言及していた記憶がある。資本主義への絶望を込めた「享楽都市の孤独」のPVは日本で撮影されたし、本作のジャケットは、ニッキーが偶然発見した侍の写真だ。彼らは日本と縁がある。秋には実現するはずの来日公演に足を運びたい。