弁理士の日々

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風の男 白洲次郎

2006-08-26 13:18:31 | 趣味・読書
青柳恵介著「風の男 白洲次郎」(新潮文庫)を読みました。
風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
青柳 恵介
新潮社

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今まで、白洲次郎という人の名前は全く知らなかったのですが、最近は色んなところに彼の名前が出現しているようですね。最近、彼に関して何かあったのでしょうか。
私はたまたま本屋で偶然にこの本を手にし、読み終えたところです。

現代用語の基礎知識によると、
「白洲次郎は1902(明治35)年兵庫県生まれ、85(昭和60)年没。イギリス・ケンブリッジ大学を卒業し、商社で働いていたときに知り合った吉田茂元首相の要請をうけ、終戦連絡事務局参与としてGHQとの折衝にあたる。GHQから「従順ならざる唯一の日本人」とよばれ、誰に対しても自分の信条を貫く生き方が注目を集める。妻の正子は1910年東京生まれ、98年没。華族の家に生まれ、14歳のときに能の舞台に立つ(女性初)。古美術や古典文学など文化に通じ、数々の随筆を残した。「夫婦円満の秘訣は一緒にいないこと」といい、お互いの領域を尊重しつつも長く強い結びつきを維持し続けた夫妻は、「理想の夫婦像」として人気が高い。2人が晩年を過ごした東京・町田の武相荘は現在一般公開されており、その暮らしぶりをしのぶ人々が数多く訪れている。」とあります。

今回読んだ本は、白洲次郎氏没後1年、故人の関係者から「語録を出そう」との声が上がり、未亡人の正子さんが依頼して、国文学専門家の青柳恵介氏が取材し、できあがった本であるようです。

もともと裕福な家庭に生まれ、ケンブリッジに留学して奔放に暮らしていましたが、実家が没落して日本に戻ってきます。それからいろいろな会社の役員として世界を飛び回り、イギリスでは駐英大使の吉田茂と懇意にし、日本大使館を定宿とします。

昭和15年、次郎38歳の時でしょうか、仕事から退いて小田急沿線の鶴川村に引きこもります。このまま行けば日本が世界大戦に巻き込まれるのは必定で、戦争になればいずれ東京は爆撃に遭い、必ずや日本は戦争に敗れる。そうして食糧難に陥るであろうと白州は予見し、東京の家を引き払って鶴川村に五千坪の土地を求め、百姓をはじめるのです。
昭和15年といえば日独伊三国同盟締結の年です。朝日社説・「侵略」と「責任」見据えてで紹介したように、三国同盟締結のときには、西園寺公望、山本五十六が、戦争の勃発と東京の焦土化、日本の敗戦を予測しています。白州次郎も同じように予測したと言うことでしょうか。
上記の現代用語の基礎知識に出てくる武相荘が、鶴川の住まいであるようです。

戦争が終わった昭和20年12月、幣原内閣の吉田外相の要請で、白州は終戦連絡事務局の参与として公職に就くことになります。21年3月には終戦連絡事務局の次長に就任し、以後ほぼ占領の全期間中GHQ当局との交渉に当たることになります。

昭和21年2月13日、GHQ民政局のホイットニー准将らが麻布の外務大臣官邸を訪れ、吉田外相にGHQによる日本国憲法草案を手交した際、白州次郎も立ち会います。
英語の草案を、白州氏と外務省翻訳官の小幡薫良氏が二人で、二泊三日で日本語に翻訳します。
天皇の地位に関する草案の「シンボル・オブ・ステーツ」について、
「白洲さん、シンボルというのは何やねん?」
「井上の英和辞典を引いてみたら、どや?」
「やっぱり白洲さん、シンボルは象徴や」
こうして「象徴天皇」が生まれました。

当時、商工省の外局として貿易局がありましたが、貿易局を商工省に合体し、通商産業省を発足させる際、白洲氏が陰でリーダーシップを取ったと言うことです。
また電力再編についても尽力し、電力事業を9の電力会社に分割する案が成立すると、49歳で東北電力の会長に就任します。

そして昭和39年、57歳で東北電力の会長から退きます。鶴川村の一農夫に立ちかえり、政財界の表舞台に立つことはほとんどなくなります。

軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長としてはワンマンぶりを発揮します。
雑誌ゲーテ9月号「ゲーテだけが知っている軽井沢」特集の中に、軽井沢で別荘建築を手がける小林淑希氏の記事が載っています。小林氏が工事請負で軽井沢ゴルフ倶楽部の工事を行った際の白州氏との邂逅について語っています。
白州次郎氏がポピュラーな人なんだというのをこの雑誌の記事で知りました。
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