弁理士の日々

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藤原てい「旅路」

2009-07-30 23:20:20 | 歴史・社会
藤原ていさんが、3人の乳幼児を抱えて終戦直後の満洲から北朝鮮、そして38度線を越えて日本に帰還した経緯について、「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)」を紹介しました()。この本は、1949年に発行されたものです。

その藤原ていさんが、昭和56(1981)年に“自伝的小説”として出版した本が「旅路」です。
旅路 (中公文庫)
藤原 てい
中央公論社

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藤原ていさんは1918年生まれとありますから、63歳頃の作品でしょうか。

《女学校時代》
ていさんは諏訪の山の中で育ち、子どものときは山をかけまわって遊びくらしていました。町の女学校に合格し、寄宿舎生活を始めますが、窮屈で耐えられません。それでも教師になることを夢見て、必死に勉強しました。
ところがある日、ていさんの父親から「学校をやめさせる」との連絡が入ります。ていさんの両親はなぜか別居しており、父親は中学校の校長をしていました。父親とていさんは互いに嫌い合っていたのですが、その父親の家で食事の世話をするように、ということでした。
今から75年以上前の日本では、親の反対を押し切って子供が自分の希望を通そうとしても、そもそも親から見放されたら生きることさえかなわないような貧乏な生活をしていたものと思われます。特に女性の場合には。

《新婚生活》
その後、お見合い話の中から、藤原さん(後の新田次郎)と結婚することとなりました。
気象台に勤める夫が新京(長春)に転勤します。
その新京で三人目の子供を出産した二度目の夏、昭和20年8月9日、藤原さんたち家族は新京を捨てて逃避することとなります。

《放浪生活》
ここからの記録は、「流れる星は生きている」の時代と重なります。
「流れる・・・」では、北朝鮮に拘束されていた時代のソ連兵との確執はほとんど記述されていませんでした。しかしやはりあったのですね。「旅路」では、藤原さんの団体が駐屯するソ連兵から受けた暴力行為のいきさつが語られています。
団体は櫛の歯が抜けるようにさみだれで脱出者が出、藤原さんたち母子はあるときに単独で脱出したようです。駅からキップなしでも貨車に乗せられ、平壌へ、そして新幕まで運ばれました。
そこからは徒歩で、見えない敵に追われるように逃亡します。
気付いたときには、子供達と一緒に山の中で倒れていました。目の前に朝鮮兵が四人、突っ立っています。兵隊たちは「殆どの子供達が死んでいるのに、よくお前は子供を守ってきた。オレ達が救けてやろう」と岡の上まで背負ってくれます。その丘の下には米軍がいるはずだといわれ、坂を転げ落ちていきました。
次にまた気付いたとき、ていさんはトラックの上でした。多くの死体と一緒に運ばれていたのです。

《夢に見た日本》
船で博多に上陸してから長野県の実家にたどり着くまで、ていさんはほとんど記憶がないようです。3ヶ月遅れて夫の新田次郎氏が帰国したときも、誰なのか判別できないほど、意識がもうろうとしていました。
夫は元気を取り戻して東京の職場に復帰しましたが、ていさんは2年以上も、最初のうちは立ち上がることもできず、やっと立ち上がって伝い歩きするような状況でした。
東京に気象庁の官舎が確保でき、家族全員で東京へ引っ越します。ていさんは「全身衰弱」毎日ペニシリンの注射が必要でした。夫の収入の半分はペニシリン代に消えます。
目まい、吐き気、心臓の痛みは続きます。そのような中で、子供達に遺書を残そうと思い立ち、夫に気付かれないように北朝鮮放浪の生活を書き綴りました。

廊下を手放しで歩くことができるまでに回復した頃、ていさんは思い切って遺書を夫に見せます。それはノートに二冊、細かく書き込んでありました。
「もう必要ありませんものね、焼き捨てましょうか」
夫は吸い付けられるように読み、今まで涙を見せたことなどなかったのに、ぽろぽろ涙を流しました。
「オレがあずかっておく」
その遺書が本になりました。夫と、当時気象台長をしていた叔父、藤原咲平との好意からでした。赤土色の本の表紙は、北朝鮮の赤土の泥の色だとのことです。

本は全く予想もしなかったのに、売れに売れました。ていさんは原稿を依頼されるようになります。
小学校に通う娘は、学校から帰ると「あ、お母さん、原稿を書いていたね、目がこわいから、すぐわかるよ」「仕事をしてはイヤ」かん高い声で言います。
ある日、至急の原稿を郵便局に出して帰宅すると、次男がかんしゃくを起こしてドアを壊していました。次男が学校から帰ると鍵がかかっており、怒って壊してしまったのです。
ていさんはその日からペンを折りました。

《成長した家族たち》
「今日、役所で、今後は藤原てい夫と、名刺に書くべきだと言われたよ」
ある夕食の折、夫はポツンと言います。
にぎやかだった食卓に冷たい風が吹き抜けるようになりました。
「オレも、小説を書く」
「お前に出来ることぐらい、オレにも出来る」
小説家・新田次郎は、このようにして誕生したのでした。

その夫が、突然に死亡します。心筋梗塞でした。1980年、67歳。ていさんは62歳です。
あれほど、本気になって育て上げた子供達もみな社会人になって巣立ってしまい、夫までもが再び帰らない旅へ立って行ってしまいました。「もう、私を必要としている人は誰もいなくなったのだ」むなしい日々が流れていきます。

《あとがき》
「あの敗戦直後の長く苦しく悲しかった北朝鮮での放浪の日々。引き揚げ後の貧しい中で、ひたすらに子供達を育て上げていった日々。よろこびは瞬間に通り過ぎてしまって、苦しかったことのみが、心に重く残ってしまっている。それでも私は、精一杯に生きて来たように思う。あるいはこれが人生というものかもしれない。それならば、残された日々を、今までのように、また一生懸命に生きてゆこうと思う。
 こんな時、大野周子さんが、生きて来た道を書き残すようにとすすめてくださった。そしてこの本が出来上がることになった。あるいはこれが私の生きて来たあかしになるかもしれない。なんともありがたいことである。」


この本はちょうど、藤原ていさんがご主人を突然に失った失意のときに書かれたものだったのですね。
「流れる・・・」の出版から32年が経過しています。「流れる・・・」の当時は書けなかったことも、この「旅路」では明らかにしています。その両方を読み比べることによって、真実の姿が見えてくるようです。

(続く)
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