弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

藤原てい「流れる星は生きている」(3)

2009-07-16 21:16:03 | 歴史・社会
前回まで2回にわたって、藤原てい著「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)」の内容を追ってきました。

出産からたった1ヶ月、逃亡の最初は4キロを歩くのさえやっとだった藤原ていさんが、0歳児を含む3人の子供を抱え、夫からも引き離されながら、こうして帰還を果たすことができました。
極限に置かれた母親がこんなにも強くなれるのか、驚くばかりです。

死の瀬戸際にいた咲子ちゃんが生き延びたのか、本文には書かれていませんでしたが、文庫本のあとがき(昭和51年)には「当時、生まれて間もなかった娘も、30歳になった」とあり、ほっとしました。
生死も知れなかった藤原さんのご主人は、藤原さんが引き上げてから約3ヶ月遅れて、北満州の延吉という場所から引き上げてきました。後に作家の新田次郎になる人です。
捕虜時代のことについて新田氏はめったに話をせず、彼のおびただしい作品の中にはその片鱗さえも書き込まれませんでした。
次男の正彦ちゃんは、後に数学者となり、「国家の品格」を世に出しました。

この本「流れる星は生きている」はどのようないきさつで生まれたのでしょうか。
文庫本のあとがきにはこう記されています。
「引き揚げてきてから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、3人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだったけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立った時、また、苦しみのどん底に落ちた時、お前たちのお母さんは、このような苦難の中を、歯を食いしばって生き抜いたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書き続けた。
しかし、それは遺書にはならなかった。私が生きる力を得たからである。それがこの本になった。」

Wikipediaには「帰国後、遺書のつもりでその体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』は戦後空前のベストセラーとなった。一部創作も含まれている。」と紹介されています。
しかし今回読んだ文庫本には、小説であるとは記されていません。一部が創作であるとも記されていません。1949年出版当時は小説としましたが、文庫本出版時の1976年には、藤原さんにとって真実の思い出として理解されていたのでしょう。

ここまで来ると、どうしても初版出版時(1949年)のいきさつを知りたくなります。そこで買ってしまいました。初版本です。
流れる星は生きている (1949年)
藤原 てい
日比谷出版社

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コレクター本として9千円台のものが並んでいる中に、たまたま3千円の中古本がアマゾンに掲載されたので、すかさず購入してみました。

巻頭で、作家の大佛次郎氏が序を書いています。

著者のあとがきを読んでみましょう。
藤原さんは、どうかして自分の経験した記録を子供たちに残したいと思い、まずは記憶を辿りながら克明な日記を綴りました。次に、健康を恢復してくるとともに「創作を書く」ということを思いつきます。600枚の小説を書き上げますが、何か寒々とした他人のことのような気がしてなりません。
そして3回目、自分と子供たち3人の名前を実名にして他の人物は全部仮名の人物、自分の団体にいた人、他の団体で見た人の個性、聞いた話等、モデルを豊富にとって、自分を常に中心としてあの悲惨な生活の記録をたどりました。
「どうやら書き上げて読み返して見たが、まだ私達の惨めな体験とはほど遠いもののような気がしてならない。これを読んで38度線を同じく越えてきた人達は、そんな生やさしいものではなかったのにと云われるに違いない。そしてもっと真実をなぜ書かなかったのだと云うに違いない。」
「そして最後にもう一言云いたいことは、この小説のモデル探しはやめて戴きたいことである。これは一篇の小説であるから、私と三人の子供の名前以外は全部小説の中だけの人間と思って戴きたい。あの北朝鮮の山の中の町にいた私を知っている人達に逢ったら、しみじみと今は遠い過去の苦しみを語り合い、明日の道を誤らないようにしたいと思うのである。
  昭和23年12月        著者」

初版本のこれら「序」「あとがき」などは非常に興味深いものであるので、html文書にしました。


藤原さんの著書を通じて、感じたことがあります。
1945年当時、北朝鮮に住む現地の人たちも困窮していたはずです。また、今までの支配者だった日本人を憎く思っていたことでしょう。
しかし、途方に暮れる藤原さんたち母子に接する朝鮮の人たちは、いずれもとても親切な人たちでした。意地悪をすることなく、必要なときは食物を分け与えてくれました。「あなたに食べ物を上げると、私が村八分にされてしまう。今から食べ物を捨てるから、それを拾っていってください。」と言ってくれた農家の主婦もいました。
それに対し、意地悪で自分勝手だったのは同胞の日本人たちです。
日本人として寂しい限りではありますが、このような事実があったことを、しっかりと覚えておくことにしましょう。
コメント (2)
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