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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

コードブレイカー(2)

2025-04-01 14:41:02 | 歴史・社会
第1報に続き、ジェイソン・ファゴン著「コードブレイカー――エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史」の第2報です。

この本の主役は、エリザベス・スミス・フリードマン(1892-1980)と、その夫のウィリアム・フリードマンです。

第1報では、エリザベスと沿岸警備隊における彼女のチームが、南米のナチのスパイ組織の通信暗号文を解読する活動までを記しました。また、ウィリアムと彼が率いる陸軍暗号解読班が日本の外交暗号パープルを解読し、パープル暗号複合機を制作するまでを記しました。

パープル制覇は、ウィリアムが本格的な暗号解読者としてなしとげた最後の偉業、最後の命がけの登攀となりました。この時点から晩年にかけて、ウィリアムは暗号機の発明と、インテリジェンス機関の設立という側面から国のために働くこととなります。

イギリスにはイギリス安全保障調整局(BSC)という組織がありました。1000人の組織員が、「アメリカの孤立主義を終わらせて戦争に参戦させる」ことを目的に邁進しています。イギリスはフーパーのFBIと協力しようとしますがフーバーは拒否しました。イギリスはフーバー以外の協力を獲得すべく運動し、ルーズベルト大統領は情報調整局(COI)を創設しました。CIAの前身です。このときから、イギリス人がエリザベス・フリードマンに親しげに近づいてくるようになりました。イギリスはすでに無線傍受技術を持っていましたが、イギリスからは信号を入手できない地域がありました。イギリスは、アメリカにおける無線インテリジェンスや暗号解読に強いのは沿岸警備隊であると知りました。
イギリスのBSCがヨーロッパ全域に設置した無線局と、アメリカ沿岸警備隊の傍受通信が互いを補うこととなります。

フーバーのFBIは、数種類の未知の暗号システムについて沿岸警備隊に手助けを求めてきました。エリザベスは、スパイの一部が書籍サイファを用いていることを見抜き、また回転グリルを用いる暗号については、暗号文から得られる手がかりだけをもとに推論し、5回か6回のひらめきを経てルールを見破りました。

1941年1月、ウィリアム・フリードマンは、ウォルター・リード総合病院の神経精神科に自分から診療を受けに来ました。エリザベスに知らせずにです。数日前に倒れたのだが多分神経がやられたのだろう、とウィリアムは話しました。
ウィリアムはそれから2ヶ月半、この病院の精神科病棟で過ごしました。外出は許されませんでした。
1941年3月、病気の診断が確定し、ウィリアムは陸軍の任務に戻ってよし、となりました。ウィリアムは陸軍の職場に復帰しましたが、以前とは全くちがう人間となり、この先も元に戻るてことはありませんでした。退院から三週間後、ウィリアムは陸軍から「健康上不適格という理由で」名誉除隊となったとの通知を受けました。ウィリアムは徹底的に抗議しましたが、除隊となり、民間人の立場で任務を続けるほかなくなりました。
エリザベスは、抑うつ状態にあるウィリアムの面倒を見ながら、仕事も続けなくてはなりませんでした。

ヨハスネ・ジークフリート・ベッカーは、ナチの親衛隊の士官でかつ南米で活動したスパイでした。7カ国でスパイを使い、ナチ支持者とともに政治的陰謀や軍事クーデターを組織し、地下無線局を設置しました。
沿岸警備隊のエリザベスのチームは、南米発信の暗号文を解読していきます。解読文は、フーパーのFBIにも提供されました。FBIはこの解読文をあたかもFBI発であるように偽装しました。そのため、エリザベスが記録から抹消され、後年J・エドガー・フーバーがエリザベスの業績を横取りしていきました。
2000年に国立公文書館に保管された極秘資料が機密解除され、FBIではなく沿岸警備隊が、無線通信回路を解明したことを証明しているのでした。

1941年12月、『真珠湾攻撃のニュースがフリードマン家に入ると、ウィリアムはせかせかと歩き回って小声でつかえながら、理解できないとつぶやいた。エリザベスの耳に、「でも、彼らは分かっていたじゃないか。分かっていた、わかっていたはずだ」という声が何度も聞こえてきた。』
ウィリアムら暗号解読者たちには、少なくとも数日前から、日本軍の攻撃態勢が整っていることはマジックから一目瞭然でした。ただひとつなぞだったのは、攻撃目標地点でした。それなのになぜ、ハワイの米軍は何の供えもなく不意打ちされてしまったのか?
それから長年にわたり、何が間違っていたのだろうという疑問がウィリアムの頭から離れませんでした。軍部が真珠湾の司令官に専用のパープル暗号機を提供しなかったせいで、真珠湾では直接マジックを読むことができませんでした。

日本の外交暗号パープルがアメリカで解読されており、真珠湾攻撃前に米大統領に手渡すはずだった最後通牒は、事前に解読されて米政府内で読まれていました。日本が米国に開戦することは明らかでした。それなのになぜ、真珠湾の米海軍・陸軍は無防備でやられてしまったのか。これは、アメリカの暗号関係者にとって最大の謎でした。このブログでも何回も取り上げています。たとえば
ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたか 2008-10-04(ブログ記事)
『日本政府は、アメリカに対する最後通牒を真珠湾攻撃開始の30分前に米国政府に手交する段取りとしていました。そしてその通告文(第1部から第14部まで)が、外交暗号に組まれて在米日本大使館に送信されます。
まず第13部までが送信されます。米国は直ちにこれを解読し、アメリカ東部時間で12月6日の夜遅くにはルーズベルト大統領に届けます。これを読んだ大統領は「これは戦争だ」とつぶやいたことが知られています。
アメリカ東部時間で7日の午前9時には、最後の第14部も到着し米国に解読されます。「これ以上、外交交渉により合意に到達することは不可能と認む」「全14部の通告を貴地時間7日午後1時にハルに手交せよ」とあります。東部時間午後1時は、ハワイ時間午前7時半です。

もちろん、米海軍作戦部長のスタークもこの情報を知らされます。部下から「いますぐキンメル大将(ハワイ太平洋艦隊司令長官)に警告されてはいかがでしょうか」と進言され、スタークは受話器を取り上げます。午前10時45分です。スタークはキンメルに電話をせず、代わりにホワイトハウスを呼び出しましたが、大統領は話し中でした。スタークはそのまま受話器を置き、あとは何もしませんでした。
米陸軍については、マーシャル参謀総長がつかまりません。自宅から乗馬に出かけたことになっています。やっと家に戻ったのは11時25分でした。マーシャルはスタークと電話連絡し、スタークはハワイへの連絡に海軍の電信網を使ってはどうかと提案しますが、マーシャルはそれを利用しません。そしてその緊急命令は、なぜか商業通信RCAによって打電され、実際にハワイのショート陸軍司令官に届いたのは真珠湾攻撃が終わった後でした。

結局、米国政府首脳は、「日本が東部時間午後1時の直後に、どこかの地点で米国に攻撃を仕掛けてくる」ということを知っていながら、ハワイにはその情報を伝えていなかったのです。』
--以上、ブログ記事-------------------

日本から米国への最後通牒の暗号解読に直接携わっていたウィリアムには、その解読情報が生かされず、ハワイが無防備で攻撃されたことに納得がいかなかったのでしょう。

開戦後、さまざまな暗号任務にフリードマン夫人の手を借りたいとの声があがりました。ウィリアム・ドノヴァンは、情報調整局、後のCIAを設立する業務を行っていました。エリザベスが名指しされ、CIAの原型の原型となる初の恒久的暗号部門の立ち上げに尽力しました。

沿岸警備隊に戻ったエリザベスは、南米からの傍受通信の解読を再開しました。

1942年3月、FBIと南米の警察は、ナチのスパイ網の一斉検挙を試みました。しかし、一斉検挙は不首尾に終わり、さらにはスパイ網が用いる暗号システムがすっかり変更されました。
それ以来、アメリカとイギリスの諜報網は、有益な情報はFBIにもらさない、との行動を取るようになりました。
エリザベスらがスパイ網の暗号を解読すると、スパイ網は暗号を変更します。この繰り返しでした。1942年冬には、やっとのことでスパイ網の秘密の通信回線をふたたび掌握できるようになりました。
ただひとつ、解読できない回路3-Nがありました。通信文がエニグマ機のどれかで暗号化されていると推測しました。

当時、ナチスドイツと敵対していない国はアルゼンチンのみでした。1943年1月、ナチススパイのジークフリート・ベッカー、別名「サルゴ」がブエノスアイレスに現れました。エニグマ暗号機をもってきました。無線技士のウッツィンガーは、強力な無線局を一つ造り、ベルリンには3つの無線局があると思い込ませることにしました。赤はベッカーと親衛隊の協力者を結ぶ回線、緑はハンス・ハルニッシュとウプヴェーアを結ぶ回線、青は「大使館の連中」用です。

エリザベスのチームとイギリスのチームが、それぞれ単独で3-Nの解読に成功しました。エニグマにはいくつもの種類がありますが、今回のエニグマは中程度のセキュリティでした。
南米のベッカーたちナチスパイは、南米各国の政府転覆計画を推進していました。その状況は、暗号を解読しているエリザベスらに筒抜けでした。
連合国当局は、これら暗号解読情報をも参照して、アルゼンチン政府に脅しをかけました。その結果、アルゼンチン政府は、ドイツおよび日本とのあらゆる関係を断絶するに至りました。

さらに、南米ナチの赤用の新しい3台目のエニグマについても、エリザベスたちは解読に成功します。イギリスに報告したところ、「自分たちも解読に成功したところだ」との回答がありました。

南米のナチ諜報網はとうとう、壊滅されることとなりました。実際に捜査し逮捕したのは南米の警察とアメリカのFBIでしたが、必要な情報の大部分を提供したのはエリザベスが率いる沿岸警備隊チームでした。エリザベスらの貢献のおかげで、南米諸国は枢軸国側に奪い取られずに済んだのです。しかしそのことは、当時は明かされることがありませんでした。

欧州での戦争が終了すると、ウィリアムはナチの諜報関係資料を収集するためのチームに配属となり、ドイツに向かいました。
ウィリアムはドイツからイギリスに向かい、イギリスのアラン・チューリングと会いました。チューリングは、ドイツのエニグマを解読する上での中心人物と目される天才数学者です。イギリスは1952年、アラン・チューリングが同性愛者であるという理由で、機密情報の取り扱い資格を剥奪しました。のちにチューリングは、明らかに自殺と思われる状態で死んでいるのを発見されました。
イギリスでウィリアムは、ナチの諜報活動について調べました。会ったドイツ人捕虜のなかには、ナチの一流の暗号家であるヴィルヘルム・フリッケ博士とエーリッヒ・ヒュッテンハインがいました。捕虜の尋問や調べた文書から、ドイツはエニグマ機の安全性をつゆほども疑っていなかったと判断しました。一方、ウィリアム自身がフランク・ローレットと共同開発したシガバを破ることができないでいたと知り、誇りに思いました。

日本との戦争が終結し、ウィリアムはアメリカに帰国しました。
ウィリアムは、戦後のアメリカ諜報機関をどのように設計するかの議論に参画し、1952年、国家安全保障庁(NSA)が誕生することとなります。また、自身の開発した暗号機の技術解説をまとめ、商品化を目指して特許を出願するつもりになっています。

ウィリアムの鬱症状は1947年に再発しました。
エリザベスとウィリアムは、自分たちが関係した暗号関係の書類を自宅図書館で保管していました。そしてこれら書類を、ジョージ・C・マーシャル財団に寄贈することに決めました。
1969年、ウィリアムが心臓発作によって亡くなりました。
葬儀が終わると、エリザベスはウィリアムの残した書類について目録の作成に取りかかりました。そしてエリザベス関連の書類を含め、レキシントンのジョージ・C・マーシャル財団図書館に運び込みました。
1980年、エリザベスは88歳で亡くなりました。

それから何年ものあいだ、何も起こりませんでした。
暗号解読に従事する女性たちが、エリザベスに注目するようになりました。

そして2014年、この本の著者のジェイソン・ファゴンが、財団図書館に眠るエリザベスの書類にたどり着きます。主任記録保管人は、「エリザベスの資料はすばらしいですよ」と伝えました。
ただし財団図書館の所蔵書類は、所蔵当時に機密指定になっていないものに限られます。そこで、財団図書館の書類調査だけでは、ぽっかりと穴が開いている状況でした。著者はその部分を、最近になって機密が解除された公文書によって埋めていきました。

以上が、エリザベス・フリードマンとウィリアム・フリードマンの歴史です。
この2人が、夫婦で暗号解読の仕事を行うことで暗号学を深め、次いでそれぞれが単独で政府、軍、沿岸警備隊での暗号解読に邁進することで、アメリカの暗号解読の能力は秀逸なものになっていきました。
日本の外交暗号パープルは、ウィリアムが率いるチームによって解読されました。
ドイツの暗号エニグマは、主にイギリスの努力によって解読されたようですが、アメリカのエリザベスのチームも、ほど同じタイミングで各種のエニグマの解読に成功しています。
一方、米軍が主に用いた暗号システムは、ウィリアムが率いるチームによって造り出され、日本もドイツもその暗号を破ることはできませんでした。
このように見ていくと、第二次大戦での暗号の世界において、米英が日独に優位に立っていた理由の相当の部分が、エリザベス・フリードマンとウィリアム・フリードマンという2人の功績によるのではないか、という気がしてきます。
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