弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

藤原てい「流れる星は生きている」(2)

2009-07-14 21:08:33 | 歴史・社会
前回に続き、藤原てい「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)」を紹介します。

藤原さん達日本人団体(新京気象台勤務者の家族)は、命令によって北朝鮮・宣川のあばら屋で集団生活しています。女性、子供、老人ばかりです。
藤原さんのご主人は抑留されたまま、生きているかどうかすらわかりません。

昭和21年5月15日、「日本人解放」とうニュースを受けます。と同時に、冬中続けられた一日一人あたり米二合の無料配給が停止されました。「解放」とはいうものの、すぐに日本に帰れるあてはありません。そしてここに滞在する限り、毎日の食費を自分の財布から出さなければならなくなりました。
夜が明けると日本人は町に溢れ出て、血眼で仕事を探し求めていました。藤原さん達4人家族が最低生活をするには一日20円はどうしてもかかります。
幼児を連れた女性はなかなか内職が見つかりません。藤原さんは咲子ちゃんを背負って職探ししますが、ことごとく断られました。そして最初は街頭でのたばこ売りからはじめ、次に石けんの行商を始めます。収入は少なく、家族はとうもろこしをドロドロの粥にして命をつなぎました。
売り歩く石けんを買う元手もなくなると、最後は子どもを連れて物乞いに歩きました。

8月1日、藤原さん達の団体は南へ向けて脱出することを決めます。
宣川から新幕までは汽車で行けます。そこから90キロ、山の中を歩いて、最後は38度線を徒歩で突破して南側の開城に到達するというものです。そのルートで何が起こるのか、本当に脱出できるのか、すべては流れてくる噂にもとづいての判断です。
藤原さん達の団は18名、しっかりした男性は一人きりで、あとは女性と子供、乳幼児ばかりです。
汽車は平壌で止まり、そこで3日間足止めされました。3日目、有蓋貨車に乗せられて新幕に出発します。雨の中、貨車に立ちづめで数時間走り、夜の新幕に到着します。

横殴りの雨です。日本人たちは、目に見えない危険に追われるように、小走りで移動を開始します。藤原さんは〈早く逃げないと殺される〉と思い込んでいました。赤土の泥道を夜中に歩く中、正彦ちゃんは両方の靴をなくしていました。藤原さんも裸足です。
昼も歩き続けます。
集団はばらばらになり、咲子ちゃんを背負った藤原さんは遅れます。休憩していた集団に近づくとその集団は移動を開始し、正広ちゃんと正彦ちゃんだけが取り残されていました。正彦ちゃんは、裸の下半身が紫色になり、このままでは凍死です。近くに民家を見つけ、助けを求めました。民家の老婦人が沸かしてあったお湯を使わせてくれたので、正彦ちゃんの身体中を摩擦し、やっと生気を取り戻しました。

そこからは近くの民家で牛車を頼むことにします。1台千円。10人ほどを集めて1台を頼みました。
翌8月5日は晴れです。午後3時頃、第1目標の新渓郊外に到着し、牛車に金を払います。
夜、また牛車を雇い、夜を徹して先に進みます。お金が足りないので、子供たちは牛車に乗せますが藤原さんは裸足で歩き続けました。次の日の昼頃、市辺里に到着します。咲子ちゃんに飲ませる乳が出ません。
市辺里を出た夜はものすごい夕立です。何とか農家の牛小屋に泊めてもらいます。
同じように何日も、いくつもの山を越え、子供を一人ずつ小脇に抱え胸まで浸かって急流を渡り、裸足で歩き続けます。ときどき大豆をかじって飢えを癒します。
8月10日、前方に白いものが見えます。それこそ、38度線の木戸でした。駐屯するソ連兵たちが遮断棒を上げ、藤原さんたちを通します。
38度線を通過しても、目的の開城まではもうひとつ山を越さなければなりません。藤原さん家族はばらばらになり、山を越して開城の市外にたどり着き、そこで彼女は咲子ちゃんを背負ったまま意識を失います。

次に意識を回復したとき、藤原さんはトラックの荷台でした。米軍に助けられたのです。正広、正彦の兄弟も乗っていました。こうして8月11日の朝、家族4人は最悪の事態を脱して生き延びました。

藤原さんと正彦ちゃんは、裸足で歩き続けたため、足の裏が完全に破れて多数の小石がめり込んでいました。人間は、極限状態ではここまで頑張れるのか、それも4歳の幼児が。
その後、開城から議政府を経由し、8月26日、貨車で釜山に到着します。

帰国する船にはすぐに乗れました。船は博多に到着します。しかし博多に到着したまま、上陸の順番待ちでずっと船倉に缶詰になったままでした。子供たちは全身おできだらけで、寝ているときにかさぶたが取れると「ぎゃッ」と声をあげ、そのたびに周囲から「うるさいぞ!なぜ子供を泣かすんだ!」と罵声が飛ぶのです。また着の身着のままですから「臭い」と文句をいわれます。
やっと上陸できたのは9月12日でした。
せっかく日本にたどり着いたというのに、この対応は何でしょうか。乳幼児を連れた母子や病人を先に上陸させるという智恵が、上陸事務を掌る役人には働かなかったようです。もっともそんな対応をしても、結局は要領の良い人だけが優先して上陸したかも知れませんが。

博多から故郷の諏訪まで、列車での移動です。咲子ちゃんは衰弱し、診た医師は、もう1日生き延びるとは考えられない、といいました。
列車は上諏訪に到着します。「引揚者休憩所」に入ると、鏡がありました。鏡を見るのは一年ぶりです。
「そこには私の幽霊が立っていた。灰色のぼうぼうの髪をして、青黒く土色に煙った顔に頬骨が飛び出して、目はずっと奥の方に引っ込んで、あやしい光を帯びて私をじっと見つめている。色の褪せきった1枚のシャツ、その下にはいている半ズボンの膝小僧のあたりが破れてぶらぶら何かぶら下がっている。そのあたりから、水ぶくれに腫れ上がった鑞のように白い足が二本にゅっと出てそれでも下駄だけははいている。背中には死んだような子を背負い、両脇にはがくりと前に倒れそうな子供の手を引いて・・・。」

藤原さんの兄、妹、両親が駅に駆けつけます。藤原さんは背中の咲子ちゃんを下ろし「この子を早く病院へ」というと、「もういいんだ、もういいんだ」と心の中で繰り返し、そのまま深い処へ沈んでいきました。
(終わり)

以下次号
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