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コーデル・ハル著「ハル回顧録」

2009-06-23 21:29:02 | 歴史・社会
コーデル・ハルというと、われわれ日本人はハル・ノートを思い出します。このブログでもハル・ノートとして書きました。
1941年11月、太平洋戦争の開戦直前、日米交渉が最終局面を迎えていたとき、米国は日本に対して突如ハル・ノートを提示します。日本大百科全書ではハル・ノートについて「内容は、日本の中国および仏領インドシナからの全面撤兵、重慶を首都とする国民党政府以外のいかなる政権をも認めないことなど、きわめて非妥協的な要求をもつ対日要求であり、この文書の提出によって、日米交渉は事実上終止符を打たれた。日本側はハル・ノートをアメリカの最後通告とみなし、12月1日の御前会議では、日米交渉の挫折を理由に対米英蘭開戦を決定した。」としています。

ハル・ノートの名前の由来であるコーデル・ハルは、当時米国ルーズベルト政権の国務長官です。以下の本を読んでみました。
ハル回顧録 (中公文庫BIBLIO20世紀)
コーデル ハル
中央公論新社

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ハルは、1933年にルーズベルトの大統領就任時から国務長官を務め、健康問題で1944年に辞任するまで11年9ヶ月にわたって在任します。「ハル回顧録」は、その大部分が国務長官時代を回顧した内容です。
全編にわたって、ハルが誠実で有能な政治家であったことが伝わってきます。ルーズベルト大統領を有能な大統領として尊敬し、大統領との間に相互に深い信頼関係で結ばれています。その点はおそらく間違いないでしょう。

それでは、ハル・ノートについてどのように記述しているか。その点に関心が集中します。ところが残念なことに、ハル回顧録の中でハル・ノートは極めて僅かにしか扱われていないのです。
「私が1941年11月26日に野村、来栖両大使に手渡した提案(10カ条の平和的解決案)は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすことがあるかも知れない、というはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。あとになって、特に日本が大きな敗北をこうむり出してから、日本の宣伝は、この11月26日のわれわれの覚書をゆがめて最終通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方であった。」
これが全てです。

著書では、ハル・ノートの具体的な内容については一切触れていません。具体的な内容に沿って、ハルがどのような意図でハル・ノートを提示したのか、そのような解説を期待していたのですが、全くの肩すかしでした。
私がハル・ノートで書いたように、当時の日本外務大臣である東郷茂徳氏が、ハル・ノートを最後通牒と受け取って落胆した事実があります。日本政府がそのように受け取るだろうことを、ハルが予測しなかったとは考えられません。

自伝である以上、このようなこと(自分に不都合な点は詳細に述べないこと)は十分にあり得ることです。そのようなスタンスで読めばよろしいと言うことでしょう。

以上の点をさっ引いても、ハル回顧録は、有能な政治家の優れた回顧録としての価値があると理解しました。ルーズベルト大統領の在任の大部分の期間、大統領と二人三脚で、あの大変な時代にアメリカを指導した能力と努力には敬服します。

回顧録では詳細に説明されていないのですが、第二次大戦の末期に、ハルが後の国際連盟の設立に向けて、世界政治の中で大きな指導力を発揮した事実があるようです。ハルは「国際連合の父」と呼ばれています。
私はもちろん日本語訳で本書を読んだわけですが、同じ"United Nations"をあるときは「連合国」と訳し、あるときは「国際連合」と訳しているわけで、正しく訳語が選択されているかどうか、若干の危惧を感じました。
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5 コメント

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ハル・ノートは誰が書いたのか? (星海風太)
2009-06-25 23:02:07
こんばんは!ハルの伝記もハル・ノートの英語原文も、まだ残念ながら私は読んでいません。1999年に刊行された、文春新書の『ハル・ノートを書いた男 - 日米開戦外交と「雪」作戦』須藤しん志著を読みました。須藤氏は、スタンフォード大やジョージ・ワシントン大の客員教授を歴任された方ですが、一読後、バランスのとれた歴史観を持つ学者だと感じました。この本で、スクープ的な記事として、NHKにも取材を受けた、元KGB諜報員 ビタリー・パブロフ氏の証言がありました。彼が、ハル・ノートの素案に影響を与えたと言うのです。当時、ソ連はヒトラ-の独ナチスと激戦の真っ最中でしたから、満州の日本の関東軍の動きが心配なので、米国の外交力による抑止に期待したらしいのです。それが「雪」作戦でした。1941年5月に、ワシントンのレストランで、パブロフは、米国国務省高官だったH.D.ホワイトに接触します。ホワイトの上司が、モーゲンソー財務長官で、その上がハル国務長官でした。この本によれば、ホワイトが最初の対日素案を書き、それをモーゲンソーが修正して、ハルに渡したのです。ハル・ノートは、ソ連や中国や英国や仏国などの戦略的思惑が、激しく交錯する、熱い外交文書だったようです。
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ハル・ノートとモーゲンソー財務長官 (ボンゴレ)
2009-06-26 23:36:44
星海風太さん、こんにちは。
ハル回顧録の中で、ハル・ノートとモーゲンソー長官との関係について言及した箇所があります。
11月21、22日頃、国務省では暫定協定につける十項目の平和的解決の大綱を考えていました。
「モーゲンソー財務長官が財務省で作った解決策を私のところに送って来た。これはモーゲンソーが第二の国務長官として立ち回ろうとする傾向を持っていたことを示す一つの例であったが、その提案のなかにはよい点もあってわれわれの最終草案にとり入れられた。」

モーゲンソーから提案を受けたが、国務省として主体的に取捨選択した、というスタンスですね。実態はどうだったのでしょうか。

ところで、財務長官は日本の財務大臣、国務長官は日本の外務大臣に対応するようで、それぞれ対等に別の分野で大統領を補佐していたと考えられます。
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ハル・ノートの永遠の誤解? (星海風太)
2009-06-27 13:42:48
ボンゴレさん、コメントありがとうございます。大戦後、ドイツ占領計画のモーゲンソー・プランが実行されましたから、ハンス・モーゲンソー財務長官は、優れた戦略家だったようです。ハルにとっては、ライバルだったのかもしれません。モーゲンソーは、生地ドイツのナチスから逃れて移民したアメリカ人ですが、移民前は、フランクフルト大学で国際法を教えていた学者でした。対日交渉は、ハル国務長官が最高責任者でしたから、モーゲンソーは、ルーズベルト大統領を介して、試案をハルに提出したようです。ざっと英文を読みましたが、ハル・ノートの前段には、『秘密文書、試案にて法的拘束無し-Strictly Confidential,tentative and without commitment』とあり、東郷外相と外務省は、この部分を削除してから枢密院に提出していた謎があります。交渉打ち切り最終文書ではありません。また、本文中には、『China』が、満州を含む中国とは記述されていません。ホワイト素案では、「満州を除く」としていたらしいですが、ハル・ノートでは、曖昧な表現に終始させています。後の東京裁判で、東郷を弁護した、私が尊敬するブレイクニー(米国人弁護士)は、どう解釈したのでしょう!?まだ調査中です!
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モーゲンソーとドイツ占領政策 (ボンゴレ)
2009-06-27 19:07:23
「ハル回顧録」の終盤では、ハルはモーゲンソーの策謀を何とか食い止めることに努力を費やしています。
1944年9月頃、モーゲンソー財務長官はルーズベルト大統領に対して自身のドイツ占領計画を売り込みます。その内容は、ドイツの工業を復興させず、ドイツを農業国にしてしまおう、というものでした。大統領はこの覚書に「OK」とサインしてしまいます。
外交問題にも関わらず、ハル国務長官を入れずにこのような計画が話しあわれていたのです。ハルは、この計画はとんでもないとの考えで大統領に働きかけました。
ハルの努力が実って、このときはモーゲンソー案は採用されずに済んだようです。
ハルはこのあと病のために国務長官を辞任しますので、その後のことはわかりません。
結局、「モーゲンソー・プラン」なるものがドイツ占領計画として実行されたということですね。
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ハルとモーゲンソーと歴史の“もし” (星海風太)
2009-06-27 22:33:52
こんばんは!またまた、おじゃましますw。モーゲンソーは、ナチスに殺されそうになって脱出してきたドイツ移民ですから、ハル国務長官に対してよりも、ナチスの復活の種を、徹底的に排除したかったのでしょう。私は、彼の心情がよくわかります。ドイツの工業を、100%近く軍需にしてしまった独裁者ヒトラーの亡霊は、当時の欧州の人々の心を、まだ深く支配していたのですから。ハルは、国際連合の父と呼ばれた、有能な実務家であり、素晴らしい人格者だったと思います。書き換えの出来ない歴史の流れの中で、“もし”、ハル・ノートの要求を、東條の日本政府が受け入れて、満州問題を別件として交渉継続していたら、太平洋戦争は無かったでしょうし、本土空襲も原爆投下も無かったでしょう。受け入れていたら、日本は滅びていたでしょうか?一般的に米国人は、騙し討ちや背中から撃たれることを、非常に嫌います。“もし”、パールハーバー奇襲が無かったら、ルーズベルト大統領は、対日戦争布告を、議会承認に問いかけたでしょうか?広島や長崎の原爆投下を、ハルはどんな気持で眺めていたのでしょう。“もし”こそ、悲惨な歴史の教訓を、未来に活かす問いかけなのです。戦争を知らない世代の為に。
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