大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1298> ハモニカ と 猫

      ハモニカの ひんやりとして 春昼の 手触りにあり 懐旧の家

 今日、書棚や机の抽斗などを整理していたらハモニカが出て来た。それで昔のことを思い出した。彼岸の連休、家族を置いて一人墓参のため帰郷したときのことである。久しぶりの家は少し古びて見えたが、畳や襖や長押など部屋のいたるところに少年時代の面影があり、大家族の風景が懐かしく蘇って来た。

 七人家族だった私の少年時代の家は、祖母が亡くなり、姉が嫁ぎ、兄が進学し、家族は日月を追うかのごとく少なくなり、久しく父母と祖父と私の四人で過した。私も進学の夢が断ち切れず、間もなく家を出た。そのうち、祖父が亡くなり、父と母の二人切りで暮すようになった。このハモニカの話は故郷の家がこうした状況にあったときのことである。父も母も年老いていたが、仲よく元気で暮していた。二人の普段の暮らしは母屋の居間と納戸兼寝室の二間だけを主に使うといった状況で、七人家族のころのにぎわいはなく、ひっそりとした感じだった。

 祖父が亡くなって、離れの隠居部屋は一部屋を客間に、もう一部屋を物置き部屋にして使うようになり、兄から譲り受けて少年時代を共にした勉強机もこの部屋に持ち込まれていた。何故かベッドも置かれてあり、帰郷時はそこで寝起きした。勉強机は懐かしさ一入の机で、小刀でつけた机上の疵がビニールシートから透けて見え、当時を思い起こさせるところがあった。

                                        

 抽斗を開けると、サングラスと貝殻に混じって、臙脂のビロードに包まれたハモニカが一つ出て来た。取り出して手にすると、ひんやりとして重く感じられた。少し左寄りの上唇が当たる部分に笑窪のような小さな凹みがあり、吹くとファの音階のところで音が掠れた。確かに少年時代に吹いていたハモニカである。私は誰に教わるともなく、吹いている間にベースも入れて吹けるようになった。

 ひんやりとしたハモニカの感触は春昼の部屋の趣とともに懐旧の思いを募らせるところがあった。部屋の窓越しに軒下を徐に歩く猫の姿が見られ、門庭に続く菜園の菜の花にモンシロチョウが来ていた。父と母は母屋にいて、外に出て来る気配はなかった。全くのどかなひととき、時間が緩やかに流れ、少年時代にタイムスリップしたような気分になった。

 その父も母も亡くなって久しく、私もそのときの父母の年齢に差しかかっている。時は無常に過ぎて行くことを思いながら、ハモニカを唇に当ててみた。では、当時を思い出しながら今一首。 写真はイメージで、ハモニカと猫。

    軒下を 猫が過れる 昼つかた 紋白蝶が 菜の花にゐる

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月25日 | 写詩・写歌・写俳

<1297> 大和の風景に寄せて (2)

        うらうらに照れる春日といふ春の麗しうまし国なる大和

 最近の風景を見ていると、生活の利便とは裏腹に味気ないものが目の当たりに見えて来たりして、どうしようもなくもどかしいような気持ちになることがある。どんなに変わっても、歴史は歴史としてあり、その古い歴史の上に大和路の魅力は存在するのであるが、その歴史は、昔ののどかな風景の中で思うところと最近の雑然としたような風景の中で思ってみるのとでは自ずとその趣に差の出て来ることは否めない。これは時代の成り行きで当然のこと起きて来るが、この風景の問題は決して疎かには出来ない意味合いがある。

      うまし国 まことそらみつ大和なり 青垣霞む春のただなか

    雲雀揚がり三山霞む 思ふ身は何処に果てしものか春日よ

    かつて見しものへの思ひ遙かなり 明日香の夏の雲の輝き

    思惑は如何にあれども旅枕 大和を訪はば慈眼慈悲まで

 大和路の風景において、いまも三山は変わらず、揚げ雲雀も変わらず、雲の輝きも変わらず、仏の眼差しも変わらず、春は春、夏は夏として、春夏秋冬巡り来る四季の彩も大概は変わらず、心に留め置きたい歴史も変わらず、根幹のところでは昔も今も変わりない。堀辰雄は『大和路』の中で「自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる」と言っている。

                                                      

  確かに自然は広大で、包容力があり、人間の行為などはそれに比べると、ちっぽけである。しかし、根幹のところでは変わらないとは言え、大和路の風景は変貌し、それにともなう情趣も変わって来た。これは、とりもなおさず、私たち人間の意志が影響していることと察せられる。自然の根幹は変わらないが、変貌して来たここのところは人間の果たす役割において考えねばならない。

 自然崇拝に傾く私からすれば、こういう現状には矛盾を感じないではないが、こういう思いで大和路の風景の変わり行く状況を見ていると、辰雄の昭和初期といまの時代の違いが感じられ、辰雄がいま生きていたら果たして同じことを述べたかどうかということが思われて来たりする。

  コンクリートで固められた道路とか電柱とかも時代が過ぎれば、辰雄が言うように、懐かしさの中に融け込んで行くのであろうことは言える。しかし、横位置の写真が撮り辛いという井上の嘆きは私たちの気持ちを代弁するものであり、風景における今の変貌に対し、これでよいのだろうかと、ふと私たちに思わせるところがある。

 このように、風景は変貌すれば変貌するに従って論議を呼ぶが、諦観して言えば、風景写真は風景が失われるものゆえに必要とされる一面も持ち合わせている。つまり、芸術性もさることながら、記録性としての価値が風景写真自身にはあるということが言える。で、風景写真家である井上のまたの証言を聞くことになる。井上は、大和の万葉故地を訪ねて撮った写真集のあとがきに「万葉の地の変貌を今のうちに記録しておかなければならない」と書いた。

  これは、風景写真家としての自責のようなものが感じられる言葉であるとともに、近い将来大和の風景がもっと激しく変貌して行くことを風景写真家として予感(悲観)して言ったものとも受け取れる。これは私が手がけている大和の植生に関わる花の写真にも等しく、当てはまるもので、私たちは大和の風景に接するとき、この井上の言葉にしばしば行き当たり、きっと考えさせられるに違いないと思えて来るのである。  写真はイメージで、桜が満開の甘樫の丘。桜の後方の山は耳成山。

    古に纏はる眺めそこここにあれば即ち 大和国原

     変貌を嘆く風景写真家の写真が語る万葉の故地

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月24日 | 写詩・写歌・写俳

<1296> 大和の風景に寄せて (1)

        うまし国 大和にあれば 幾たびか たとへば春の 甘樫の丘

 「飛鳥路にくるたびに、登ってみたくなる丘」(『入江泰吉の奈良』)とあるように、明日香の里を訪れると、甘樫の丘に登ってみたくなる。それは、記紀や万葉以来の歴史とそれにともなうドラマを秘めた名高い大和平野の風景が一望のもとに眺められるからである。ということで、この眺望を思い浮かべながら風景について考えてみることにした。

 風景というのは、大概が時代とともにあり、時代に影響されつつ変化し、現在に至るものということが出来る。歴史を通してその風景を考えてみると、我が国の風景を概観しても、その歴史の中で随分変わって来たことがわかる。明治時代以降は西洋文明の影響によるところが大きく、殊に戦後の激しい変貌は欧米の物質文明やそれを支える科学技術がどんどん我が国に入って来たことによる。それは凄まじい勢いで影響し、今に至っている。この点、歴史を誇る大和も例外ではない。

                    

 という次第で、ここ半世紀ほどを見てみるに、大和路の風景も随分変わって来た。大和の写真家である入江が撮り続けて来た昭和の大和路と入江の教え子である井上博道が撮って来た平成の大和路の写真を比べると、それがよくわかる。これは、モノクロとカラーの違いではなく、撮影技術の問題でもない。被写体である風景自体の変貌がそこには根本的に横たわっているということである。

  横位置の写真が撮り辛いと言った井上の嘆きがこれをいみじくも語っている。今日の風景は横位置の構図にすると写したくない邪魔なものまでフレーム(画面)の中に入って来る。もちろん、入江も大和路という言葉の響きに内包される鄙びたイメージ(情趣)が失われつつあるのを故地の風景に感じながら撮影に当った。しかし、井上の平成はなお一層それが高じて来たことが言える。

 例えば、お寺の建造物を撮ろうとしても、古い建物の写角の中にビルとかコンクリートの道とか電柱とか、写真のイメージを壊す不要なものが入り込んで来る。容赦のないこの変貌は写真家にとってまことに困った状況で、風景を主眼とする写真家の一番の悩みと言ってもよい。否、悩みは通り越して諦めの境地にあると言った方がよいかも知れない。で、このことを念頭に、今一度二人の写真をうかがい見ると、井上の写真に比べ、入江の写真の方におおらかさが感じられるところがあるのに気づく。これは時代のなせるところで、致し方のないこととは察せられる。

 法隆寺の五重塔を入れて夕陽を撮る撮影ポイントは、入江の写真以来、大和路を代表する風景写真のスポットとして誰もが知るところとなったが、塔と撮影位置の間に民家が建ち並び、今では電線とかテレビのアンテナなんかが写り込んで、写真としての情緒を欠く風景になってしまった。そのため、夕陽がよい位置に来る冬場でも、カメラマンで人だかりが出来ていた場所にカメラの砲列はなく、人影もないといった状況にある

 このように、大和路でも家が建て込んで来たりして、昔のようなのどかな風景がだんだんに失われ、その風景の情緒的な面影が薄れて来たことが言える。こうした状況の中では、井上の写真のように切り詰めた構図によることが求められ、大和の風景におけるこれからというのはもう入江のような風土性を生かした大らかさの見られる構図の写真は撮れないと言ってよい。

  いっそうのこと鄙びた昔ながらのイメージにこだわらず、大和をコンクリートもビニールハウスも電柱もすべてを入れて撮ってはどうかという意見も出て来る。で、そういう意見に沿った手法の風景写真も見られなくはないが、その光景が現実のものだとしても、やはり大和路のイメージからすると、井上の縦位置にこだわる気持ちは察せられる。 写真は甘樫の丘から見た畝傍山と二上山(後方)。 ~次回に続く~

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月23日 | 写詩・写歌・写俳

<1295> 蝶への想い

     失ひしものに光を 失ひし心に糧を 蝶よ舞ひ来よ

         蝶よ

       春野に

       親しまば

       よし

       そののちは

       軽やかに

       我が園に

       訪い来たれ

       語らうは

       こころ

                   

 昨日に打って変って今日は急に寒くなった。また、冬ものの上着が必要とあって半コートを出した。何となく侘しい感じのする日だった。親しい人の告別式とも重なって。芽吹きの春も花の春も今日の一日は無常の思い、春寒の中。 写真はイメージで、白蝶と黄蝶。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月21日 | 写詩・写歌・写俳

<1294> 咲き出した柵田の畦の草花たち

      畔道を 居場所に咲ける 春の花

 日当たりのよい柵田の畦は雑草が多く見られるところで、草刈りなどが行き届き、背丈の低い草花たちの宝庫になっている。春の彼岸を迎え、枯れていた草々にも芽が吹き出し、早咲きの草花たちがその花をつけ始めた。こうした先がけの花たちを見に柵田の畦に出かけてみた。まだ、十分とは言えないが、いろんな花が見られた。これからわっと咲き出して来るだろう。在来種もあれば、外来種も混在している。これは日本の文化的風景に等しいところがある。所謂、柵田の畦の植生は折衷の現れが見て取れる。来るものは拒まないのが柵田の畦の花風景である。

                

 では、その春咲きの草花たちを写真で紹介することにしよう。上段左からキク科のカンサイタンポポとコオニタビラコ(昔はホトケノザと呼ばれていた)、アブラナ科のナズナ(ペンペングサの名でも知られる)、マメ科のカラスノエンドウ、ムラサキ科のキュウリグサ。下段左からシソ科のホトケノザ、ヒメオドリコソウ、ゴマノハグサ科のオオイヌノフグリ、ナデシコ科のオランダミミナグサ、ノミノフスマ、ハコベ、スミレ科のヒメスミレ。ここにとり上げた十二種の草花の中、外来種はオオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、オランダミミナグサの三種である。