大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月07日 | 写詩・写歌・写俳

<1279> インターネットとスマホ

      世の中は 何処に向かひ ゆくものか 太郎もスマホ 花子もスマホ

 デジタル化によって普及したインターネットは人類にとって十八世紀半ばに始まった産業革命に匹敵するほどの革命であることは以前に触れた。今は当たり前のように用いられているが、大衆伝達の方式を根本的に変えたことは驚異のことと受け取れる。インターネットが普及する以前は、大衆伝達の方式は新聞やテレビ、雑誌やラジオ等のマスメディアを情報の送り手として行なわれるのが通例であった。もちろん、この方式は今も確固として存在するが、徐々にインターネットにシフトしていることがうかがえ、インターネットが優位になりつつある。

  社会学者の井上吉次郎は自著の『大衆文化』の中で、マスメディアによる大衆伝達の方式を大阪の繊維問屋街ドブ池を引き合いに出して「十人の子をもつ家が、ドブ池へ行って、ランニング・シャツを一ダース買い、男の子も女の子も無シャ別に著せる、という話を聞いた。これが現代マス・コミ受手各戸の受信方式だ」と言っている。昭和三十年代後半、東京オリンピックが開かれ、世にテレビのカラ―放送が始まったころのことで、当時にあっては至極のマスメディア論と言ってよかった。

 それから約半世紀、インターネットの双方向性による伝達方式が登場するに及び、井上の論は昔語りのようになった。そして、大衆文化というものがマスコミュニケーションの各戸受信からインターネットの各個受信への分散に向い、より情報の個別化が進み、変貌して来たことが指摘出来る。それは、言わば、そのネットが個々人から全世界に自在に張り巡らされるという特徴により、現代人をより自由に、しかし、より孤独に導く作用として働くようになって来たことを物語るものである。

                                                                         

 つまり、インターネットの繋がりは、末端の個々人に及び、この個々人を対象にしていることが、まず、第一にあげられる。そして、その末端の個々人の総体たる全体、即ち、グローバルに及んで展開し、情報の共有が自由に世界の津々浦々にまで行き渡るようになったことが第二にあげられる。第一の場合に考えられることは、携帯されるスマホによく現れている。スマホは個人的自由主義の典型であると言えるが、そこには前述したごとく、孤独が纏うことはスマホの使用者を見ているとよくわかることである。

  第二の場合は、個人が発する情報がどこまでも拡散することによって影響を及ぼすということが生じて来ることである。その情報が社会的に有効であるならば問題にはならないのであるが、社会的に不都合な点を含むものである場合、その情報は問題を引き起こすことになる。インターネットの方式においてはこの問題に十分対処出来ないということが現段階では生じて来ている。

  つまり、インターネットは双方向による情報の展開によって、発信者が受信者になり、受信者が発信者になるという輻輳した情報の広がりによって世の中を大きく変えて行くという可能性を秘めている。その個々人の末端に携帯のスマホ等が普及して今にあるわけで、このインターネットの双方向性の技術によって従来の大衆伝達の方式は変革を余儀なくされたということになる。従来はマスメディアが情報を集めて伝える間接的情報であったが、インターネットによる情報は本人による直接的情報であるという特質においてなされる情報で、より生々しい情報が展開され、ときにはリアルタイムに情報が世界を駆け巡るということが起きるようになった

 井上は大衆文化の形成についてマスメディアの役割が大きく作用しているとして「マス・コミは神の如く、大衆人を創造する」と述べ、よくも悪くも、マス・コミが大衆文化を作り上げていると見た。この役割ゆえに、マスメディアには多大な責務が伴うことを、情報の送り手側に働くマスメディア人たちは心得て来た。ときにその責務を逸脱することはあるが、社会規範に則った常識をもって情報の発信に心がけているところが見られる。

 そこには、送り手側に対するある一定の信頼が受け手側にあり、この信頼によって伝達は成り立っているわけである。だが、双方向性のインターネットによる輻輳する情報においては送り手が個々にあるゆえ、社会の規範や秩序に悪影響を及ぼすようなことに対し、それに無頓着な事例も生じ、混乱を招くことが往々にして起きるようになった。その例は既に社会への弊害として見られ、その都度とりあげられ、問題化されている。

  最近で言えば、テロを起こして挑発している自称イスラム国という過激集団がインターネットの動画サイトを巧みに利用して世界各国から兵士を集めているというようなことや、少年の殺人事件で少年法を無視するような書き込みがネット上を駆け巡り、加害者と思われる少年の実名や顔写真が公の下に曝されるといった事態を引き起こしていることなどがあげられる。

 では、インターネットによって変革された大衆伝達の方式の現況における大衆文化というのは、果たしてどのように将来的展開を見せてゆくのだろうか。その功罪はすでに問われているが、情報の送り手側に発生する自由と責任のことがまずあげられる。みんなが一様に情報の発信者にもなれれば受信者にもなれるというインターネットの状況にあって、その影響力が強まる中で、私たちは井上が論じた大衆文化というものがより刺激に満ちた混沌としたものになって行くことが予感されると言ってよいように思われるのである。  写真はスマホで音楽を聞く電車の乗客と井上吉次郎著 『大衆文化』 。