大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月19日 | 写詩・写歌・写俳

<1291> 幻想と妄想 (1)

       誰もみな 今をありける時の人 身の置きどころ 感によりつつ

 坂口安吾は「人間の過去はいつでも晴天らしいや」と「雑草と痩せた人間」という随想の中で言っている。これはセネカが「人生の短さについて」の中で「過去に過した時は確かである。なぜなら過去は運命がすでにその特権を失っている時であり、またなんびとの力でも呼び戻されない時だからである」と言うように、過去の楽しかった出来事も、辛かった出来事も確定して終わったところにあるからで、そういう過去という時の特性ゆえに安吾の言葉もあるのだろうと思われる。

 辛いことも時を経て振り返るときはその辛さは和らげられているのが普通である。和らげられないのは現在にその辛さを持ち越している心があるからで、その辛さというのは過去に起きたことながら現在の心の働きに組み入れられているということになる。これは気分の問題で、その辛さは忘れられていれば問題は起きて来ない。言うならば、過去の辛さも、その辛さというのは現在に引き継がれることがあるということになる。今日は朝から雨であるが、この雨を慈雨と感じるか、涙雨と感じるか、つまり、これは気分の問題で、現在の問題なのである。

 時というものは過去から現在、未来と連続してずっとどこまでも続き、現在というのは過去を引き継ぐもので、過去の影響を受ける、言わば、過去は人生の道筋において重要な働きを有するが、前述したごとく、現在における過去というのは既に特権を失っている時であるから、過去の辛い出来事が現在に作用して来ることは考えられない。しかし、実際には作用して来る。これはまだその辛さを持ち越している現在の心がそうさせるのである。だから、安吾の「人間の過去はいつでも晴天らしいや」という何か安心なところが過去にはあることがなかなか理解出来ないのである。

                                      

  楽しいことでも、辛いことでも感じるということは常に現在のことであり、現在形に現れる。辛いことについてはなるべくその現在形に終止符を打つべく尽くし、辛さを取り除いてそれを過去形にすることが肝心なわけである。加えて言うならば、セネカの言う「将来過すであろう時は不確かである」ということの確かな中で、未来は誰にもわからず、不安は誰の上にも等しくあるのが生の道筋には認識されることが言える。

  この不安も気分次第の話であるが、こうした人生の道筋にあって思うに、人生は手厳しいと言わざるを得ない。そういう人生を越えて行くため、一つには、南方熊楠が言っている「哲学などは古人の糟粕、言わば小生の齒の滓一年一年とたまったものをあとからアルカリ質とか酸性とか論ずるようなもので、いかようにもこれを除き畢らば事畢る」 ということが肝心なことと思われるが、この項の表題にした「幻想と妄想」ということも思われて来る次第で、次回はこの幻想と妄想について触れてみたいと思う。 写真はイメージで、雨空と雨の雫。 ~次回に続く~