大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1301> ツバメ

      つばめ来る 否 帰り来る 元気よく

 今日は雨模様であるが、昨日は快晴で、そこここにツバメの姿が見られた。今年初めてのツバメである。勢いよく飛び回っているその姿には遥かな旅の末に辿り着いたという気分が感じられた。ときどき電線や軒の屋根瓦などに止まって羽を休める姿が見られたが、遠路の旅によるものか、どのツバメも何となくスリムに見えた。

 ツバメは夏の渡り鳥で、春に姿を見せ、秋に姿を消す。これは誰もが知るところであるが、春に姿を見せるツバメは果たしてどう言うべきなのだろうか。「来る」と言うべきか、「帰り来る」と言うべきか。秋になると去って行くが、これは「行く」と言うべきか、「帰り行く」と言うべきか。

                                                                  

 常識では春に来て秋に帰るという認識にあるから、春は「来る」で、秋は「帰る」ということになる。冬の渡り鳥であるカモやカリもこの常識にある。ただ、冬鳥のカモやカリと夏鳥のツバメやホトトギスでは違いが見て取れる。カモやカリは日本に滞在する間に卵を生んでヒナを育てるということはない。これに反して夏鳥のツバメやホトトギスは日本の地で巣作りをし、卵を生んでヒナを育てることをする。

 この違いをして言えば、カモやカリの場合は、来て帰るということになるが、ツバメやホトトギスの場合は、来て帰るものばかりではなく、行って帰り来るものもいるということになる。言わば、来て帰るものもいるけれども、行って帰り来るものもいる。ツバメの場合は同じ軒の巣にやって来るから不思議であるが、何年も同じツバメが来ることはなく、代を継いでいることが思われる。ということであるなら、この不思議は何とも涙ぐましいものと言わざるを得ない。

 軒先を掠めるように飛ぶツバメは、「また、やって来たな」と思い見る姿であるが、考えてみれば、ツバメにはツバメの涙ぐましいまでの命を繋ぐ姿がそこにはあるということになる。で、「来る」と「帰る」はツバメをはじめとする渡りの往来の実体を言うものではなく、私たちの渡り鳥を見る気持ちから発せられていることが言えそうである。所謂、迎える心と見送る心。即ち、歓迎と惜別の情によるところと知れる。今日は雨であるが、春雨にもツバメは似合う。写真は今年初お目見えのツバメ。

   つばめ来る 少しくスリム だが元気

   つばめ来る 無事こそよけれ 無事に来る