大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月20日 | 写詩・写歌・写俳

<1292> 幻想と妄想 (2)

      身を置いて ゐるよ今ここ 生きるべく さあれ幻想 妄想のこと

 幻想を辞書で引いてみると、現実にないことをあるように感じる想念。とりとめもない想像とある。妄想はみだりな思い。正しくない想念とある。夢想もこのうちか、違うようにも思われるが。所謂、幻想も妄想も行き過ぎた想像ということになり、現実生活においてはよろしくなく、否定されると受け取れる。しかし、それは基準たるものが正しく作用していればの話で、基準が曖昧だったり、理不尽に扱われていたりする場合、どうであろうかということが思われて来る。このような状況においては常識に納得のいかない思いも生じて来る。それでもその状況に妥協し、長いものには巻かれる生き方もある。だが、それが出来ない御仁もこの世の中には生じるのが常である。

  こうした状況にあっては幻想も、妄想すらも起きて来ることになる。そして、そういう方法によってその基準において起きる現象に対処するということもあることになる。これは確かに現状への一つの対処方法で、その基準の中で暮している者にとってはとんでもないことに違いないが、お天道さまの位置から見れば、幻想や妄想の方が正しいということがこの世の中にはあることを思えば、幻想や妄想のあり得べくあることが思われて来る。しかし、だからと言って幻想や妄想を実地に行使することは非常に危険であることを承知しておかなくてはならない。それはその基準によって世の中の秩序が保たれ、その秩序を乱すことになるからである。

                 

  小説というものは幻想なくして成り立つものではないと言ってよいが、妄想すらも必要とすることは小説を読んだ御仁にはわかるはずである。私は童謡、唱歌の類が好きで、ときに口ずさむが、あの子供のころに授けられた童謡、唱歌の歌詞の中にも幻想をもって作られたものがうかがえる。これはこの世の中というものが一定の基準にあって治められているものながら、そこには何か不十分で、欠けたものがあるからと言ってよかろう。その不十分な欠けたところを補うために幻想は生じ、ときには妄想も起きて来ることになる。では、私の好きな童謡の一つ「月の砂漠」(加藤まさを作詞・佐々木すぐる作曲)の歌詞を見てみよう。幻想に満ちた歌詞であるのがわかる。

    月の砂漠を はるばると 旅の駱駝がゆきました

    金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました

    金の鞍には銀の甕 銀の鞍には金の甕

    二つの甕は それぞれに 紐で結んでありました

    さきの鞍には王子様 あとの鞍にはお姫様

    乗った二人は おそろいの 白い上着を着てました

    広い砂漠をひとすじに 二人はどこへゆくのでしょう

    朧にけぶる月の夜を 対の駱駝はとぼとぼと

    砂丘を越えて行きました 黙って 越えて行きました

 二人の旅は果てがない。果のないのが人生の旅。越えて行けないものもいる。どちらにしてもこの世の眺め。身の置きどころとは言える。つまりはすべて安らかなれと祈る旅。幻想もってあるところ。ときには妄想も諾われる。ということで、その幻想と妄想の効用のことが思われる次第である。 写真はイメージで、晴れゆく兆しの夕焼けと雨の雫が消えた物干し竿。 同じ場所でも時の移ろいによって眺めは異なって来る。幻想や妄想などもこの異なりに起因するところがあるのではなかろうか。では、次に私の幻想、いや妄想を紹介してみたいと思う。 ~次回に続く~