<1297> 大和の風景に寄せて (2)
うらうらに照れる春日といふ春の麗しうまし国なる大和
最近の風景を見ていると、生活の利便とは裏腹に味気ないものが目の当たりに見えて来たりして、どうしようもなくもどかしいような気持ちになることがある。どんなに変わっても、歴史は歴史としてあり、その古い歴史の上に大和路の魅力は存在するのであるが、その歴史は、昔ののどかな風景の中で思うところと最近の雑然としたような風景の中で思ってみるのとでは自ずとその趣に差の出て来ることは否めない。これは時代の成り行きで当然のこと起きて来るが、この風景の問題は決して疎かには出来ない意味合いがある。
うまし国 まことそらみつ大和なり 青垣霞む春のただなか
雲雀揚がり三山霞む 思ふ身は何処に果てしものか春日よ
かつて見しものへの思ひ遙かなり 明日香の夏の雲の輝き
思惑は如何にあれども旅枕 大和を訪はば慈眼慈悲まで
大和路の風景において、いまも三山は変わらず、揚げ雲雀も変わらず、雲の輝きも変わらず、仏の眼差しも変わらず、春は春、夏は夏として、春夏秋冬巡り来る四季の彩も大概は変わらず、心に留め置きたい歴史も変わらず、根幹のところでは昔も今も変わりない。堀辰雄は『大和路』の中で「自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる」と言っている。
確かに自然は広大で、包容力があり、人間の行為などはそれに比べると、ちっぽけである。しかし、根幹のところでは変わらないとは言え、大和路の風景は変貌し、それにともなう情趣も変わって来た。これは、とりもなおさず、私たち人間の意志が影響していることと察せられる。自然の根幹は変わらないが、変貌して来たここのところは人間の果たす役割において考えねばならない。
自然崇拝に傾く私からすれば、こういう現状には矛盾を感じないではないが、こういう思いで大和路の風景の変わり行く状況を見ていると、辰雄の昭和初期といまの時代の違いが感じられ、辰雄がいま生きていたら果たして同じことを述べたかどうかということが思われて来たりする。
コンクリートで固められた道路とか電柱とかも時代が過ぎれば、辰雄が言うように、懐かしさの中に融け込んで行くのであろうことは言える。しかし、横位置の写真が撮り辛いという井上の嘆きは私たちの気持ちを代弁するものであり、風景における今の変貌に対し、これでよいのだろうかと、ふと私たちに思わせるところがある。
このように、風景は変貌すれば変貌するに従って論議を呼ぶが、諦観して言えば、風景写真は風景が失われるものゆえに必要とされる一面も持ち合わせている。つまり、芸術性もさることながら、記録性としての価値が風景写真自身にはあるということが言える。で、風景写真家である井上のまたの証言を聞くことになる。井上は、大和の万葉故地を訪ねて撮った写真集のあとがきに「万葉の地の変貌を今のうちに記録しておかなければならない」と書いた。
これは、風景写真家としての自責のようなものが感じられる言葉であるとともに、近い将来大和の風景がもっと激しく変貌して行くことを風景写真家として予感(悲観)して言ったものとも受け取れる。これは私が手がけている大和の植生に関わる花の写真にも等しく、当てはまるもので、私たちは大和の風景に接するとき、この井上の言葉にしばしば行き当たり、きっと考えさせられるに違いないと思えて来るのである。 写真はイメージで、桜が満開の甘樫の丘。桜の後方の山は耳成山。
古に纏はる眺めそこここにあれば即ち 大和国原
変貌を嘆く風景写真家の写真が語る万葉の故地