大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月24日 | 写詩・写歌・写俳

<1296> 大和の風景に寄せて (1)

        うまし国 大和にあれば 幾たびか たとへば春の 甘樫の丘

 「飛鳥路にくるたびに、登ってみたくなる丘」(『入江泰吉の奈良』)とあるように、明日香の里を訪れると、甘樫の丘に登ってみたくなる。それは、記紀や万葉以来の歴史とそれにともなうドラマを秘めた名高い大和平野の風景が一望のもとに眺められるからである。ということで、この眺望を思い浮かべながら風景について考えてみることにした。

 風景というのは、大概が時代とともにあり、時代に影響されつつ変化し、現在に至るものということが出来る。歴史を通してその風景を考えてみると、我が国の風景を概観しても、その歴史の中で随分変わって来たことがわかる。明治時代以降は西洋文明の影響によるところが大きく、殊に戦後の激しい変貌は欧米の物質文明やそれを支える科学技術がどんどん我が国に入って来たことによる。それは凄まじい勢いで影響し、今に至っている。この点、歴史を誇る大和も例外ではない。

                    

 という次第で、ここ半世紀ほどを見てみるに、大和路の風景も随分変わって来た。大和の写真家である入江が撮り続けて来た昭和の大和路と入江の教え子である井上博道が撮って来た平成の大和路の写真を比べると、それがよくわかる。これは、モノクロとカラーの違いではなく、撮影技術の問題でもない。被写体である風景自体の変貌がそこには根本的に横たわっているということである。

  横位置の写真が撮り辛いと言った井上の嘆きがこれをいみじくも語っている。今日の風景は横位置の構図にすると写したくない邪魔なものまでフレーム(画面)の中に入って来る。もちろん、入江も大和路という言葉の響きに内包される鄙びたイメージ(情趣)が失われつつあるのを故地の風景に感じながら撮影に当った。しかし、井上の平成はなお一層それが高じて来たことが言える。

 例えば、お寺の建造物を撮ろうとしても、古い建物の写角の中にビルとかコンクリートの道とか電柱とか、写真のイメージを壊す不要なものが入り込んで来る。容赦のないこの変貌は写真家にとってまことに困った状況で、風景を主眼とする写真家の一番の悩みと言ってもよい。否、悩みは通り越して諦めの境地にあると言った方がよいかも知れない。で、このことを念頭に、今一度二人の写真をうかがい見ると、井上の写真に比べ、入江の写真の方におおらかさが感じられるところがあるのに気づく。これは時代のなせるところで、致し方のないこととは察せられる。

 法隆寺の五重塔を入れて夕陽を撮る撮影ポイントは、入江の写真以来、大和路を代表する風景写真のスポットとして誰もが知るところとなったが、塔と撮影位置の間に民家が建ち並び、今では電線とかテレビのアンテナなんかが写り込んで、写真としての情緒を欠く風景になってしまった。そのため、夕陽がよい位置に来る冬場でも、カメラマンで人だかりが出来ていた場所にカメラの砲列はなく、人影もないといった状況にある

 このように、大和路でも家が建て込んで来たりして、昔のようなのどかな風景がだんだんに失われ、その風景の情緒的な面影が薄れて来たことが言える。こうした状況の中では、井上の写真のように切り詰めた構図によることが求められ、大和の風景におけるこれからというのはもう入江のような風土性を生かした大らかさの見られる構図の写真は撮れないと言ってよい。

  いっそうのこと鄙びた昔ながらのイメージにこだわらず、大和をコンクリートもビニールハウスも電柱もすべてを入れて撮ってはどうかという意見も出て来る。で、そういう意見に沿った手法の風景写真も見られなくはないが、その光景が現実のものだとしても、やはり大和路のイメージからすると、井上の縦位置にこだわる気持ちは察せられる。 写真は甘樫の丘から見た畝傍山と二上山(後方)。 ~次回に続く~