大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月08日 | 写詩・写歌・写俳

<1280> 太陽と地球

         愛されて ともに生きとし生けるもの 草木鳥獣虫魚プラ一(わん)

  地球生命、即ち、地球上に生命を働かせ生きているもの、言わば、草木鳥獣虫魚、そして、プラ1、即ち、私たち。地球上に活動するこれらの生きとし生けるものは太陽を父とし、地球を母としている太陽と地球の申し子で、何れにも愛されて存在するものと認識出来る。どちらかに受け入れられず、愛されなくあれば、その生命は活動出来ず、生きて行けない。生命の持続は太陽と地球に愛されて叶っているものである。言い換えれば、地球生命は長い歴史を持つ太陽と地球からなる環境の上に成り立っているということが出来る。つまり、愛イコール環境と見る。

 宇宙における生命の存在が確認されている星は地球を除いてほかにはない。無数の星の中でただ一つというのは神の意志を想起させる。それは太陽と地球が絶妙な位置関係ににあって、母体である地球に水が凍らず、蒸発してしまうこともなく水として存在しているからで、酸素を含む空気が存在し得ていることも大きく、それもやはり宇宙空間の中にあっては希有なことと言え、神を想起させるところがある。太陽も地球も常に活動し、エネルギーを発している。そのエネルギーによって地球生命は維持され、更新を可能にしている。

 ここで思われるのが、地球の誕生と地球生命の出現である。これは根源に太陽があって、そのエネルギーの活動の中で、地球も地球生命も突然的に出現したと想像出来る。こう見ると、太陽と地球は親子とした方がよいかも知れないが、地球生命からすれば、やはり、太陽と地球は父母の関係にあると言ってよかろう。そして、地球生命、即ち、草木鳥獣鳥獣虫魚と私たち人間の生命同士が思われる。それは拮抗することもあるが、基本的には持ちつ持たれつの関係にあって、互いに必要としていることが考えられる。生命に有機物が必須条件とされるのはここにある。言わば、有機物は生命自身が有するもので、生命が存在しない限り存在しないものである。

                                       

 地球生命にとって母体である地球は、父たる太陽に従属し、常に自転しながら付かず離れず公転し、その生命を育んでいる。この三者の関係は父母と子の関係であって、そこには愛の形が成り立っている。その愛は愛情不液体論が主張するごとく、注ぐことによって減る質のものではなく、すべてにその愛は平等に注がれる。それだけ太陽は威力を持っている。その威力に地球生命は辟易することもあるが、それは地球生命側の立ち位置からの考えで、その日差しの愛を受けて存在する私たちは「遍照」という言葉をもってこのかけがえのない太陽を敬うのである。

  冒頭の短歌の「愛されて」というのは以上のような意味において用いた。で、太陽と地球の私たち地球生命に対する父母心の愛は無償の愛と言ってよく、見返りなどは求めない。そして、それ以上に生命の生き方を寛容に見守り、常に怠ることなくその愛情を注いでいることが言える。これは地球生命が太陽と地球の申し子であるからという理屈に適う。

  太陽と地球の申し子である私たちはこのことを謙虚に受け止め、人間オンリーなどという考えに走ることなく、ほかの申し子たちにも目を向け、ともに共有して太陽並びに地球を大切に思う心を涵養せしめなくてはならないと思う次第である。人間を「プラ一」 としたのは、私たち人間を貶めようとするものではなく、地球生命の中で人類(新人=ホモ・サピエンス)の出現が十万年ほど前と浅く、地球生命という点において考えるならば、新参者と言わざるを得ないからである。写真は山の端から昇り来る太陽。