Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

アクティブラーニング狂騒曲

2016年11月09日 | Weblog
今朝、住民票を取りに行く用事があって、
二ヶ月ぶりぐらいに、朝、
自宅でテレビのスイッチを入れてみると、
アクティブラーニングについて放送されていた。

どうやら、
アクティブラーニングとは、
学習者が、自分で能動的に学ぶために、
自ら調べ、議論をし、学びを深めていくということのようだった。

しかし、
能動的に主体的に学ぶと言うことは、
それを学ぶ意義がわかっていて、
あるいは、興味があって、
初めて実現できることだ。

また、議論は、
それなりの基礎的な教養や知識が無ければ、
実にくだらないものに陥ってしまうのは自明の理だ。

生徒には学びたくないことや、
面白さをわからないことだって沢山ある。

私にだってある。

例えば、私は「物理」が大の苦手だった、
「物理」のアクティブラーニングをしている
私の姿を想像するだけで、思わず噴き出しそうになる。
きっと、それは、毎晩うなされるような「悪夢」に違いない。

勉強自体がわからないし嫌なのに、
友達とアクティブに学びましょうというのは、
泳げない奴までも海に突き落として、
さぁ、みんな自由に楽しく泳げと言っているのに似ている。
私は物理の海にブクブクと沈んで、魚の餌になるしかない運命だ。

学ぶ意義や面白さがわかって、
初めて人は能動的に学ぶことができる。
それは大人も子供も同じだ。

学ぶ意義や面白ささえ伝えきれないのに、
アクティブに学べるとは思えない。

アクティブに学べることと、学べないことがあるのだ。

どうやらこのまま行くと、
アクティブラーニングを教育界全体が、
受動的に(パッシブに)やらされるという
珍妙な事態が発生しそうである。

「パッシブなアクティブラーニング」という、
笑うに笑えない珍現象が日本の教育界を覆い尽くしていく。

しかし、考えてみれば、ずっとそうだった。

「ゆとり教育」もそう。
「興味・関心」「生きる力」「調べ学習」もそう。

数々のスローガンが掲げられ、
笑うに笑えない事態が起こり、
そしてみんな忘れていった。

そう思えば、今回、また、
新しいスローガンが生まれただけのことだ。

自分の頭で考えずに、
海外の模倣をしようとするから、
そういうことになるのだろう。

その姿勢自体をパッシブだと思わないのが謎である。

「先生はどうしてアクティブラーニングをなさっているのですか?」
「いや。みんながやれって言うから・・・。」

「アクティブラーニングをパッシブにやろう」というのは、
私には悪い冗談としか思えない。

















コメント
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