つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

63年前の巡幸

2009-03-08 | 岐阜県
 63年前、昭和天皇が視察、宿泊された岐工記念館が隣の笠松町にあります。その建物に関する講演がありました。1946.10.25に昭和天皇ご一行は、全国巡幸のおり、岐阜工業試験場を視察。写真下右の建物ですが、今は県立工業高校の敷地内に保存されています。上の写真が講演会場のホールで、ご一行はこの部屋に泊られました。金屏風で仕切って・・・時節柄ホテルどころではなく、「ホールに赤いフェルトを敷いて、緞通を敷き、肘掛け椅子の背後に金屏風を立て、御寝台を隅に置いて、隣室は侍従の控室と寝室として、献上品も陳列した」という記録が残っています。当地名産のお菓子とパラソルが献上。お菓子を作るため、特別に岐阜県から砂糖を支給されたとか・・・砂糖が貴重品の時代でした。
 なお、この記念館は明治43年建築の洋風建物。下見板張りの外壁で、札幌の時計台と同じ工法です。窓は上下にスライドさせて開閉。天井は格天井。使用済みの建物は概ね取り壊されますが、この一棟だけは免れました。一連の工業試験場は撤去されましたが・・・また、この記念館は、今年、経済産業省・有形文化財に登録されました。
  

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7 コメント

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Unknown (平安人)
2009-03-08 10:58:40
こんにちわ
今日の記事 大変興味深く拝見致しました
昭和天皇が 敗戦で元気をなくした国民を励ます為と人間天皇を宣言されたこともあって 全国を行幸されたことは まだ私はよく覚えております その頃は私は旧制の中等学校生で 滋賀県に住んでおりましたが陛下は滋賀県にもお出でになったと記憶しています 
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Unknown (maka)
2009-03-08 12:43:37
昨日の白洲次郎さんのドラマを見ながら、戦後の出来事に興味を持っている戦後派の私です。
昭和天皇は、激動の時代を生き抜いた方で、なくなった父が、「かわいそうだった」といっていた言葉を思い出します。なくなった父は、当時あこがれの陸軍士官学校を出て中国の戦地で終戦を迎えた人でした。
戦後派(1950年生まれ)のわたしではありますが、父の話から戦争を経験したような錯覚も持ち合わせています。
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平安人さま (matsubara)
2009-03-08 15:24:27
貴重なコメントありがとうございます。私はまだ幼くて全国巡幸のことは後で知りました。
仰せの通り敗戦国民を勇気づけるためでした。接待側は大変なようでしたが、町民は喜んで若い陛下を迎えたようです。その次に皇族を迎えたのは、昭和40年岐阜国体で、その次が2.3年前の植樹祭ですから・・・

近くをいつも通るのですが我家に縁の無い高校でしたので中には入ったことはありませんでした。
聞きに来ていた人は高齢者ばかりでした。土曜日でも若い人は来ませんね。
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makaさま (matsubara)
2009-03-08 15:36:30
お父様はエリートでいらっしゃった訳ですね。陸士とか海軍兵学校はなかなか難しくて入れなかったと聞いています。きっとプライドも高かったと思います。
昭和天皇の近くに仕えられていたのですね。
伯父も軍医でしたので、馬上で三笠宮殿下とすれちがったと言っていました。もう亡くなりましたが・・・

私も昨夜白洲さんのドラマ見ました。迫力ありましたね。主人公の英語のうまさにも感心しました。
もっと早い時期にせめてお二人の存命中にスポットをあてるべきでしたね。
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Unknown (oko)
2009-03-09 14:52:54
巡行にまつわるお話に続いて皆様のコメントも頷きながら拝読させていただきました。

何かと慌ただしく過ごしました土・日でしたので、これからユックリ白洲次郎さんのビデオを楽しみます。

どうぞこのままで。

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巡幸 (oko)
2009-03-09 21:19:26
大切なお話に失礼致しました。
訂正させていただきます。
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okoさま (matsubara)
2009-03-09 21:53:11
ご丁寧にありがとうございます。
夫はまだ小学生でした。皆で国道まで出て日の丸の旗を振ったのですが、陛下のお顔は見えなかったようです。
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