伊勢雅臣氏のメルマガより
■1.「大和魂はかえって日本女性に宿っていたのか」
繁子が米国留学に赴かねばならない事を知ったのは、明治4(1871)年、静岡県の沼津で永井家の養女として静かな田舎暮らしをしていた時でした。その時のことを、繁子は後に手記にこう記しています。
__________
突然横浜の兄からの使い[弟の克徳]が馬でやってきて、政府の命令ですぐ東京に戻るよう、私はアメリカという国に送られるということでした。私どもの驚きを想像してください― 何も知らぬ十歳の少女が未知の国に三年(伊勢注: 実際は10年)もの長い年月を過ごさねばならないなんて。それは1871(明治4)年のことでした。[生田、p35]
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兄というのは繁子の生家の益田孝です。幕末に、幕臣としてヨーロッパにも派遣され、明治になってからは横浜に出て、外国貿易に着目し、この5年後には28歳の若さで三井物産社長となる傑物です。
孝は女子留学生募集のことを知り、養女に出していた妹の繁子を参加させたいと、独断で願書を提出して、受理されました。そこで、弟の克徳を沼津にやって、繁子を東京に連れてこさせたのです。克徳はこの2年後に東京海上保険の総支配人となる人物です。
留学生としてアメリカに送られることを知った繁子の様子を、孝はこう記しています。
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克徳を沼津に送ると、繁子は大喜びで承諾し、父母同胞と別れることを恐れる色もなく、今日とは違い何事も事情のわからない異国への旅なので、故郷を離れるのはもとより心細いことのはずだが、涙一つこぼさず嬉々として出発したのは大胆というか、大和魂はかえって日本女性に宿っていたのか、と思わされた。[生田、p36、伊勢・現代語訳]
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後に、繁子が語った話では、養母がきつい性格で、永井家の暮らしがいやでたまらなかった、ということでした。異国に旅立つ不安よりも、きつい養母から離れられる、ということが、大喜びの理由であったようです。そんな事情も知らない兄は、なんと大胆な妹かと驚かされたのです。
繁子の伝記を書いた生田澄江氏は、繁子の性格を「生まれついての柔らかで、しなやかな適応性」[生田、p178]と評しています。この大喜びは、その適応性の最初の表れです。この後も繁子は様々な運命の変転を迎えますが、その都度、見事に適応して、幸運に変えてしまうのです。
■2.アメリカでの「第二の母親」
アメリカへの出発前に、繁子は山川捨松[JOG(745),(747)]、津田梅子[JOG(1361)]など他の女子留学生とともに、皇后との拝謁を賜りました。皇后からは「よく勉学して、帰国した暁には、日本の女子教育のための婦女の模範となるように」とのお言葉をいただきます。皇后は日本の近代化のためには女子教育が不可欠と思し召され、この5人の女子留学生に期待をかけられたのです。
渡米後、繁子は東部のコネチカット州ニューヘブンのアボット家に寄宿して、同家の経営する私立学校アボット・スクールに通いました。アボット家では老夫妻のもとで30代半ばで独身のエレン嬢が母親代わりに繁子の世話をし、かつアボット・スクールの校長を務めていました。スクールと言っても、数人の先生が数十人の生徒を教える塾のような規模の学校でした。
アボット家は、他家に嫁いだエレンの姉妹が孫をつれて遊びに来たり、よく人を招いてご馳走をする賑やかな家風で、繁子はそのなかで伸び伸びと育っていきました。繁子が帰国して20年も経った日露戦争の際にも、エレンからは激励の手紙が届けられていることからも、繁子がこの「第二の母」との深い心のつながりを築いていたことが窺えます。
繁子のもう一つの幸運は、将来の夫となる瓜生外吉(うりう・そときち)がアナポリス海軍兵学校の入学準備のために、同じくニューヘブンのピットマン家に寄宿したことでした。ピットマン家はアボット家と頻繁に行き来しており、同家の娘の一人は繁子と机を並べて勉強している同級生でした。
■3.日本で最初に西洋音楽を正規の大学で修了
1878(明治11)年9月、6年のアボット家での生活と勉学の後、17歳になっていた繁子は、ニューヨーク州のバッサー・カレッジ音楽科に入学します。同じ年に、山川捨松も本科の方に入学しています。バッサー・カレッジは、醸造業で財をなしたマシュー・バッサーが、ハーバード大学やエール大学に匹敵する女子大を志して創設したものでした。
同校はハーバード大学に次いで、女子大学では最初に音楽科を設けた先進校でした。当時のアメリカの上流家庭では、子女のたしなみとしてピアノを習うことが流行していました。繁子はアボット・スクールでもピアノや歌を習っており、音楽が好きになっていたようです。
繁子はここで、ピアノやオルガン、声楽を習い、かつ音楽理論、音楽史、音響学などの科目を学びました。1年次の終わりには、音楽科の学生が演奏する学内コンサートがあり、繁子もシューベルトのピアノ曲を弾きました。学内雑誌は「ミス・ナガイは非常な繊細さと表現力でシューベルトを演奏した」と称賛しました。
1881(明治14)年、繁子は3年間の音楽科の課程を終えて、卒業しました。在籍者27名のうち、ストレートに卒業したのは、繁子を含めて4名しかいませんでした。
学友たちは「繁子は自由時間の半分を診療所で寝ている病気の女の子たちの看病にでかけていた」と語っています。また、繁子と捨松のことを褒めない教授はいなかったといいます。学業成績もさることながら、彼女たちの人柄の良さが繰り返し語られたようです。
こうして、繁子は日本で最初に西洋音楽を正規の学校で学び、その知識と演奏の腕をもって、日本に戻っていったのです。
■4.文部省音楽取調掛でピアノ教師に
繁子が明治14(1881)年10月に帰国すると、翌年3月には文部省の音楽取調掛(とりしらべがかり)でピアノ教師として採用されました。明治5(1872)年制定の「学制」による近代学校制度で全国各地に小中学校が設立され、そこでは音楽(唱歌)も正課に取り入れられましたが、教えられる教師もおらず、教えるべき曲目もありませんでした。
そこで、唱歌を作曲し、音楽教師の育成を図るために文部省内に設けられたのが音楽取調掛でした。設立の中心となった伊澤修二は音楽教育を学ぶために、ボストンのブリッジウォーター師範学校に留学しました。そして帰国後、音楽取調掛を設立し、自ら掛長となったのです。[JOG(715)]
その2年目に帰国した繁子は、まさに音楽取調掛が必要とした人材でした。繁子は、お雇い外人よりも達者なピアノの腕で、ピアノ専門の教師として、すぐに無くてはならない存在となりました。帰国時の繁子はほとんど日本語は話せませんでしたが、実技中心の音楽教育ではさほど障害にはならなかったようです。
この点、繁子より1年遅れて帰国した山川捨松と津田梅子が、日本語が話せない事から文部省からもお呼びがかからず、仕事を見つけるのに苦労したのとは大違いでした。繁子は二人の身の振り方を親身になって心配しました。
二人が日本の女性の地位の低さを嘆くと、「ここはアメリカではないの。日本なのよ」と諭(さと)したりもしました。このあたりにも「生まれついての柔らかで、しなやかな適応性」が感じられます。
写真は毎年自生する朝顔
繁子が米国留学に赴かねばならない事を知ったのは、明治4(1871)年、静岡県の沼津で永井家の養女として静かな田舎暮らしをしていた時でした。その時のことを、繁子は後に手記にこう記しています。
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突然横浜の兄からの使い[弟の克徳]が馬でやってきて、政府の命令ですぐ東京に戻るよう、私はアメリカという国に送られるということでした。私どもの驚きを想像してください― 何も知らぬ十歳の少女が未知の国に三年(伊勢注: 実際は10年)もの長い年月を過ごさねばならないなんて。それは1871(明治4)年のことでした。[生田、p35]
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兄というのは繁子の生家の益田孝です。幕末に、幕臣としてヨーロッパにも派遣され、明治になってからは横浜に出て、外国貿易に着目し、この5年後には28歳の若さで三井物産社長となる傑物です。
孝は女子留学生募集のことを知り、養女に出していた妹の繁子を参加させたいと、独断で願書を提出して、受理されました。そこで、弟の克徳を沼津にやって、繁子を東京に連れてこさせたのです。克徳はこの2年後に東京海上保険の総支配人となる人物です。
留学生としてアメリカに送られることを知った繁子の様子を、孝はこう記しています。
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克徳を沼津に送ると、繁子は大喜びで承諾し、父母同胞と別れることを恐れる色もなく、今日とは違い何事も事情のわからない異国への旅なので、故郷を離れるのはもとより心細いことのはずだが、涙一つこぼさず嬉々として出発したのは大胆というか、大和魂はかえって日本女性に宿っていたのか、と思わされた。[生田、p36、伊勢・現代語訳]
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後に、繁子が語った話では、養母がきつい性格で、永井家の暮らしがいやでたまらなかった、ということでした。異国に旅立つ不安よりも、きつい養母から離れられる、ということが、大喜びの理由であったようです。そんな事情も知らない兄は、なんと大胆な妹かと驚かされたのです。
繁子の伝記を書いた生田澄江氏は、繁子の性格を「生まれついての柔らかで、しなやかな適応性」[生田、p178]と評しています。この大喜びは、その適応性の最初の表れです。この後も繁子は様々な運命の変転を迎えますが、その都度、見事に適応して、幸運に変えてしまうのです。
■2.アメリカでの「第二の母親」
アメリカへの出発前に、繁子は山川捨松[JOG(745),(747)]、津田梅子[JOG(1361)]など他の女子留学生とともに、皇后との拝謁を賜りました。皇后からは「よく勉学して、帰国した暁には、日本の女子教育のための婦女の模範となるように」とのお言葉をいただきます。皇后は日本の近代化のためには女子教育が不可欠と思し召され、この5人の女子留学生に期待をかけられたのです。
渡米後、繁子は東部のコネチカット州ニューヘブンのアボット家に寄宿して、同家の経営する私立学校アボット・スクールに通いました。アボット家では老夫妻のもとで30代半ばで独身のエレン嬢が母親代わりに繁子の世話をし、かつアボット・スクールの校長を務めていました。スクールと言っても、数人の先生が数十人の生徒を教える塾のような規模の学校でした。
アボット家は、他家に嫁いだエレンの姉妹が孫をつれて遊びに来たり、よく人を招いてご馳走をする賑やかな家風で、繁子はそのなかで伸び伸びと育っていきました。繁子が帰国して20年も経った日露戦争の際にも、エレンからは激励の手紙が届けられていることからも、繁子がこの「第二の母」との深い心のつながりを築いていたことが窺えます。
繁子のもう一つの幸運は、将来の夫となる瓜生外吉(うりう・そときち)がアナポリス海軍兵学校の入学準備のために、同じくニューヘブンのピットマン家に寄宿したことでした。ピットマン家はアボット家と頻繁に行き来しており、同家の娘の一人は繁子と机を並べて勉強している同級生でした。
■3.日本で最初に西洋音楽を正規の大学で修了
1878(明治11)年9月、6年のアボット家での生活と勉学の後、17歳になっていた繁子は、ニューヨーク州のバッサー・カレッジ音楽科に入学します。同じ年に、山川捨松も本科の方に入学しています。バッサー・カレッジは、醸造業で財をなしたマシュー・バッサーが、ハーバード大学やエール大学に匹敵する女子大を志して創設したものでした。
同校はハーバード大学に次いで、女子大学では最初に音楽科を設けた先進校でした。当時のアメリカの上流家庭では、子女のたしなみとしてピアノを習うことが流行していました。繁子はアボット・スクールでもピアノや歌を習っており、音楽が好きになっていたようです。
繁子はここで、ピアノやオルガン、声楽を習い、かつ音楽理論、音楽史、音響学などの科目を学びました。1年次の終わりには、音楽科の学生が演奏する学内コンサートがあり、繁子もシューベルトのピアノ曲を弾きました。学内雑誌は「ミス・ナガイは非常な繊細さと表現力でシューベルトを演奏した」と称賛しました。
1881(明治14)年、繁子は3年間の音楽科の課程を終えて、卒業しました。在籍者27名のうち、ストレートに卒業したのは、繁子を含めて4名しかいませんでした。
学友たちは「繁子は自由時間の半分を診療所で寝ている病気の女の子たちの看病にでかけていた」と語っています。また、繁子と捨松のことを褒めない教授はいなかったといいます。学業成績もさることながら、彼女たちの人柄の良さが繰り返し語られたようです。
こうして、繁子は日本で最初に西洋音楽を正規の学校で学び、その知識と演奏の腕をもって、日本に戻っていったのです。
■4.文部省音楽取調掛でピアノ教師に
繁子が明治14(1881)年10月に帰国すると、翌年3月には文部省の音楽取調掛(とりしらべがかり)でピアノ教師として採用されました。明治5(1872)年制定の「学制」による近代学校制度で全国各地に小中学校が設立され、そこでは音楽(唱歌)も正課に取り入れられましたが、教えられる教師もおらず、教えるべき曲目もありませんでした。
そこで、唱歌を作曲し、音楽教師の育成を図るために文部省内に設けられたのが音楽取調掛でした。設立の中心となった伊澤修二は音楽教育を学ぶために、ボストンのブリッジウォーター師範学校に留学しました。そして帰国後、音楽取調掛を設立し、自ら掛長となったのです。[JOG(715)]
その2年目に帰国した繁子は、まさに音楽取調掛が必要とした人材でした。繁子は、お雇い外人よりも達者なピアノの腕で、ピアノ専門の教師として、すぐに無くてはならない存在となりました。帰国時の繁子はほとんど日本語は話せませんでしたが、実技中心の音楽教育ではさほど障害にはならなかったようです。
この点、繁子より1年遅れて帰国した山川捨松と津田梅子が、日本語が話せない事から文部省からもお呼びがかからず、仕事を見つけるのに苦労したのとは大違いでした。繁子は二人の身の振り方を親身になって心配しました。
二人が日本の女性の地位の低さを嘆くと、「ここはアメリカではないの。日本なのよ」と諭(さと)したりもしました。このあたりにも「生まれついての柔らかで、しなやかな適応性」が感じられます。
写真は毎年自生する朝顔