つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

8歳で米国留学に旅立った津田梅子 2

2024-03-30 | Weblog

■5.「一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければ」

 帰国してから梅は、ランマン夫人あてに、こんな手紙を書いています。
__________
 父は先日、私のために費やされたお金の話をしました。その額は、日本で一家が豊かな暮らしをするに充分なほどのもので、それを国が出したのだと言いました。
だから私は一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければなりません。[大場、129]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 仙は、捨松と梅を連れて、文部卿(文部大臣)の福岡孝弟(たかちか)に挨拶に行きました。福岡は二人が日本語がもう忘れていると知って、こうため息をつきながら、言いました。
__________
 それなら女の御雇外国人と同じだな。大金をかけて十一年も留学させるくらいなら、御雇外国人を何人も呼べたであろうに。黒田どのは女子留学生を、開拓使の宣伝に使ったのだな。帰ってきてから何をさせるかも考えずに。[植松、p146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 帰国時に、こういう考えの人物が文部行政を見ていたのが、二人が活躍の場を与えられなかった原因です。しかし、二人の「一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければ」という志は、こんなことではへこたれません。

 やがて、渡米の際に岩倉使節団の一員として同じ船に乗り合わせた伊藤博文から、その妻や娘に英語や洋式作法を教える家庭教師役を頼まれました。すると、他の政府高官の夫人たちからも「私も」「私も」と次々に希望者が殺到しました。さらに華族女学校が開校すると、伊藤の紹介で教授として迎えられました。


■6.「日本人であることを忘れないように」

 やがて、梅は、日本の女子の高等教育の確立こそ、自分の使命だと考えるようになりました。政府は英語教育者の資格制度を設けましたが、試験を受ける女性はほとんどおらず、そのための教育をする学校もありませんでした。国立の女子師範学校は教員養成はしていますが、英語の分野はありませんでした。梅は女性の英語教師を育てる専門学校を作ろうと志ざしたのです。

 梅の凄いところは、その志をとことん実行してしまう力量です。まず、自分の学校を創立する前に、私学を運営するためには、せめて捨松と同様の大学教育を受けなければと考えました。

 しかし、すでに国費で10年以上、留学しているので、もう一度と頼むわけには行きません。そこで、一回目の留学の時に知遇を得ていたモリス夫人に相談しました。夫人は東部知識人社会に有力な人脈を持っており、話を聞いた新設の女子大学の学長は授業料の免除と寄宿舎の一室を与えてくれる約束をその場でしてくれました。

 また、華族女学校の校長からは、二年間の留学期間中、給料をそのまま支払い続けるという計らいを受けました。こうして、梅は明治22(1889)年7月、20代半ばで二度目のアメリカ留学に旅経ったのです。


■7.「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指して

 帰国後の明治30(1900)年、梅は36歳にして「女子英学塾」を創設して、世間を驚かせました。年俸800円(国会議員が年収2千円)の華族女学校教授の地位を投げ打って、つつましい日本家屋を借り、わずか10人の塾生を、ほとんど無報酬の個人教授の形で教え始めました。

 梅が目指したのは、今日の津田塾大学でも継承されている「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」でした。開校式では、次のように述べています。
__________
専門の学問を学びますと兎角(とかく)考へが狭くなるやうな傾があります。………英語の専門家にならうと骨折るにつけても………完(まっ)たい婦人即ち allround women となるやうに心掛けねばなりません。[大場、2,397]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 明治日本が独立を維持し、国際社会に伍(ご)していくためにも、狭い英語の専門家ではなく、男性と対等の立場で力を合わせる全人的な人格を持つ女性が必要でした。そして、それこそ黒田清隆や父・仙の目指したものでした。

 梅の授業ぶりにも、この志がよく現れています。当時、梅から直接教えを受けた岡村しなという女性のこんな思い出話が記録に残っています。

__________
・・・・・・先生は、アメリカは好きだけどね、・・・・・・頭に染みこんだ・・・・・・日本のspirit、………日本人であることを忘れないようにせい、英語をしゃべることは何でもない、日本のspiritを忘れるなって。それが偉いところで、先生の。本当、たしかにそうなの。それを頭にたたきこまれた。[大場、2,599]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 帰国時に文部卿が言った「女の御雇外国人」では、こういう教育は望めません。「自分は日本人である」という自覚と愛国心をしっかり持ってこそ、国のために本腰を入れた貢献ができるのです。梅が育成した日本女性たちは、祖国否定のアメリカかぶれでも、男性と対抗しようとするフェミニストでもありませんでした。


■8.周囲の無私の恵みのお陰で

 女子英学塾を創立してからは、梅を応援するアメリカの夫人たちから、次々と信じられない額の寄付が寄せられました。梅は塾運営のための経費をアメリカと日本の賛同者たちの寄付に頼り、その依頼で、月に300通もの手紙を書いた時もあったといいます。

 自分は年俸800円の華族女学校教授の地位を投げ打って、ほとんど無給で塾を続け、寄付金は生徒の奨学金にあてて、貧しい小学校卒業だけの生徒も受け入れていました。そして梅は、その一人ひとりに寄り添って、細やかな、しかし厳しい指導を続けて、一人前の英語教師として育てていったのです。

 そうした梅の無私の姿勢に共感して、多くの人々が無私の思いで梅の志を助けてくれたのです。数え年わずか8歳で渡米し、帰国後は理想の学校を創設するという志を実現した梅の一生は、厳しい寒さの中でも凜と花を咲かせた梅の木のごとく見えます。しかし、その梅の木は祖国という土壌からの養分や、太陽の光、アメリカからの風など、豊かな恵みを一身に受けて、見事な白梅を咲かせることができたのでした。
(文責 伊勢雅臣)
写真は光受寺の白椿


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8歳で米国留学に旅立った津田梅子 1

2024-03-29 | Weblog
伊勢雅臣氏のメルマガより

■1.「父上ッ」

 明治15(1882)年11月20日、客船アラビック号がサンフランシスコから20日余りの航海を経て、横浜港に入ってきました。11月の太平洋は雨や雪の日が多く、来る日も来る日も黒雲の下を帆を張って進んできましたが、ここ横浜では冷たい風が吹きつけるものの空は青く澄んでいます。

 横浜港はまだ大きな船を横付けできる埠頭がなく、アラビック号は海岸から少し離れた場所に錨を降ろし、下船する人々は艀(はしけ)船に乗り換えて上陸します。22歳の山川捨松と18歳の津田梅はようやく順番が回ってきて、甲板から艀まで鉄製の梯子段をスカートの裾を気にしながら降りていきました。

 艀船が乗客で一杯になると、船頭が艪(ろ)を漕いでアラビック号から離れます。そこにもう一隻の艀船が陸から近づいてきました。その中に、見覚えのある、体格の良い中年の男がいました。男は船べりを掴んで、大声で呼びかけてきました。「梅ッ。梅だなッ」

 次の瞬間、梅は夢中で叫びました。「父上ッ」

 すっかり忘れていた日本語が、自分の口から飛び出したことに、我ながら驚きました。数え年わずか8歳で、この横浜港で父と別れてアメリカに留学し、11年の歳月を経てここに再会したのです。


■2.「おなごをアメリカに留学させたら」

「いっそのこと、おなごをアメリカに留学させたら、どうじゃ?」

 女子留学生派遣は、この北海道開拓使次官・黒田清隆の一言が発端となりました。開拓使ではすでに男子留学生の第一陣をアメリカに送り込んでいました。それを女子にまで拡大しようというのです。

 黒田は北海道開拓の指導者育成のために学校を作る計画を進めており、その教師役として招聘した地質学者トーマス・アンチセルが女子のための学校も設けては、と提案しました。開拓は夫婦揃ってなすべきであり、その影響でアメリカでは女性の地位が高い、とアンチセルは説きました。

 黒田はすぐに賛同し、さらに「いっそのこと」という冒頭の言葉が出てきたのです。黒田は一瞬、目を輝かせてましたが、すぐに表情を曇らせて、「じゃっどん、希望する者がおらんな。まして娘となると、親が手放さんじゃろう」

 そこに「うちの娘では、いけませんか」と声をうわずらせて言ったのが、黒田の通訳を務めていた津田仙でした。仙は英学塾を出て、幕府の外交方に務めており、アメリカにも行ったことがありました。そして、アメリカでの農家の豊かさや地位の高さに目を見張り、西洋技術を導入して、日本の農業を豊かにしたいという志を持っていました。

 維新後、西洋野菜を作り始め、そこから北海道開拓を志す黒田清隆に見いだされて、通詞をするようになったのでした。仙はやがてアスパラガスの缶詰販売などで成功し、その財をつぎ込んで、農学校を開きます。

 訪米の経験からも、ぜひ自分の娘を送り出したいというのは自然な気持ちだったでしょう。しかし、それは数え10歳の琴という娘でした。「幼すぎますか」と聞く仙に、「まあ悪くはなか。西洋の礼儀作法も身につけさせたか。じゃで幼い娘を送って、長く留学させたらよか」。男子の留学は4、5年だが、その倍はアメリカに居させたい、と言います。


■3.「見てごらん、あんな小さい子まで。親は鬼だね」

 仙は胸を高鳴らせて、家まで走って帰りました。しかし、琴は子供のいない兄夫婦に養子に出していました。その兄は大反対。琴にも話しかけて見ましたが、母親に後ろに隠れてしまって、「そんなところに行かないッ」と大声で泣き叫びます。

 その時、仙は背中に視線を感じて、振り返ると、琴の妹、梅と目が合いました。梅は無口ですが、読み書きも記憶力も琴をしのぐものがあります。
__________
梅、おまえは賢い。だから、わかるような。これは、おまえのためになることだ。おまえが行ってくれれば、父を助けることにもなる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 梅はかすかに頷きました。母親の初が慌てて「やめてくださいッ。こんな頑是(がんぜ)ない子に、わかるはずがないでしょうッ」 しかし、もう仙には兄の怒声も、女たちの金切り声も届きませんでした。

 後に、梅はこう語っています。
__________
 私は本当は、アメリカなんか行きたくなかった。遠い知らない国に行くのが怖かった。怖くてたまらなかった。それでも父上のためと思って、我慢して船に乗ったんです。向こうでだって、つらいことを山ほど我慢してきたんです。立派になって帰ったら、父上が喜んでくれると信じて──[植松、3,664]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 横浜からの出発の際には、見物人からは聞こえよがしに、「見てごらん、あんな小さい子まで。親は鬼だね」という声も聞こえてきました。新聞記者たちは最年少の梅を取り囲んで、「言葉も通じない国に行くんだよ。それでもいいのかい」と意地悪く聞きます。梅は腹立ちを抑え、思い切って大きな声で答えました。
__________
 私の父上は英語が上手です。私もアメリカで一生懸命に学んで、大きくなったら父上のようになります。[植松、603]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 記者たちから「ほう」という感嘆の声が漏れました。仙が近づいてきて、梅の前でしゃがんで言いました。
__________
 梅、立派だった。おまえは立派に答えた。父は心から、おまえを誇らしく思うぞ。梅、元気で行って来い。泣かずに行くのだぞ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そういう父のまぶたには、涙がにじんでいました。


■4.5人の女子留学生

 梅は5人の米国女子留学生たちの一員でした。吉益亮子(かぞえ15歳)、上田悌子(同15歳)、山川捨松(同12歳)、永井繁子(同9歳)、津田梅子(同8歳)です。このうち年長の吉益亮子と上田悌子は健康を崩し、途中で帰国しています。10年以上もの留学を無事終えたのは、山川捨松以下の3人でした。

 山川捨松は東部きっての名門女子大学ヴァッサーカレッジを優秀な成績で卒業しました。帰国後、参議陸軍卿・大山巌の妻となり、鹿鳴館で上流階級の婦人たちに西洋の作法を教えたり、日本で最初の慈善バザーを開いたりしました。日露戦争に際しては、アメリカの週刊誌に投稿して、寄付金を集めたりもしました。[JOG(745,747)]

 永井繁子は同じくヴァッサーカレッジの音楽科を捨松や梅より1年前に卒業し、後に海軍大将となる瓜生外吉(うりう そときち)と結婚。夫の協力を得て、女子高等師範学校教授として英語を、東京音楽学校教授として音楽を教える多忙な人生を送りました。

 そして、津田梅子は子のないランマン夫妻の家に下宿し、実の娘のように可愛がられ、私立女学校を卒業しました。帰国後は、上記の二人にも助けられながら、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設します。

 この三人の人生を見ても、大胆な日本最初の女子留学生派遣は日本の近代女子教育の確立に大きな功績を残したと言えるでしょう。

写真は今年のしだれ梅



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3人の政治家の奇妙な共通点

2024-03-10 | Weblog
田母神俊雄氏のメルマガより

第64・65代総理大臣・田中角栄

第82・83代総理大臣・橋本龍太郎

元財務大臣、経産大臣・中川昭一

この3人には”ある共通点”があるのですが、
あなたはすぐに気づきましたか?

実は全員、
失脚・死亡にアメリカの陰謀説が
疑われる政治家です。

そして彼ら3人には
もう一つの“奇妙な共通点”があります…

それは、
「アメリカの意に逆らった行動を取ったこと」
ということです。

橋本・中川は
アメリカの信用の大元である
「国債」を売り払おうと画策し

田中角栄は
アメリカを差し置いての
日中国交正常化。

独自の外交を繰り広げようとした矢先に
彼らは次々と不幸な目に
遭っているのです。

橋本龍太郎・・・女性スキャンダルが発覚し、
支持率が低下。
その後、2006年に死亡。

田中角栄・・・ロッキード事件で失脚。

中川昭一・・・
2009年2月。酩酊会見で失脚。
その後、同年10月に急死。

これは果たして偶然なのでしょうか?
アメリカが日本を意のままに
コントロールしておきたいがために

自分達にとって
邪魔な政治家を
葬っているのだとしたら…?

真実は定かではありません。
しかし、日本の政治史で
今まで語られてこなかった

「アメリカ」の存在を
視野に入れながら、
総理大臣たちの行動を見ていくと、

今まで教科書で見知っていた
歴史の印象が驚くべきほど
変わります。

そして…アメリカの意のままに
コントロールされていた総理大臣、

そのような状況を何とかしようと
日本のために動いていた総理大臣、

「敵と味方」がハッキリ分かれて
見えてくるので、

モヤがかかっていたような
複雑な政治史がすっきりと
理解できるでしょう…。

https://youtu.be/2iz2c9pzqrc?si=7oglLrrMxyVmGE__ 

これは中川昭一氏の死因についての情報です。

これを見ると完全に米国側の策略で殺されたことが理解できます。残念なのは日本人が米国側の命令で動いていることです。あの時殺人に加担した、玉木、篠原、越前谷たちは優雅な生活をしているようです。
 中川氏のような日本のためにIMFに反対できる人は今はいません。そのため日本は10兆円もの損害です。彼はIMFに反対したため殺されました。

写真は盆栽の梅

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孔子学院

2024-02-28 | Weblog
 林建良氏のメルマガより

・早稲田大学
・立命館大学
・武蔵野大学
・桜美林大学

あなたはこれが
「何のリスト」かわかりますか?

その答えは…
中国スパイ組織のアジトと
なっている大学のリストです。

スパイ組織の名前は「孔子学院」。

孔子学院とは、
中国語教育や文化交流を
目的として設立された学校のことです。

2004年に韓国・ソウルで初めて設立され、
それ以来、世界162の国・地域に一気に広まりました。

(世界の国々が190カ国ほどなので、
 162というのはとても多いですよね…)

中国周辺にとどまらず、
アメリカやヨーロッパ、アフリカに至るまで
ありとあらゆる地域に設立されているのです。

日本も13の私立大学に
孔子学院が設立されています。

“日中友好”という甘い言葉をささやき、
教科書や先生の給料に至るまで、
運営費は全て中国政府が負担。

大学側は場所さえ貸せば設立できたため、
少子化で経営難に陥っている日本の大学は
次々に飛びついたのです。

しかしこの孔子学院、本当の目的は
「日中友好」や「文化交流」ではありません。

孔子学院の真の狙い、それは…
最先端の研究や技術を盗むこと。

実際、アメリカのFBIは
「政府関連の情報を違法に
 入手しようとしている」
として捜査に乗り出しています。

しかし、
「重要機密の窃盗」は
まだ序の口。

孔子学院の真の狙いは、
もっと根の深いところにありました。

日本の将来を揺るがしかない
2つ目の重大な目的は…

中国の思想を教育することなのです。

写真は今年の我家で収穫した夏柑


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朝日新聞

2024-02-13 | Weblog
伊勢雅臣氏のメルマガより

メディアは「社会を良い方向に動かしていく運動家」か?

朝日新聞の「従軍慰安婦」報道は、
「ロシア共謀疑惑」報道とよく似ていますが、
自らタネを蒔いたという意味では、一歩上手です。

元朝日新聞記者の植村隆氏は
かつて自身が書いた「従軍慰安婦」の記事を
櫻井よしこ氏に「捏造」と決めつけられ、

名誉毀損による損害賠償を求める訴訟を
平成27年2月に起こしました。

百数十人もの大弁護団を擁しての一大訴訟でしたが、
1審、2審とも敗訴となり、11月18日、
最高裁は植村氏の上告を退ける決定をし、
1、2審判決が確定しました。

植村氏の記事は「捏造」と言われても
名誉毀損にはあたらない、と司法は判断したのです。

そもそも朝日新聞社が設置した
慰安婦報道をめぐる
第三者検証委員会での結論でも、

「植村は、記事で取り上げる女性は
(JOG注: 義父に連れて行かれて)『だまされた』事例であることを
(JOG注:本人の証言)テープ聴取により
明確に認識していたにもかかわらず、

同記事の前文に、
『「女子挺身隊」の名で戦場に連行され(後略)」と記述した」
とされています。[阿比留]

「従軍慰安婦」問題が
国際的なスキャンダルに発展したのは、
こうした「捏造」記事からです。

ケヴィン氏は
「自分たちが運動を通じて社会を
いい方向に動かしていくべきと考えている」ことが
「現代メディアの本質である」
と述べています[ケヴィン、3783]。

この結論は、
ニューヨーク・タイムズ紙にも、
朝日新聞にもあてはまります。

問題は、主権をもつ国民が、
そんなマスメディアを
「社会を動かす運動家」として
選んでいるかどうか、です。

こうしたメディアは民間企業なので、
消費者の購買がその支持票にあたります。

朝日新聞はここ10年ほどで、
800万部から300万部も落ち込み、
55年ぶりに500万部を切りました。

単体での営業利益は
昨年度上期9億6200万円の黒字から、
今期上期は3億3900万円の赤字に
転落しました。

45歳以上の社員300人規模の
希望退職を検討していることも
報道されています。

「運動家」気どりの朝日新聞など不要、と
多くの国民は判断しているようです。

(文責 伊勢雅臣)

写真は、たまたまわが家で撮影できた飛行機雲




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スパイ天国日本

2024-02-08 | Weblog
福山隆氏のメルマガより

日本がスパイ天国と呼ばれている。
スパイ天国と言われる所以は二つある。

一つは、日本に
「情報」そのものがあるということ。

「日本は真空状態のスパイ天国」と
揶揄されるくらいに取り締まりが甘い。
情報のフリーマーケットになっている。

アメリカのスパイ、
中国のスパイetc…

このように「情報」を持っている
得体の知れない人間が渦巻いている。

その中には嘘もあり、本当もあるが、
取り締まりが全くないのが現状だ。

中国であれば
こういう状況は許されない。

凍土の中にいるから、
身動きできないのだ。

その点、日本は何でもアリ。
新聞記者など、
全部において取り締まりがない。

西山太吉(ジャーナリスト)が
外務省をそそのかして
秘蔵文書を取ったように、

日本の新聞記者は
いくらでもエージェントにできてしまう。

日本全体が、非常に大きな情報の
フリートレード・エリアだ。

〇 日本は、情報の漏洩に対する法律はほとんどない

例えば、日本の外務省が持つ情報を
抜くためにどうするのか。

外務省の情報は
アメリカから伝わってくる。
自衛隊に対しても同じだ。

アメリカの情報を抜く
「一つの窓口」として
日本の政府があるわけだ。

(アメリカで行うと
捕まってしまうから。)

日本にあるアメリカの情報は
上流から流れてくるものを
拾おうとするアクションがある。

また、朝鮮半島では
民団という韓国系列の人たちがいるし、
朝鮮総連もある。

細々ながらも、
こういったところからも
情報は流れてくる。

何の取り締まりもなく、
情報が非常にゆるい。

絞首刑になることもない。
政治家なんかでも垂れ流し。
まさに日本は情報天国である。

有象無象がいっぱい集まって、
色々な情報を持った人間が混在している。

そういう意味で
情報のフリーマーケットだ。

昔は、スイスが一種の情報天国だった。
スイスはどこの国の縛りもない、中立国である。

日本以外に、
他はどこがあるだろうか?

〇 他国では厳しく取り締まりされている?

他国には、情報を規制する法律がある。
ペナルティがあり、最悪の場合は死刑となる。

「国の国としての体(てい)を成す」
ということだ。

しかし日本は、
国としての体を成していない。

〇 日本も外国にスパイを送っているのか?

公としては
防衛駐在官がいる。
外交官は情報のツールである。

外交官という立場で
それは列国ともやっている。

日本に無いのは
「KGB」「MI6」「CIA」。

このような諜報機関が
日本には公然ではない。
スパイを出す組織が存在しない。

一部、陸上自衛隊の中に云々などと
噂が飛び交ってはいる。

しかし列国に比べれば
「ない」と断言した方がいいだろう。

〇 昔の日本における諜報能力は、
  どのようなものだったのか?

外国に比べたら
非常に劣勢だ。

陸軍中野学校ができるのが
敗戦の一年前。

その三年ぐらい前に、
〇〇研究所という
偽の名前を当初つけられ、

一期生が卒業した。
(後に陸軍中野学校と改称された)

陸軍・海軍の情報を
特務機関と呼称していた。

しかしイギリスのMI6のように、
国家を挙げた伝統があり、

長い積み重ねを持つ
機関ではなかった。

また、明石元二郎が
たった一人でロシアに工作して、
ロシア国内に騒乱を起こした。

その結果、ロシア皇帝は
シベリア鉄道を通し、

満州に送る兵力を抑制し、
危うくした。

そのため奉天の会戦
(日露戦争の最後の大規模な会戦)の時は
ヨレヨレだった。

東郷平八郎は辛うじて
日本海海戦に勝利し終わっている。

日本もあと半年〜一年やったら
ヨレヨレの状態となっただろう。

このような状況で日本が
ポーツマス(条約)を
勝ち取った決め手は、

明石元二郎がツァー(皇帝)の足元を
揺さぶったからである。

その直後に革命が起こり、
レーニン・スターリン体制になった。

そこでいち早く手を付けたのは、
情報組織の強化である。

そして彼らはのちにゾルゲ
(日本で暗躍したロシアのスパイ組織のリーダー)
を派遣するような力を蓄えた。

しかし日本は
「勝者は学ばず敗者は学ぶ」という鉄則がある。

ロシアはこれをうまくやっていた。

一方で日本、明石元二郎は
台湾の総督などしていたが、
冷や飯を食わされていた。

明石が得た情報の力を、
軍の全体・国家の全体として、

諜報機関・防諜機関を
立ち上げるまでにいかなかった。

焚書アーカイブで
「スパイ物語秘録」を
復刻する機会があると私は思っている。

その本(秘録)が出たのが
陸軍中野学校ができる
三年ぐらい前だ。

内容は日本のインテリジェンスの弱さを
はっきりと書いてる。

こう書いたのは、憲兵中尉の宝来である。

「世界は今、非常に緊迫して
 もうすぐ戦争が起きる情勢に向かっている」

「世界は今、スパイと
カウンターインテリジェンスという
 スパイを防止することに対して、力を発揮している」

「日本は旧態依然たるもので、これではいけない。
 日本国民はこの事実を知れ」

という啓蒙であり、
警告の書である。

これが戦争の三年〜四年前に
書かれている。

戦争の一年前に
正式に陸軍中野学校が起こり、

ようやく日本は
特務機関に正規の教育を受けた
陸軍中野学校の人々によって、

何とか間に合ったという
状況である。

上記と比較して今現在、
戦争前夜ではないけれど

日本も大きな
リスクの直前にいると、私には見える。

同じ歴史を
繰り返しているのではないか。

日本も早急に
国家インテリジェンス体制を強化するべきだ。

警察だけでやっている
カウンターインテリジェンス、
あるいは自衛隊の中の小さい防諜機関、

これらを本格的にやらなければ
後手に回るだろう。

もう一刻の猶予もならないと、
私は思っている。

〇 スパイ防止法と呼ばれる法律を作っていくべき?

そうですね。

スパイ防止法という
法律が作られたら、

今の警察要員だけで足りるのか?
という問題がでてくる。

増員をする、そして
強化をすることが必要。

また、〇〇はしてはいけない、
それに対してペナルティをつけること。
(列国は絞首刑まである)

それぐらいやらないと国民が血を流す。
国民が涙を流す事態になる。

「それでいいんですか?」
「あなたたちが責任を取ってくれますか?」
このように、立憲民主党へ言いたい。

〇 今、スパイ活動をしても捕まらない?

不思議なのだが、
今の法律の中では、
捕まるのは自衛隊なのだ。

特定秘密保護法があるが、
今の対象は主として自衛官だ。

だから自衛官ばかりが
ニュースに出る。

外交官が、こういった犯罪で
捕まったことは無い。

警察もメディアも
捕まったことは無い。

自衛隊だけがターゲットになり、
定期的に警察からしょっぴかれる。

軍のインテリジェンスは非常に大事。
しかし、軍のインテリジェンスだけが大事なのか?

警察が持っているインテリジェンス、
外交官が持っているインテリジェンスも大事だ。

それに対するお目付けは誰がやるのか?

要するに、ある偏狭な偏った
秘密保全である。

国会議員なんか、
指一本触れさせない。

西山太吉という、
毎日新聞の記者が先日亡くなった。

その方が捕まったのも、
明後日の方のような法律で捕まった。
「明確な法律がない」ということだ。

例えば、北朝鮮のスパイを捕まえる場合も、
違う名目で逮捕する。
「住居不法侵入」などだ。

きちっとした、
明確なものを作らないといけない。

日本はザルだ。

泣きを見るのは国民、
命を流すのは国民、
涙を流すのは国民。

胸に手を当てそれがないように、
憲法からまず変えないといけない。

写真はヒイラギモクセイの花



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君が代発祥

2024-02-06 | Weblog
岡崎 匡史氏のメルマガより

日本の国歌「君が代」に深く関わったのは、
イギリス人のジョン・ウィリアム・フェントン
(John William Fenton・1831〜1890)という人物です。

軍楽隊員のフェントンは、薩摩藩で
軍楽隊「薩摩バンド」を指導したことでも知られる。

このフェントンが大山巌(おおやま いわお・1842〜1916)に、
明治日本に「国歌」がないのは残念なことだ。

イギリス国歌「God Save the King」(国王陛下万歳)
があるように、日本も「国歌」を創るべきだと提案。

外交儀礼からみても、国歌は欠かせない。
ゼロの状態から国歌を創りだすことは難航を極める。

そこで、「古今和歌集」の和歌から引用することになり、
フェントンが作曲を担当した。

これが「君が代」の始まりです。

しかし、フェントンの作曲した西洋風の「君が代」は、
日本人の耳にどうも馴染まなかった。評判が芳しくない。

宮内省は新しい作曲を、ドイツ人の
フランツ・エッケルト(Franz Eckert・1852〜1916)に依頼する。

エッケルトは、フェントンの「君が代」を編曲し、
林廣守(はやし ひろもり・1831〜1896)
の協力も得て雅楽調を取り入れた「新・君が代」を編み出した。

賛美歌「栄光のアポロ」

実際のところ、「君が代」の作詞や作曲は、
さまざまな種類があります。

フェントン版、エッケルト版、
そしてもう一つ有名なのがウェッブ版。

イギリス人の作曲家サミュエル・ウェッブ
(Samuel Webbe・1740〜1816)による
賛美歌「Glorious Apollo」(栄光のアポロ)のメロディに、
「君が代」の歌詞を合体させた楽曲です。

文部省が発行した明治期の教科書には、
ウェッブ版の「君が代」が掲載されています。

「Glorious Apollo」とウエッブ版「君が代」の
楽譜を見比べると、音符(♪)の位置が
ほとんど同じで、びっくりします。

まさに「和洋折衷」という言葉そのもの。

明治の日本が、必死に西洋を模倣していたことは、
ウェッブ版の「君が代」からも推察できます。

音楽の歴史を振り返るだけでも、
日本の近代化の歩みと苦節の日々がよみがえってくる。

ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。

・Raja Adal. Beauty in the Age of Empire:
Japan, Egypt, and the Global History of Aesthetic Education.
New York: Columbia University Press, 2019.

写真は頂き物のデコポンのゼリー


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おせちは2000年前から?

2024-02-01 | Weblog
ルネサンス編集部の田中氏のメルマガより

<おせちの発祥は2000年前?>

おせち料理の始まりは、諸説あるそうなのですが、
弥生時代(※)が濃厚と言われています。
(※弥生時代:紀元前300年 – 西暦250年)

縄文時代に中国から日本に稲作が伝来し、
弥生時代に収穫を感謝する風習と合わせて
広まったとされています。

また、同時に「節(せち)」と呼ばれる季節の変わり目ごとに
豊作を感謝して神様にお供え物をした「節供(せちく)」
という文化も広がりました。

この流れが、“おせち”の源流ではないか、
というのが通説となっています。

<平安時代の朝廷によって定着?>

奈良時代から平安時代にかけて、「節」の儀式が
宮中行事として執り行われるようになりました。

また、平安時代には、朝廷でお正月を含む5つの節に
「御節供(おせちく)」を神様に供えていました。

このように、平安時代になるとおせち料理は5つ全ての節で、
お祝いの料理として食べられるようになり、
やがて定着していったと言われています。

<庶民に広まったのは江戸後期>

江戸時代、幕府は特別な5つの節日(五節句)を祝日に制定。

御節供(おせちく)は庶民の間にも広がり、
年に5回は豪華な料理を食べられるようになりました。

その中でも、新年を迎える節であるお正月は特別視され、
大みそかにおせち料理を作り、年明けに家族全員で食べる、
という風習が生まれたとされています。

<おせちはなぜ重箱に入っている?>

今も、豪華な“おせち”は重箱に入っていますよね?

あの箱を見ると、「お正月がきた!」というわくわくと共に
美しいなぁという気持ちにもなります。

ですが、おせちは始めから重箱に入っていたわけではなく、
平安時代から江戸時代にかけては、器やお膳に盛られていました。

それが、明治に入ると箱詰めに変化し、
特に、重箱が使われたのは「めでたさを重ねる」という
理由ではないかと言われています。

<各おせち料理の意味は?>

①黒豆
「黒く日焼けするほどマメに働ける」という、
健康と勤勉さも表す縁起物として人気な黒豆。

ちなみに、黒という色には
邪気払いの意味が込められています。

②数の子
ニシンの卵である数の子。おめでたい金色が特徴で、
卵の数が多いことから、子孫繁栄の願いが込められています。

③栗きんとん
栗きんとんは漢字では「金団」と書きます。
そこから、金運を呼ぶ縁起物とされています。

④紅白かまぼこ
赤色は魔除け、白色は清浄を意味しています。
また、形状が日の出に似ていると言われ、
新年を祝うにふさわしい料理とされています。

⑤伊達巻
伊達巻は、書物のような巻物に似ている形から
「知恵が増える」ことを願う縁起物です。
そこから、学業成就や知識の蓄積などの願いが込められています。

⑥昆布巻き
昆布は「よろこぶ」の語呂合わせ。
漢字で「養老昆布(よろこぶ)」とも書けることから、
健康や長寿を願う意味もあります。

⑦鯛
お正月以外でも「めでたい」時に食べる鯛。
これも語呂合わせに通じます。

真っ赤な色合いが新年にふさわしく、
縁起が良いとされています。

⑧海老
ひげが長く腰が曲がっていることから、
「海の老人」と書く「海老」…。

おせち料理でも、長寿祈願の意味を込めて
食べられています。

また、目が飛び出ているので、
「めでたい」という言葉にも通じています。

実は、2000年以上も昔から
始まっていたおせち料理…。

初めは朝廷から、そこから幕府、武士、庶民と
流れていき、今でもお正月で愛される文化として
根付いていきます。

意外にも、縁起が良いとされる食べ物は、
ダジャレのような語呂合わせが多く、驚きました(笑)

昔の人は、現代よりも遥かに娯楽が少なかった分、
季節ごとの祝い事を大切にし、食事を楽しむために
このような風習が根付いたのかもしれませんね。

ちなみに、おせちの時期は過ぎてしまいましたが、
明後日、2月3日は節分の日です。

恵方巻きを食べる際には先人たちに倣い、
そこに込められた意味に
思いを馳せてみてはどうでしょうか。

写真は法事の日の食事処の花


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大手新聞社に潜むスパイ

2024-01-18 | Weblog
丸谷元人氏のメルマガより

「日本人は世界で最も熱心に
 新聞を読む国民性である」

こう話すのは、

元KGB(ソ連のスパイ機関)の
幹部で文書管理責任者だった

ワシリー・ミトロヒン。

ソ連崩壊の少し前に
英国に亡命した彼が持ち出した

伝説の極秘文書
「ミトロヒン文書」

そこには
ソ連が世界各国で行ってきた
共産主義工作の最高機密が
詳細に記されています。

そして、その中には
日本人の性質を正確に把握し、
日本人を内側から支配する
”禁断の手法”が書かれていたのです…

そして、ミトロヒン文書の
日本についての項目では、

驚くべき事実が記されていました。

日本で対日有害活動を行った
ソ連のスパイリストには、

政治家や官僚に加えて、
大手新聞社の記者の名が並んでいたのです。

なかでも、
保守派として知られる産経新聞では、

元常務取締役編集局長
山根卓二氏 コードネーム「KANT」 が、

ソ連のスパイとして
活動していたことがわかっています。

そのほかにも、

朝日新聞の記者、コードネーム「BLYUM」

読売新聞の記者、コードネーム「SEMYON」

産経新聞の記者、コードネーム「KARL(またはKARLOV)」

東京新聞の記者、コードネーム「FUDZIE」

などなど、、

そして、スパイのリストに加えて、

「とりわけ日本の最大手の新聞、
朝日新聞にKGBは大きな影響力を持っている」

とも綴られていました。

私たちは学校や会社で常々、

「新聞をよく読みなさい」

と言われてきました。

しかし、

戦後は、その新聞こそが、
他国にとって都合の良い世論形成のための
道具として利用されていたのです。

こうして日本人を思考を骨抜きにし、
日本人一人一人を内側から支配する工作活動が
今もなお、行われ続けています。

これは日本に無数に仕掛けられた。

スパイ活動の過去のごく一例に過ぎません。

写真は、「長濱」にて



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安倍元首相とインド

2024-01-09 | Weblog
 これはルネッサンス編集部からのメルマガです

2022年7月8日
安倍元首相が銃撃で亡くなりました。

そして、その翌日、
日本中が混乱に陥るさなか、
国を挙げて喪に服した国がありました。

それがインド。

テレビでは、
実に16時間連続(徹夜)で、
安倍元首相の功績について説明され、

モディ首相は、ホームページに
「My Friend, Abe San」
と題して追悼文を公開しました。

もはや、インドで愛されている
と言ってもいいでしょう。

しかし、
一体なぜ、インド人は安倍元首相に
ここまでのことをするのでしょうか?

アメリカの名門シンクタンクで
インドの軍事戦略を専門に研究する
長尾賢 博士の講座の中に、

その答えが隠れていたので、
今日はこっそりあなたに
お見せしたいと思います…

インドが日本にとって重要な理由

初めて、インドが日本に関係がある
という話をしたのは安倍首相です。

安倍首相が2007年に
インド国会で演説をしました。

タイトルは、
「二つの海の交わり」
というものでしたが、

2つの海というのは
太平洋とインド洋のことです。

この2つの海を
一体として捉える「インド太平洋」
という考え方、

そして、QUAD(日米豪印)
という考え方を演説で紹介したのです。

安倍首相が提示した
「インド太平洋」の重要性

「なんでインド太平洋なの?」
という疑問が出た場合、

これらの3つの特徴を知ると、
よく分かります。

1つは、
この地域は経済的に
ものすごく発展してきていて、

世界の中心に
なり始めているという話です。

その昔、
世界の中心はヨーロッパでした。

そのため、そこで戦争が起きると
世界大戦と言われたのです。

しかし、
今の世界の中心地は経済が発展している
インド太平洋地域に変わってきています。

ヨーロッパも大事ですが、
世界の中心の一つとして
インド太平洋はすごく大事です。

ところが、
ここで重要なことは

世界の中心になり始めている地域が、
中国の支配下に入ってしまう
可能性が出ているということです。

これが2つ目の特徴です。

中国対策としての
「インド太平洋」

そして3つ目の特徴です。

今まで中国対策として使われてきたのは
「アジア太平洋」という考え方でした。

しかし、
「アジア太平洋」だと
中国と領土問題を抱えている
いくつかの国が入らないのです。

いくつかの国とは
インドとブータンなんですけど。

「インド太平洋」だと
中国が領土問題を抱えている国の
全てが入るのです。

そして、
「インド太平洋」で
力のある国だけを集めていって、

そこから中国だけ除くと
QUAD(日米豪印)になるのです。

つまり、

インド太平洋・QUADとは、

力のある国=QUADが、

中国と領土問題を抱える
インド太平洋地域の問題を、

一丸となって
解決しようという話なのです。

だから、
インド太平洋とQUADで
中国対策をやるというのが重要なのです。

まとめると、

①台頭しているインド太平洋
 という地域があって、

②その地域が中国支配になると困るから

③インドを入れて対抗しましょう

というのがインド太平洋とQUAD
ということになります。

つまり、
安倍首相が言った
QUAD・インド太平洋という話は、

中国の脅威に晒されている
日本の安全保障を語る上で、
大前提の話なんです。

写真は一昨日の七草粥



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