つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

趣味人倶楽部 まきこpcさんの依頼に応えて

2024-06-04 | Weblog
趣味人倶楽部 まきこpc

コピーをされて、市役所の総務部、情報企画部へ投稿宜しくお願いいたします。
 
 親戚の方々、御家族、お友達等々、方々へ拡散をどうぞ、宜しくお願いいたします!。
 立憲民主党、共産党、令和新選組、民主党、社会党と朝日放送、TBSはロシア政府と中国に付属するキカンです、此方へ行きますと、平和と言うプロパガンダにより、ダマサレて香港と同じ事に成ります。
 中国のウイグル自治区でも、昨年12月28日に7.8の大地震が起きています。ウイグル自治区は中国政府により、女性は子供が出来ない様に子宮を縛られ男性は共産党に協賛出来ない無宗教を容認出来なければ、拷問殺害されてました。生きている人々は奴隷として、働かされています。
 ウイグル自治区、全く日本と同じ大学、医者等々文化を持った区域で、人口的にも可也の人々が住んでいる場所でした。
 拡散 どうぞ、宜しくお願いいたします。
 他のテレビ局特にフジテレビのプライムニュースを見て頂きます様にお願いいたします。

写真は庭のアリウム・ロゼウム


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GHQの仕業

2024-05-31 | Weblog

田母神俊雄氏のメルマガより

では、日本への侵略は
いつから始まったのでしょうか?

その大きなはじまりこそ、
戦後行われたGHQの悪行です。

例えば、

なぜ、公民館が戦後に
1万5千件以上も作られたのか、
あなたはご存知でしょうか?

なぜ、2DK住宅が
戦後の日本で推進されるようになったか、
あなたは知っているでしょうか?

なぜ、戦中は1店舗もなかったパチンコ屋が、
戦後急激に約4万店舗も増えたか、
あなたは知らされているでしょうか?

何も、日本人が好き好んで
増やしていったわけではありません。

実は、これらも全て
GHQによって仕掛けられた、
日本を破壊するための工作なのです。

しかも、
多くの日本人がこの被害に
気づいていないという事実こそ、

まさに今、
戦後に仕掛けられた爆弾が
次々と起爆していると言えるでしょう。

公民館、2DK住宅、パチンコ屋…
上記の3つは、その一部です。

こうして、知らず知らずのうちに
日本人が古来より大切にしてきた
文化や価値観が破壊されていきました。

そして、外敵が仕掛けた毒は、
やがて日本内部にも浸透し、
内側からも日本を破壊しています…

私が、これまで数日間、
送ってきたメールでお話をした

内部の敵たちは、
その氷山の一角です。

しかし、本当に
このままで良いのでしょうか?

彼らの様々な工作によって、
日本人は本来持っていた
素晴らしい愛国心を失ってしまいました。

●日本に誇りが持てない、
●先人に誇りを持てない、
●自分という人間が価値がない

このように
思う人が増えてしまったのです。

それにも関わらず、

敵の正体も知らず、
指を加えて好き勝手される現状を
放置しているだけでいいのでしょうか。

このまま、
何も知らない子どもや孫たちに
こんな日本を引き継いでいいのか…

否。

日本は良い国で、
日本人は素晴らしい民族です。

古来より受け継がれてきた、

勤勉な国民性、
強固な共同意識、
高い技術力…

このように、日本は
他国にはない利点を多く持っている国です。

それをまずはあなたに知ってほしい。
そして、子どもたちへ伝えてほしい。

だからこそ、私は今日、
日本の内部に巣食ってきた敵の正体を
あなたへ明かすことにしました。

まずは、あなたに、
日本の敵がどんな人たちで、
何をしてきたのか、

外にも内にも存在する
彼らの正体を知っていただきたいと思います。

「日本」を「日本人」を
貶めてきた敵の正体を知ることで、

これまで見えてこなかった敵へと
対抗する術を身に着けてほしい。

そうすることで、
本当の意味で日本への誇りを
取り戻すことができるでしょうし、

自信を持って、

どんな行いをする人物たちが
日本のためを想う「日本派の人間」かを
見抜けるはずです。

写真は近隣で撮影したガマズミ

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世界最高峰で指揮した日本人

2024-05-16 | Weblog
田母神氏のメルマガより

日本のオーケストラの父”と
呼ばれる人物を知っていますか?

今からちょうど100年前。

日本にプロのオーケストラ
さえなかった時代に、
単身でヨーロッパに乗り込み、

わずか25歳の若さで
ベルリン・フィルの
多くの白人の楽員を前に

指揮棒を振るっていた
日本人がいたのです。

ベルリン・フィルといえば、
世界三大オーケストラに
数えられる音楽界の最高峰…

これは、東洋人初の
快挙であったばかりか、

日本のオーケストラ史を
切り開いた出来事でした。


その人の名は、近衛秀麿。

戦前に3度にわたって
内閣総理大臣を務めた
近衛文麿の実弟です。
日本に帰国した秀麿は、
日本初のプロ・オーケストラ
『新交響楽団』を結成。

これが『NHK交響楽団』の
前身となりました。

まさに、日本の
音楽界の父とも言える
そんな人物ですが、

彼が残した偉業は
これだけではありません…

実は、この近衛秀麿には
「戦火のマエストロ」との
異名が存在していたのです。

では、そう呼ばれる所以となった
彼の知られざる偉業とは、

一体どんなものだったのでしょうか?
>近衛文麿の弟の知られざる活躍
実は、この近衛秀麿は
ナチス・ドイツが台頭する
ヨーロッパにおいて、

「近衛オーケストラ」という
私設楽団を結成しています。

そして、“演奏活動”という名目で、
フランスやベルギーなどの
各国を行き来しながら、

当時の同盟国であるドイツにも
日本政府にも隠れて、密かに
“ある活動”を行っていたのです。

そして、この命がけの活動により、
ナチス占領下の欧州で
たくさんの命が救われたと言います。

さらに、この活動は同時に
日本の音楽の水準を
飛躍的に向上させることにも
繋がったというのですが…

写真は娘からもらった母の日のプレゼント


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日露戦争の真相

2024-05-14 | Weblog
鈴木荘一氏のメルマガより

日露戦争が開戦する少し前の1890年代…
日本とロシアが衝突することを予見していた国がいた。
あなたは、日露戦争は単なる日本とロシアの戦いではなく、、、
強大な黒幕によって仕組まれた戦争だということをご存じだろうか?

その黒幕は、ロシアでも日本でもなく、、、「イギリス」だった。
日露戦争時のイギリスの立場といえば、日本の味方として日英同盟を結び、日露戦争の日本の勝利に大きく貢献したことで有名だが、、、
よく考えると不思議ではないだろうか?

日英同盟は日本の当初イギリスに利益は全くないとされていた。
なぜなら、日露戦争で明らかに負けそうな日本と同盟を組んで、ロシアを敵に回す必要がないからだ。
※この時の日露の国力差は面積60倍 ・国家歳入8倍 ・陸軍総兵力11倍 ・海軍総トン数1.7倍もあったと言われている
むしろロシアと組んだ方がイギリスにとっては都合が良かったのだ。

そのため、日英同盟は理想論で、実現不可能と言われていた。
実際にイギリスは当初日本との同盟を受け入れなかった。

しかし日露戦争が勃発する直前の1902年、突如として日英同盟は締結された。
この際、日本からイギリスに新たなオファーがあったわけでもない。
実は、この不可解な同盟締結の裏には、イギリスの謀略があったのだ。
そしてこの日英同盟こそが、日露戦争の知られざる真実を読み解く鍵になる。

例えば、、、
なぜイギリスに利がない日英同盟は結ばれたのか?
なぜ起こり得ないと言われた日露戦争が起こったのか?
本当に日露戦争の勝因はイギリスの協力のおかげだったのか?
そして黒幕・イギリスの目的とは?

これらの日露戦争の謎は、イギリスという視点からみると答えが浮かび上がる。
そして、教科書が語らない日露戦争の新たな歴史が見えてくるのである。


知られざる日英同盟締結の闇
イギリス「いいことを思いついた!日本を騙して、ロシアと戦争させよう!」

日露戦争開戦直前、、、とある作戦を思いついたイギリスは、歓喜の笑いを堪えきれなかった。
この作戦の目的は、イギリスが金儲けをすること。
そして、できる限り自国イギリスが関与することなく、日本に「私たちは味方だ」と一見フレンドリーに接しつつ、間接的に日本を敗戦国にして玉砕させ、滅ぼし、金儲けするというとんでもないものだった。

この作戦の鍵を握るのが、あの「日英同盟」だった。
イギリス「日本さん、、、ロシアが日本を狙ってますよ、日清戦争に勝った日本さんなら勝てますよ!日英同盟を結びますから、戦争しましょうよ!」
と言わんばかりに、当初は日英同盟締結を渋っていたイギリスは手のひらを返し、急ピッチで締結を進めたのだ。

なぜイギリスはこのような行動に出たのか?
イギリスが当初日英同盟を躊躇していたワケは、日本と同盟を結ぶことより重視していたことがあったからだ。
それは、ロシアとの共謀である。

イギリスは当時、アフリカ・アジアの国々を侵略して奴隷を増やし、その奴隷相手に物資を高額で売りつける三角貿易でボロ儲けしていた。

しかし、多くの場合、この日英同盟は「イギリスが日本を助けるため」に結ばれた、と教えられる。
しかし、この同盟には、日本にとって大きな大きな落とし穴があったのだ。

実は1902年に結ばれた第一次日英同盟の時点では、イギリスは日本を助ける気などさらさらなかった。
その証拠に、条項には「日本と対1国であればイギリスは中立の立場を崩すことなく、他国の戦争への介入を阻止する」との記載があった。

つまり日本とロシアの戦争にはイギリスは介入できず、日本VSロシアに他国を介入させない、という仕組みになっていた。

しかし、この同盟に対して日本国内では、

「日英同盟で最強イギリスを味方につけたぞ!」
「これで日本はロシア相手でも勝利間違いなしだ!」

との声が大きく上がり、日本国民は騙されてしまっていた。
そして、日露戦争へと突き進む「空気」を日本国内に作り出してしまったのだ。

イギリス「しめしめ、日本は我々の思う通りに動いてくれている、、、日本がロシアに噛み付くのも時間の問題だ」

つまり黒幕イギリスは、日露戦争を引き起こすことで、
・自分たちは関与しないくせに
・日本にフレンドリーに煽てながら
・間接的に、日本を敗戦国にして、玉砕させ、滅ぼそうとしていた
ということなのだ。


黒幕イギリスの大誤算
イギリスは日英同盟で中立を義務付けられていたため、日本を助けるつもりなど毛頭なかった。
これが日英同盟、そして日露戦争の隠された真実だった。

しかしイギリスの作戦が全てうまくいったかに思えたが、1つだけ大きな誤算があった。

それは、日本がイギリスの予想より遥かに強かったこと。

イギリス「あれ、日本、強いかも、、、」

捨て駒だと思っていた日本が、当初の予定より遥かに強かったことに気づいたのだ。

実際に日本は、、、
国力に60倍もの差があったロシア相手に、苦労しながらも、接戦をものにしていた。

陸軍は、日本を弱小国と油断し兵力を分散させていたロシア軍の意表を突き、奇襲攻撃で勝利を納め続け、、、(鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦)
海軍も、日本が得意とする夜襲、さらに奇襲攻撃、という確かな戦術をもって圧倒し、勝利を重ねていたのだ(仁川沖海戦、黄海海戦、蔚山沖海戦、日本海海戦)。

そのため、ロシアを妨害できればいい、くらいに考えていたイギリスは仰天した。

そして日本がロシアに勝利することを確信したイギリスは、手のひらを返すように、
同盟のルールを破り、日本に援助をすることで日英友好をアピールし始めたのである。

イギリス「日本さん!私たちは"同盟国"なので、お金をあげますよ♪」

その結果、イギリスの協力のおかげで日本は勝利した、という日露戦争の誤った図が後世に残ったのだ。

写真は孫娘が選んだ母の日のプレゼント



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日本の血税9兆円が米国からウクライナへ

2024-05-11 | Weblog
 先刻の岸田首相の米国訪問の陰に重大な秘密がかくされていたのに、日本のマスコミは隠蔽しています。この動画には詳しく経緯が明かされていますが、おそらく削除されることでしょう。売国総理のニュースがばれると困る人による操作もあるでしょうね。
 以下は、先日東京の友人のSさんから送信されたものです。



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アメリカ捕鯨の不都合な真実

2024-04-27 | Weblog
伊勢雅臣氏のメルマガより

■1.年間300万頭のカンガルーを殺しながら反捕鯨を訴える偽善

 オーストラリアのケビン・ラッド首相は、
日本が2010年11月までに捕鯨をやめなければ、日本を国際裁判所に提訴すると語った。

このスタンドプレーに対して、オーストラリア国内からも常識的な批判が出ている。

 オーストラリアの有力紙「オーストラリアン」は社説で
「日本はわが国の大きな輸出市場であり、重要な戦略的同盟国だ」
と強調し、重要な同盟国との関係は、
自分たちだけが道徳心を持っていると思い込む国内の
自然保護団体をなだめるだけの首相では、支えられない」と批判している。[1]

「自分たちだけが道徳心を持っていると思い込む」
人々に対しては、もっと手厳しい批判が国際紙、
インターナショナル・ヘラルド・トリビューンから突きつけられた。

「鯨に銛(もり)を打ち込むことは、
牛や羊の肉を常食としている者の間にさえ感情をかき立てるのかもしれないが、
豪州は、作物や牧草を守るため年間300万頭余の野生のカンガルーを撃っているときに、
苦情を言える立場にはほとんどない」と批判した。[2]


■2.反捕鯨国でも捕鯨賛成が過半数

 もう一つ、反捕鯨派の足下をすくうような世論調査の結果が出されている。

 アメリカの民間会社レスポンシブ・マネジメント社が、
1997(平成9)年から翌年にかけて、代表的な反捕鯨国である
アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアの国民を対象に行った世論調査である。

その設問は次のようなものであった。[3,p191]

__________
 ミンククジラは絶滅に瀕しておらず、
国際捕鯨委員会(IWC)は世界中に
100万頭のミンククジラが生息していると推定しています。

では、あなたは次の条件のもとで行われる
ミンククジラの捕鯨に賛成ですか、それとも反対ですか。

 捕獲したミンククジラは食糧として利用される。

 一部の国民や民族にとってミンククジラの捕獲は文化的側面を有している。

 ミンククジラの捕獲はIWCによって、規制されており、
資源に影響が及ばないように毎年適切な捕獲枠が設定される
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「強く反対する」「反対する」を「反捕鯨」、
「どちらとも言えない」を「中立」、
「賛成する」「強く賛成する」を「捕鯨賛成」と3分類すると、
主要な反捕鯨国4カ国での回答は次のようであった。

           反捕鯨    中立  捕鯨賛成
  アメリカ     19%   10%   71%
  イギリス     31%    8%   53%
  フランス     27%   11%   63%
  オーストラリア  40%    6%   53%

 すなわち主要な反捕鯨国でも、過半数は捕鯨賛成なのである。

もっとも、この設問はミンククジラが100万頭もいるというIWCの推定をきちんと説明し、
さらに適切な規制が行わる、という前提を明記している。

こういう点を知らない一般国民は、反捕鯨の比率がもっと高いかも知れない。

 しかし、このような合理的な説明をきちんとすれば、

反捕鯨国の国民でも過半数が捕鯨に賛成するという点が重要なのである。

したがって捕鯨問題の本質は、一部の反捕鯨派の政治宣伝に対抗して、
事実と合理的な主張により、いかに国際世論の支持を勝ち取るか、という問題なのである。

 参考文献[3]には、そのための豊富なデータと合理的な主張が掲載されているので、
その中から、いくつか興味深いものを紹介したい。

反捕鯨国の人々と話をする機会があったら、
ぜひこれらを紹介し、啓蒙に努めていただきたい。


■3.ミンククジラは世界で100万頭

 まずは前節のアンケートの設問にも紹介されていたが、
クジラの種類によっては、絶滅どころが増えすぎているものもある。

 1982(昭和57)年に行われた調査では、
南氷洋だけで76万頭のミンククジラがいることが分かった。

この数字は、IWCの本会議に報告され、承認されている。

その後、IWCの科学委員会がさらに詳しい調査を行い、
世界中の海には114万頭程度は生息しているというのが、現在のIWCの公式見解となっている。

 国際自然保護連合(IUCN)により絶滅危惧種とされているナガスクジラは、
調査捕鯨により北大西洋で約3万頭確認されている。

ワシントン条約で絶滅危惧種とされるのは、個体数が1千から2千の種とされているので、

日本はIUCNがナガスクジラを絶滅危惧種としているのを見直すべきだと主張している。

 また生物学的にクジラは年に4~7%ずつ増えている、という調査結果が出ている。

したがって、南氷洋のミンククジラの生存数は76万頭と確認されているので、
商業捕鯨で年に4%、すなわち3万頭ほど捕獲しても、絶滅の心配はない。

 IWCの科学委員会では、これだけの生存数が確認されているのだから、
年に2千頭は獲っても問題はない、と結論を出した。

 日本の調査捕鯨枠としてIWCから認められているのは、
南極海調査海域で44万頭いると推定されているクロミンククジラの850頭、0.2%である。

また北西太平洋調査海域で25千頭いると推定されている
ミンククジラの220頭、0.9%である。

他の種も0.009%から0.4%の幅に入っている。

 このようにIWCは科学的にクジラの種類と海域ごとに生存数が調査され、
そこからかなりの安全を見て、調査捕鯨の枠が決められているので、
調査捕鯨がクジラを絶滅に追い込む恐れは全くない。


■4.絶滅が危惧されるホッキョククジラを採り続けるアメリカ

 83種類のクジラの中で、絶滅の心配のある種ももちろんある。

たとえばホッキョククジラで、北極海には約8千頭が確認されている。

 このホッキョククジラの捕獲を、アメリカは行っているのである。

アラスカに住む先住民族イヌイット族のための「先住民族生存捕鯨」として、

年間54頭の捕獲がIWCにより認められている。

 ホッキョククジラは体長20メートル近く、平均体重が80トンもあり、
平均5トンのミンククジラの16倍も大きい。

寿命も150歳から200歳の個体が見つかっているので、
ミンククジラの50年よりもはるかに長い。

 このようにホッキョククジラは寿命が長く、また極寒の海に住むため、
増殖が非常に遅く、このペースで捕獲していると、
ホッキョククジラこそやがて絶滅してしまうのでは、と危惧されている。

 またトン数で言えば、アメリカは4320トン、
日本の調査捕鯨で南極海と北西太平洋を合わせても、ミンククジラで5350トンと、
量的にもそれほど変わらない。

 アメリカは絶滅を危惧されているホッキョククジラを捕獲しながら、
世界に100万頭もいて増えすぎだと言われている
ミンククジラの調査捕鯨を批判しているのである。


■5.増えすぎたクジラが食糧を求めて沿岸部までやって来た

 各海域におけるクジラの生存数や、クジラの年齢推定方法などは、
日本の調査捕鯨などで明らかになってきたことだが、もう一つ驚くべき事実が判明した。

 長らく、クジラはオキアミ(エビに似た体長数センチほどの浮遊生物)だけを
食べていると考えられていたが、実は近年、
クジラが増えすぎて他の魚まで食べるようになってきているのである。

 たとえば、2009(平成21)年に釧路沖で調査捕鯨が行われたが、
捕獲された、どのミンククジラの胃袋からも大量のスケソウダラが出てきて、関係者を驚かせた。

2百リットル容量のドラム缶2~3本分の
スケソウダラ、サンマ、イカ、オキアミなどが詰まっていた。

 また近年は、大型種のクジラが釧路沿岸で頻繁に目撃されている。

 これらの事実を総合すると、クジラの数が増えすぎて、
オキアミなどの餌が足りなくなり、やむなくサンマやタラを食べ始めたこと、
そして大型のクジラもそれらの餌を求めて、沿岸部に近づいてきている、と考えられている。

 実は、クジラの食害が釧路での漁獲高の急減の原因のようだ。

釧路では1980年代には120万トンの漁獲量を誇っていたが、
2005年には12万トンと10分の1にまで減ってしまっている。

 クジラによる食害は、釧路ばかりではない。

函館では伝統的にイカ漁が盛んで、夜、集魚灯をつけてイカを集める。

そこにクジラが大量にやってきて、集まって来たイカを食べてしまう、というのである。

カナダやアメリカの漁民の間でも、クジラの食害問題が浮上し始めているという。

 日本鯨類研究所の試算では、
1年間で地球上の人類が採る漁獲高の総量は約9千万トンであるのに対し、
地球上のクジラが食べる魚の総量は3億トンから5億トンとされている。

 クジラの商業捕鯨を再開して、適切な生存数をコントロールすることによって、
鯨肉の供給だけでなく、人類全体の漁獲高を大きく増やすことができる。

これが迫り来る食糧難への有効な対応策なのである。


■6.地球環境を心配なら牛肉よりも鯨肉を

 鯨肉は、環境面においても、また健康面においても、
牛肉などよりははるかに優れた食材である。

 まず環境面から見てみよう。牛肉を生産するのと、
クジラを獲るのとではエネルギー効率がまるで違う。

 鯨の場合は、鯨肉一キロカロリーを得るのに、
小型捕鯨船を使った場合、1キロカロリーの燃料を消費する。

牛肉1キロ分を生産するには約120キロの穀物飼料が必要であり、
それだけの穀物を生産するには、1200キロカロリーの燃料を必要とする。

カロリー効率で見れば、鯨肉は牛肉の1200倍ということになる。

 また牛は大量の糞尿を出し、これが土壌を硝酸化する。

さらに牛の発するゲップから大量のメタンガスが排出される。

アメリカだけで数億頭の牛を飼育しているので、
地球の温暖化にとって無視できないほどだという。

 海に棲むクジラには、こういう環境汚染の心配はない。

鯨肉は牛肉に比べて、格段にエコな食材であると言える。

地球環境危機を心配する人なら、牛肉よりも鯨肉を食べるべきなのである。


■7.鯨肉は優れた食材

 栄養面でも、鯨肉は大変に優れた食材である。

100グラムあたりのタンパク質含有量では、
牛肉赤身の17~18グラムに対して、鯨肉の赤身は24~25グラムもあり、
動物性タンパク質の中ではもっともタンパク質含有量が高い。

 このタンパク質が口中で噛まれることによってアミノ酸となり、
それが生命体の活力源となる。

また、このアミノ酸がうまみとなるので、鯨肉は美味しいのである。

 コレステロールが少ない点も、健康食として多いに注目されている。

100グラムあたりのコレステロール量は、
牛肉が72ミリグラム、豚肉が61ミリグラムに対して、
鯨肉は38ミリグラムしかない。

 健康に関心のある人なら、EPAやDHAという
用語はおなじみだろうが、鯨肉はこれらを多く含む。

EPAは脳溢血や心筋梗塞などの血管系の病気の予防に効果があり、

またDHAは脳を活性化して学習能力を上げたり、眼の老化防止、疲労回復の機能がある。

 牛肉、豚肉、鶏肉を食べてアレルギーになる人はいるが、
不思議なことにクジラでアレルギーになる人はいない。

そこでアレルギー体質の子供のために、鯨肉を供給する運動も行われている。

 なぜ鯨肉にはアレルギーが出ないのか、理由は分かっていないが、
一つの有力な仮説として、南氷洋で捕れたクジラには発ガン性を持つPCBや、水銀などの
汚染物質がきわめて少ない点が挙げられている。

他の魚の平均に対し、PCBは2700分の1、水銀は15分の1である。


■8.捕鯨は我が国の国際的使命

 適切なコントロールのもとで商業捕鯨が再開されて、
このような優れた鯨肉が供給されたら、どうなるか。

先進国においては、消費者は地球環境にも人体にも優しい健康食として、
牛肉よりも鯨肉を歓迎するだろう。

また発展途上国においても、安価なタンパク質源として、栄養状態の改善に貢献するだろう。

 その分、牛肉の需要は落ち込み、価格は低下する。

困るのはオーストラリアやアメリカなどの牛肉輸出国である。

これらの牛肉輸出国が代表的な反捕鯨国であることから、
反捕鯨国の真の狙いは牛肉輸出を維持することだ、という穿った見方が出てくる。

 それが真実であるかどうかは別にして、鯨肉の利用拡大は我が国の食料自給率を高め、
かつ世界の食糧問題、環境問題の解決に向けて効果的な対策になりうるのである。

 反捕鯨プロパガンダに対抗して、
このような事実と論理によって捕鯨の妥当性、必要性を粘り強く訴え続けていく事は、
我が国の国際的な使命と言えるのではないか。

(文責:伊勢雅臣)

写真はテレビ画面より「陵王」


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金日成政権の確立

2024-04-05 | Weblog

田母神俊雄氏のメルマガより

金日成政権の確立


〇 ソ連による金日成指導体制の確立

金日成が依拠する共産党組織は、
当初1945年10月に朝鮮共産党北部朝鮮分局
という形で結成された。

これが後に北朝鮮労働党を経て
朝鮮労働党となった。

日成は、ソ連の後押しで、
朝鮮労働党中央委員会委員長に推戴され、
実権を握ることになった。

朝鮮労働党こそが、
金日成が独裁体制を構築するうえで
不可欠の屋台骨となるものであった。

このシナリオを描き、実現させたのは
ソ連軍民政担当のイグナチェフ大佐であった。


民主主義国家においては、
選挙という平和的な
「権力闘争の仕組み」があるが、

共産党独裁国家においては
仁義なき権力抗争が行われ、
敗れれば粛清の憂き目にあう。

今日、孫の正恩が、
金王朝三代目として
政権基盤強化に腐心している。

2013年12月には、張成沢――
叔父(正日の実妹・敬姫の夫)で、
後見人的存在――が

「国家転覆陰謀行為」により死刑判決を受け、
即日処刑された。

選挙のない北朝鮮においては、
祖父・金日成の時代から永続的に、
絶え間ない仁義なき権力抗争が
水面下で繰り返されているのだ。


権力抗争において、金日成の最大の強みは、
ソ連占領軍から"御指名を受けた人物"
であることだった。

イグナチェフ大佐が、
金日成の庇護者として君臨していた。

そのような訳で、党創立大会では、早くも
「金日成同志は、『唯一の指導者』であり、

金日成同志をけなすものがいるとしたら、
それは反動であり裏切り者である」
と演説する者が現れた。

朝鮮民族特有のメンタリティである
事大主義(長いものには巻かれろ)は、
ソ連が北朝鮮を統治する上で、
殊の外便利であったに違いない。


〇 金日成の“政敵”と味方

金日成には、対抗せざるを得ない政治的党派
――“政敵”――が四つ存在した。

第一の、そして最大の党派は
朝鮮国内の共産主義者、
いわゆる国内派であった。

彼らは日本統治下で朝鮮国内に留まって
地下活動を続けてきた者達であった。

代表的人物に、朴憲永がいた。


第二の党派は、中国帰りの革命家達で、
延安派と呼ばれる集団であった。

代表的人物としては、
武亭、崔昌益、金枓奉などがいた。


第三はソ連軍と共に朝鮮に戻り、
ソ連軍が撤退した後も北朝鮮の政治に
関わり続けた朝鮮系ソ連人、
いわゆるソ連派であった。

代表的人物としては、許カイがいた。


これに対して、金日成を支える党派は、
パルチザン派とよばれた。

彼らは独立・建国を目指していた
朝鮮地域から見て国外である

満洲(中国東北部)とソ連領土を
拠点に活動していた為、
「国外パルチザン派」とも呼ばれた。


彼らは、満州における
抗日パルチザン闘争以来
金日成に従ってきた共匪あがりの人達で、

心から金日成に忠誠を誓っていたが、
いかんせん少数で、その数は、
200名に満たなかった。

パルチザン派の要人としては金日成、崔庸健、
金策、金一、朴成哲、李鐘玉、呉振宇、
李乙雪、林春秋、金東奎、呉白龍、李斗益、
金光侠、崔賢、姜健、徐哲などがいた。


なお、パルチザン派の中には、
第二次世界大戦後の朝鮮半島内の北半部の
体制(のちに朝鮮民主主義人民共和国となる)
に参加したグループがおり、

「甲山派」あるいは「国内パルチザン派」
とも呼ばれた。

のちに北朝鮮の建国活動、
及び統治機構に加わるが、やがて
北朝鮮内部の権力抗争に敗れて粛清される。

甲山派には李孝淳、金道満、朴容国、
許錫宣などがいた。


〇 金日成が権力の座に就くことができた事情

第一には、ソ連占領軍の存在、
特にイグナチェフ大佐による
バックアップである。

第二は、朝鮮が38度線で
分断されたことだった。

このことにより、
金日成のライバルになることができる
知名度の高い古参の革命家たちは、
殆ど南部朝鮮に偏在していた。

これら名の知れた革命家たちは、
「ソウルは朝鮮の首都であり、
朝鮮の政治の未来は平壌ではなく
ソウルで決まる」と考えていた。

第三は、金日成に対抗できる三つの党派
――国内派・延安派・ソ連派――が、
共同作戦を組んで、

単一の政治家を押し立てようとする
動きを示さなかったことである。


国内派すべてが朴憲永を
支持しているわけではなかった。

また、延安派のすべてが、
金枓奉を押しているわけでもなかった。

さらに、ソ連系朝鮮人は、
自分たちをそもそも一つの党派と
考えてはいなかった。

面白いことに、ソ連派は、
「金日成はソ連軍当局が選んだ人物である」
という、ただそれだけの理由で
金日成を支持したのだ。


〇 金日成による最初の粛清

金日成の人殺し――粛清――は
彼がソ連から北朝鮮に戻った
直後から始まった。

その最初の生贄は、
金日成のライバルとなりうる
北朝鮮地域における共産主義者の代表だった
玄俊赫(ヒョン・ジュンヒョク)であった。

金日成は(イグナチェフ大佐も)、
玄を排除しない限り自分がトップに
のし上がれないと判断したのだろう。


玄俊赫は金日成が平壌に入城した1週間後の
1945年9月28日に、民族主義者代表の
曺晩植(チョ・マンシク)と一緒に

トラックに乗っているところを
暴漢に襲われ死亡した。

金日成とイグナチェフ大佐の
共謀が疑われるという。


〇 金日成の保身術

"新生北朝鮮の首班"に推戴された金日成が
政敵から首班の座を脅かされないための術は、
ひたすらソ連に忠誠を尽くすことだった。

建国前後から、北朝鮮は
「プロレタリアートの祖国」たるソ連の
圧倒的な影響下に置かれ、

日成は「極東の衛星国」の「支配人」
に選ばれたわけであり、スターリンの期待通り、
言われるままに務めておる限りは、
クビになることはなかった。


〇 ソ連軍撤退後の金日成政権自立に備えた布石
  ――北朝鮮軍の建軍と保安組織の確立


ソ連占領軍は、侵入後一年もたたないうちに
1万の兵を残して、
3万の兵力を欧州正面に転用し、
48年12月には、ほぼ完全に撤退した。

ソ連軍がいなくなっても、
その威光がすぐになくなるわけではないが、
金日成は、権力を維持・確保するために

ソ連軍に代わる自前の軍と保安組織
(治安・警察機能)を立ち上げることが
死活的急務であることを知っていた。


日成はソ連軍当局の支援を得て、
建国宣言に先だって、
48年2月8日に朝鮮人民軍を創建した。

これに先立ち、46年末までに
四つの訓練所を開設し、
2万人の軍将校の養成を開始した。

士官候補生は、
当初はソ連軍から直接訓練を受け、
その後は教育訓練のためにシベリアに送られた。

その数はおよそ1万に達した。

軍の要職はパルチザン派が主流を占めた。

建国後は、約1年の間に約4万人が徴兵された。

朝鮮人民軍は戦争1年前の49年の時点で
6万の兵を擁し、三個師団で編成されていた。


また、保安組織としては、
正規の警察1万2千、政治思想警察3千、
秘密警察5千を組織し、

日成が初代保安隊司令官に就任したほか、
要職はすべて金日成を支えるパルチザン派が
実権を握っていた。

このようにして、金日成・パルチザン派は、
軍と保安組織を完全に掌握し、
政権基盤を確固たるものにした。

北朝鮮の金王朝政権を究極的に支えるものは
今も昔も軍と保安組織である。

写真はオウバイ


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天国と地獄の北朝鮮 3

2024-04-04 | Weblog
福山隆氏のメルマガより

前回は、
「金正日の女性遍歴」
について書いたが、

今回はその続きとして
「喜び組」について
書くことにしたい。

喜び組は
1970年代初めに、

金正日が全国から
美女を集めて、

金日成の別荘に
配置したのが始まりだ。

これを母体に、
1983年末には、

金正日自身のための
喜び組が生まれた。

喜び組(18歳から25歳)は
性的快楽のための「満足組」

疲労回復の為の
マッサージをする「幸福組」

ダンサーや歌手などの
「歌舞組」に分かれる。

喜び組の選抜は、
保衛総局が担当し、

毎年、学期初めに、
全国人民学校4年生
(9~10才)から、

金正日好みの
「細身でふっくらした
丸顔の美少女」を50人ほど選ぶ。

少女たちは、
その後20歳まで、

処女のままであるように
しっかり管理される。

彼女たちは、
「性を“売り”にする」
人身御供であるが、

両親が党幹部であっても
拒否できなかった。

喜び組は、表向きの任務は
「昼夜休まず
革命事業に没頭している

首領・金日成と金正日の精神的・
肉体的疲労を癒すこと」である。

そのために、彼女たちは
破格の待遇を受けた。

住まいは、特別居住区の
超豪華マンションで、

無償支給される日用品は
日本製だった。

また、金正日と
ベッドを共にした女性には

サインの刻印入りの
オメガの時計が下賜され、

大臣クラス以上の
待遇が保障された。

その真意は、
「口止め料」ということだろう。

喜び組が25歳を過ぎると、
高官(軍将校)などに
妻として下賜された。


◉ 金正日主催の乱痴気パーティー

金正日は
パーティー狂いだった。

パーティーは、
週末の夜八時ごろ始まり、
夜中の二時ごろまで続いた。

パーティーの目的は、
側近の管理である。

パーティーに
呼ばれるかどうかが
側近の評価・信頼度であった。

参加するのは、
党としては張成沢、
金容淳、金永南、

軍は趙命禄、
李河一などが
固定メンバーだった。

パーティーは、
乱痴気騒ぎそのもので、

金正日に促されて
ウイスキーを一気飲みをしたり

韓国の歌
――離別や下宿生――を
伴奏で歌うのが定番だった。

この間、喜び組は
欧米のヌードダンサー以上に

露出して激しく
エロティックなダンスを踊り、
宴を盛り上げた。


◉ 乱痴気パーティーが招いた悲劇

乱痴気パーティーが招いた
悲劇もあった。

組織指導部・副部長の
李ミョンジュは

金正日の覚えも目出度く、
よく乱痴気パーティーに
参加していた。

ある時、
かれは酔いつぶれて、

妻の前で、
不覚にも夢とうつつの狭間で、

乱痴気パーティーの模様について
口を滑らせてしまった。

曰く、「喜び組の呉ミランや
洪ヨンヒなどは

全部指導者同士(金正日)の
お手付きだよ。
だから横恋慕してもだめだよ」と。

李の妻は
金日成総合大学の教授だった。

純粋な彼女は、
金日成に直訴の手紙を書いた。

「親愛なる首領様 
祖国の未来を背負った
指導者同士(金正日)が

こんなことで
いいのでしょうか。
どうか首領様が正してください」と。

この手紙が、
金日成に届く前に

国家政治保衛部の
検閲網に引っ掛かり、
金正日に届けられた。

金正日は激怒し、即刻、
李ミョンジェを呼びつけ、

「お前は女房ですら
まともに教育できないのか」
と叱責した。

この事件以後、
李ミョンジェは妻に
暴力を振るうようになり、

ついには拳銃で
自殺することを促したが
拒絶され、

彼自身の手で
射殺したといわれる。


◉ 喜び組は北朝鮮版の妓生か、
酒文化も南北共通

筆者は、
1990~93年まで

駐韓国日本大使館で
防衛駐在官を務めた。

韓国陸軍の
Y少将に招かれた

キーセンパーティーの
出来事であった。

酒も相当回った頃に
バンドとチマ・チョゴリを着た
女性が呼ばれて入って来た。

隣に座っていた
韓国陸軍大佐の説明によると
有名な芸能人であるとのこと。

素晴らしい声で
何曲か韓国の歌謡曲を
歌った後、

Y少将の前に
進み出て挨拶した。

Y少将が
「とても良い声である」と賞讃し

「酒を注いでやるから
一杯飲め」と勧めた。

その歌手は
「私は宗教の関係から
酒は飲めません」と丁寧に断った。

するとY少将は
やにわに立ち上がり

「俺にできないことはない。
生意気な奴だ」と

ビールのグラスに
ウイスキーを注いで

歌手の鼻を逆手に掴んで
顔を上に向けさせ、

彼女の口に中に
無理やりウイスキーを
注ぎこんだ。

もちろん、ウイスキーは
口から溢れ

美しいチマ・チョゴリが
ウイスキーで
ビショビショになった。

歌手は泣きながら退席した。
日本人の私の目からは、
やはり異常なことだった。

私自身も、
酒にまつわる辛い体験がある。

陸軍本部のR将軍だった。
私は、この爆弾酒
(ビールとウィスキーのカクテル)を

何回も繰り返し飲んでいるうちに
気分が悪くなり、

「後一回『水爆』を飲めば
昏睡するかもしれない」と
思うほど酔ってしまった。

私は申し訳ないと
思いつつも、

「将軍、参りました。
将軍には到底敵いません。
この通り降伏します」と言った。

将軍がいやな顔を
するかと思ったらその逆で、

「福山大領(テーリョン、
自衛隊の一佐に相当する
韓国軍の階級)は正直で良い。

その潔さが、気に入った。
お前は今日から俺の弟分だ!」と
ご機嫌の体だった。


◉ 男尊女卑は南北共通の文化?

南北朝鮮の
酒宴における男達の
女性に対する振る舞いは同じようだ。

このような男達の
振る舞いのルーツは、
やはり男尊女卑だろう。

朝鮮民族の男尊女卑は、
儒教に由来すると聞いたが、
調べてみると様々な説がある。

女性を蔑視する韓国が、
日本に対して

ありもしなかった
従軍慰安婦を言い募ることは、

筆者には
釈然としないものがある。

写真はハナニラ


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天国と地獄の北朝鮮 2

2024-04-03 | Weblog
福山氏のメルマガより

天国と地獄の北朝鮮(2)金正日の女性遍歴


◉ 欲望に忠実な独裁者

人間には実に
様々な欲望がある。

これら人間が持っている
欲望の中でも

強い衝動を引き起こすものは
食欲、睡眠欲、性欲であり、
これを三大欲と呼ばれる。

金正日は三大欲のうち
睡眠欲は人並み以下であった。

金正日は後継者になると、
金日成から実権を奪うために
猛烈に働いた。

組織のあらゆる部署から
提出される報告書を

夜通しかけて
自分に都合のよいように整理し、
父に虚偽の報告をした。

この間20年ほどは、
睡眠時間は4時間ほどだったと
告白している。

ただし、食欲と
性欲については忠実で、
制限がなかった。

食欲――美食・美酒――
については、
前回触れたので、

今回は金正日の
性欲(色欲)について書いてみたい。


◉ 金正日の女性遍歴

金正日の女性関係は、
異常かつ複雑で、

正室といえる金英淑の他
同棲した女性だけでも
8名に上る。

そのほか関係した女性は
数え切れない程で、

万寿台芸術団の舞踏家、
曲芸組、女優、官邸担当看護婦、

執務室のタイピスなどを
欲望の赴くままに関係を結んだ。

また、スウェーデンやドイツなど
外国から金髪美女を呼び寄せ、
関係を持つほどだった。

さらには、金正日は、
街に繰り出し平壌女子高や

高等師範の女学生を
林道に連れ込んで、
悪戯することまでやった。

金正日は、
道徳感など全くなく、

自分の好みの女を見つければ、
人の女房・恋人であろうと

奪い取る略奪婚・愛の
常習犯だった。

金正日は、
駐チュニジア大使の妻に言い寄り、
不倫を遂げた。

また、金正日は
「ポイ捨て名人」で、

弄んだ女性を次々に取り替え、
「お手付き」の女性は

保衛総局の将校や
国家功労者に「払い下げ」られた。

以下、金正日の
女性遍歴から生まれた
悲劇と成功の例について紹介する。


◉ 金正男母子の悲劇 

金正日の女性遍歴が
後に悲劇につながったケースとして、

金正男とその母の成蕙琳
(2番目の妻、ソン・ヘリム)の例がある。

成恵琳はソウルの
豊文女子中学校に通っていたが

1948年に一家で北朝鮮に移住し、
60年に平壌演劇映画大学を卒業した。

蕙琳は、卒業と同時に
李平という男と結婚し、
女児までもうけた。

蕙琳は、卒業前の59年に
「分界線の村で」という
映画に主演し一躍有名になった。

しかし、それが
悲劇の始まりだった。
金正日に見初められたのだ。

金正日は、友人である
李平の弟をつてに

5歳も年上の蕙琳に
言い寄って自分のものにし、
李平と離婚させ同棲を始めた。

71年には
金正男が生まれた。

金日成は
正日と恵琳の結婚には、

「恵琳が韓国生まれで
出身家の身分が低いこと、

映画女優は政治家の妻に
不適切であること、

蕙琳は結婚し
子供も居ること」などの理由で
猛反対をした。

そのため正日は、
蕙琳との結婚はもとより

正男の誕生も
日成に隠し続けた。

蕙琳が正男と
外出したいと願うと、正日は、

「言うことを聞かないと
撃ち殺すぞ」とピストルで
脅し付けていた。

金日成は正男が
5歳になる1976年まで
蕙琳との結婚すら知らなかった。

蕙琳は、正日が
高英姫など別の妻・女を作ると
精神疾患になり、

74年からはモスクワで
療養するようになり、

ついに2002年5月、
同地で死亡したと伝えられる。

蕙琳の息子の正男は、
長男であるにもかかわらず
後継者から外され、

異母兄弟の正恩に
取って代わられ、

ついには厄介者として
2017年2月クワラルンプール国際空港で

二人の女性により
VXガスを用いて暗殺されたことは
説明の必要もないだろう。

まさに、
悲劇の母子である。
写真はカランコエ



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天国と地獄の北朝鮮 1

2024-04-02 | Weblog
福山隆氏のメルマガより

◉  金王朝一族だけの「地上の楽園(ユートピア)」

1950年代から1984年にかけて
在日朝鮮人とその家族93、
340人が北朝鮮へ帰還した。

北朝鮮を「地上の楽園」と
はやし立てたのは、
朝鮮総連はもとより
日本共産党、朝日新聞など
左派のマスコミだった。

北朝鮮は、言うまでないが
当時も今も「地上の楽園」ではなく
「この世の地獄」である。

北朝鮮は、1977年、
社会主義の最終段階に突入し
「地上の楽園」になったことを宣言した。
もちろん大嘘である。

ただし、北朝鮮の中には
ほんの一握りだけ、
文字通り「地上の楽園」を
楽しめる人達がいる。
それが、金正日をはじめとする
金王朝の一族である。 

◉ 際限ない贅沢を求める独裁者

金正日の贅沢ぶりは
「世界一」と言われた。
マルクス主義の下では、
指導者は清貧であるなどと
言うのは、大嘘だ。
金正日は少なくとも
8カ所の広大な土地に

娯楽のための宮殿
――特閣と呼ばれる――を
建てた。

ゴルフコース、馬場、
ハーレー・ダビッドソンや
100台のベンツ用のガレージ、
射撃場、プール、
映写室(1万本以上の映画フィルムを所蔵)、
ワインセラー、遊園地、ジェットスキー、
野生のキジやカモが放たれた
狩猟場などが完備している。 

それぞれの宮殿は
一大リゾートで、
車がなければ回り切れず、
医師、看護師、料理人、
メイド、ボーイ、庭師、
マッサージ師、舞踏団、
警護官など約2千人が
配置されている。

アメリカから、
居場所を悟られて
殺害されないように、
全ての特閣が
常時金正日がいる状態を
演出(偽装)している。
どこへ行くにも23~24歳の
3人の女性(看護婦・秘書・
エスコート役、6カ月交代)を連れていく。
彼女たちは24時間体制で待機して
金正恩の意のままに応ずる。

◉ 外国の贅沢品に対する強烈な欲望

独裁者のスターリンや
毛沢東も贅沢の限りを尽くしたが、
それは国産品に限られていた。
彼らとは違い、金正日は
国産品では飽き足らず、
諸外国の「モノと人」にも
手を伸ばす。

外国の本、映画、飲食物、
高級ブランドの衣服、高級車、
時計など何でも買い、
欲しい人間がいれば
札束で連れてくる。
札束で連れてこれない場合は、
拉致さえも辞さない。

映画好きの金正日は、
1978年には韓国の映画監督の
申相玉とその妻で
映画女優の崔銀姫
(1976年に離婚)を拉致した。

他にも、娼婦、ストリッパー、
トルコのベリーダンサー、
歌手などの外国人女性、
ルーマニアのナイフ投げ芸人、
スウェーデンのマッサージ師、
ロシアのポップ歌手、
アメリカのプロレスラーなどを
呼び寄せた。

一方で、
北朝鮮人民に対しては、
外国の文化・情報を
一切遮断している。
ラジオは、北朝鮮の
一局の周波数に固定し、
外国語が書かれた包装紙や
ビニール袋でさえ
完全にシャットアウトされる。

この独裁者と
人民の際立った落差が、
異常な独裁国家の特徴だ。

◉ 世界一の美食家

金正日は、日本からも
専属料理人をスカウトしていた。
それが藤本健二氏である。
藤本氏は、金正日を
「世界一の美食家」だと
評している。
北朝鮮人民は
薄いトウモロコシ粥さえ
満足に食べられず、
草や木の皮などで
命を繋いでいる時に、
金正日の普段の食卓には
20~30種類の料理が
並んでいたという。

藤本氏によれば、
金正日はフカヒレ料理が好きで、
「フカヒレとアワビのスープ」、
「フカヒレの姿煮」、
「フカヒレと湯葉のスープ」を、
三夜連続で
食べたこともあったという。

刺身は、日本式の
生け作りが好きでワサビを添えた。
ウナギ、大ハマグリ、松茸ご飯、
アジ・サバの干物(大根おろし添え)も
好んだという。
また、グルメの範疇ではないが、
ラクダの肉やカメの卵、
オットセイの腎臓、
山猿の骨髄、
タンザニアのライオン油などの
精力剤も服用していた。

舌の肥えた金正日のために、
藤本氏は、日本はもとより、
中国やタイ、マレーシア、
チェコスロバキア(当時)、
デンマーク、イラン、
ウズベキスタンなどにまで
食材の買い付けに出掛けたという。

金正日の国内産食材は、
主席専用の農場・工場で生産され、
農場の勤務員は
食物を汚さないように
出勤前に入浴し、
少しでも体に異常があれば
農場には入れられなかった。
米、トウガラシ、魚介類、
メンタイ、リンゴ・ナシ、
酒類などは、供給地が決められていた。

◉ 酒豪

金正日が酒豪だというのは
有名な話だ。
特にヘネシーXOが好きだった。
また、レミーマルタンを
年間千本以上も
パーティーに使った時期もあった。
地下倉には世界の銘酒を
1万本以上も保管しており、
有名な銘柄の日本酒も
すべて取り揃えていたという。

金正日は、
自分は水を飲んで誤魔化し、
部下にはウイスキーなど
強い酒の一気飲みを勧め、
酔っぱらわせて
本音を吐かせようとした、
とも伝えられる。
晩年は、医者の勧めで
節酒に努め、
赤ワインを少々たしなむ程度だった。

◉ ヘビースモーカー

金正日は、ヘビースモーカーで、
国産の白頭山も吸ったが、
英国産のロマンズ
(1999年にブリティッシュ・
アメリカン・タバコに統合)が好きで、
常にタバコを
くわえていた。
年上の人達や
子供と接見するときも
タバコを吸いながら臨んだ。
晩年は、禁煙を試みたようだ。

◉ サボリーー「業務に精励」の偽情報

金正日は、特閣に閉じこもって
遊んでいても、
国内の放送、マスメディアは、
「金正日同志が昼夜を分かたず
業務に精励している」と、
国民に対して
偽りの宣伝を継続させた。
「一将功成りて、万骨枯る」と
言うことわざがあるが、
この言葉は金正日政権に
ピッタリ当てはまるのではなかろうか。

写真は頂いたアネモネ



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