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新刊書のヒット率が落ちてきている

新刊書のヒット率が落ちてきている

 30冊借りても3冊しかターゲットがない。それもどうにかこうにか理由を付けて。何が変わったのか。TRCとの相性なのか、私の中の選択基準なのか。ともに変わってきてます。

チビが来てると 家の中の雰囲気が変わる

 やりたい放題にしている。女の子なら一緒にあそべるのに。

本は高すぎる

 平気で 二千円以上する。図書館という制度が人類にあって良かった。なければ、本は触れない。この制度なぜ、もっと 拡大しないのか。それよりもなぜ、利用しないのか。

なぜ本を書くのか

 これに答えられる人間は少ない。7時台のテレビのようなノウハウは必要ないし、9時台のドラマのようなものも、小説としては必要ない。地上波には人類にとって必要なものはほとんどなくなっている。

 本は読むものではなくて、書くもの。

 図書館のデジタル環境をバックボーンとして個人が自分の図書館を作り出す。そしてそれらをつなげていく。それが本を書くコツの実態なっていく。

ここを出発点としては何もなされない

 出発点を変えないといけない。存在の力を信じれるようにしていく。

6.4.2「図書館の可能性」

 ドメインを 本を買うことではなく使うことその意味をはっきりさせる ことに集中させる

 そうなると本をばらすことが必要になってくる。作者の思いの一塊 にしばられることはない。使い方、つまり読み方から考える。 そうなるとデジタル化は避けられない。それと著作権も。

本を読むための場所としてのスタバ

 サードプレイスとして機能させる。ビジネスの場と同様にして、本当に本が読めるためにはコミュニティの場に昇華させていく。
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OCR化した3冊

『難民支援』

 成熟した市民社会を目指して

 イスラム教はドイツの一部か

 学校におけるイスラム教への対応

 スイスにおける「握手拒否論争」

 「握手拒否論争」、ベルリンにも飛び火

 「ヒジャブ着用禁止論争」

 「ヒジャブ着用禁止」に対する判決

 大学におけるヒジャブ論争

 「ブルカ着用禁止」に向けたせめぎ合い

 「歓迎の文化」は存続できるのか

 「歓迎の文化」(2015年~2016年)

 ストレステストを受ける「歓迎の文化」(2017年~2018年)

 「ヨーロッパの鼓動」

 草の根的難民支援の果たす役割

 マイノリティ間の協働、そしてマジョリティーマイノリティ間の協働

 映画『はじめてのおもてなし』

『果糖中毒』

 果糖中毒の解毒剤 「1日15分の運動」

  運動は「自分にしてあげられる最高のプレゼント」

   「食べた以上に動けばやせる」はウソ

   なぜアスリートはすぐ体重を戻せるのか9

   エネルギーを燃やす3つの方法

    REE--寝ているあいだに燃やす
    TEF--エネルギーを取り出すために燃やす
    身体活動--運動してもカロリーは大して燃えない

   1日たった15分の運動が寿命を3年延ばす

   運動をすると健康にいい3つの理由

    多くのエネルギーを燃やす
    ストレスを減らし、血圧を下げる
    肝臓脂肪に回されるエネルギー量が減る

   有酸素と筋トレに効果の差はあるか?

   やきもきするのはやめて、すぐ汗をかこう!

   運動とダイエットは「同時に」する

   運動の「利益率」は6万4000%

『未来をはじめる』

 未来への意志

  変わりゆく世界と〈私〉

  働くこと、生きること

  人と一緒にいることの意味

  選挙について考えてみよう

 ハンナ・アーレントのメッセージ

  「思考しないことが凡庸な悪を生む」

  「世界に住むのは一人ではなく、複数の人間である」

  「人々が自由であるのは、人々が活動している限りである」

  「人間が生まれてきたのは始めるためである」
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ハンナ・アーレントのメッセージ

『未来をはじめる』より

ハンナ・アーレント(一九〇六-一九七五)という二〇世紀の政治思想家です。最近、映画にもなったので、名前を聞いた人もいるかもしれません。『人間の条件』(ちくま学芸文庫)や『全体主義の起原』(みすず書房)といった著作を残しています。ユダヤ人である彼女は、ナチス・ドイツに追われてアメリカに亡命しました。結果として、彼女は全体主義を経験した二〇世紀という時代にあって、人間の生きる意味や政治の意義について考えました。アーレントの言葉には、とても印象深いものがたくさんあるので、そのうちのいくつかを紹介しますね。

1.「思考しないことが凡庸な悪を生む」

 アーレントの著書に『イェルサレムのアイヒマン--悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)という本があります。ナチス・ドイツでュダヤ人を大量虐殺したアドルフ・アイヒマンという人物の裁判記録です。逃亡したアイヒマンは南米アルゼンチンで捕まり、イスラエルで裁判が行われたのですが、アーレントはこの裁判をずっと傍聴しました。

 あのナチスで何百万人を殺した責任者です。どのような凶悪な人物だろうかと思いますよね。ところが、裁判でアイヒマンは、「いえ、私は上の人に指示されてやっただけです」「忠実に職務を実行しただけです」と繰り返すばかりでした。

 アーレントは考えます。世の中には巨大な悪がある。それを行うのは悪魔のような人物にちがいないと思いがちだけれど、実は違うのかもしれない。多くの場合、悪を実行する人間は、このアイヒマンのようにごくごく平凡な人だ。このような凡庸な人が思考を放棄したとき巨大な悪が生まれる。アイヒマンは感覚が麻痺した結果、自分のサインで多くの人が殺されることに何も感じなくなってしまった。そのために彼は、来る日も来る日も何も考えず、ただ書類にサインをしていった。その結果、何百万人ものュダヤ人が殺されたのだ、と。

 少しでも想像すれば、自分が何をしているのかわかったはずです。ところが、人はしばしば思考停止の状態に陥ります。凡庸な人が何も考えなくなるとき、巨大な悪を生み出すのです。これが二〇世紀の人類の経験でした。世の中には巨悪と言えるような人もいるかもしれないけれど、多くの場合、ごく普通の人が、どこか感覚が麻痺して思考停止に陥った結果、悪を生むのに加担してしまうのです。僕らだって思考をしなければ、何らかの悪に加担してしまう可能性だってあります。

2.「世界に住むのは一人ではなく、複数の人間である」

 次の言葉です。「世界に住んでいるのは一人の人間ではなく、複数の人間である」。政治とは何かを問われたアーレントは、そう答えました。人間は一人で生きているわけではない。世界はつねに複数の人間によって構成されているのです。

 複数のΛがいれば、意見が違うのは当たり前です。感覚が違う人、考え方が違う人、そもそも話の通じない人、世の中にはたくさんいますよね。逆にみんなが同じになっては、世界は死滅してしまいます。複数の、互いに異なる人間がいるからこそ世界があり、そこに政治が生まれるのです。世界に存在する多様な人間のあり方を否定するのは暴力です。複数の人が一緒に生きていこうとするのが政治であり、それが脅かされることで大量虐殺を繰り返したのが二〇世紀でした。

3.「人々が自由であるのは、人々が活動している限りである」

 みなさんは、自由というと、制約や拘束がなく、自分で好きなことができることだと思っているかもしれません。でも、アーレントに言わせれば、それは違います。彼女のキーワードは「活動」でした。活動とは、他の人と言葉を交わし、共に何かをすることです。もしそのような活動がなければ、あなたはいつまでも一人のままです。一人で孤立することが自由ではありません。むしろ他の人に声をかけ、共に何かをするとき、むしろ人は自由を感じるのです。独特な定義ですね。

4.「人間が生まれてきたのは始めるためである」

 僕が最も素敵だと思うのが、この言葉です。

 人間は何のために生まれてきたのか。この問いに対し、アーレントは「人間が生まれてきたのは始めるためである」と答えた。何かを始めること、プラグマティズムではありませんが、最初はささやかなことかもしれません。でも誰かと何かを始めなければ、世の中は変わっていきません。何かを始めて最終的に素晴らしい成果が生まれるかもしれないし、生まれないかもしれない。でもとにかく「始める」ために人間は生まれてきたとアーレントは言います。すてきな言葉ですよね。

 ハンナ・アーレントが生涯テーマにしていたのは政治でした。人間が自由になるためには、他の人と共に活動し、世界をつくっていくことが重要です。人間は何かを始めるために、生まれてきたのです。これからもみなさんが仲間と共に、新たな世界をつくっていくことに期待しています。

 これがこの講義の最後のメッセージです。どうもありがとうございました。
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未来への意志

『未来をはじめる』より

ちなみにフランスを代表する知識人の一人にジャック・アタリという人がいます。この人が最近書いた本で次のように言っています。

 今後、人類が自滅することなく一〇〇年後も文明が存続し、未来の歴史家たちが今日の人類の暮らしぶりに興味を抱くと仮定しよう。そのとき未来の歴史家たちは、二〇一七年の人類が「大破局」を予見したのに、これを阻止するための地球規模の革命を起こさなかったのはなぜか、と疑問を抱くに違いない(ジャック・アタリ『2030年ジャック・アタリの未来予測--不確実な世の中をサバイブせよ!』林昌宏訳、プレジデント社、二〇二七年、一〇頁)。

どきっとする発言ですね。彼は二〇一七年を「大破局」を前にした年であると言っているのです。アタリは本の中でいろいろな問題を指摘しています。高齢化する世界人口、移民問題、地球環境の悪化、気候変動、加速する富の偏在、貧困化する先進国の中産階級、脆弱な国際金融システム、失われる報道の自由、民主主義の後退、保護主義の拡がり、社会や家族の崩壊、カルトと原理主義者の台頭、地政学的戦略の混乱と暴力の再燃、などです。当然、二〇一六年のブレグジットやトランプ大統領当選といったことも、彼の念頭にはあったはずです。

 しかし、逆に言えば、アタリはこれらの問題を前に、人類にはまだまだやるべきことがたくさんあると言っているのです。人々はなぜ「大破局」を目前にして立ち上がらないのか。彼の歯ぎしりするような思いが伝わってくる文章だとは思いませんか。

 それでも、僕はこの講義でみなさんに、「日本や世界にはこれだけの問題がある、大変だ」と言いたいわけではありません。問題があることはみなさんも当然ご存知でしょう。いたずらに悲観的になるより、大切なのはそのような問題にどう取り組んでいくかです。みなさんが勇気を持って未来に進んでいくために、少しでも役に立てればと思い、僕はこの講義をしてきました。

 やはりフランスの哲学者によるものですが、「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」という言葉があります(アラン『幸福論』)。未来について悲観的なことはいくらでも言えます。ひょっとしたら悲観的なことを言う方が知的であるように見えるかもしれません。しかし、彼によれば、悲観主義は単なる気分なのです。きちんと問題を見据えた上で未来に向かって進んでいくためには、むしろ確固とした意志が必要です。

 みなさんが強い意志を持って未来に向かって進んでいくにあたって、まずぶつかるのは政治の問題でしょう。それはなぜなのか。そもそも政治とは何なのか。そしてどのように問題を乗り越えていくべきなのか。これらの問いをもう一度考えるために、これまでの講義の内容をここで簡単に振り返っておきたいと思います。

変わりゆく世界と〈私〉

 第1講のタイトルは「変わりゆく世界と〈私〉」でした。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の話をしたのを覚えていますか。

 この映画の中で、主人公たちは一九八五年から三〇年前の世界へと逆戻りし、その後さらに三〇年後の世界へと向かいます。一九八五年の時点で過去を振り返り、未来を予測した映画と言えます。この当時、三〇年後の世界では日本が世界を支配しているとまじめに思われていました。それくらい、この時期の日本企業には勢いがあるように見えていたのです。しかし、実際に三〇年がたってみてどうだったでしょうか。それとはまったく違った世界に、いま僕らは住んでいます。要は、未来予測は外れるということです。だからこそ、みなさんもあまり短期的な視野に立ってものを考えないでほしいという話をしました。

 一方で考えてほしいのは、世界は僕らが白覚している以上に変わっているということです。たとえば、いま世界の人口は約七三億人、その半分以上はアジアが占めています。ここ二世紀ほどの間は、いねばヨーロッパやアメリカを中心とする時代でした。それと比べると、人口の点でも経済力の点でも、いまや世界の重心は非欧米地域、とくにアジアヘと移動しています。日本、中国、韓国などの東アジアだけでなく、中東まで含めた広い意味でのアジアが、世界を主導していく時代に入ったのです。世界で最も高いタワーも、最も広い工場も、最高級のホテルも、全部アジアにあります。

 ただし、このように人口においても経済力においても世界の重心がアジアヘとシフトしているなかで、日本では歴史に前例のないスピードで少子高齢化が進んでいます(そして多くのァジァ諸国がそれに続くと予相宮れています)。

 僕は今日ここに来る前、大学のゼミ合宿をしていました。湖のほとりの大きなホテルでしたが、中はガラーンとしていてさびしい雰囲気でした。季節が悪かったのかもしれませんが、僕らが子どもの頃、行楽地はいつもファミリー層でいっぱいでした。子どもたちが走り回って、お父さんがヒイヒイ追いかけているような光景が、日本のどこでも見られました。

 ところがいまや、東京からほど近いこの町ですら、九月となると閑散としているのです。夜、歩いていても聞こえてくるのは外国語ばかりです。日本語はほとんどと言っていいほど聞こえてきません。中国語や韓国語はもちろんですが、それ以外にも実に多様な言葉が聞こえてきました。こういった海外からの観光客によって、日本の多くの行楽地は何とか持ちこたえているのが現状でしょう。その光景は、まさにいまの日本を象徴しているようでした。

 これだけ世界が変われば、矛盾も起こります。たとえば、いま、世界の富の半分は上位わずか一パーセントの人が独占している状況にあります。その一方、約一〇パーセントの人が貧困に喘いでいます。それこそトランプ大統領支持の先進国の白人労働者ではありませんが、世界のあちこちで「こんな世の中はおかしい!」と怒っている人がいるとしても不思議ではありません。

 ただし、その一方で、中国やインドをはじめとした国々を中心に、いわゆる中間層の人が増えているのも事実です。世界全体で貧富の格差が生じているのも間違いないのですが、中間層の成長もまた現代世界の一側面なのです。その意味では、かつてのような先進国と発展途上国の距離は縮まりつつあります。

 グローバル化は一部の人を極端なお金持ちにする一方、先進国の労働者階級を中心に、多くの没落する人々を生み出します。そういったきしみを受けて、先進国内部の民主主義が苦悶しています。そのような苦悶の中からブレグジットが生じたり、トランプ大統領のような人が出てきたりしているのです。これはある意味で、やむをえない事態と言えるで

 とはいえ、重要なのは、だからといって世界がめちゃくちゃになっているわけではないということです。世界全体として見れば、平均寿命が伸び、豊かな生活を送る人の数が増えているのです。様々な深刻な矛盾を抱えているものの、世界は前に向かって進んでいると思います。

 そうした時代に生きる人々にとって気になるのは、世界の中での〈私〉ではないでしょうか。一人ひとりの個人が、自分をかけがえのない存在として認めてほしいと願っています。自分の声を聞いてほしいと思っています。しかしながら、多くの人の実感は、「自分の存在なんて、誰にも認められていない」ではないでしょうか。「私の声は、どこにも届いていない」、そう思っている人が少なくないはずです。

 そのような人々の思いが、いまや巨大な政治変動を生み出しています。「自分たちのことなど、ワシントンの連中はどうせわかってくれない」「ニューヨークの金持ちは、自分かちのことを無視している」という不満こそが、トランプ大統領を生み出しました。まさに「〈私〉の声はどこへ行くのか」、この問題こそが世界を揺さぶっているのです。

人と一緒にいることの意味

 第3講では、とても本質的な政治の話をしたつもりです。教室内カーストの話が出ましたね。人間はやはり一人では生きていけない。友だちや仲間がほしいけれど、人と一緒にいれば、それはそれでしんどいこともある。

 時代のキーワードは「つながり」と「接続性」です。いまや世界はネットでもつながっているし、僕の訪ねた湖の町には、サミットでもやるのかというほど国際色豊かな人たちが集まっていました。日本は世界と否応なく接続しているのです。一方で、中国は「一帯一路」という政策を推進しています。いわば世界の陸路と海路を開発し、巨大な物流のネットワークを中国主導で構築しようとしているのです。もはやこの構想に対して日本が無関係でいることは不可能でしょう。すでに日本の地方都市の中には、この構想に組み込まれているところがあります。

 なるほど確かに人も、情報も、物流もつながっている。巨大なネットワーク社会の中に、僕たちは生きているのです。でも、つねに人や情報につながっていることは、同時に多くのストレスをもたらしますよね。僕もツイッターやフェイスブックをやっていますが、何かを書き込むたびに、その反応が気になります。「誰か『いいね』を押してくれるかな」と、そればかりが気になってしまう。朝起きると「わあ、三つ『いいね』がついている。世界の人は僕を無視していなかった!」と思ってしまう。

 でも、それって何だかおかしいですよね。何も僕らは「いいね」を押してもらうために生きているわけではありません。それなのに、何だか「いいね」を押してもらうために行動するようになってしまうのです。二四時間、人の反応を気にしながら生きるのは、とても疲れることです。それなのに、僕らは少しでもインターネットに接続できないと、とても不安な気持ちになってしまいます。「つながる」ことは素晴らしいことだけれど、どこかそこには中毒的なものがあるのでしょう。

 「つながる」こと、「接続」することと同じくらいに大事なのは、あえて「切断」することなのかもしれません。常時ネットに接続することで、ぼくらは絶えず情報の流れにさらされています。そのことによって得るものが多い一方で、神経が高ぶったり、疲れてしまったり、感情が不安定になることもあります。時にはあえて、そのような情報の洪水から自分を「切断」し、一人きりになってものを考える時間も必要なのでしょう。ネットをオンにする瞬間とオフにする瞬間をどう使い分けるか、そのための知恵が重要になってきていると思います。

 ちなみに、友だちはほしいし、つながりは持っていたいけれど、つねにつながっているのもしんどい。「弱いつながり」という話を紹介したとき、反応してくれた人が多かったのも、そのせいかもしれませんね。家族や親戚、学校や職場の仲間、隣近所の人とのつながりは強く、簡単には切れません。とはいえ、いつも会っているということは、同じような情報を共有して生きていることでもあります。これに対し、視点の違う有益な情報をもたらしてくれるのは、むしろときどきしか会わない「弱いつながり」の知り合いなのかもしれません。あえていつも一緒にいる人ではなく、違う人と会ってみるのも、生きていく上での知恵なのでしょう。

 そこからさらに、政治思想史の話へと展開していきました。よく政治で民意と言われるけれど、本当に社会の一つの共通の意志なんてあるのでしょうか。この問題を考えた思想家としてルソーを、そして彼の問いを引き受けた思想家としてカントとヘーゲルについて考えました。

 肝心なのは、一人ひとりが自分らしくあることです。どうしたら、自分のことは自分で決められる一方で、他の人だちと共に暮らしていけるか。このことを正面から考えたのがルソーでした。ルソーは偉い人のように思われているかもしれないけれど、一緒にいたら、きっと面倒くさい人だったに違いありません。魅力のある、才能のある人ではあるけれど、人一倍傷つきやすく、いったん人を疑い出すとそれが止まらなくなる。思ったことをすぐ口に出し、文字にもしてしまう。現代であれば、ひっきりなしにツイッターに投稿して、しょっちゅう炎上しているタイプの人かもしれません。

 誰よりも自分であることにこだわりつつ、それでも他の人との一〇〇パーセントのコミュニケーションを求めたのがルソーです。こういう思いは、わがままなのか、いやここにこそ政治の考える、べき最重要のポイントがあるのではないか。そう思ったルソーが一生懸命に考え、書いたのが『社会契約論』という本でした。

 ルソーはけっしてわがままだったのではありません。その問いは普遍的なものでした。自分が自分らしくありながら、他人とつながるにはどうしたらいいか。自分が自分のボスでありながら、同時に周りの人とも意味のある関係を保っていくにはどうしたらいいのか。これこそ、すべての人にとって重要な課題であると同時に、政治が本質的に抱える課題なのです。その後、カントやヘーゲルがそれぞれにこの問いを深めていきました。そして、最終的な答えはまだ見つかっていません。問いはそのまま、僕らに残されているのです。
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