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将来的に重要になる水域にくすぶる火種

『海の歴史』より ジャック・アタリ 将来:海の地政学

将来的に重要になる水域にくすぶる火種

 それらの小競り合いからは、次にどこで紛争が起きるのかがわかる。紛争は一般的に陸地で発生するものであっても、ライバル国同士の紛争はこれまでと同様に海上で起きるはずだ。海上封鎖する、船舶の接岸を妨害する、敵の貿易航路を支配する、敵の海底ケーブルを破壊する、さらには、希少な海底資源を収奪することなどが考えられか。それらの紛争が敵の潜水艦によるミサイル攻撃にいたることさえ起こりうる。

 支配国あるいは支配国になろうとする国が太平洋周辺に位置することは間違いない。アメリカと中国を筆頭に、それらの国は太平洋の主要水域の支配を試みる。とくに、一次産品の輸入経路を確実にし、自分たちの商品の輸出ネットワークを支配しようとするはずだ。

 こうした国は大型船の航路でも衝突するだろう。衝突が起きれば国の貿易は制約を受ける。紛争は一次産品が大量にある水域や、敷設されている海底ケーブルの重要なポイントなどでも起きるかもしれない。

 そして犯罪組織やテロ集団などの非合法な国際組織が、それらの国の権力の中枢を攻撃するために前述の水域で暴れ回る恐れもある。

 次に、紛争が起きる水域を発生確率が高い順に列記する。

 --南シナ海(面積は三五〇万平方キロメートル)。ベトナム東部から中国南部、そしてフィリピン西部からインドネシア北部の水域である。中国の対外貿易の九〇%、世界の船舶の三〇%、海上輸送される石油の半分以上がこの水域を往来する。南シナ海の船舶交通量は、スエズ運河の三倍、パナマ運河の五倍である。また、南シナ海での漁獲量は世界全体の八%に相当する。南シナ海の諸島(南沙諸島、西沙諸島、東沙諸島)の沖合の海底には、莫大な一次産品と石油が眠っている。とくに、中国とフィリピンはこれらの島の領有権をめぐって極度に緊張した状態にあか。

 --東シナ海(面積は一三〇万平方キロメートル)。中国、日本、韓国、台湾の間に位置する水域である。東シナ海も戦略水域であり、世界の五大港が位置する。中国の四つの港(寧波、上海、広州、天津)と韓国の一つの港(釜山)である。世界貿易量のおよそ二〇%がこの水域を往来する。東シナ海にある五つの小島と三つの岩山からなる尖閣諸島/釣魚群島は、領有権問題で緊迫した状態にあか。そして北朝鮮が世界規模の核戦争を開始すると倒喝し続けている。

 --インド洋。インドのみならず中国のほとんどの貿易船がこの水域を往来する。インド洋も戦略水域であり、紛争が勃発する恐れが充分にある。そのリスクを痛感する中国は、インド洋に自国船舶のための貿易拠点を多数設けた〔前述の「一帯一路」構想〕。

 --紅海。この水域の重要性は変わらない。毎年、二万隻の船がアジアの工業製品を紅海経由でヨーロッパまで輸送している。この貿易量は世界全体の二〇%に相当する。アメリカとフランスは、スエズ運河からジブチまでの紅海水域に艦隊を常時配備している。

 --ペルシア湾。イラクからイラン、そしてカタールをはじめとするアラブ諸国に囲まれ、スンニ派とシーア派の勢力が交錯し、衝突する水域である。ベルシア湾岸周辺には世界の石油埋蔵量の六〇%があり、世界の石油生産量の三〇%は、ペルシア湾岸から輸出される。

 --地中海。この水域も今後も戦略的に重要だ。地中海の周囲には、一一のヨーロッパ諸国、五つのアフリカ諸国、五つのアジア諸国があり、四億二五〇〇万人以上の人々が暮らしている。地中海は、陸地に囲まれた最も大きい海であり、外の水域との接点はニカ所(スエズ運河とジブラルタル海峡)しかない。年同一三万隻の船舶がこの水域を航行している。世界貿易量の三〇%に相当するそれらの船舶のうち、二〇%がタンカー、三〇%が商船だ。フランスの天然ガス輸入量の四分の三は地中海経由である。地中海にはガス田がある。とくに、ギリシア、キプロス、イスラエル、トルコ、レバノンなどの沖合だ。地中海沿岸は世界一の観光地であり、危機が発生しなければ二〇三〇年には五億人以上の観光客が訪れるだろう。

 現在、地中海を隔てて、裕福な側の人口〔ヨーロッパ〕はおよそ五億人、貧しい側の人口〔アフリカなど〕はおよそ一〇億人(まもなく二〇億人)だ。二〇一六年、三六万人以上の移民が、リビアとチュニジアからイタリア、そしてトルコからギリシアとブルガリアを目指して地中海を横断した。移民を乗せる船は大型化しており、一隻で九〇〇人の移民を輸送できる。まもなく数千人の移民を輸送する船も登場するだろう。イタリア、スペイン、ギリシア、フランスの海岸に向けて、「人質を乗せた特攻船」が現れることも懸念される。したがって今日、フランス、アメリカ、ロシア(少なくとも二〇四二年まではタルトゥス〔シリア〕の港に補給基地をもつ)などの艦隊が警備を強化している。

 --大西洋。長年にわたって紛争の絶えなかった水域だが、今日では大きな争点ではなくなった。アメリカ海軍の視界には入ってさえいないのかもしれない。唯一まだ監視されているのは大西洋南部である。なぜなら、この水域はラテンアメリカとアフリカを結ぶ麻薬貿易ルートであり、また、ギュア湾に豊富な埋蔵量の油田と莫大な漁業資源があるからだ。

紛争が勃発する恐れのある海峡

 これらの海をつなぐ海峡もきわめて戦略的な水域だ。海峡は紛争の源であり、戦いの要衝になる。

 --マラッカ海峡。毎年六万五〇〇〇隻の船舶がインドネシアのスマトラ島とマレー半島を隔てるこの海峡を通過する。これは世界の海運量のおよそ二〇%近く、石油海上輸送の半分、中国のエネルギー資源の八○%に相当すか。マラッカ海峡が狭小なのは数千年来のことであり、この水域は海賊やテロリストの格好の標的である。彼らが了フッカ海峡に三隻の船を沈めるだけで、この海峡は通航不能になる。そうなれば世界経済は立ち往生する。

 --ホルムズ海峡。この海峡は、幅が六三キロメートルで、オマーン湾に面し、イランとアラブ首長国連邦の間に位置する。毎年、二四〇〇隻のタンカーがこの海峡を通過する。世界の石油貿易量の三〇%に相当する一日当たり一七〇〇万バレルの石油を積んだタンカーが通航する。この海峡にも先ほど述べたマラッカ海峡と同じリスクが宿る。

 --バブ・エル・マンデブ海峡(アラビア語で「涙の門」という意味)。紅海からアデン湾、つまり、インド洋に抜けるすべての船舶は、イエメンとジブチを隔てるこの海峡を通過する。この海峡も前述の二つの海峡と同じリスクを抱える。

 --モザンビーク海峡。モザンビークとマダガスカルの間にあり、コモロ諸島が浮かぶこの海峡を通過する船舶の数は非常に多い。海底には大量の石油が眠る。とくにフランス領マョットの沖合である。前述の三つの海峡と同じリスクが存在する。

 --海峡に関連して指摘しておきたいのは、二〇一八年より、紅海と死海を結ぶ二八〇キロメートルにおよぶ運河造成計画が着手されることだ。死海の水面は毎年一メートルのペースで低下しているが、この計画により、死海はよみがえるかもしれない。死海の岸辺には、人類が最初に村をつくったエリコがある。この計画がきっかけになってイスラエルとパレスチナの問題に建設的な解決策が見つかるかもしれない。
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カルタゴ人、ギリシア人、ペルシア人は、地中海をめぐっていがみ合う

『海の歴史』より ジャック・アタリ 人類は海へと旅立つ(六万年前から紀元前一年) カルタゴ人、ギリシア人、ペルシア人は、地中海をめぐっていがみ合う

同時期、地中海の西部と東部にカルタゴという新たな勢力が現れた。地中海の支配をめぐり、カルタゴはペルシアとギリシアといがみ合った。

ティルスを離れたフエニキア人が紀元前八一○年ごろにつくった港町カルタゴは、現在のチュニス沿岸部という戦略的な場所に位置し、紀元前五〇〇年ごろに最盛期を迎えた。

カルタゴには大規模な船団があった。すぐに地中海随一になったカルタゴの船団は、沿岸航海によって軍隊を迅速に輸送できた。難破する恐れはほとんどなかった。こうしてカルタゴは、シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島を支配し、エジプト、エトルリア〔イタリア半島中部にあった都市国家群〕と交易した。

カルタゴは、チュニジアの小麦とワイン、カルタゴがアフリカのキャラバンを使って輸入した金と象牙、イベリア半島から取り寄せた銀と鉄、そしてフランスのブリュターニュ地方の錫を輸出した。カルタゴの探検家たちは、カナリア諸島やカーボベルデ〔ともに大西洋のアフリカ西沖合〕まで航海した。

カルタゴの台頭により、小アジアのギリシア都市国家とフェニキア人の港町は衰退期を迎えた。こうしてアケメネス朝ペルシアは、これらの沿岸都市を難なく支配下に収めた。たとえば、紀元前五一七年にヒュスタスペスの息子ダレイオス一世〔アケメネス朝ペルシアの第三代王〕は、バビロンにおいて権力を武力で奪取すると、地中海を支配しなければならなくなった。ダレイオス一世は、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡という二つの戦略拠点と、エーゲ海と黒海の海洋交通の要になるビュザンティオン(ギリシアの「新たな港」)〔現在のイスタンブールの旧市街地区〕を支配した。さらにダレイオスー世は、サモス島〔トルコ沿岸にあるギリシアの島〕とキプロス島を占領した。

紀元前五世紀になると、ギリシア人はペルシア人の攻撃を受けたために小アジアを離れ、ペロポネソス半島に重心を移した。ギリシア人は、主要都市をアテナイ、ピレウスを第一の港にした。独立した状態にあった、アテナイ、スパルタ、デルポイ、コリントスなどの都市国家の商船団と海軍には高性能の船が配備された。それらの帆付きの三段櫂船は、テミストクレス〔アテナイの政治家・軍人〕の采配により、ラブリオ鉱山〔ギリシアのアッテイカ地方南東部〕で発掘された銀を元手にして紀元前四八三年ごろに建造されたものであか。

こうしてアテナイはギリシア世界を手中に収めた。食糧を輸入することが死活問題のアテナイは、地中海東部における航行の安全を確保しなければならなかっか。アテナイは、トラキア〔バルカン半島南東部〕、シチリア島、エジプトから小麦を輸入するために、数百隻の三段擢船による艦隊を編成して自国の商船を警備した。

紀元前四八六年にダレイオス一世が死去すると、彼の息子であり、アケメネス朝ペルシアの創始者キュロス二世の孫であるクセルクセス一世は、エジプトを鎮圧した後、父ダレイオス一世の野望だったギリシア征服を試み句

クセルクセス一世は、アテナイおよびギリシアの都市同盟を攻撃し、まずは紀元前四八〇年四月一〇日のテルモピュライ〔ギリシア中東部〕の戦いで勝利を収めた。この戦いでは、スパルタ王のレオニダスー世が戦死した。アテナイはペルシア軍によって破壊されたため、アテナイの住民は疎開した。ペルシア軍はギリシアとの戦いに決着をつけるために、六〇〇隻の艦隊をペロポネソス半島沖に送り込み、海を包囲した。これに対し、ギリシアの都市同盟の艦隊は、三五〇隻しかなかった。紀元前四八〇年九月一一日、両軍はサラミス島付近〔アテネの沖合〕で激突した。テミストクレス率いるアテナイ軍は風向きに恵まれ、敵の艦隊を正面から攻撃した。ギリシア艦隊は規模では劣ったが、ペルシア艦隊は狭小な海峡では小回りが利かなかった。機動力と狭い水域での操縦性に優れるギリシアの三段擢船は、敵船の横腹を衝角で破壊した。ギリシアが勝利したのである。開戦前はギリシア軍の敗北が濃厚だったが、この戦い〔サラミスの海戦〕の勝利により、ギリシア世界は助かった。この海戦術は、後世に多大な影響をおよぼした。

この敗北を受け、クセルクセス一世はペロポネソス半島から撤退し、地中海東部の支配をアテナイに明け渡した。小アジアのギリシア都市国家は解放されたのである。

ペルシア軍による破壊の後に復興したアテナイは、地中海東部の巨大勢力になった。ギリシアのピレウスやカンタロスの港に拠点を構える交易商人は、商品購入や航海の資金をファイナンスする仕組みを発明した。難破した際には、借り手が加入する保険によって出資金は保証された。これは中国でリスク分散化の仕組みが開発されてから数世紀後のことである。

ギリシア人の海洋に関する知識は急増した。紀元前四世紀に地中海の島々で暮らしたアリストテレスは、後のアレクサンドロス大王の家庭教師になる以前の時期に、出航した船が水平線の彼方に徐々に消えるのを眺め、地球は丸いと結論づけた。アリストテレスは、地球一周をおよそ七万四〇〇〇キロメートルと推定した(実際の数値のほぼ二倍)。ギリシア人は、「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡)の向こう側〔大西洋〕には天空を支える巨人アトラースが暮らしていると信じていた。よって、彼らはその大海を大西洋〔アトラースの海〕と呼んだのである。

地中海では、紀元前六六七年にビュザンティオン、そして紀元前六〇〇年ごろにヴェネチアに港がつくられた。紀元前七五三年に誕生したローマは、当初はギリシア人とフェニキア人が支配していた。紀元前三三五年、ローマの港オスティアが建設された。

ギリシアは紀元前三三〇年に最盛期を迎えた。そのころ、インドに向けてほぼ陸路で遠征したマケドニアの征服者アレクサンドロスが死んだ。アレクサンドロスは海の重要性を無視したのではない。その証拠に、アレクサンドロスは死ぬ前年に、エジプトの地中海沿岸(アレクサンドリア)に堤防と大きな灯台〔アレクサンドリアの大灯台〕をもつ港を建設するように命じた。アレクサンドロスは、自己の遠征に航海を加えなかったことを悔いていたのかもしれない。

アレクサンドリアは、すぐに地中海東部最大の商港になった。紀元前三二三年以降、この地域をアレクサンドロスより受け継いだプトレマイオス朝の王たちは、この港町を自分たちの王朝の商業および知識の中心地にした。彼らはそこに巨大な図書館を建設し、停泊中の船内からすべての文書を押収した。文書の持ち主に原本は返却せず、コピーだけ渡した。アレクサンドリアでは、他のどの地域よりも科学が発展した。紀元前二八○年、アレクサンドリアではギリシア出身の天文学者「サモスのアリスタルコス」が、地球の属する系の中心は太陽だと説いた〔太陽中心説〕。ヒッパルコスが天体観測器の原理を発明したのもアレクサンドリアにおいてである。後にこの原理を改良したクラウディオス・プトレマイオスも、アレクサンドリアの高台から船が水平線の彼方に遠ざかるのを眺め、海が丸いことに関する科学的な証明を進展させた。
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中国が世界一の経済大国になる日は来るのか

『グローバリズム後の世界では何が起こるのか』より 大転換後の世界と民主主義の将来 中国が世界一の経済大国になる日は来るのか

米中の力関係の将来を予測するにあたっての、ポイントは2つです。

第一のポイントは、中国はアメリカを抜いて世界一の経済大国になれるのか、なるとしたらそれはいつなのかという問題です。

かつては二〇二〇年あたりという予測もありましたが、今これを信じる人はいないでしょう。

リーマンショツクの後になっても、中国研究者の間では、「保八」などという表現で八%成長という数字が、固く信じられていました。新規の労働市場参入者の若者に十分な職を与え、社会不安を惹起しないためには最低八%成長が必要であり、政権はあらゆる手段を使ってこれを達成するだろうなどという専門家のまことしやかな解説を、筆者も聞きました。

しかしこの解説は、その後の展開により覆されます。習主席が七%成長を「新常態」と呼んだことで、保八のスローガンは消えてなくなりました。そして、八%成長が達成できなければ社会不安が必然と言っていた識者は、口を閉ざしてしまいました。

最近は中国政府は、6・5%成長を目標に経済運営を行っています。世銀の統計によれば、二〇一七年時点で中国の名目GDPは、アメリカの63・1%相当ですので、中国経済がこのまま十二年間6・5%の成長を続け、アメリカの成長率が例えば2・5%にとどまり、為替レートが一定であれば、二〇三〇年に中国のGDPがアメリカを抜くという計算も成り立ちます。

しかし、そのような計算通りにいくのでしょうか。アメリカのGDPが直近で四%台の伸びを示していることを捨象しても、中国経済は今後も6・5%成長を続けられるのでしょうか。

それには三つの問題点があります。第一の問題点は、中国の場合、統計資料の信憑性の問題もあり、現在のトレンドがそのまま続くという類の未来予測が当たらないことがよくあるということです。それは、「保八」のケースで見たとおりです。

はからずも二〇一七年あたりから習主席は、「成長の量から質への転換」を掲げるようになり、これまでのように地方政府幹部の人事評価で成長率が重視されなくなったと報じられています。

すると、地方のGDP統計の水増しが、次々と明らかになってきました。遼寧省は二十%、内モンゴル自治区に至っては四十%水増ししていたという報道もあります。これから隠されていた水増しを是正するため、成長率は、さらに下がるのかもしれません。

第二と第三の疑問は、中国にとって、より本質的な課題を示しています。

第二の問題点は、開発経済でよく議論される「中所得国の罠」という概念です。

これは、多くの途上国が経済発展により一人当たりGDPが一万ドル程度の水準に達した後、成長率が鈍化し、なかなか高所得国の仲間入りをできない状況を指します。世銀の研究によると、戦後これまで中所得国の罠に陥ることなく高所得国になれたのは、シンガポール、香港といった都市型の小規模な経済を除けば、日本、韓国、台湾、スペイン、アイルランド等世界全体でも12か国しかありませが。

中国が中所得国の罠に陥らないためには、これまでの先進国から技術と資本を導入し、それによって作った製品を海外市場に輸出して稼ぐモデルから、卒業しなければなりません。産業の高付加価値化が不可欠です。

そのためには、過剰債務の解消、国営企業の改革、労働市場の改革に加え、教育、社会保障の充実、法の支配の徹底といった、社会全般の改革が必要になります。中国の場合、これらの広汎な課題を、社会主義に基づく市場経済の枠内で解決しなければなりません。

第三の問題点は、人口動態がこれから中国に不利に働くことです。

中国の生産年齢人口はすでに二〇一一年から減少期に入り、もはやこれまでの人口ボーナス効果は期待できません。二〇一六年には一人っ子政策を廃止し、その年の出生数は増加しましたが、二〇一七年には再び減少に転じています。

中所得国の罠を抜け出すのに成功した日本と韓国でも、その後成長率は年を追うに従って鈍化しました。成長率低下の理由は複合的ですが、生産年齢人口の減少が日本は一九九五年から、韓国は二〇一七年から始まったことが、大きな要因であることは明らかです。そして両国とも、10%レベルの高成長から、安定成長と言われる3~4%近辺に減速し、さらに日本の場合は、過去二十年以上1%近辺で停滞しています。

それにもかかわらず中国だけが今後も6%台の成長率を保ち続けることが可能だとしたら、日本、韓国にはない相当強力なプラスの要因が、中国経済にはあることになります。しかし中国の場合は、日本、韓国と違って、まだ中所得国の罠を抜け出ていないという、マイナス要因が加わることも考えると、そのような可能性には疑問符がつきます。

次に、将来の米中の力関係を予測するにあたり、重要な第二のポイントに移ります。それは、仮に中国経済がアメリカ経済に名目GDPで追いついたとしても、それが直ちに両国の国力が並んだことを意味するものではないということです。

ちなみに、すでに二〇一四年には、中国のGDPが購買力平価(PPP)換算で、アメリカを抜いて世界一になっています。当時、これをG2時代の到来を告げるものだなどと、はやし立てる識者もいました。しかし、それから四年たったところで、この統計上の出来事が、実際に米中の力関係のバランスを動かしたという主張は、寡聞にして知りません。

そもそもPPPとは、各国国内において同等の価値の商品を購入する場合、それに支払う金額が等価となるような為替レートです。各国の実質的生活水準を比較するのに適しており、開発途上国に対する経済援助の必要性を検討するときなど、参考になります。

人口がアメリカの4倍以上ある中国の、経済のサイズがPPP換算でアメリカに並んだということは、平均的中国人の実質的生活水準が、アメリカ人の四分の一になったことを意味するに過ぎません。それは国全体としての経済的パワーを表すものではありません。

国力を比較するのであれば、実際の取引に適用される名目のレートのGDPを参照すべきです。これは先ほど述べたように、最新の数字で、中国はアメリカの63・1%です。
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相変わらずのジャック・アタリ

チャーチルは嫌いですね

 NDC289.3で二冊の本が並んだ。『チャーチルは語る』と『ヒトラーの家』。共に独裁者。ドイツとヨーロッパの独裁者。戦後にギリシャに行ったチャーチルの仕打ち。

第二次世界大戦は聖戦ではない

 第二次世界大戦全史を聖戦と呼べる国はない。チャーチルとルーズベルトの陰謀と誤算。

 いつも気になる、フィンランドとソ連の冬戦争、イタリア軍のギリシャ侵入を抜き出した。

相変わらずのジャック・アタリ

 題名が薄くて読めない本『海の歴史』。取り敢えず借りてきた。登録する時に気付いた。著者がジャック・アタリだった。あの『21世紀の歴史』を書いた。

 ヨーロッパの人はギリシャ・ローマ時代が好きなんですね。嬉々として書いている。日本はヘンに凝り固まっている。

 カルタゴ人、ギリシア人、ペルシア人の地中海をめぐった争いの部分を抜き取った。今回はハンニバルには触れていなかった。ハンニバルとスキピオ、そして全てをかすめ取った大カトー。
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軍国スパルタ

『戦争と文明』より 軍国スパルタ

プラトンがそのユートピアを心に描いている頃、かれの霊感を刺激したものは、スパルタ都市国家のその頃の制度であった。このギリシアの共同体〔スパルタ〕は、プラトンの頃のギリシア世界の列強のなかで、最大のものであった。われわれがスパルタの体制の起こりを調べてみると、スパルタ人が、どうしても離れ業をなしとげなければならないし、それには、「独特の制度」で自らを装わなくてはならない必要があったことがわかる。というのは、その歴史的経過のずっと初期の段階で、スパルタ人は独特の転換をしたからである。スパルタ人は、その歴史のある地点で、ギリシア都市国家という共同体に共通する方向から挟をわかった。

紀元前八世紀にすべてのギリシア共同体に提出された共通の挑戦にたいして、スパルタ人は独特の応答をおこなった。それ以前からギリシアが社会的に発展していった結果、その頃、ギリシア半島およびアルキペラゴにあるギリシア社会の本土では、耕地面積の広さに比して、収穫が逓減しはじめていた。他方、ギリシアの人口は急激に増し不いた。八世紀のギリシア生活に共通するこの問題が、「正規に」どのように解決されたかといえば、海外の新しい地域を発見したり、征服したりして、全農地面積をもっと拡げてゆくということであった。海外膨張のこの一般的な動きの結果存在するにいたった、新しいギリシア都市国家の綺羅星のなかには、スパルタ起源を要求する一つの建設物、すなわちタレントゥムがあった。しかし、この要求は歴史的事実と合致しているとしても、タレントゥムの事例は類がない。タレソトゥムは、スパルタ植民地であるといえる唯一の、海外のギリシア都市であった。そして、このタレントゥムが指さす真理は、スパルタ人が、大体、八世紀のギリシアに共通な人口問題を、海外の植民という共通の方向にしたがってではなく、それ自身の独特の道で解決しようと試みた、ということである。

スパルタ人がエウロタスの谷の広い、肥沃な耕地でさえも増加する人口にとってあまりに狭すぎると気づいたとき、かれらは、カルキス人やコリソトス人やメガラ人のようには、海に眼をむけなかった。海は、スパルタの都市からも、スパルタ平野のどの地点からも、また平野をすぐ取りまいている高地からさえも見えはしない。スパルタの景観を制する自然の相貌は、タイゲトゥスの巍々たる山脈であり、この山脈は平野の西端から非常に嶮しくそそり立っているので、その面はほとんど垂直かとおもわれる。他方、その嶺線はまっすぐで、ずっとつづいているので、壁のような印象をうける。この壁のようなタイゲトゥスの光景をみていると、ランガーダの谷が眼をひく。それは、直角に山脈をたち切っている谷間であるが、ちょうど、山野をつくる巨人的な建築家が、ほかのところは一様に越えられそうにない障壁に、一つのはっきりした割れ目をとくに設計して、人びとに非常門を用意したようである。スパルタ人が、紀元前八世紀に人口の圧迫の危急を感じはじめたとき、かれらは丘に眼をあげて、ランガーダの谷を見つめ、山越えの路に助けをもとめた。それは、かれらの隣人たちが、同じように必要に駆られて、海路へとその助けをもとめたのと同様である。この最初の道のわかれにあたって、助けはスパルタ人にアミュクライの主アポロンと青銅の家の女神アテネからきた。第一次メッセニア=スパルタ戦争(紀元前七四三-七二四年)は、トラキアとシシリアの海岸にギリシアが最初に入植したのと同時代のことだが、この戦争が、勝利者スパルタ人の手にギリシア本土の広い征服地の所有をゆだねた。この征服した土地は、植民したカルキス人が海外のレオティニで、またはスパルタ人自身の移植者がタレントゥムでえた土地よりも広がった。しかし、スパルタの支配的精神は、スパルタを導き、スパルタがメッセニアの目標に達してからは、「足をさらわれる憂き目」にはあわなかったが、だからといって、「すべての禍から」スパルタを守りはしなかった。反対に、スパルタのその後の姿勢が超人間的に(むしろ非人間的に)こわばったのは、ロトの妻の神話的な運命と同じように、あきらかに呪いであって祝福ではなかった。

スパルタ人特有の悩みは、第一次メッセニア=スパルタ戦争がスパルタの勝利に終わるとすぐはじまった。というのは、戦争でメッセニア人を征服することは、平和的にかれらを抑えつけるのよりも、スパルタ人にはより容易な仕事であったからである。征服されたこれらのメッセニア人は、トラキア人やシケル人のような蛮族ではなく、スパルタ人自身と同じ文化をもち、同じ心情をもったギリシア人であった。戦争ではスパルタ人と対等であったし、数でおそらくまさっていた。第一次メッセニア=スパルタ戦争(紀元前七四三-七二四年)は、第二次(紀元前六八五-六六八年)にくらべれば、児戯に等しいものであった。この第二次の戦争では、隷属民であるメッセニア人は、逆境によって錬られ、そのうえ、ほかのどのギリシア人たちも自分にふりかかって来るのをがえんじなかった運命に屈服したということに、恥辱と激怒を感じたため、支配者のスパルタ人にたいして、武器をもって立ちあがり、この二度目の発作では、自由を維持するために戦ったはじめの発作よりも、もっとはげしく、もっとながく、自由を回復しようと戦った。このメッセニア人の遅まきの英雄主義は、結局、二度目のスパルタの勝利をさけることにならなかった。そして、先例のないほどの頑強な、力を出し切ったこの戦争の後に、勝利者は被征服者を先例のない厳しさであつかった。しかし、長い目でみるならば、メッセニアの反逆者らは、ハンニバルがローマに復讐しえたという意味で、スパルタにたいする復讐を完うした。第二次メッセニア=スパルタ戦争は、スパルタの生活の全リズムを変え、スパルタの歴史の全行程を偏らせた。勝ちのこったものの胸に剛直がぱいりこんでくるような戦争の一つか、これであった。この戦争は非常に恐ろしい経験であったので、それは、スパルタの生活を悲惨と剛直にしっかり縛りつけたままにし、スパルタの進化を袋小路へ「おいこんだ」。そして、スパルタ人は、経験してきたことを忘れることができなかったので、ゆるめることができず、したがって、戦争以降の反動の行きづまりから抜けだすことができなかった。

スパルタ人とメッセニアにおける人間的環境との関係は、イヌイッ卜と極北圏の自然環境との関係と同一の皮肉な有為転変を経過した。いずれの場合も、われわれが目にするのは、一つの共同体が、その隣人たちの尻込みしている環境に勇敢にも掴みかかり、このひどく手に負えない企てから格別に沢山の報酬をせしめようとした光景である。はじめの段階では、大胆不敵なこの行為は、結果からみてうなずけるようにおもわれる。イヌイッ卜は、かれらの従弟であるより臆病なアメリカ先住民が、北米の大草原で見出しだのよりも、よりよい猟場を極北の氷上に見いだした。また、スパルタ人は、同時代のカルキスの移植民が、海を越えて蛮族から得ることができたよりも、もっと豊かな土地を、山を越えてかれらの仲間のギリシア人から得た。しかし、次の段階では、大胆不敵な元の(取り消せない)行為が、その避けがたい罰をさそい出した。征服された環境が大胆不敵な征服者を今度は虜にした。イヌイットは極北の気候の囚人となり、その生活を気候の正確な指図にしたがって、ごく些細な細部にいたるまで、律しなくてはならなかった。スパルタ人は、うまい汁を吸おうとして第一次の戦争でメッセニアを征服したのに、第二次の戦争からずっと、メッセニアをささえもつ仕事が精一杯という破目におちいった。かれらは、この時以来ずっとメッセニアを自分で支配するということに従順な、謙虚な従者になりおわった。

スパルタ人は、既存の制度が新しい必要に応じられるよう、適応の離れ業をおこなって、身支度した。

ほかのすべてのギリシア共同体では、勃興する[ギリシア]文化の前面から消えていたこれらの原始的な諸制度が、スパルタの組織体の隅の首石として役立たせられるようになったこの方法は、われわれをふかく感嘆させずにはおかないところである。

この適応のなかに、われわれは、自動的な発展のたんなる結果より以上の何かを認めないわけにいかない。すべてのものがただ一つの目標を目指して導かれるように出来ている、組織的な、目的のはっきりしたこの方法には、意識的に形づくろうとする手が入りこんできているとみなさざるをえない。……一人または数名のひとがいて、それが同一の方向に働きながら、原始的な制度をリュクルゴス制とスパルタ宇宙に作り直したのだ、とどうしても仮定せずにはおられな脂

ギリシアの伝統的見解は、第二次メッセニア=スパルタ戦争以後のラケダイモン〔スパルタ〕人の社会の再建、つまりスパルタをスパルタらしくし、それが衰微したのちも、そうでありつづけたものにした再建ばかりでなく、スパルタの社会史、政治史におけるそれ以前のすべての、あまり変態的でない事件までをも、「リュクルゴス」のせいにしている。しかし、「リュクルゴス」は神であった。近代の西洋の学者らは、「リュクルゴス」制をつくった人間を探して、シロソがそれにあたるのではないかと考え出している。シロソはスパルタの監督官で、賢者の誉れたかく、紀元前五五〇年頃、公職にあったらしい。「リュクルゴス」制は、第二次メッセニア=スパルタ戦争の勃発からかぞえてほぼ一世紀ほどのあいだに、一連のスパルタの政治家が漸次につくりあげていったものだ、と見なしておそらくさして誤りではないかとおもう。

スパルタの体制のいちじるしい特徴は、その体制の「人間本性にたいするはなはだしい無視」にあった。その特徴は、同じように、その体制の驚くべき能率と致命的な硬直性、それにその結果起こったその制度の挫折とを説明するものでもある。実際スパルタのメッセニア支配を維持するという重荷は、すべてスパルタ自由市民の子孫の肩にかかっていた。同時に、スパルタの市民団それ自体のなかでは、平等の原則が確立されていたばかりでなく、十分に実施されていた。

富の平等化は実現されていなかったが、スパルタの「市民」は、だれでも、国家から同一の広さあるいは同一の生産力をもつ封土もしくは分割地を与えられていた。その分割地は、第二次スパルタ=メッセニア戦争後、メッセニアの耕地を分割したものであった。この分割地のどれも、農奴として土地にしばられているメッセニア人が一生懸命に耕せばよいので、スパルタ人が自分の手ではたらかなくても、「スパルタ的な」つつましい生活水準ならば、スパルタ「市民」とその家族を養うに足ると考えられていた。それで、スパルタ「市民」は、すべてどんなに貧しくても、経済活動をしなくていいので、かれらの全精力を戦争の技術に捧げることができた。それにまた、のべつまくなしの終身の軍事訓練と軍役とは、スパルタの全「市民」に課せられた義務でもあったので、スパルタでは、だれかが富裕であって富の余剰に差ができても、富者と貧者とのあいだに生活様式上の実質的な差異はすこしもあらわれなかった。
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「ノキア化」が進むトヨタ

『モビリティ2.0』より

衰退のデジャヴ

 「NOKIA!(まるでノキアだ!)」。

 日産自動車の新型EV「リーフ」のワールドプレミアが始まるわずか15時間前、トヨタ自動車会長の内山田竹志氏は、米CNBCのインターネット配信の独占インタビューに突如登場した。それは、米国東海岸時間2017年9月5日午前5時9分(日本時間同日午後6時9分)のことであった。

 このインタビューで、内山田会長はバッテリーEVの急速な普及に懐疑的であると語った。バッテリーEVの到来を否定はしないものの、EVが抱える航続距離や充電時間といった技術的にクリアしなければならない問題が多い現実に触れた上で、「中国やアメリカなどで法律や規制が導入されたら、自動車メーカーはそれに従い、EVを市場投入しなければならない。トヨタも例外ではない。しかし、顧客の利便性における課題を抱えた状況で、EVが急速に普及することには懐疑的である」とコメントした。

 そして、EVのキーテクノロジーは電池であるとし、トヨタは2つか3つの追加的な技術的ブレークスルーが必要だと言った。そのうちのひとつ、次世代電池と言われる全固体電池を搭載したEVをいつ発売するのかという質問に対しては、2022年どろという憶測報道があった中で、「正直分からない」と回答した。これらの発言が、トヨタが世界的な電動化の潮流に対し後ろ向きであり、また、次世代電池開発の進捗に不安を抱かせる印象を残した。

 これを受け、「トヨタ会長、EVの急速な普及に懐疑的(Toyota chairman:Skeptical of rapid shift to pure electric vehicles)と題したこのニュースは、米国内に限らず、フランス、ドイツ、スペイン、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ハンガリー、中国へと、瞬く間に世界各国に伝播した。このニュースに対するインターネット上のコメントで多かったのが、「まるでノキアだ!」というものであった。つまり、トヨタにノキア衰退のデジャヴを感じた人々が放ったものである。

燃え盛るプラットフォーム

 ノキアは長年にわたって携帯電話端末メーカーとしてトップを走り続けていたが、2007年のアップルのiPhone発売、2008年のグーグルのスマートフォン向けOS「アンドロイド」の登場により、凄まじいスピードでシェアを奪われた。ノキア凋落の敗因は、携帯端末中心からソフト・サービス中心に移行するトレンドを読み違え、携帯電話に新しい意味が生まれたととに気づくのが遅かったことにある。この急速に迫りくる波を、ノキアのCEO(当時)であるスティーブン・エロップ氏は、北海に浮かぶ石油プラットフォームでの火災に巻き込まれた作業員になぞらえた。

 「炎が近づいてきたとき、何か行動を起こすにも、彼にはわずか数秒の余裕しかありませんでした。プラットフォームに立っていれば、必然的に炎に焼かれることになります。あるいは、30メートル下の氷のような海に飛び込むという手もあります。燃え盛るプラットフォームの上で、その作業員は決断を下す必要があった」。

 これがかの有名な、「燃え盛るプラットフォーム」という、ノキア社員に向けて発したスピーチである。どちらの道を選んでも、過酷な戦いが待っている。ノキアは抜本的にビジネスのやり方を変えなければならなかった。

 このスピーチの中で、2011年当時のノキアが苦しんでいた問題について、エロップ氏は次のように分析した。「iPhoneが最初に発売されたのは2007年だが、(それから4年も経って)いまだにノキアはこれに近いエクスペリエンスを提供する製品がなく」「2年前にアンドロイドがリリースされたが、今週、このOSが搭載されたスマートフォンの販売台数はノキアの首位を奪った」。加えて、低価格機種を展開する中国メーカーにもシェアを奪われた。そして、次のように語った。

 「現在の戦いはデバイス(端末)の戦いではなく、エコシステムの戦いになりました。エコシステムを構成するのは、デバイスのハードウェアやソフトウェアだけではありません。開発者、アプリケーション、eコマ-ス、広告、検索、ソーシャル・アプリケーション、位置情報サービス、統合型コミュニケーション、その他にも多くの要素が含まれます。競合他社はデバイスではなく、エコシステム全体によって、ノキアの市場シェアを奪っています」。

 ノキアは2003年から独自のOS「シンビアン」を持っていたが、対応アプリの開発が難しいものであった。エロップCEOは「燃え盛るプラットフオーム」を話した2日後、独自OSのシンビアンと開発途中のOS「MeeGo」を捨て、マイクロソフ下。のOS「ウィンドウズフォン」を採用することを決めた。これは当時、iOSとアンドロイドOSの対抗馬であった。

 しかし、この決断は失敗に終わった。端末側では、アップル(iPhone)やサムスン電子(ギャラクシー)は最新技術の搭載を急ピッチで進めた。そして、OS側では、豊富なアプリケーションを提供するiOSとアンドロイドが躍進した。結果として、ノキアもウィンドウズフォンも市場ではほとんど評価されなかった。最終的にノキアは2013年9月に同社の携帯電話端末事業をマイクロソフトに売却し、サプライチェーンを含む生産設備をすべて手放した。その後、ノキアはネットワークインフラと知的財産権のライセンス会社となり、携帯電話事業から撤退した。

 このように、デジタル経済では、目まぐるしく変化するトレンドを読み違え、それへの対応策を講じることに出遅れると企業は一瞬で衰退・敗退してしまうのである。

デバイスからエコシステムの戦いへ

 自動車・モビリティに置き換えると、今は、EVや電池という車両・デバイスの技術課題をどう解決し、いつEVをつくるかということよりも、EVを中心とするエコシステムをいかに早く構築するかという議論が重要になっている。そして、そのエコシステムでは、プラットフォーム・ビジネスという、相互に依存する複数の人やグループをデジタルで結びつけて(コネクテッド)、その中のすべての人・グループが恩恵を受けられるようにするビジネスが行われる。

 より具体的には、ライドシェアリングと自動運転車のプラットフォームで構成するエコシステムの中において、「サービスとしてのモビリティ(MaaS)」というアプリケーションでいかに課金するか(稼ぐか)ということである。スマートフォン同様、エコシステムでの戦いを自動車会社は強いられているのである。

 CNBCのインタビューにて、内山田会長が言うEVが抱える課題は、何ひとつ間違ってはいなかった。もっとも、インタビュアーの質問テーマが車両・デバイスとしてのEVに関するものに偏っていたということもあるが、内山田会長のコメントが、EV開発の出遅れに加え、デバイス中心に電動化を捉えているという印象を世に与える結果となってしまった。

 その後、トヨタは電動化を急ぐべく、具体的なアクションを起こした。2017年9月28日、マッダ、デンソーとEVの共同技術開発契約を締結し、10月1日に新会社「EVC・A・Spirit」を発足した。後に、スズキ、SUBARU、日野自動車、ダイハツエ業も同社に参加した。また、12月13日、パナソニックと車載用角形電池事業について協業の可能性を検討すると発表した。

 同年12月18日には、2030年に(イブリッド車を含む電動車のグローバル販売を550万台以上にし、うちエンジン非搭載のバッテリーEVと燃料電池車は合わせて100万台以上を目指すという計画を発表した。(イブリッド車、プラグインハイブリッド車、燃料電池車に、最後のピースであるバッテリーEVをはめて、トョタはエコカーのフルラインナップで世界的な電動化への対応を急ピッチで進める。

ぬぐえぬ出遅れ懸念

 しかし、エコシステムの重要な構成要素であるコネクティビティにおいては、現時点、出遅れ懸念を払拭できていない。人工知能(AI)などの研究開発を行う米国子会社トヨタリサーチ・インスティテュート(Toyota Research Institute, Inc:TRI)が、2016年の設立から2年も経った今まで、自動運転領域において他社をりIドするような結果を出していないからだ。

 自動運転領域における・フイバルをみてみると、米グーグルの持株会社であるアルファベット傘下のウェイモや、自動運転AIのソフトウェア会社であるクルーズ・オートメーションを買収した米GMに、米国カリフォルニア州での自動運転車の公道実証実験の実績で大きく水をあけられている。

 2018年3月27日、ジャガー・ランドローバーはバッテリーEVのSUV「I-Pace」を2020年から最大2万台、ウェイモのロボットタクシーサービスに提供すると発表した。続いて、同年5月3日には、フィアットークライスラー・オートモービルズ(FCA)がプラグインハイブリッドのミニバン「パシフィカ」を6万2000台、ウェイモに供給すると発表した。

 GMに関しては、2018年5月31日に、ソフトバンクのビジョン・フアンド(SVF)がGMの自動運転部門に22億5000万米ドルを投資すると発表。これが意味するところは、SVFからの軍資金が、GMの自動運転車のベースとなるEVの増産投資に充てられることや、自動運転開発の弾みになるだけではなく、ソフトバンクが筆頭株主や大株主となっている、ウーバー(Uber Technologies)やグラブ(Glab)、オラ(Ola)や滴滴出行といったライドシェアプラットフォーマーに、GMが自動運転車を供給できるチャンスが拡がったということである。

 このニュースが発表された日、GMの株価は前日終値比13%(上昇幅4・87米ドル)も高騰した。2010年11月17日の再上場時から、GM株は29%上昇(同9・70米yル)したが、1日だけで上昇幅の約半分を稼いだことになる。GMは2019年にレベル4の完全自動運転車を販売することを目指している。GM株の株価高騰の背景には、株式投資家がついに、完全自動運転車の販売収益をバリュエーション(企業価値の評価)に織り込み始めたことを意味する。完全自動運転車の実用化はもう目の前まで迫っている。
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フューチャー・ウォー われわれはどこに向かうのか

『フューチャー・ウォー』より かくて現在にいたる

かくて現在にいたる

 わが軍が放ったドローン群は、慎重に選んだ飛行コースをたどりつつ、厳重な防空態勢を敷いた敵方の領土内に大挙して侵入した。あとにつづく戦闘機と爆撃機からなる本隊のいわば露払い役だった。ドローン群は、町や村のうえを通過していく。それらは別段、侵入の妨げになるとは考えられていなかった。だが、機上センサーが突如として反応した。それは農場や商業区、ホテルなどからなる人口積密地帯に、数多くの防空レーダーが潜んでいることを示す証拠だった。すぐさま対空砲が、ドローンの各個撃破を開始した。だが、ドローン群全体の統制任務を担当する一機が撃墜されると、その任務は別の一機に遅滞なく引き継がれた。民間人の犠牲を回避するため、応戦は抑制されていたが、群全体の能力の著しい劣化が予想されたため、現〝隊長機〟のコンピューターは、銃後で作戦全体を統括する人間の操作員に交戦許可を求めた。しかし、相手方の電波妨害があまりに激しく、返答は得られなかった。人間の指示をあおげなかったため、隊長機はならば決定権は自分にあると判断し、その瞬間、ドローン群は、それらの対空砲が住宅地に囲まれている事実を無視して、地上のあらゆる脅威の排除に着手した。交戦は開始から終了まで九〇秒を要した。それとほぼ同じころ、およそ十数力国からワシントン、ニューヨーク、ヒューストン、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコに向かう民間航空機の通気システムに、敵方の秘密工作員が遅効性の死の病原体を放っていた。やがて各機が到着した先々の大都市では、人々のあいだに混乱とパニックが広がっていった。

 紀元前四九年、ユリウス・カエサルと彼の軍団は、ガリアとローマの境界にあるルビコン川の対岸にいた。いま自分がやろうとしていることは、元老院の意志に背く大攻勢であり、結果、軍事衝突は避けがたいことは分かっていた。川を渡れと命じるさい、カエサルは「賽は投げられた」という有名な言葉を口にしたとされている。そして、いまや「ルビコン川を渡る」という慣用句は、引き返せない危地にみずから飛びこむという意味で使われている。今後テクノロジーのさらなる進展で戦争の形態がいっそう変化し、コンピューターとその手足になるマシーン群が主役をつとめたり、あるいは生物学、遺伝学の領域にいっそう踏み込むような事態になれば、われわれもまた、知らず知らずのうちに〝ルビコン川〟の間際まで接近することになるかもしれない。

 往時の計画立案者、政策決定者もまた、それぞれの時代の新たな形態の紛争、新たなテクノロジーを理解しようと奮闘努力した。戦争の歴史をひもとけば、軍事革命はつねに、なんらかのテクノロジーの進歩に依拠していたことが分かる。新型兵器だったり、あるいは通信手段、輸送手段だったり。火薬の使用、無線機の導入、そして装甲車輛の登場はそれまでの戦術を根本的に変えた。そしてもちろん、核兵器はすべてを変えてしまったのである。

われわれはどこに向かうのか

 現在や過去と同様、合衆国は将来においても、科学、テクノロジー、技術革新の分野で、指導的役割を果たし続けるだろう。民間の分野でも軍事の分野でも、それは言えよう。ただ、複雑かつ先端的なテクノロジーの多くはいまや、他の先進諸国(友好国もあれば、敵対国もある)も利用可能である。さらに、かつての兵器技術は軍事利用に特化したものだったが、今日の先端テクノロジーはしだいに軍民両用の方向に向かっており、その多くは間違いなく、民間の応用分野においても重要である。

 兵器技術はかつて、射程、スピード、致死性といった戦術的側面の向上を目指していたが、自動化、兵士の機能拡張、AIといった新テクノロジーはいまや、紛争や兵士のあり方そのものを根本から変えつつある。兵士個々人に求められる能力はこんにち、非常に違ったものになってしまった。かつての兵器は、兵隊を倒すための道具だった。それゆえ、従来型兵器の改良方面は、威力と速度と精度の向上だった。しかも兵器の操作法は、技術的には単純なので、どの兵士も、基礎訓練のレベルを超えるような戦術的、軍事的専門知識は求められなかった。

 だがこんにちの兵器はその使用にあたり、高い技術水準だけでなく、はるかに複雑な交戦規定への理解も要求される。実際、従来よりも多くの知識と配慮が求められ、敵方との応酬も根本的な変化を余儀なくされている。かつて国防総省に勤務し、いまはジョージタウン大学の教授をしているローザ・ブルックス女史は、戦争と非戦争との境界は、テクノロジーの進歩もあって、曖味さを増しつつあると主張する。「もしわれわれが、その違いが分からない地点まで到達しているのだとしたら、その現実は武力紛争をつかさどる法律への根本的挑戦となるだろう」と彼女は

 戦争と兵器をめぐっては、どんな時代にあっても、それぞれに倫理問題があった。機関銃が初めて実戦投入されたとき、人々は恐怖心をいだいた。核兵器はほとんど世界的規模で、道徳的に問題のある兵器と見なされた。生物化学兵器は、非人道的だとして非合法化された(今後使われることはなくなったという意味ではない)。果たしてわれわれは、これらの新テクノロジーや新システムをまずは手渡し、そのうえで兵士たちに向かって、こいつを使っていいのは何時かな、どうしてかな、どう使えばいいのかな--などと尋ねるのだろうか。つまり、与えられた兵器の適切な使用法をきちんと考えるよう、われわれは自国の軍隊に求めるべきなのか。だが、これら新システムにかんするしかるべき政策は今のところ存在しないし、その方面の訓練もないのである。

 この微妙な状況を理解せよと言っても、若い兵士たちにそれを期待することは不可能である。そして、そうした現状は技術面でも、あるいはそれ以外の面でも、リスクとなろう。なにしろ、われわれは自分たちも完全には理解していないテクノロジーを配備しているのだから。例えば、ドローンを用いた攻撃で、それを実際に操作した兵士がどんな心理的ダメージをこうむるのかなんて、だれも考えていないのである。また状況が錯綜し、敵味方や一般市民が峻別できない状況下で、自動化されたシステムが一体どんな反応を示すのかも、予見不能である。あるいは現時点で効果的な防御手段のない極超音速兵器の存在は、敵方の行動にどんな変化を生じさせるのだろうか。そうした諸々の変化は最終的に、敵方だけでなく、それに慣れろと言われた自軍の兵士にも必ず返ってくるので、われわれはそうした状況のもたらす意味合いを早急に考えておかなければならない。

 各国の軍隊が未来の戦争をめぐるアイデアを練るため、研究インフラを保持したがるのは理解できる。新たなタイプの戦争には、まったく異質の兵器が必要になるからだ。ただ、やや困惑を覚えるのは、新技術を兵器に応用することに過度に夢中になり、それに対する疑問や懐疑の声がほとんど聞かれない点であろう。

 われわれは、これまで新たなテクノロジーが意図せざる悲惨な結果を生んできたことを知っている。内燃機関が発する二酸化炭素が深刻な環境被害を引き起こしたり、核エネルギーの発見が結果的に野放図な軍拡競争につながったり、コンピューターと先進的な通信手段が人間存在を根本から変えてしまうなどとは誰も予想できなかった。ただ、そうした技術や、あるいはそれがもたらしたシステムは、そもそも追求すべきではなかったのだという声は聞かれない。まあ、そんな純粋無垢ではないし、言っても詮無いことだから。要は、われわれは行動する前に、それがもたらす様々な結果についてもっと懸命に考えなければならないということだ。なにしろこれらの新ツールは、人を傷つける新たな手段をもたらし、今までそれなりに武力紛争を抑え、戦士の行動をしばってきた従来型の法的枠組みに、新たな課題を突きつけるものだからだ。みずからの研究活動が引き起こす恐れのある様々な結果について、より深く考えることは、科学者たちの責務であり、またそうしたテクノロジーが普及する前に、それらの技術がどんな事態をもたらすのか、それが持つ意味合いを、国民やメディアや国家指導者が明確に語り、議論することが大切であろう。今後現れる兵器テクノロジーは、それが配備される前に、よりいっそうの理解、よりいっそうの訓練、よりいっそうの議論を求めてくるだろう。あとは君らが考えることだと、そうした諸々を若い兵士たちに丸投げしてはいけない。
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子供を救え 梁庄小学校 中国はここにある

『中国はここにある』より 子供を救え 梁庄小学校

昔の家の入り口から、かつて通学に使った道を通って、もう一度梁庄小学校まで歩いてみた。小学校は壁で囲まれた四辺形の敷地だった。前の方は運動場で、敷地の真ん中に旗竿があった。小学校に通っていたとき、私たちは毎日朝晩ここで旗の昇降をした。後方の二階建ての赤レンガの建物が校舎だった。各階に五つの教室があった。私は子供のころ、大部分の時間をここで過ごした。朝六時、始業ベルが梁庄村の上空に響く。子供たちは大声をあげたり、友達を待ったりして、明け方の薄暗いなか学校に向かい、一日の学校生活を始める。大部分の村民も、このベルの音で時間をはかり、一日の生活のリズムを作っていたに違いないと思う。

梁庄小学校が閉鎖されてもうI〇年近くになる。敷地の空き地部分は、とっくに開墾されて、よく茂った畑になっていた。真ん中の旗竿は、セメントの台座だけが残っている。後方の建物はまだそのままだ。おそらく私たちの声が聞こえたからであろう、門番の興兄さんが正門左の小部屋から出てきて、私たちを見ると喜んだ。彼は中から鍵を開けながら、「門を開けちゃいけないんだ、家畜が入ってきて、畑を掘り返すから」とブッブツ言った。

教室の近くまで行ってみると、すでに壊れて使い物にならなくなっていることがわかった。教室のドアはほとんど腐蝕していて、ちょっと押すと、埃がハラハラと落ちてきた。破損したガラス越しに、教室の中の、あまりに悲しい「風景」が見えた。一階の教室には、ボロになった家具が積み重なっていた。ペッド、ソファー、椅子やスツール、鍋やお椀のたぐいがあちこちに捨てられていて、いつのものだかわからないノートも散らばっていた。きっと先生の宿舎だったのだろう。また戻ってくるつもりだったのかもしれない。荷物が片づけられていなかった。部屋の中には、壊れた生徒用の机と椅子も、床に転がっていた。別の部屋には、ペッドがあり、コンロまで置かれていた。最近まで人が住んでいたようだ。興兄さんが言った。「ここには梁さんの婆さんが住んでいた。嫁と喧嘩して、行くところがなくなり、ここに半年住んでいたんだ」。

手すりがなくなっている階段を上って、二階に上がった。どの部屋にもウサギや鶏などの家畜が飼われていた。きっと興兄さんが飼っているのだろう。床には食べ残しのカボチャ、汚れたたらい、干し草などがあった。二階の手すりのそばに立って、村を見てみた。学校が村でいちばん高いところにあったことに気づいた。ここに立つと、村の入り乱れた建物、夕食を作っている煙などが一望できた。かつて学校の場所を選んだとき、村をりIドしようという意図があったのかもしれないと思った。この学校が経験した盛況と興隆はどんなものだったろうか。それがどのようにして歴史の外に放り出されたのだろうか。私はかつて小学校の先生だった万明兄さんに話を聞きにいくことにした。彼は学校の元老であり、梁庄小学校のすべての歴史を知っている。

梁万明は、痩せた、五十数歳の人で、老人の帽子をかぶっていた。衣服はいまだに八○年代風の、灰青色で、長いこと洗っていないかのようなものだった。空が暗くなってきた。奥さんが灯りをつけると、青白い蛍光灯の光のもと、大きな客間が冷え冷えとして、お化けでも出そうに感じられた。二歳ほどの孫が門の内外を走り回っていた。浅黒い顔で、村の冬の寒さであかぎれしているようだった。娘の服は垢抜けていた。長いあいだ外で出稼ぎをしていると、ひと目でわかった。彼女は厨房に入ったかと思うと、部屋に来て腰かけ、どこか恥ずかしげに私を見た。やはり十数年も教師をしていただけのことはある。万明兄さんはことばをじっくりと選び、話しぶりはゆっくりだったが、自分の見解があり、しばしば驚くべきことを言った。

わしらの村の学校は、あのころほんとうに苦労して発展した。一九六七年、できたばかりのときは、民家を借りて、二学年一緒のクラスでやったんだ。文教局から教員が派遣されてきた。それが梁庄に学校ができたということだった。翌年、生産隊が土レンガの二部屋の建物を建てた。ぞのあと、周婆さんが帰ってきて先生になり、さらに一部屋増やした。それから食事係として周婆さんの母親を雇った。そのあと、西にさらに三部屋つけた。それが二棟の建物になり、梁庄小学校の雛型が完成した。文革のときはその建物だけだった。はっきり覚えている。生産大隊であんたの父さんの批判大会を開いたとき、あの小学校の建物の前でやったんだ。首長の訓話、毎日の最高指示〔毛沢東の言葉〕、大衆大会などいつもあそこで開いたものだ。

わしは今年五五歳だ。七八年に中学校を卒業し、二年間農業大学に通ったあと、小学校の教師になった。わしが来たときは建物が三つになっていた。いちばん規模が大きくなったのは九〇年代より前だ。一年生から七年生まで、六、七人の正規教員がいて、二〇〇人の生徒がいた。八一年にあんたの兄嫁が来たよ。そのころ国家が補助を始めて、農村教育建設(校舎)資金が補助された。今の建物はその年に作ったものだ。国家から少し補助が出て、村でも少し金を集めて、村民が残りの資金と労働力を出した。わしら梁庄小学校は郷で最初に作られたものだ。あのとき教育組は記念碑をくれた。「梁庄村の幹部、大衆全体で学校を興したことを記念する」と書いてあった。はっきり覚えてる。あのとき、学校建設に向けて村中の心がひとつになったんだ。ズルをしてうまくやろうとする人は誰もいなかったし、学校に行って文化を学ぶことについて、みんなの考えははっきりしていた。春に建て始めて、どの家も工事に人を出した。まだひどく寒かったけど、みんな力いっぱい働いた。誰もが笑顔で、心から喜んでいた。あんたたちが学校に行っていたころが、梁庄村がいちばん栄えたときだ。当時、学齢に達した子供の入学率は一〇〇パーセントだったんだ。あのころのテストの結果を見ると、呉鎮の中心小学校が二番、梁庄が二番で、光道、韓平戦、韓立閣たちがいたな。先生も二〇人近くいた。誰もが有名で、郷でも名が通っていた。

梁庄は学風も盛んだった。八○年代中期、たとえ知能に問題があっても、歩くことさえできれば、学校に通わせた。梁一族で学校に来ない子供がいたら、先生が家まで何度も呼びに行ったもんだ。あのころわしらの県は全国の状元県〔全国試験で一番の成績を取ること〕だった。大学統一入試で全国一位だった。ほんとうにすごかった。今はどうなってしまったんだ。

今の梁庄小学校は生徒がいなくなってI〇年になる。学校は自動的に閉鎖になった。一部の生徒は親が連れていってしまい、残った生徒では一クラスにならなかった。当時、一~三年生は残して、それより上を町に行かせるという話だった。やがて郷の教務事務室は教員を派遣しなくなり、学校もなくなった。数年前、校長は旗竿まで転売した。あれはステンレスだったから、百数十元にはなっただろう。それから、校長は学校に来ることすらなくなった。興兄さんが住んで門番をしている。

大きな道理から言えば、学校の閉鎖は、人口流動とて人っ子政策が合わさった結果だ。ただほんとうのところを言うと、村長と支部書記の一派がつぶしたんだ。上が教員を四人派遣してきた。先生が来たら、補助を出さないといけない。先生の給料は低すぎるから、村から補助を出し、そのうえ人を雇って食事を作ってやる必要がある。昔の梁庄は、どれほど貧しくても、先生への補助は減らしたことがなかった。ところが今は、その費用がないとか言って、村の支部書記が出さなくなったんだ。先生が来ても一年か半年で、みんな逃げてしまう。もし村が積極的で、郷に行って交渉したり、町に行ったり、あるいは教育局に行って先生が欲しいと言えば、それでもなんとかなっただろう。先生というものは、どこにでも教えに行くものだ。それに梁庄は郷でいちばん辺鄙な場所じゃない。そのうえ、親を説得して、子供を故郷に帰ってこさせて学校に通わせることもできる。親だってなにも子供を遠くに行かせたいわけじゃないからな。ところが村長はまったくそういったことを考える気がなかった。もちろん、何もしないでいることにうまみがあるのさ。毎年、教育統一計画費がおりてくるんだ。学校がなくなっても、教育統一計画費は来る。金が彼らの懐に入るわけだ。

今、わしらの村の学齢に達した子供を数えてごらん。一~三年生のクラスを開くのは、まったく問題ない。やろうとする人がいないだけだ。去年、ある農民が校舎を借り受けて、豚を飼った。昼間は庭で放し飼いにして、夜になると教室に入れた。校門の壁の標語が「梁庄養豚場、教育をして人を育てる」になってただろう。悪ガキたちのいたずらだ。教育局が、品がないと言って、やめさせた。

今はみんな考えが消極的になって、自分のことしか考えない。村の若い者はみんな出稼ぎに行き、誰もこのことに首を突っ込まない。学校が栄えていたとき、わしらの村では大学生が増えた。あのころ梁庄はすごいもので、何人も大学生を出した。八○年代、梁庄村の親は誰でも子供を大学にやりたいと思っていた。梁庄で大学に行った比率は結構高かったんだよ。

今は子供が学校に行っても、希望がない。最近一〇年来、子供たちの学問への意欲が明らかに減退してきた。国家の大学制度改革のせいだ。大学に行くと、金がかかるだけで、分配〔以前、大学卒業生は国家が仕事の配属先を決めていた〕がなく、卒業しても行くところがない。昔は、子供が学校に行かないと、親が棒を持って村中を追い回したもんだ。今は子供が学校に行かなくても叩くことはない。数年大学に行ったら、少なくとも四、五万元かかるだろ。それならば出稼ぎに行った方がいいからな。たとえ大学に合格して、卒業しても、そのうえI〇万元を使って就職のために奔走できる人がいるかい。
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豊田市中央図書館の状況と問題

『図書館の基本を求めて』より 豊田市中央図書館の状況と問題

豊田市中央図書館の状況と問題

 二〇一六年五月一四日に豊田市で『データで見る図書館民営化の実態』というタイトルの講演をした。TRC(図書館流通センター)指定管理の図書館が、いかにも大きな成果があがっているかのように宣伝されているが、数年の経緯を辿ってみると、利用が大きく伸びている図書館はほとんどなくて、むしろ貸出減少の傾向へ向かう事例の方が多いこと、経費についても削減どころか増加し、無駄な経費が増えていることなどを、データによって示すとともに、民営化された図書館の、特にその職員体制の劣化について、具体的な事例により説明した。

 この講演の中で、豊田市の状況について少しだけふれたので、この部分だけを紹介する。豊田市立中央図書館の年間貸出数の推移は二つのグラフの実線のとおりで、一九九九年度から一〇年間は貸出が増加し続け、二〇〇八年度と二〇〇九年度は二一○万冊を超えたが、その後は減少するようになった。この減少に影響していると予想される数値が点線のデータで、図1の点線は資料費、図2の点線は正規職員中の司書数である。資料費はもともと二億円を超えていて非常に潤沢だった。ある程度の減少はやむを得ないとしても、いきなり一億円以上削減している。せめて徐々に減少させる慎重さが必要だったのではないか。専任司書数は八人から、多いときで一一人までいたのに、最近の数年で激減して二〇一五年度はゼロとなった。貸出の減少と一致する動きを示している。なお、人口三〇万人以上の市で、専任司書数ゼロは豊田市と尼崎市だけなので、異常な状況というべきである。

 二〇一六年三月議会で、豊田市教育委員会教育行政部長が「司書率」について、次のように答弁している。「日本図書館協会の目標基準例によると、人口三〇万人以上の市で、司書率が五九・八%だが、豊田市の司書率は一七・五%で著しく低い」。この認識をもとに、司書率を高めるために指定管理者制度を導入するという方針が打ち出されている。

 「日本図書館協会の目標基準例」では、専任職員、非常勤・臨時職員、委託・派遣職員別に司書の数と司書率を例示しているが、そのうちの「専任職員の司書率が五九・八%」である。豊田市では『日本の図書館2015』(データ版)によると、専任職員二〇人(うち司書ゼロ、司書率O%)、非常勤・臨時職員(特別任用職員)五七人(うち司書一一人、司書率一九・三%)、委託・派遣職員二三人(うち司書一一人)である。特別任用職員のうちの司書が一〇人であれば、司書率が一七・五%になるので、教育行政部長の答弁の時点で一〇人になっていたと予想することができる。

 つまり、答弁における「基準例の五九・八%」という司書率は専任職員の司書率であるのに、豊田市の一七・五%という司書率は、非常勤・臨時職員の司書率であり、比較が不適切なのである(基準例では非常勤・臨時職員の司書率は六三・八%)。さらに、これを解決するために指定管理者制度を導入すると答弁しているが、全職員中の委託・派遣職員の比率そのものが、基準例ではわずか六・三%であるのに、指定管理者制度を導入すればこれが一〇〇%となり、この中でどれだけ司書の比率を高めたところで、専任職員の司書率はゼロ%で、基準例による「専任職員の司書率五九・八%」は完全に無視されている。日本図書館協会の目標基準例を持ち出すのであれば、教育行政部長の答弁には大きな矛盾があり、論弁というほかない。

 豊田市では、専任司書職員の比率を高める努力をしないで、ゼロにまで削減をした。全国には嘱託職員はほぼ全員が司書という自治体もあるのに、豊田市では特別任用職員についても、司書資格を重視してこなかった。非正規職員の司書率を規制する規則などあるはずがないから、その気になれば、特別任用職員の司書率を大きく改善することはすぐにでも可能である。利用減の原因は、豊田市内部に存在している。

 先日、豊田市が図書館総合研究所に三七〇万円で委託し、二〇一五年七月に作成された『豊田市中央図書館サービス向上計画報告書』を読んだ。図書館総合研究所はTRCの子会社であり、報告書は、数字の操作までして、最終的に指定管理導入へ誘導する内容になっている。TRCに計画を委託しているのだから、当然の結果であろう。図書館という「教育機関」の管理運営を指定管理して、外部の企業に丸投げする。その前提として、多額の経費を費やして施設・設備の大改造をする。市の責任放棄と多額のコストに見合うほどの大幅な成果が期待できるだろうか。報告書には、計画を実施した場合の目標数値すら示されていない。

モンスター化するTRC指定管理

 愛知県豊田市の中央図書館は中核市を代表する大規模図書館で、年間貸出点数も一時期は単独で二〇〇万点を超えていたが、数年前から貸出が減少しはしめた。そのため市では二〇一五年度にTRCの子会社である図書館総合研究所に『豊田市中央図書館サービス向上計画』の作成を三七〇万円で委託し、この報告書をもとに、二〇一七年度から中央図書館に指定管理者制度を導入することが決定された。経緯からも報告書の内容からも、指定管理者がTRCになることは既定路線である。しかし、実はこの報告書には驚くほど初歩的な誤りがあった。すでに豊田市の市民の方も気づいているのだが、公表しにくい状況もあるようなので、本稿で指摘する。

 報告書第二章の現状認識のページに、全国三九の中核市の中央図書館の数値を比較した表が二ページ分ある(数値は日本図書館協会刊『日本の図書館2014』による)。二〇一三年度の年間貸出数は、豊田市の数値は一七三万五一八五である。豊田市には、中央図書館以外に交流館図書室などと称される施設が計三一あり、図書館の分室として貸出をしている。このような、分館以外の施設の数値は、『日本の図書館』ではサービスポイント(以下SP)と称され、BM(移動図書館)の数値とともに、ふつう中央図書館の数値に含まれて掲載され、SPとBMの数値は内数として出ている。豊田市の場合は、SPによる貸出数の計は一九二万点て中央図書館よりも多い。『日本の図書館2014』の豊田市中央図書館の欄にはSPを含む三六五万五千点という数値があり、次行に内数のSPの数値一九二万点が出ている。

 ところが図書館総合研究所の『報告書』では、豊田市についてはSPを除く中央図書館だけの数値が出ているのに、他の三八中核市の欄は、SPやBMの数値を含む中央図書館の数値がそのまま出ている。つまり、豊田市以外は異なった内容の数値を出して、中核市の中央図書館を比較し、誤りの数字で豊田市の状況を順位付け、それをもとに、基本方針、新しい事業、図書館のあり方を提案しているのである。

 「うっかり間違えた」では済まない。たとえば、この表では岡崎市や長崎市の年間貸出数が二〇〇万点を超えているなど、ほかにも、全国の図書館の実状を多少でも知っていたら、一目でおかしいと気づく数値がある。つまり、この報告書を作成した図書館総合研究所は、図書館の実態も知らず、現場の感覚もほとんど持っていないのであり、そのような「研究所」が現状を分析したり、豊田市のサービス向上計画を作成したりしているのである。

 報告書では、この間違った数値をもとに、豊田市中央図書館では貸出数に対する職員数が少ない方からの順位で二三位、職員数が平均よりも多すぎる、職員の仕事の効率が悪いと結論づけて、これを理由に、「全国の自治体では、効率的な運営と高度の図書館サービスの提供に向けて、指定管理者制度の導入等民間委託の拡大を進めている自治体がある」として、指定管理者制度の導入へ誘導している。他市もSPとBMを除いて貸出数を比べると、豊田市の職員数の割合は平均よりも少ない。順位はおおよそ一五位くらい、しかも豊田市よりも順位が上の市の半数は、民営化を導入していない。偽りの数字により、偽りの結論へ導いている。ひどい報告書である。なお、数字以前の間違いもある。

 豊田市はこれほどまで間違いの多いお粗末な報告書に三七〇万円を支払った。豊田市の教育委員会の中にも、間違いや問題点に気づく人はいなかった。そして今、豊田市は指定管理者制度導入に向けてまっしぐらである。

 全国あちこちのTRC指定管理の図書館で、職員ばかりか責任者までが、どんどん辞めている。守谷市や三田市だけではない。名古屋市の志段味図書館(二〇一五年度からTRC指定管理)でも、一年目に総括責任者など責任者三人がそろって交代したことについて、議会で質問が出ている。しかし、あまり表には出ないし、報道もされない。図書館員も研究者も市民も、できれば指定管理の図書館の内部からも、このような事例をもっと率直に報告し、指定管理者制度の実態を明らかにしてほしいと、強く望む。

 五月はじめに、TRCは全国の図書館の一五%を受託したと誇らしげに発表した。実態は隠されたまま、TRCは専門性が高くて信頼できるという虚像がつくられている。TRCは自信に溢れ、いまや怖いものなしの勢いである。職員が次々辞めようが、専門職にほど遠い杜撰な仕事をしようが、間違いだらけの報告書をつくろうが、全国の自治体の責任者たちはひれ伏すばかり。TRCのシェアはますます拡大し、まるでモンスターのように日本の図書館を支配し、飲み込んでゆく。これでよいのだろうか。
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真珠湾攻撃⇒チャーチル「我々はこの戦争に勝った」

『チャーチルは語る』より

「我々はソ連に対してできるかぎりの支援を与える」 一九四一年六月二十二日

 一九四一年六月二十二日、チャーチルがアメリカ向けの演説を放送して一週間たたないうちに、ドイツはソヴィエト連邦へ侵攻した。一九三九年八月以来、ヒトラーのドイツはスターリンのソ連と同盟関係にあった。一九三九年十月、両国はポーランドを共同で侵略して分割していた。イギリスはそのポーランドの独立を守るために参戦したのだった。六月二十二日に突如としてドイツの猛攻撃が始まると、イギリスはソ連を同盟国と見なすべきか否か、ドイツの勝利を阻むためにイギリスがなしうるかぎりの援助をすべきか否か、チャーチルは決断しなければならなかった。その夜のラジオ放送で、彼はイギリス国民に自分の答えを伝えた。

 ナチス体制は、共産主義の最悪の形態となんら違いがない。そこには欲望と人種主義による支配以外のいかなる理念もない。凶暴な侵略を首尾よく進めていくナチスの残虐性は、人間のあらゆる邪悪さを凌いでいる。過去二五年間、私ほど一貫して共産主義と戦ってきた者はいない。これまで共産主義について言ってきたことを、私は一言も取り消すつもりはない。しかしいま繰り広げられている悲惨な光景を前にして、すべてが消え去った。犯罪と愚行と悲劇を伴う過去は、閃光のごとく消え去った。[……]

 我々の目的は一つしかない。ただ一つの不変の目的しかない。ヒトラーを打倒し、ナチス体制を跡形もなく消滅させることである。何があろうと、我々はこの目的からそらされはしない--何があろうと。

 それが我々の政策であり、我々の宣言である。こういうわけで、我々はソ連およびソ連国民に対してできるかぎりの支援を与える所存である。全世界のすべてのわが友好国と同盟国にも、我々と同じ政策を採用し、不動の決意で最後まで忠実に目的を追求するよう訴えたい。我々はヒトラーともその一味とも決して交渉しない。我々は陸で彼と戦い、海で彼と戦い、空で彼と戦う。神の助けにより、地球上からヒトラーの影を排除し、彼の支配から諸民族を解放するまで戦う。

 ナチス政権と戦い続ける人や国すべてに、我々は援助を与える。ヒトラーとともに進む人や国はすべて、我々の敵である。これは正式な国家のみに当てはまるのではなく、同胞と祖国を裏切ってナチス政権の手先となっている卑劣な売国奴集団のすべての代理人にも当てはまる。これらの売国奴は、ナチスの指導者そのものと同じく、その同胞によって始末されるほうが面倒がなくて望ましいが、始末されない場合は、勝利の暁に我々が彼らを連合国の法廷に引き渡し、裁きを受けさせることになる。

 我々はソ連政府に対し、彼らの役に立ちそうな技術的・経済的支援を力の及ぶかぎり提供しようと申し出た。我々は昼夜を問わずドイツに対する爆撃を強化する。月を追うごとにますます大量の爆弾を投下し、ドイツ人が人類に強いてきた苦痛を、月を追うごとにいっそう強烈に彼ら自身に味わわせる。ここで注目すべき情報をお伝えしよう。つい昨日のことだが、わがイギリス空軍はフランスの領土の上空に深く入り込んで戦った。ドイツが侵略し汚し支配下に置いたと主張しているフランスの領土の上空で、わが軍はきわめて軽微な損失を被りながらドイツ軍戦闘機を二八機撃墜したのだ。しかしこれは始まりにすぎない。これからわが空軍の主力が加速度的に増強されていく。わが国がアメリカから受けているあらゆる種類の軍需物資の援助、とりわけ重爆撃機の援助は、今後六か月のうちにその威力を発揮し始めるであろう。

 これは階級間の戦争ではない。イギリス帝国とイギリス連邦全体が、人種や宗教や党派の違いを越えて戦っている戦争である。私はアメリカの行動について発言する立場にないが、これだけは言っておきたい--もしヒトラーがソ連への攻撃によって、彼を倒そうと決意している二大民主主義国の目的をわずかでも分裂させたり努力を弱めさせたりできると考えているなら、哀れなほどの勘違いである。それどころか、我々はいっそう鼓舞され、彼の暴虐から人類を救おうとする努力をさらに強めることになる。我々の決意と精神力は強められこそすれ、断じて弱められはしない。

 各国と各政府が結束して行動していれば、このような破局から自国と世界を救うことができたであろうが、自らあいついで打ち倒されるに任せた彼らの愚かさを、いまさら説教しても始まらない。さきほど私は、ヒトラーの血に飢えた憎むべき欲望が彼をソ連侵略に誘い込み駆り立てたと述べたが、その暴挙の背後にはいっそう深い一つの動機があるとも指摘した。ヒトラーがソ連の力を破壊しようとしているのは、それに成功すれば、ドイツの陸軍および空軍の主力を東方から引き戻して、この島国に投入できると考えているからである。この島国を征服しないかぎり、自らの犯罪に対する処罰を免れないことを、彼は知っているのだ。

 ヒトラーのソ連侵攻は、わがイギリス諸島への侵攻計画の序幕にすぎない。疑いもなく彼は、冬が訪れる前にすべてを片付け、アメリカの海・空軍が介入する前にイギリスを制圧しようともくろんでいる。敵国を一つずつ撃破することによって、彼は長いあいだ成功し繁栄してきたが、その過程をもう一度、かつてないほど大規模に繰り返し、最終幕の障害を排除しようとしている。最終幕とは、それがなければ彼が征服してきたすべてが無に帰するもの、すなわち西半球を彼の意志に従わせ、ナチス体制の支配下に置くことである。

 ゆえに、ソ連の危機は我々の危機であり、アメリカの危機である。それは、自分の家庭のために戦っているソ連人の大義が、地球上のあらゆる地域の自由民や自由国民の大義でもあるのと同じことだ。これまでの苦しい経験によって与えられた教訓を、いまこそ学びとろう。さらなる努力を重ね、生命と力のあるかぎり、一致団結してぶつかっていこうではないか。

「我々はこの戦争に勝った」 一九四一年十二月七日

 一九四一年十二月七日、日本は真珠湾のアメリカ海軍基地を攻撃し、太平洋上のアメリカの領土(グアム、ミッドウェー、ウェーク島、フィリピン)へ海と空から攻め入った。日本軍は東南アジアのイギリス領(香港とマラヤ)とオランダ領東インドも攻撃した。チャーチルはこの運命の時を振り返り、『第二次世界大戦』に次のように書いた。

 アメリカ合衆国が我々の味方についたことは私にとって最大の喜びだったと公言しても、私が間違っていると思うアメリカ人はいないだろう。私は事態の展開を予測できなかった。日本の軍事力を自分が正確に見積もっていたと言うつもりはない。しかしまさにこのとき、アメリカがこの戦争に深く関わり最後まで関与し続けることを、私は確信した。ゆえに、結局のところ我々はすでに勝っていたのである! しかり、ダンケルクを経て、フランスの降伏を経て、オランの悲惨な一件を経て、空軍と海軍を除けば我々がほとんど非武装のうちに本土を侵略される危険を経て、Uボート戦争の死闘、すなわち危ういところで勝利した最初の大西洋の戦いを経て、一七か月の孤独な戦いと、恐ろしい重圧のもとで私が責任を果たした一九か月を経て。

 我々はこの戦争に勝ったのだ。イングランドは生き残る。イギリスは生き残る。イギリス連邦もイギリス帝国も生き残る。戦争がいつまで続くか、どのように終わるかは誰にもわからなかったし、このときの私はそんなことを気にしていなかった。わが島国の長い歴史の中で、再び立ち上がってみせるとしか思っていなかった。どれほど打ちのめされ、ずたずたにされようと、我々は危機を脱して勝利してみせる。決して抹殺されはしない。我々の歴史は終わりはしない。一人ひとりの人間としても、我々は死ななくてすむかもしれないとさえ思われた。

 ヒトラーの運命は定まった。ムッソリーニの運命も定まった。日本人はどうかと言えば、彼らは粉々に打ち砕かれる運命だった。その他すべてについては、圧倒的な力をしかるべく行使しさえすればよかった。イギリス帝国とソヴィエト連邦が、そしていまやアメリカ合衆国もが、全生命と全力を注いで結集したからには、その力は敵の二倍、いや三倍にさえなると私には思われた。おそらく長い時間がかかるだろう。束では恐ろしい損失を被るだろう。しかしすべては通過点にすぎない。我々が団結すれば、世界中の他のすべてを服従させることができる。多くの惨禍やはかりしれない犠牲と苦難が前途に待ち受けていたが、その結末についてはもはや疑いようがなくなった。

 愚かな人びとは、敵国内に限らず大勢いる愚かな人びとは、アメリカの力を見くびっていたらしい。アメリカは軟弱だと言う者もいたし、決して団結しないと言う者もいた。彼らは離れたところでのらくらしているだけだ。真剣に取り組むはずがない。流血に耐えられるはずがない。選挙を頻繁に繰り返すアメリカの民主主義と制度ゆえに、彼らの戦争への努力は無に帰する。彼らは味方にとっても敵にとっても、水平線上にぼんやりと姿が見えるだけだ。人口は多いが遠く離れたところにいる、裕福で口数の多いこの国民の無力さを、いまこそ我々は知るべきだ。

 しかし私はアメリカ人が最後まで死にもの狂いで戦った南北戦争のことを学んでいた。私の血管にはアメリカ人の血が流れていた。三〇年以上前にエドワード・グレイが私に言った言葉を、私は思い出していた。アメリカは「巨大なボイラー」のようだ。「いったんその下に点火すれば、際限なく力を生み出すことができる」と。私は感動と感激に満たされて床に就き、救われた思いで感謝の念を抱きながら眠りに落ちた。
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