goo

OCR化した7冊

『家族法の道案内』

 身近な家族法

  家族法を楽しく理解してもらうために

   家族法の存在理由
    日々の生活と法律
    「自分」を中心に
    すべて自由でも良いか
    ルールの必要性

   家族法という法律はない

  家族法の位置づけ

   財産法と家族法

   家族法と憲法

  第二次世界大戦前後の家族法

   戦前の家族法

   明治民法の特徴

   戦後の家族法

 一人ではない:扶養・生殖技術

  人として生まれ生活すること

   扶養してもらう理由

   親族法の締めくくりとして

  扶養の必要性

   扶養とは

   扶養の種類
    生活保持義務
    生活扶助義務

   扶養義務者

   扶養の順序・程度

   扶養の方法

   過去の扶養料

『新たなる覇者の条件』

 トヨタが再びオープンイノベーションに挑む

 壮大な夢を実現するために外部の力を借りる

 イノベーション実現のためのプロセス

 大きな変化の先駆者になる

『介護再編』

 介護「再編」を断行せよ

  業界変革への道筋

  普通の業界での当たり前を

  採用と定着において政府ができることは限られている

  キャリアパスは事業者がつくれる

  事業者は働く人のせいにしてはいけない

  「おしっこ」を予測できる?

  テクノロジーで労働環境は改善できる

  業界内外でのズレをすり合わせることが必要

  テクノロジーはどこまで代替可能か

  介護の仕事はテクノロジーによって奪われない

  やる気と能力のある人に集中投資を

  報酬制度とやりがいの両方に働きかける

『バックキャスト思考』

 「シンプルクエスチョン」を繰り返し、本質的な「真の制約」を明らかにする

 真の制約を明らかにするツール

 「シンプルクエスチョン」とは

 「ゴミの排出量が減らない」問題に対するシンプルクエスチョン

『コミュニティによる地区経営』

 脱・自動車過依存症--地域で再構築する公共交通

 自動車過依存症の症候群

 だれもが自由に移動できる社会

 市民の本当の交通需要に応える交通体系

 多様な移動手段のネットワーク化

 各種事業者の送迎バスの活用

 最後の数百メートルを埋める〈小さい交通〉

 自動車を減らす

 公共交通利用の共同購入

 物やサービスを届ける

 担い手は市民

『戦争と外交の世界史』

 The Civil War アメリカの将来を決めるために避けられなかった戦争

 ナポレオンからルイジアナを買収できたアメリカの幸運

 極寒の地アラスカもアメリカの手に

 あまりにも多くの血が流れた政策論争

『世界の独在論的存在構造』

 他者とは何か
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

他者とは何か

『世界の独在論的存在構造』より 他者とは何か

まずは、単純にこう考えられそうに思える。他者とは「他の〈私〉」であり、それゆえつまり、《私》のことである、と。すなわち、概念(内包)的にはどこまでも〈私〉とまったく同じ種類の存在者なのに、なぜか現実にはそうではない者のことである。

このような提示の仕方をすると、早速に二つの問題が思い浮かぶ(この二つは本質的には同じ問題かもしれない)。一つは、他者どうしの間にも(これまたもちろん概念的にはだが)これとまったく同じ関係が存在することになるはずだ、ということである。他者であることが二つの関係概念であるとすれば、これは当然のことだともいえる。どの《私》から出発しても、その人にとっての「他の〈私〉」という者が存在することになり、同じ問題はどこからでも始められるはずである。

もう一つはもっと内在的な問題である。「~なのに、なぜか現実にはそうではない者」は「他者」の定義である。だから、それを疑うことに意味はない。とすると、東洋の専制君主の思考実験のように、他者が現実に〈私〉である場合とそうでない場合とを考えてみるといったことにはそもそも意味がないのではないか、と思う人がいても不思議ではない。この問題は、前段落における「他者どうしの間にも……これとまったく同じ関係が存在することになる」というのと同じ問題であろう。他者性をあくまでも累進構造の内部における段差によって捉えるなら、他者もまた現実に〈私〉である場合とそうでない場合とを考えることができることになる。累進構造においては、ひとつ上段の存在を認めればそれが現実性を意味することになるからだ。そこからすべてが開けている絶対的な中心性が、概念的に考えられる(考えられねばならない)ことになるわけである。

この問題を、定義の中に「現実存在」が含まれているという点に注目して、神の存在証明におけるいわゆる存在論的証明の孕む問題と同じ問題だと見る見方もありうる。これを詳述している余裕はないが、結論的なことだけを簡潔に述べるなら、言語的コミュニケーションの場面においては存在論的証明の言語使用のように伝達が為され、為された後ではその事実は闇に葬られて、直接的に確証される、ということになるといえるだろう。

また、この問題を、可能世界の問題と同型であると見ることもできる。後者においては可能主義(可能世界の実在論、時間論におけるB系列主義に対応する)と現実主義(可能世界の非実在論、時間論におけるA系列主義に対応する)との対立が中心的な対立点となるが、私と他者の関係の問題もそれと同型であると捉えることができ、それがこの問題をヨコ問題として捉えるということであった。その場合、可能世界は望遠鏡で観察すれば見えるようなものではないのと同様、他者のあり方は内側に潜り込んで観察できれば答えが見えてくるというようなものではなくなる。心の状態が自然な身体的表出をともなうかどうか、といったことをめぐる問題も本質的な問題ではなくなる。

他者は、一つの意味(現実主義的)においては、他の〈私〉なのだから、(認識不可能とかそういったレベルの話ではなく)文字どおり存在しない。他者なのに私であるわけがないからだ。このことは〈私〉についてだけでなく《私》の水準でもいえる。そのように考えると、これは相対化された現実主義となり、それはまた相対化されたA系列主義とも同型であるが、それでもまだB系列主義になるわけではない。ともあれ、一面においてはこの立場(現実主義的)は固守されねばならない。この側面が捨てられてしまえば、他者は他者的特殊性とでもいうべきものを失ってしまうからだ。もう一つの意味(可能主義的)においては、端的な唯一の〈私〉の存在のほうが一種の幻覚のようなものとなる。すると、他者性は並列的な相互的他者性だけとなるが、これは端的な現在が存在しないB系列主義と同型の捉え方である。こちらの捉え方もまた二面においては固守されねばならない。この側面が捨てられてしまえば、そもそもある同種の存在者のなかに自己と他者という違いがあるということ(の「ある同種の存在者」のほうの側面)が消滅してしまうからだ。

他者の存在が問題であるのは、両立しがたいこの両側面が併存しているからである。こういう場合、どちらか一方を消滅させることで問題を「解決」しようとする人が(どの問題領域においても)必ず出てくるが、問題は解決すればよいというものではない。少なくとも哲学的な問題の場合は、それが問題であることを既定の前提とはせずに、問題の問題性そのものを深く理解することのほうが遥かに重要である。そしてこの場合、問題であることの意味はやはり、たんに並列的な相互的他者性と唯一の現実的他者性との「いびつな輻輳」にあるだろう。

端的な唯一の〈私〉の存在のほうを一種の幻覚のようなもの(すなわち実在しないもの)とみなしたうえで、この側面(すなわちこの特別な実在しなさ)の欠如によって他者という存在者を捉えることもできる。彼らはなぜか全面的に実在してしまっている(寄与成分だけで出来ている)!と。この捉え方のほうが(問題点を一挙に捉えているという意味で)正鵠を射ているともいえる。比喩的にいえば、私は幽霊なのだが、あちらにはそういう幽霊性を欠いたソンビ連中がいる、というわけだ。彼らはなんと余すところなく実在しているのだ。ここには事象内容的な意味での懐疑(「彼らはじつはソンビなのではないか」といった)が介入する余地はない。〈幽霊〉を《幽霊》的に一般化しても、この議論は累進的にどこまでも成り立つ。その場合には、幽霊性(実在しなさ)が概念的にのみ反復されていくことになるだろう。

他者性が(完全にB系列的な)並列的な相互的他者性だけとなったとき、その客観的な(相対主義的な)捉え方においては独在性(諸中心性のなかにある唯一の現実のそれというあり方)の問題は消滅するが、その痕跡は一般的な私秘性の問題という形をとって残存することになる。そうすると、各「私」に並列的に外から覗けない私的内面があるかように捉えられることになるだろう。

この論脈において重要なのは、「 」と《 》の区別、時間論用語でいえばB系列と相対化されたA系列との区別、である。独在性は概念化されても(その本質においては)そのまま保持されるから、そのことで一般的な私秘性に変形してしまったりはしないのだ。では、一般的(並列的)な私秘性という捉え方はどこから生まれてくるのだろうか。独在性の累進的な相対化からではない。そこでは唯一の「現実の原点」が概念的に保持されつづけるからだ。もはや累進構造さえ発動しないまったく平板な(平板に相対主義的な)世界が成立したとき、私秘性はそこにおいて(しかしあくまでも独在性の痕跡として)成立するわけである。

平板なB系列といえども、それが(たんなるC系列ではなく)あくまでも時間の系列である以上、そこにはA系列性の痕跡が残っているだろう。B系列の本質である「(どこにでも認められる)より前-より後」の関係がまさにそれである。これと同じように、一般的な相互的私秘性といえども、それが(たんなる物的相互関係ではなく)あくまでも諸々の心のあいだの関係である以上、そこには(累進する)独在性の痕跡が残っているのでなければならない。意識の私秘性の本質である「(だれとだれの間にも存在する)他者の心の体験できなさ」がまさにそれなのである。

さて、最後の問題はじつはここから始まる。前章で「私と同じあり方をした他人などという丸い四角のようなもの」という話をしたとき、そこに付けた注において「ウィトゲンシュタイン的な問題提起」は「中心性ではなく現実性の問題」なのだが、「方向は伝統的な他我問題と同じ方向を向いている」と私は言った。そして「私の元来の問いはそれらとは逆向きである」と。ここから始まる最後の問題とは、この「方向」の問題である。それはまた、東洋の専制君主をめぐる考察の最後にちょっと呟いておいた、「このような考察」には「本当に哲学的に深い意味がある」わけではないだろう、という点とも繋がっている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

メリハリをつけないと

メリハリをつけないと

 ノートとスマホだけもってきた。歩こう。明日の全握に行こうか迷う。一回は見てみたい。いくちゃんだと4時間並んで3~5秒。ロバニエミ図書館の20年で3時間ほどではないか。

 この季節にこの格好は合っている。当分、これでいい。

乃木坂はコミュニティ

 コミュニティの

大きな実験 その実験が失敗に終わる時人類に未来はない
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )