未唯への手紙
未唯への手紙
The Civil War アメリカの将来を決めるために避けられなかった戦争
『戦争と外交の世界史』より
The Civil War アメリカの将来を決めるために避けられなかった戦争
アメリカが一八六一年から六五年まで戦った国内の戦争を、日本では南北戦争と呼んでいます。国が南北二つに分かれて戦ったからなのですが、英語では市民戦争 Cicil War と呼び、アメリカでは定冠詞をつけて The Civil War と呼んでいます。アメリカで市民戦争といえば南北戦争を指します。アメリカの歴史の方向を決定づけた大戦争だったのです。
アメリカは第二次世界大戦で四〇・五万人、第一次世界大戦では一一・六万人、ペトナム戦争で五・八万人、朝鮮戦争で三・六万人の戦死者を出しています。しかし南北戦争の死者は五〇万人を超えていると推測されています。国内戦であるにもかかわらず桁外れに多い死者が出ていることは、この血みどろの戦争がアメリカの将来図をまとめるために、避けられないものであったことを物語っています。この章では、アメリカが南北戦争に至るまでの経緯を、この大国の領土が拡大していった過程をたどりながら話したいと思います。
ナポレオンからルイジアナを買収できたアメリカの幸運
ミシシッピー川の西岸地域を占めていたルイジアナ地方は、一八○○年代の始めの頃はフランス領でした。その領域はミシシッピー川流域に沿って北上し、現在のミネソタ州に至り、さらにはカナダ国境をも越える広大な地域でした。フランス人の探検家ラ・サールが一六八二年に探検し、フランス領であると宣言した土地です。ルイジアナとはフランス語で「ルイに所属するもの」といった意味合いで、当時のフランス王ルイー四世にちなんだ名前です。またルイジアナの代表的な都市ニューオーリンズは、ミシシッピー川河口に近い東岸に位置しますが、この都市はフランス人によって一七二八年に建設されました。ニューオーリンズはフランス語ではヌーベル・オルレアンです。最初の総督がオルレアン公でした。
当時のフランスはミシシッピー川の東側の土地をも領有していました。全体では北米大陸の大半を占める広大な面積の土地です。しかし、フランスは北米で戦われたフレンチ・インディアン戦争(一七五五-六三)と、ヨーロッパで戦われた七年戦争(一七五六-六三)によって、これらの領地をすべて失います。ミシシッピー川以東の地は連合王国領に、ニューオーリンズとルイジアナはスペイン領に。スペインは七年戦争でフランス側に立って戦ったので、自国領であったフロリダを連合王国に割譲せざるを得ませんでした(アメリカ独立戦争後に、またスペイン領に戻ります)。その代償として、フランスはニューオーリンズとルイジアナをスペインに譲ったのです。フランスの手を離れたこれらの土地は、数十年後、また持主が変わります。
ミシシッピー川以東の地はアメリカの独立後、連合王国からアメリカに割譲されました。ルイジアナとニューオーリンズは、ナポレオンの第一統領時代にフランスが取り返しました(一八〇〇)。
ナポレオンは取り戻した新大陸の領地について、次のような構想を抱いていたようです。
西インド諸島の中のキューバ島に次いで大きい島、イスハニョーラ島。この島はコロンの新大陸到達以来スペイン領でしたが、一六九七年のプファルツ継承戦争の講和条約、ライスワイク条約によって島の西側約三分の一がフランス領となりました。この西側の地は先住民族によってHaitiと呼ばれていました。この名称は、英語ではヘイティ、原地ではアイティと発音され、ハイチは日本語だけの用語です。フランスはハイチにアフリカ黒人奴隷を投入し、サトウキビのプランテーションを開発して、砂糖の一大生産地としていました。
ナポレオンはハイチを拠点として新大陸に砂糖産業地帯をつくり、その食糧補給を中心とした後背地としてルイジアナを利用することを計画していました。そしてその交易の中心として、ニューオーリンズの港を位置づけていたようです。ところがこのハイチの人々はたくましい反骨精神に満ちており、フランス革命の影響を受けて、スベイン統治時代の一七九一年から革命を起こしていたのです。その中心は黒人とムラートと呼ばれる白人と黒人の混血児たちでした。彼らはフランス革命の自由・平等・友愛の精神を主張しました。「我らにも独立を!」
もちろんナポレオンは、この革命状態を熟知していました。そして一八○二年、革命の有力指導者をフランスに連行し獄死させています。しかし革命騒ぎは収まらず、新しい指導者が登場するありさまでした。しかも(イチの革命分子を、フランスのライバルである連合王国が、ひそかに援助していることも明らかでした。さすがのナポレオンもハイチには手を焼いてしまいました。その独立を認めてしまったら、ルイジアナやニューオーリンズの戦略的価値も半減せざるを得ません。
同じ頃、誕生してまだ日の浅いアメリカはニューオーリンズ港を欲しい、と思っていました。アメリカはミシシッピー川東岸の地を、連合王国から割譲されています。そこにはテネシー、南北カロライナ、ジョージアなど、豊かな大農業地帯が含まれています。アメリカはこれらの地で得られる綿花に代表される農産物を、ミシシッピー川を運河としてニューオーリンズまで搬送し、その港から輸出する構想を持っていたのです。そのためにはニューオーリンズ港の使用権をフランスから獲得しなければなりません。そこで時の大統領トマス・ジェファーソンは、買収特使としてジェイムズ・モンローをナポレオンの所へ差し向けます。モンローは後に大統領となり、アメリカのモンロー主義を宣言した人物です。
交渉に当り、モンローは相当の出費を覚悟していたかもしれません。モンローがナポレオンと会ったのは一八○三年、ナポレオンがハイチ革命で煮え湯を呑まされた翌年でした。ナポレオンはモンローに言いました。
「いっそルイジアナ全部を売ってやるよ」
ハイチの独立は避けられそうもない雲行きなので、ナポレオンの構想からルイジアナもニューオーリンズも消えつつあったのです。しかも彼の主敵である連合王国に比べると、アメリカとはフランス革命の時から友好関係にあります。ルイジアナを売却した資金で連合王国を叩く、という計算があったのかも知れません。
そして二一○万k㎡のルイジアナは一五〇〇万ドルで、アメリカに売却されました。アメリカの面積はほとんど二倍となりました。予想以上に安い価格です。この一五〇〇万ドルの資金は、ネーデルランドのホープ商会と連合王国のベアリング銀行が融資しました。連合王国側の銀行がアメリカに資金を融資したということは、ドライに商売を優先したか、それともアメリカに恩を売っておこうと考えたのか、興味のあるところですが。
このルイジアナ買収は、とてつもなくラッキーでした。ジェファーソン大統領はミシシッピー以東の農産物の流通のために、ニューオーリンズ港の譲渡を求めた。ところがナポレオンはニューオーリンズだけではなくミシシッピー川西岸の全流域を、アメリカに売却したのですから。
あまりにも多くの血が流れた政策論争
戦争は一八六一年に始まり一八六五年、北軍の勝利で終わりました。発端は一八六〇年に北部の支持するリンカーンが大統領に当選したことを契機として、南部一一州がアメリカ連合国を結成し、アメリカ連邦政府から脱退したことに始まります。その首都はリッチモンド。南軍の指揮官は名将リー将軍でした。
両軍を比較してみます。北軍(連邦国側)は二三州、人口は約二、二〇〇万。南軍(連合国側)は一一州、人口は黒人奴隷を含めて約九〇〇万(そのうち黒人奴隷が約四○○万)、しかし、黒人は戦いに参加せず、白人だけでは約五〇〇万でした。つまり南部の白人は北部の四分の一以下の人数で戦ったのです。
南軍が四分の一に満たない人口で、四年間も戦えたのは何故か。南部にはリー将軍を始めとして、優秀な将校が多かったからです。南部の裕福な農家の男子は、士官学校に進むことが多かったのです。このような傾向は発展途上段階の国家によくあることで、時の強国プロイセンの将校の多くも、豪農である地方貴族、ユンカーの出身者でした。一方で、アメリカ北部は多くの都市がある工業地帯で、軍関係に進む人は少なかったのです。
なお南北戦争時、南軍の首都のリッチモンドと北軍の首都ワシントンは、南北わずか一六〇キロしか離れていませんでした。そのために南北戦争の主たる戦場は、そのほとんどが東部戦線にありました。西部の戦場はテネシー州のナッシュヴィルやジョージア州のアトランタなど、数カ所にすぎませんでした。
南北戦争は一国の将来を決める政策論争を、あいまいな妥協で結着させず、血を流して決定した厳しい市民戦争でした。この市民戦争の記憶はアメリカの市民意識の中に、強烈に刻まれていると思います。
マーガレット・ミッチエルの大作『風と共に去りぬ』という小説の題名は、絶頂期にあったアメリカ南部の白人たちの豪華で貴族的な社会と文化が、南北戦争という一陣の風によって消え去ったことを寓意しています。良きにつけ悪しきにつけ、アメリカ人の歴史にとって忘れてはならない史実を綴った、大切な古典なのだと思います。
The Civil War アメリカの将来を決めるために避けられなかった戦争
アメリカが一八六一年から六五年まで戦った国内の戦争を、日本では南北戦争と呼んでいます。国が南北二つに分かれて戦ったからなのですが、英語では市民戦争 Cicil War と呼び、アメリカでは定冠詞をつけて The Civil War と呼んでいます。アメリカで市民戦争といえば南北戦争を指します。アメリカの歴史の方向を決定づけた大戦争だったのです。
アメリカは第二次世界大戦で四〇・五万人、第一次世界大戦では一一・六万人、ペトナム戦争で五・八万人、朝鮮戦争で三・六万人の戦死者を出しています。しかし南北戦争の死者は五〇万人を超えていると推測されています。国内戦であるにもかかわらず桁外れに多い死者が出ていることは、この血みどろの戦争がアメリカの将来図をまとめるために、避けられないものであったことを物語っています。この章では、アメリカが南北戦争に至るまでの経緯を、この大国の領土が拡大していった過程をたどりながら話したいと思います。
ナポレオンからルイジアナを買収できたアメリカの幸運
ミシシッピー川の西岸地域を占めていたルイジアナ地方は、一八○○年代の始めの頃はフランス領でした。その領域はミシシッピー川流域に沿って北上し、現在のミネソタ州に至り、さらにはカナダ国境をも越える広大な地域でした。フランス人の探検家ラ・サールが一六八二年に探検し、フランス領であると宣言した土地です。ルイジアナとはフランス語で「ルイに所属するもの」といった意味合いで、当時のフランス王ルイー四世にちなんだ名前です。またルイジアナの代表的な都市ニューオーリンズは、ミシシッピー川河口に近い東岸に位置しますが、この都市はフランス人によって一七二八年に建設されました。ニューオーリンズはフランス語ではヌーベル・オルレアンです。最初の総督がオルレアン公でした。
当時のフランスはミシシッピー川の東側の土地をも領有していました。全体では北米大陸の大半を占める広大な面積の土地です。しかし、フランスは北米で戦われたフレンチ・インディアン戦争(一七五五-六三)と、ヨーロッパで戦われた七年戦争(一七五六-六三)によって、これらの領地をすべて失います。ミシシッピー川以東の地は連合王国領に、ニューオーリンズとルイジアナはスペイン領に。スペインは七年戦争でフランス側に立って戦ったので、自国領であったフロリダを連合王国に割譲せざるを得ませんでした(アメリカ独立戦争後に、またスペイン領に戻ります)。その代償として、フランスはニューオーリンズとルイジアナをスペインに譲ったのです。フランスの手を離れたこれらの土地は、数十年後、また持主が変わります。
ミシシッピー川以東の地はアメリカの独立後、連合王国からアメリカに割譲されました。ルイジアナとニューオーリンズは、ナポレオンの第一統領時代にフランスが取り返しました(一八〇〇)。
ナポレオンは取り戻した新大陸の領地について、次のような構想を抱いていたようです。
西インド諸島の中のキューバ島に次いで大きい島、イスハニョーラ島。この島はコロンの新大陸到達以来スペイン領でしたが、一六九七年のプファルツ継承戦争の講和条約、ライスワイク条約によって島の西側約三分の一がフランス領となりました。この西側の地は先住民族によってHaitiと呼ばれていました。この名称は、英語ではヘイティ、原地ではアイティと発音され、ハイチは日本語だけの用語です。フランスはハイチにアフリカ黒人奴隷を投入し、サトウキビのプランテーションを開発して、砂糖の一大生産地としていました。
ナポレオンはハイチを拠点として新大陸に砂糖産業地帯をつくり、その食糧補給を中心とした後背地としてルイジアナを利用することを計画していました。そしてその交易の中心として、ニューオーリンズの港を位置づけていたようです。ところがこのハイチの人々はたくましい反骨精神に満ちており、フランス革命の影響を受けて、スベイン統治時代の一七九一年から革命を起こしていたのです。その中心は黒人とムラートと呼ばれる白人と黒人の混血児たちでした。彼らはフランス革命の自由・平等・友愛の精神を主張しました。「我らにも独立を!」
もちろんナポレオンは、この革命状態を熟知していました。そして一八○二年、革命の有力指導者をフランスに連行し獄死させています。しかし革命騒ぎは収まらず、新しい指導者が登場するありさまでした。しかも(イチの革命分子を、フランスのライバルである連合王国が、ひそかに援助していることも明らかでした。さすがのナポレオンもハイチには手を焼いてしまいました。その独立を認めてしまったら、ルイジアナやニューオーリンズの戦略的価値も半減せざるを得ません。
同じ頃、誕生してまだ日の浅いアメリカはニューオーリンズ港を欲しい、と思っていました。アメリカはミシシッピー川東岸の地を、連合王国から割譲されています。そこにはテネシー、南北カロライナ、ジョージアなど、豊かな大農業地帯が含まれています。アメリカはこれらの地で得られる綿花に代表される農産物を、ミシシッピー川を運河としてニューオーリンズまで搬送し、その港から輸出する構想を持っていたのです。そのためにはニューオーリンズ港の使用権をフランスから獲得しなければなりません。そこで時の大統領トマス・ジェファーソンは、買収特使としてジェイムズ・モンローをナポレオンの所へ差し向けます。モンローは後に大統領となり、アメリカのモンロー主義を宣言した人物です。
交渉に当り、モンローは相当の出費を覚悟していたかもしれません。モンローがナポレオンと会ったのは一八○三年、ナポレオンがハイチ革命で煮え湯を呑まされた翌年でした。ナポレオンはモンローに言いました。
「いっそルイジアナ全部を売ってやるよ」
ハイチの独立は避けられそうもない雲行きなので、ナポレオンの構想からルイジアナもニューオーリンズも消えつつあったのです。しかも彼の主敵である連合王国に比べると、アメリカとはフランス革命の時から友好関係にあります。ルイジアナを売却した資金で連合王国を叩く、という計算があったのかも知れません。
そして二一○万k㎡のルイジアナは一五〇〇万ドルで、アメリカに売却されました。アメリカの面積はほとんど二倍となりました。予想以上に安い価格です。この一五〇〇万ドルの資金は、ネーデルランドのホープ商会と連合王国のベアリング銀行が融資しました。連合王国側の銀行がアメリカに資金を融資したということは、ドライに商売を優先したか、それともアメリカに恩を売っておこうと考えたのか、興味のあるところですが。
このルイジアナ買収は、とてつもなくラッキーでした。ジェファーソン大統領はミシシッピー以東の農産物の流通のために、ニューオーリンズ港の譲渡を求めた。ところがナポレオンはニューオーリンズだけではなくミシシッピー川西岸の全流域を、アメリカに売却したのですから。
あまりにも多くの血が流れた政策論争
戦争は一八六一年に始まり一八六五年、北軍の勝利で終わりました。発端は一八六〇年に北部の支持するリンカーンが大統領に当選したことを契機として、南部一一州がアメリカ連合国を結成し、アメリカ連邦政府から脱退したことに始まります。その首都はリッチモンド。南軍の指揮官は名将リー将軍でした。
両軍を比較してみます。北軍(連邦国側)は二三州、人口は約二、二〇〇万。南軍(連合国側)は一一州、人口は黒人奴隷を含めて約九〇〇万(そのうち黒人奴隷が約四○○万)、しかし、黒人は戦いに参加せず、白人だけでは約五〇〇万でした。つまり南部の白人は北部の四分の一以下の人数で戦ったのです。
南軍が四分の一に満たない人口で、四年間も戦えたのは何故か。南部にはリー将軍を始めとして、優秀な将校が多かったからです。南部の裕福な農家の男子は、士官学校に進むことが多かったのです。このような傾向は発展途上段階の国家によくあることで、時の強国プロイセンの将校の多くも、豪農である地方貴族、ユンカーの出身者でした。一方で、アメリカ北部は多くの都市がある工業地帯で、軍関係に進む人は少なかったのです。
なお南北戦争時、南軍の首都のリッチモンドと北軍の首都ワシントンは、南北わずか一六〇キロしか離れていませんでした。そのために南北戦争の主たる戦場は、そのほとんどが東部戦線にありました。西部の戦場はテネシー州のナッシュヴィルやジョージア州のアトランタなど、数カ所にすぎませんでした。
南北戦争は一国の将来を決める政策論争を、あいまいな妥協で結着させず、血を流して決定した厳しい市民戦争でした。この市民戦争の記憶はアメリカの市民意識の中に、強烈に刻まれていると思います。
マーガレット・ミッチエルの大作『風と共に去りぬ』という小説の題名は、絶頂期にあったアメリカ南部の白人たちの豪華で貴族的な社会と文化が、南北戦争という一陣の風によって消え去ったことを寓意しています。良きにつけ悪しきにつけ、アメリカ人の歴史にとって忘れてはならない史実を綴った、大切な古典なのだと思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
脱・自動車過依存症
『コミュニティによる地区経営』より
脱・自動車過依存症--地域で再構築する公共交通
近代都市の特徴の一つである郊外住宅地は交通の技術革新がなければ生まれなかった。交通形態の変化は都市形態を変える最大の力の一つである。この半世紀、世界中でふたたび大きな交通形態の変化が進んでいる。その中心は、高速道路や新幹線や飛行機などの〈大きい交通〉の急速な発展である。それは[多くの人を的確に・早く]運ぶ交通であり、都市間の時間距離を縮め、世界中で中小都市を中抜きして衰退させる一方、首都や中核都市に繁栄をもたらしている。その穴埋めをするように、世界中の中小都市や大都市の郊外は自動車過依存体質が進み公共交通の劣化と廃止が進んでいる。
自動車は、何時でもどこにでも移動できる利器であるが、アルコール依存症が身体を蝕むように自動車過依存は都市を蝕み、その体力を奪う。
自動車過依存症の症候群
自動車過依存が進むと、自動車事故や大気汚染や自動車インフラ費用の増大、都市空間の巨大化、買物難民の増加、健康阻害や医療費の増大など多岐にわたる症状が現れる。
まず、自動車社会では、自動車が走りやすいように平坦で緩いカーブの道路や橋やトンネルそして駐車場や車庫なども含めて種々の施設を必要とする。これらの施設整備に膨大な費用を要するだけでなく、施設の規模は巨大で人間的スケールを壊してしまう。
第二の症状は買物難民を生むことである。自動車社会では、人々は安く品揃えの良い店を求めて自動車で店選びをするので、一店舗の商圏が広くなり、大規模店舗が流通を支配するようになる。当然、近隣の小規模な小売店は廃れてしまう。一部の高齢者や障害者、子供、経済的理由から車を持てない人、そして免許を持たない人たちは「買物難民」となる。同じことは医療でも起こる。知覚能力や運動能力が衰えた高齢者は、免許証を返納したいところがだが、「買物難民」化、「医療難民」化を考えるとそれができない。加えて、高齢者には貧困の問題がある。超高齢社会では年金会計が逼迫し年金支給額の削減が避けて通れない。年金だけで生活する世帯では自家用車保有は経済的負担が大きい。
最後に、医療費の増加や個人の生活のQOLの低下を付け加えよう。戦争や感染症による死亡が減ると生活習慣病が主な死因になる。高齢社会の悩みの種の一つである増大する医療費は歩くことで軽減できると言われているのだが、自動車過依存社会は歩く機会と能力を奪ってしまう。
自動車社会がもたらす問題は1970年代から意識されはじめ、先進国の都市計画は「歩ける街」を目標の一つに加え、世界中で歩行者天国や歩行者専用道や歩行者空間が拡充されてきた。ところが、「歩ける街」は「歩かざるをえない街」であり、足腰が弱った高齢者にとっては不便な街でしかなくなる。実際、中心部を完全に歩行者空間とした首都圏郊外の大規模団地では、広場が広すぎ高齢者を買物難民化している。そこで、NPOが足こぎ自転車を使って買物支援をしている。
だれもが自由に移動できる社会
「衣食住足りて礼節を知る」と人は言うが、実は、衣食住だけであれば受刑者にも与えられている。刑務所が奪うのは移動の自由である。人が自分の意志で移動できることは生活上だけでなく精神的な自立を保つうえでも欠かせない。自動車過依存社会は自動車を使えない人々から基本的人権を奪う。高齢者が増える現代社会の大きな課題の一つは、自動車過依存症を患う地方都市や大都市の郊外で、どうすれば多くの人たちが自家用車や運転免許を持だなく。ても暮らせるか、ということである。以下に、筆者の考える解決策をあげてみたい。
市民の本当の交通需要に応える交通体系
鉄道駅を毎日大勢の人が利用するのは大都市だけであるのに、奇妙なことに、地方中小都市でもバス路線は鉄道駅や公共施設を結ぶように組み立てられていることがままある。市民が毎日の生活で本当に困っているのは、鉄道駅や公共施設に行く足ではなく日々の買物や通院の足などである。一つのバス路線をとっても、朝夕と日中では利用形態がまったく異なるのに路線のルートは固定されていることが多い。もっと柔軟な発想と運営をすれば、公共交通はもっと使いやすくなり、乗客数も増えるはずである。
多様な移動手段のネットワーク化
異なる交通路線を乗り継いでネットワークとして使えば少ない公共交通を効果的に使うことができる。IC式の乗車券が普及してきた今日、域内のバスや鉄道を滑らかにつなぐ料金体系を導入することは容易である。
各種事業者の送迎バスの活用
公共交通利用者がそもそも少ない地方都市では十分な密度の公共交通サービスの提供は経営的に難しい。ただ、こうした都市でも、学校のスクールバス、大規模小売店の客の送迎バス、企業の社員送迎バス、老人介護施設の送迎バスなど様々なバスが走っている。これらのバスが、空き時間に一般の乗客を運べば、乏しい路線密度を補うことができるし各事業者にとっても収益につながる。
最後の数百メートルを埋める〈小さい交通〉
地方都市では公共交通網が粗いので、停留所や駅から居住地や目的地までが遠くなりがちである。この最後の数百メートルを埋めるうえで〈小さい交通〉が使えると格段に便利になる。〈小さい交通〉は[少数の人を、近くに、遅く]運ぶ交通である。例えば自転車は、軽く、小さく、速く、気軽に遠くに出かけられ、駐輪する場所にも困らない。電動アシスト付き自転車であれば筋力が弱い人も助かる。身体機能が低い人には三輪の電動アシスト自転車や電動スクーターや電動車椅子がある。もしバス停に〈小さい乗り物〉の置き場が併設されていればバスを使う気になる(図066)。さらに、そこに低額で利用できる貸し自転車が置いてあればもっと便利である。欧州のように自転車や電動カートなどの鉄道車輛持ち込みが一般化すれば行動範囲はぐっと広がる。高齢者や身障者が使う〈小さい乗り物〉は、利用者の運動能力や障害の程度が幅広く、かつ加齢による変化も早いので、社会で共有するのが望ましいだろう。
〈小さい乗り物〉は、近年世界中で次々と開発されているが、日本では、こうした乗り物は福祉政策のなかに閉じ込められ、進化から取り残されている。その背景には、日本の社会の過度な自動車偏重がある。超高齢社会の先頭を行く日本だからこそ、障害者や高齢者が一人で自由に出かけられる環境でなくてはならない。具体的には、一方通行を増やしたり、自動車レーンを減らしたりすることで、現在自動車に過分に割り振られている交通空間をもっと〈小さい交通〉と歩行者に回さなければならない。そのうえで、新しい試みに果敢に取り組まなければ高齢社会に追いつけない。
自動車を減らす
現実の日本の地方都市や郊外で自動車依存を変えることは簡単ではないことも明らかである。それを前提とした対応が必要である。その一つは、自動車を世帯や個人で所有せずに、複数の人で共有したり、声を掛け合って相乗りするなど、必要な時だけ自動車を利用する形態を広げることである。世帯出費が減り、敷地内の駐車場も不要になるし、街の中を走る車の量を減らせるので交通施設の量も減らせる。
公共交通利用の共同購入
市民に問えば、公共交通の充実は必ず求められるのだが実際には利用されない。今は使わないけどそのうち利用する市民ばかりでは公共交通は破綻してしまう。コミュニティは一定の乗車人数の確保を確約し、交通事業者は一定の運賃を確約する。双方がとり決めを交わすことで安定した交通サービスを実現する。
物やサービスを届ける
買物難民問題に対して交通手段を充実することは、物やサービスの利用者が、それらが提供される拠点に移動できるようにすることであるが、他方では、利用者にサービスや物を直接届ける策も必要である。現状でも移動スーパーマーケットや高齢者の移動入浴サービス、様々な食材や食事の配達サービスなどがなされているが高機能化と効率化をはかることが必要である。また、高齢者人口比が増え続ける日本では「配達する」対象を医療サービスや、行政サービスなどに拡大しなければならない。現在日本では、医療や介護の場を、施設から住み慣れた自宅や地域に移そうとしているが、その実現にも物やサービスを届けるシステムを伴うことが必須になる。
担い手は市民
移動に関するサービス提供でも本書の基本認識--公的サービスをすべて市場原理に任せてしまうとサービス空白地域が増えるが、財政負担が増える一方の自治体にできることは限られるーが当てはまる。人口減少と高齢化の時代にあった新たな地域交通体系の構築において、コミュニティが主体的に将来像を描き、自ら管理しなければならない。直接の受益者である市民に担い手としての自覚と負担が求められる。例えば、本稿で提案した解決策で言えば、道路の一方通行を増やせば自動車を使うには不便になることを市民が受け入れなければならない。バス停ごとに貸し自転車を置いて廉価で利用できるようにするためには、管理の一部を住民が担う必要がある。電車やバスに自転車を持ち込むためには、利用者の自己責任が求められる。こうしたことを受け入れる条件は、市民が、若い時は自動車があれば快適で便利でも、いずれそれがままならなくなる時がやってくるという危機感を共有することである。こうした対応は市民個人ではできない。CMAのような住民組織の出番である。もう一つ重要なことは、いずれの解決策も、それを実施しようとすると多かれ少なかれ、現行の自動車優先の傾向にある日本の交通行政の制度との衝突が避けられないということである。それを乗り越えるためにも市民的合意が必要なのである。
このように障害を並べ立てると、先の解決策がどれも夢の理想論のようにみえてしまうが、ヨーロッパの諸都市では、すでにいくつかのことを実現している。日本はこの点では後進国にすぎないことを認識すべきである。
今や物と情報はどこにいても平等に届く時代である。移動の自由の程度は、大都市と地方中小都市を分け隔てる数少ない条件のIつと言ってよい。日本の中小都市が安心して生涯を送れる場所であり続けるためには地域社会の自動車過依存症からの脱出が不可欠である。
脱・自動車過依存症--地域で再構築する公共交通
近代都市の特徴の一つである郊外住宅地は交通の技術革新がなければ生まれなかった。交通形態の変化は都市形態を変える最大の力の一つである。この半世紀、世界中でふたたび大きな交通形態の変化が進んでいる。その中心は、高速道路や新幹線や飛行機などの〈大きい交通〉の急速な発展である。それは[多くの人を的確に・早く]運ぶ交通であり、都市間の時間距離を縮め、世界中で中小都市を中抜きして衰退させる一方、首都や中核都市に繁栄をもたらしている。その穴埋めをするように、世界中の中小都市や大都市の郊外は自動車過依存体質が進み公共交通の劣化と廃止が進んでいる。
自動車は、何時でもどこにでも移動できる利器であるが、アルコール依存症が身体を蝕むように自動車過依存は都市を蝕み、その体力を奪う。
自動車過依存症の症候群
自動車過依存が進むと、自動車事故や大気汚染や自動車インフラ費用の増大、都市空間の巨大化、買物難民の増加、健康阻害や医療費の増大など多岐にわたる症状が現れる。
まず、自動車社会では、自動車が走りやすいように平坦で緩いカーブの道路や橋やトンネルそして駐車場や車庫なども含めて種々の施設を必要とする。これらの施設整備に膨大な費用を要するだけでなく、施設の規模は巨大で人間的スケールを壊してしまう。
第二の症状は買物難民を生むことである。自動車社会では、人々は安く品揃えの良い店を求めて自動車で店選びをするので、一店舗の商圏が広くなり、大規模店舗が流通を支配するようになる。当然、近隣の小規模な小売店は廃れてしまう。一部の高齢者や障害者、子供、経済的理由から車を持てない人、そして免許を持たない人たちは「買物難民」となる。同じことは医療でも起こる。知覚能力や運動能力が衰えた高齢者は、免許証を返納したいところがだが、「買物難民」化、「医療難民」化を考えるとそれができない。加えて、高齢者には貧困の問題がある。超高齢社会では年金会計が逼迫し年金支給額の削減が避けて通れない。年金だけで生活する世帯では自家用車保有は経済的負担が大きい。
最後に、医療費の増加や個人の生活のQOLの低下を付け加えよう。戦争や感染症による死亡が減ると生活習慣病が主な死因になる。高齢社会の悩みの種の一つである増大する医療費は歩くことで軽減できると言われているのだが、自動車過依存社会は歩く機会と能力を奪ってしまう。
自動車社会がもたらす問題は1970年代から意識されはじめ、先進国の都市計画は「歩ける街」を目標の一つに加え、世界中で歩行者天国や歩行者専用道や歩行者空間が拡充されてきた。ところが、「歩ける街」は「歩かざるをえない街」であり、足腰が弱った高齢者にとっては不便な街でしかなくなる。実際、中心部を完全に歩行者空間とした首都圏郊外の大規模団地では、広場が広すぎ高齢者を買物難民化している。そこで、NPOが足こぎ自転車を使って買物支援をしている。
だれもが自由に移動できる社会
「衣食住足りて礼節を知る」と人は言うが、実は、衣食住だけであれば受刑者にも与えられている。刑務所が奪うのは移動の自由である。人が自分の意志で移動できることは生活上だけでなく精神的な自立を保つうえでも欠かせない。自動車過依存社会は自動車を使えない人々から基本的人権を奪う。高齢者が増える現代社会の大きな課題の一つは、自動車過依存症を患う地方都市や大都市の郊外で、どうすれば多くの人たちが自家用車や運転免許を持だなく。ても暮らせるか、ということである。以下に、筆者の考える解決策をあげてみたい。
市民の本当の交通需要に応える交通体系
鉄道駅を毎日大勢の人が利用するのは大都市だけであるのに、奇妙なことに、地方中小都市でもバス路線は鉄道駅や公共施設を結ぶように組み立てられていることがままある。市民が毎日の生活で本当に困っているのは、鉄道駅や公共施設に行く足ではなく日々の買物や通院の足などである。一つのバス路線をとっても、朝夕と日中では利用形態がまったく異なるのに路線のルートは固定されていることが多い。もっと柔軟な発想と運営をすれば、公共交通はもっと使いやすくなり、乗客数も増えるはずである。
多様な移動手段のネットワーク化
異なる交通路線を乗り継いでネットワークとして使えば少ない公共交通を効果的に使うことができる。IC式の乗車券が普及してきた今日、域内のバスや鉄道を滑らかにつなぐ料金体系を導入することは容易である。
各種事業者の送迎バスの活用
公共交通利用者がそもそも少ない地方都市では十分な密度の公共交通サービスの提供は経営的に難しい。ただ、こうした都市でも、学校のスクールバス、大規模小売店の客の送迎バス、企業の社員送迎バス、老人介護施設の送迎バスなど様々なバスが走っている。これらのバスが、空き時間に一般の乗客を運べば、乏しい路線密度を補うことができるし各事業者にとっても収益につながる。
最後の数百メートルを埋める〈小さい交通〉
地方都市では公共交通網が粗いので、停留所や駅から居住地や目的地までが遠くなりがちである。この最後の数百メートルを埋めるうえで〈小さい交通〉が使えると格段に便利になる。〈小さい交通〉は[少数の人を、近くに、遅く]運ぶ交通である。例えば自転車は、軽く、小さく、速く、気軽に遠くに出かけられ、駐輪する場所にも困らない。電動アシスト付き自転車であれば筋力が弱い人も助かる。身体機能が低い人には三輪の電動アシスト自転車や電動スクーターや電動車椅子がある。もしバス停に〈小さい乗り物〉の置き場が併設されていればバスを使う気になる(図066)。さらに、そこに低額で利用できる貸し自転車が置いてあればもっと便利である。欧州のように自転車や電動カートなどの鉄道車輛持ち込みが一般化すれば行動範囲はぐっと広がる。高齢者や身障者が使う〈小さい乗り物〉は、利用者の運動能力や障害の程度が幅広く、かつ加齢による変化も早いので、社会で共有するのが望ましいだろう。
〈小さい乗り物〉は、近年世界中で次々と開発されているが、日本では、こうした乗り物は福祉政策のなかに閉じ込められ、進化から取り残されている。その背景には、日本の社会の過度な自動車偏重がある。超高齢社会の先頭を行く日本だからこそ、障害者や高齢者が一人で自由に出かけられる環境でなくてはならない。具体的には、一方通行を増やしたり、自動車レーンを減らしたりすることで、現在自動車に過分に割り振られている交通空間をもっと〈小さい交通〉と歩行者に回さなければならない。そのうえで、新しい試みに果敢に取り組まなければ高齢社会に追いつけない。
自動車を減らす
現実の日本の地方都市や郊外で自動車依存を変えることは簡単ではないことも明らかである。それを前提とした対応が必要である。その一つは、自動車を世帯や個人で所有せずに、複数の人で共有したり、声を掛け合って相乗りするなど、必要な時だけ自動車を利用する形態を広げることである。世帯出費が減り、敷地内の駐車場も不要になるし、街の中を走る車の量を減らせるので交通施設の量も減らせる。
公共交通利用の共同購入
市民に問えば、公共交通の充実は必ず求められるのだが実際には利用されない。今は使わないけどそのうち利用する市民ばかりでは公共交通は破綻してしまう。コミュニティは一定の乗車人数の確保を確約し、交通事業者は一定の運賃を確約する。双方がとり決めを交わすことで安定した交通サービスを実現する。
物やサービスを届ける
買物難民問題に対して交通手段を充実することは、物やサービスの利用者が、それらが提供される拠点に移動できるようにすることであるが、他方では、利用者にサービスや物を直接届ける策も必要である。現状でも移動スーパーマーケットや高齢者の移動入浴サービス、様々な食材や食事の配達サービスなどがなされているが高機能化と効率化をはかることが必要である。また、高齢者人口比が増え続ける日本では「配達する」対象を医療サービスや、行政サービスなどに拡大しなければならない。現在日本では、医療や介護の場を、施設から住み慣れた自宅や地域に移そうとしているが、その実現にも物やサービスを届けるシステムを伴うことが必須になる。
担い手は市民
移動に関するサービス提供でも本書の基本認識--公的サービスをすべて市場原理に任せてしまうとサービス空白地域が増えるが、財政負担が増える一方の自治体にできることは限られるーが当てはまる。人口減少と高齢化の時代にあった新たな地域交通体系の構築において、コミュニティが主体的に将来像を描き、自ら管理しなければならない。直接の受益者である市民に担い手としての自覚と負担が求められる。例えば、本稿で提案した解決策で言えば、道路の一方通行を増やせば自動車を使うには不便になることを市民が受け入れなければならない。バス停ごとに貸し自転車を置いて廉価で利用できるようにするためには、管理の一部を住民が担う必要がある。電車やバスに自転車を持ち込むためには、利用者の自己責任が求められる。こうしたことを受け入れる条件は、市民が、若い時は自動車があれば快適で便利でも、いずれそれがままならなくなる時がやってくるという危機感を共有することである。こうした対応は市民個人ではできない。CMAのような住民組織の出番である。もう一つ重要なことは、いずれの解決策も、それを実施しようとすると多かれ少なかれ、現行の自動車優先の傾向にある日本の交通行政の制度との衝突が避けられないということである。それを乗り越えるためにも市民的合意が必要なのである。
このように障害を並べ立てると、先の解決策がどれも夢の理想論のようにみえてしまうが、ヨーロッパの諸都市では、すでにいくつかのことを実現している。日本はこの点では後進国にすぎないことを認識すべきである。
今や物と情報はどこにいても平等に届く時代である。移動の自由の程度は、大都市と地方中小都市を分け隔てる数少ない条件のIつと言ってよい。日本の中小都市が安心して生涯を送れる場所であり続けるためには地域社会の自動車過依存症からの脱出が不可欠である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
「ゴミの排出量が減らない」問題に対するシンプルクエスチョン
『バックキャスト思考』より
「シンプルクエスチョン」を繰り返し、本質的な「真の制約」を明らかにする
真の制約を明らかにするツール
「シンプルクエスチョン」とは
見える制約は、解決したい課題に関連する資料を集めたり、周辺事情に詳しい人や専門家にヒアリングをおこなえば集めることが可能です。しかし、見えない制約はそういうわけにはいきません。しかも、わたしたちが抱える課題の多くには、複数の原因が互いに複雑に関係し合っています。
このような複雑な複層制約の構造を可視化し、本質的な制約を明らかにするツールが「シンプルクエスチョン」という手法です。
シンプルクエスチョンでは、実際に起こっている現象に対し、頭に浮かぶシンプルな疑問を繰り返し投げかけます。その解答を考えることで、問題の本質的な原因と構造を明らかにしていくことができるのです。
実際にあった例を1つ挙げましょう。ある自治体が「ゴミの排出量が減らない」という環境問題を抱えていました。その自治体ぱ「住民の環境意識の低さ」がおもな原因(制約)だと考え、環境意識を高めるためのPR活動やスーパーにおけるレジ袋の有料化と廃止、エコバッグ・マイバッグの推奨といった施策をおこないます。これは、制約を取り除く、フォーキャスト思考での解決だといえるでしょう。その結果、エコバックをつかう人は大幅に増え、住民の環境意識はたしかに高まったように見えました。ところが、期待されたほどゴミは減らす、それどころか、しばらくすると再び増加し始めるようになったのです。
この現象に対して「住民の環境意識は本当に高まったのだろうか?」「環境意識が高まってもゴミの排出量が減らないのはなぜだろう?」といった疑問を投げかけるのがシンプルクエスチョンです。上図のようなイメージです。
では、具体的に見ていきましょう。
「ゴミの排出量が減らない」問題に対するシンプルクエスチョン
Q「レジ袋廃止で、本当に環境意識は高まったのだろうか?」
⇒エコバッグやマイバッグは広く普及し、浸透した。地域住民の環境意識は明らかに高まっている。ゴミが減らないのはそれ以外の原因があるか、意識の高まりが足りないせいではないか。
Q「環境意識が高まっても、ゴミが減らないのはなぜだろう?」
⇒家庭ゴミに含まれるプラスチックのうち、容器・包装材ぱ体積比の95%(うちレジ袋約15%)、湿重量比83%(同約14%)で、圧倒的に多いのはトレーなどその他のプラスチックである。(京都市の調査結果)さらにレジ袋のライフサイクルCO2(製品の製造、輸送、販売、使用、廃棄、再利用に至る全段階での二酸化炭素発生量)は日本全体のO・23%程度で、その環境負荷は精肉や刺身などの食品用トレーの10分の1程度。レジ袋の削減だけでは、ゴミの減量効果、環境への貢献もかなり限定的なものとなる。
Q「なぜ、レジ袋を廃止したのだろう?」
⇒スーパーマーケットという小売業態は、1回しかつかわれないで捨てられる「使い捨て容器包装」を大量につかうことを前提としている。なぜなら、すでにパッケージされた既存の商品はもちろんのこと、自社商品にも使い捨て容器包装資材を用いることで、多彩な商品を大量に店舗に陳列することが可能になるから。さらにセルフレジを導入することで、対面販売にかかる人件費も節約できる。このような仕組みを持つスーパーマーケット業者にとって、レジ袋の削減とマイバッグの推奨は、他の使い捨て容器包装よりも取り組みやすい部分だった。
Q「使い捨て容器包装は、どうして増え続けているのだろう?」
⇒スーパーマーケットという業態は、使い捨て容器包装大量消費型の買い物ライフスタイルに支えられて発展してきた。また、レジ袋以外の使い捨て容器包装資材は、食品や製品の衛生管理、品質保持にも大きく貢献している。多くの消費者はその便利さに依存しており、小売業者や容器の製造業者もそのライフスタイルを維持するシステムを築いている。レジ袋の削減後も、その構造は変わっていないから。
Q「スーパーマーケットは、どうしてレジ袋以外の使い捨て容器を削減しないのだろう?」
⇒衛生面や品質保持といった機能面をカバーできる代替品を開発する必要があるが、そこに取り組むことができるのは、容器包装の製造事業者である。また、丁寧な包装を好む日本人の社会的慣習もあるので、業者単体はもちろん、小売業界だけで対応することは難しい。
Q「容器包装製造事業者は、使い捨て容器の削減にどうして積極的ではないのだろう?」
⇒容器包装製造事業者にとって、レジ袋の有料化や削減自体がビジネス的にはマイナスであり、むしろ既存の生産構造を維持することに終始しているのが現状。現在の包装に代わる製品を開発するという発想もあまりない。
シンプルクエスチョンは、このように何度も何度も繰り返すことが重要です。
問いと答えを列挙していくことで制約の本質が見えてくるからです。この事例でいえば、「住民の環境意識の低さ」という制約がこの問題の最大の原因でぱないことは、すぐにおわかりでしょう。
レジ袋の削減は、環境問題への意識つくりの第一歩には貢献できていたのです。しかし、その先の戦略や戦術が検討されていなかったので、単発的な施策に終わっていたのだといえるでしょう。
注目していただきたいのは、多くの問いと答えで共通して登場する「軸」です。ここから「見えない制約」が浮かび上がってくるのです。
この場合は「使い捨て容器包装」が軸にあたると考えられるでしょう。
すると「使い捨て容器包装を前提とした生産システム」という「隠れた制約」が浮かび上がってきます。つまり、この制約をできる範囲で排除しようとしたフォーキャスト思考の結果が「レジ袋の有料化と削減」という施策だったわけです。その施策は環境意識を高めるきっかけにはなったものの、1回しか使用できない容器包装をつかい続けるシステムとそれを消費するライフスタイルを変えるには至らす、根本的な問題である「容器包装廃棄物問題の解決」にはつながらなかったということが見えてくるのです。
なお、実際のシンプルクエスチョンは、これで終わりではありません。新たに見つけた制約と現象に対して「どうして企業はゴヽI問題を悪化させるシステムを維持し続けてしまうのか?」といった問いをさらに投げかけ、解を考えるという作業を繰り返していきます。「○回くらいやれば十分」ということはありません。繰り返せば繰り返すほど、より本質的な「真の制約」にたどり着き、画期的な解を導き出すことができるからです。
実際には、シンプルクエスチョンをある程度の回数繰り返し、その段階で見出した「真の制約」をいったん受け入れ、STEP3以降に進んで、シミュレーション(未来像を描き、そこへの道筋を開く解を考えてみる)をおこない、その結果がうまくいかない場合は、再びSTEP2に戻るという手順を踏むとよいでしょう。
「シンプルクエスチョン」を繰り返し、本質的な「真の制約」を明らかにする
真の制約を明らかにするツール
「シンプルクエスチョン」とは
見える制約は、解決したい課題に関連する資料を集めたり、周辺事情に詳しい人や専門家にヒアリングをおこなえば集めることが可能です。しかし、見えない制約はそういうわけにはいきません。しかも、わたしたちが抱える課題の多くには、複数の原因が互いに複雑に関係し合っています。
このような複雑な複層制約の構造を可視化し、本質的な制約を明らかにするツールが「シンプルクエスチョン」という手法です。
シンプルクエスチョンでは、実際に起こっている現象に対し、頭に浮かぶシンプルな疑問を繰り返し投げかけます。その解答を考えることで、問題の本質的な原因と構造を明らかにしていくことができるのです。
実際にあった例を1つ挙げましょう。ある自治体が「ゴミの排出量が減らない」という環境問題を抱えていました。その自治体ぱ「住民の環境意識の低さ」がおもな原因(制約)だと考え、環境意識を高めるためのPR活動やスーパーにおけるレジ袋の有料化と廃止、エコバッグ・マイバッグの推奨といった施策をおこないます。これは、制約を取り除く、フォーキャスト思考での解決だといえるでしょう。その結果、エコバックをつかう人は大幅に増え、住民の環境意識はたしかに高まったように見えました。ところが、期待されたほどゴミは減らす、それどころか、しばらくすると再び増加し始めるようになったのです。
この現象に対して「住民の環境意識は本当に高まったのだろうか?」「環境意識が高まってもゴミの排出量が減らないのはなぜだろう?」といった疑問を投げかけるのがシンプルクエスチョンです。上図のようなイメージです。
では、具体的に見ていきましょう。
「ゴミの排出量が減らない」問題に対するシンプルクエスチョン
Q「レジ袋廃止で、本当に環境意識は高まったのだろうか?」
⇒エコバッグやマイバッグは広く普及し、浸透した。地域住民の環境意識は明らかに高まっている。ゴミが減らないのはそれ以外の原因があるか、意識の高まりが足りないせいではないか。
Q「環境意識が高まっても、ゴミが減らないのはなぜだろう?」
⇒家庭ゴミに含まれるプラスチックのうち、容器・包装材ぱ体積比の95%(うちレジ袋約15%)、湿重量比83%(同約14%)で、圧倒的に多いのはトレーなどその他のプラスチックである。(京都市の調査結果)さらにレジ袋のライフサイクルCO2(製品の製造、輸送、販売、使用、廃棄、再利用に至る全段階での二酸化炭素発生量)は日本全体のO・23%程度で、その環境負荷は精肉や刺身などの食品用トレーの10分の1程度。レジ袋の削減だけでは、ゴミの減量効果、環境への貢献もかなり限定的なものとなる。
Q「なぜ、レジ袋を廃止したのだろう?」
⇒スーパーマーケットという小売業態は、1回しかつかわれないで捨てられる「使い捨て容器包装」を大量につかうことを前提としている。なぜなら、すでにパッケージされた既存の商品はもちろんのこと、自社商品にも使い捨て容器包装資材を用いることで、多彩な商品を大量に店舗に陳列することが可能になるから。さらにセルフレジを導入することで、対面販売にかかる人件費も節約できる。このような仕組みを持つスーパーマーケット業者にとって、レジ袋の削減とマイバッグの推奨は、他の使い捨て容器包装よりも取り組みやすい部分だった。
Q「使い捨て容器包装は、どうして増え続けているのだろう?」
⇒スーパーマーケットという業態は、使い捨て容器包装大量消費型の買い物ライフスタイルに支えられて発展してきた。また、レジ袋以外の使い捨て容器包装資材は、食品や製品の衛生管理、品質保持にも大きく貢献している。多くの消費者はその便利さに依存しており、小売業者や容器の製造業者もそのライフスタイルを維持するシステムを築いている。レジ袋の削減後も、その構造は変わっていないから。
Q「スーパーマーケットは、どうしてレジ袋以外の使い捨て容器を削減しないのだろう?」
⇒衛生面や品質保持といった機能面をカバーできる代替品を開発する必要があるが、そこに取り組むことができるのは、容器包装の製造事業者である。また、丁寧な包装を好む日本人の社会的慣習もあるので、業者単体はもちろん、小売業界だけで対応することは難しい。
Q「容器包装製造事業者は、使い捨て容器の削減にどうして積極的ではないのだろう?」
⇒容器包装製造事業者にとって、レジ袋の有料化や削減自体がビジネス的にはマイナスであり、むしろ既存の生産構造を維持することに終始しているのが現状。現在の包装に代わる製品を開発するという発想もあまりない。
シンプルクエスチョンは、このように何度も何度も繰り返すことが重要です。
問いと答えを列挙していくことで制約の本質が見えてくるからです。この事例でいえば、「住民の環境意識の低さ」という制約がこの問題の最大の原因でぱないことは、すぐにおわかりでしょう。
レジ袋の削減は、環境問題への意識つくりの第一歩には貢献できていたのです。しかし、その先の戦略や戦術が検討されていなかったので、単発的な施策に終わっていたのだといえるでしょう。
注目していただきたいのは、多くの問いと答えで共通して登場する「軸」です。ここから「見えない制約」が浮かび上がってくるのです。
この場合は「使い捨て容器包装」が軸にあたると考えられるでしょう。
すると「使い捨て容器包装を前提とした生産システム」という「隠れた制約」が浮かび上がってきます。つまり、この制約をできる範囲で排除しようとしたフォーキャスト思考の結果が「レジ袋の有料化と削減」という施策だったわけです。その施策は環境意識を高めるきっかけにはなったものの、1回しか使用できない容器包装をつかい続けるシステムとそれを消費するライフスタイルを変えるには至らす、根本的な問題である「容器包装廃棄物問題の解決」にはつながらなかったということが見えてくるのです。
なお、実際のシンプルクエスチョンは、これで終わりではありません。新たに見つけた制約と現象に対して「どうして企業はゴヽI問題を悪化させるシステムを維持し続けてしまうのか?」といった問いをさらに投げかけ、解を考えるという作業を繰り返していきます。「○回くらいやれば十分」ということはありません。繰り返せば繰り返すほど、より本質的な「真の制約」にたどり着き、画期的な解を導き出すことができるからです。
実際には、シンプルクエスチョンをある程度の回数繰り返し、その段階で見出した「真の制約」をいったん受け入れ、STEP3以降に進んで、シミュレーション(未来像を描き、そこへの道筋を開く解を考えてみる)をおこない、その結果がうまくいかない場合は、再びSTEP2に戻るという手順を踏むとよいでしょう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )