『戦争と外交の世界史』より
The Civil War アメリカの将来を決めるために避けられなかった戦争
アメリカが一八六一年から六五年まで戦った国内の戦争を、日本では南北戦争と呼んでいます。国が南北二つに分かれて戦ったからなのですが、英語では市民戦争 Cicil War と呼び、アメリカでは定冠詞をつけて The Civil War と呼んでいます。アメリカで市民戦争といえば南北戦争を指します。アメリカの歴史の方向を決定づけた大戦争だったのです。
アメリカは第二次世界大戦で四〇・五万人、第一次世界大戦では一一・六万人、ペトナム戦争で五・八万人、朝鮮戦争で三・六万人の戦死者を出しています。しかし南北戦争の死者は五〇万人を超えていると推測されています。国内戦であるにもかかわらず桁外れに多い死者が出ていることは、この血みどろの戦争がアメリカの将来図をまとめるために、避けられないものであったことを物語っています。この章では、アメリカが南北戦争に至るまでの経緯を、この大国の領土が拡大していった過程をたどりながら話したいと思います。
ナポレオンからルイジアナを買収できたアメリカの幸運
ミシシッピー川の西岸地域を占めていたルイジアナ地方は、一八○○年代の始めの頃はフランス領でした。その領域はミシシッピー川流域に沿って北上し、現在のミネソタ州に至り、さらにはカナダ国境をも越える広大な地域でした。フランス人の探検家ラ・サールが一六八二年に探検し、フランス領であると宣言した土地です。ルイジアナとはフランス語で「ルイに所属するもの」といった意味合いで、当時のフランス王ルイー四世にちなんだ名前です。またルイジアナの代表的な都市ニューオーリンズは、ミシシッピー川河口に近い東岸に位置しますが、この都市はフランス人によって一七二八年に建設されました。ニューオーリンズはフランス語ではヌーベル・オルレアンです。最初の総督がオルレアン公でした。
当時のフランスはミシシッピー川の東側の土地をも領有していました。全体では北米大陸の大半を占める広大な面積の土地です。しかし、フランスは北米で戦われたフレンチ・インディアン戦争(一七五五-六三)と、ヨーロッパで戦われた七年戦争(一七五六-六三)によって、これらの領地をすべて失います。ミシシッピー川以東の地は連合王国領に、ニューオーリンズとルイジアナはスペイン領に。スペインは七年戦争でフランス側に立って戦ったので、自国領であったフロリダを連合王国に割譲せざるを得ませんでした(アメリカ独立戦争後に、またスペイン領に戻ります)。その代償として、フランスはニューオーリンズとルイジアナをスペインに譲ったのです。フランスの手を離れたこれらの土地は、数十年後、また持主が変わります。
ミシシッピー川以東の地はアメリカの独立後、連合王国からアメリカに割譲されました。ルイジアナとニューオーリンズは、ナポレオンの第一統領時代にフランスが取り返しました(一八〇〇)。
ナポレオンは取り戻した新大陸の領地について、次のような構想を抱いていたようです。
西インド諸島の中のキューバ島に次いで大きい島、イスハニョーラ島。この島はコロンの新大陸到達以来スペイン領でしたが、一六九七年のプファルツ継承戦争の講和条約、ライスワイク条約によって島の西側約三分の一がフランス領となりました。この西側の地は先住民族によってHaitiと呼ばれていました。この名称は、英語ではヘイティ、原地ではアイティと発音され、ハイチは日本語だけの用語です。フランスはハイチにアフリカ黒人奴隷を投入し、サトウキビのプランテーションを開発して、砂糖の一大生産地としていました。
ナポレオンはハイチを拠点として新大陸に砂糖産業地帯をつくり、その食糧補給を中心とした後背地としてルイジアナを利用することを計画していました。そしてその交易の中心として、ニューオーリンズの港を位置づけていたようです。ところがこのハイチの人々はたくましい反骨精神に満ちており、フランス革命の影響を受けて、スベイン統治時代の一七九一年から革命を起こしていたのです。その中心は黒人とムラートと呼ばれる白人と黒人の混血児たちでした。彼らはフランス革命の自由・平等・友愛の精神を主張しました。「我らにも独立を!」
もちろんナポレオンは、この革命状態を熟知していました。そして一八○二年、革命の有力指導者をフランスに連行し獄死させています。しかし革命騒ぎは収まらず、新しい指導者が登場するありさまでした。しかも(イチの革命分子を、フランスのライバルである連合王国が、ひそかに援助していることも明らかでした。さすがのナポレオンもハイチには手を焼いてしまいました。その独立を認めてしまったら、ルイジアナやニューオーリンズの戦略的価値も半減せざるを得ません。
同じ頃、誕生してまだ日の浅いアメリカはニューオーリンズ港を欲しい、と思っていました。アメリカはミシシッピー川東岸の地を、連合王国から割譲されています。そこにはテネシー、南北カロライナ、ジョージアなど、豊かな大農業地帯が含まれています。アメリカはこれらの地で得られる綿花に代表される農産物を、ミシシッピー川を運河としてニューオーリンズまで搬送し、その港から輸出する構想を持っていたのです。そのためにはニューオーリンズ港の使用権をフランスから獲得しなければなりません。そこで時の大統領トマス・ジェファーソンは、買収特使としてジェイムズ・モンローをナポレオンの所へ差し向けます。モンローは後に大統領となり、アメリカのモンロー主義を宣言した人物です。
交渉に当り、モンローは相当の出費を覚悟していたかもしれません。モンローがナポレオンと会ったのは一八○三年、ナポレオンがハイチ革命で煮え湯を呑まされた翌年でした。ナポレオンはモンローに言いました。
「いっそルイジアナ全部を売ってやるよ」
ハイチの独立は避けられそうもない雲行きなので、ナポレオンの構想からルイジアナもニューオーリンズも消えつつあったのです。しかも彼の主敵である連合王国に比べると、アメリカとはフランス革命の時から友好関係にあります。ルイジアナを売却した資金で連合王国を叩く、という計算があったのかも知れません。
そして二一○万k㎡のルイジアナは一五〇〇万ドルで、アメリカに売却されました。アメリカの面積はほとんど二倍となりました。予想以上に安い価格です。この一五〇〇万ドルの資金は、ネーデルランドのホープ商会と連合王国のベアリング銀行が融資しました。連合王国側の銀行がアメリカに資金を融資したということは、ドライに商売を優先したか、それともアメリカに恩を売っておこうと考えたのか、興味のあるところですが。
このルイジアナ買収は、とてつもなくラッキーでした。ジェファーソン大統領はミシシッピー以東の農産物の流通のために、ニューオーリンズ港の譲渡を求めた。ところがナポレオンはニューオーリンズだけではなくミシシッピー川西岸の全流域を、アメリカに売却したのですから。
あまりにも多くの血が流れた政策論争
戦争は一八六一年に始まり一八六五年、北軍の勝利で終わりました。発端は一八六〇年に北部の支持するリンカーンが大統領に当選したことを契機として、南部一一州がアメリカ連合国を結成し、アメリカ連邦政府から脱退したことに始まります。その首都はリッチモンド。南軍の指揮官は名将リー将軍でした。
両軍を比較してみます。北軍(連邦国側)は二三州、人口は約二、二〇〇万。南軍(連合国側)は一一州、人口は黒人奴隷を含めて約九〇〇万(そのうち黒人奴隷が約四○○万)、しかし、黒人は戦いに参加せず、白人だけでは約五〇〇万でした。つまり南部の白人は北部の四分の一以下の人数で戦ったのです。
南軍が四分の一に満たない人口で、四年間も戦えたのは何故か。南部にはリー将軍を始めとして、優秀な将校が多かったからです。南部の裕福な農家の男子は、士官学校に進むことが多かったのです。このような傾向は発展途上段階の国家によくあることで、時の強国プロイセンの将校の多くも、豪農である地方貴族、ユンカーの出身者でした。一方で、アメリカ北部は多くの都市がある工業地帯で、軍関係に進む人は少なかったのです。
なお南北戦争時、南軍の首都のリッチモンドと北軍の首都ワシントンは、南北わずか一六〇キロしか離れていませんでした。そのために南北戦争の主たる戦場は、そのほとんどが東部戦線にありました。西部の戦場はテネシー州のナッシュヴィルやジョージア州のアトランタなど、数カ所にすぎませんでした。
南北戦争は一国の将来を決める政策論争を、あいまいな妥協で結着させず、血を流して決定した厳しい市民戦争でした。この市民戦争の記憶はアメリカの市民意識の中に、強烈に刻まれていると思います。
マーガレット・ミッチエルの大作『風と共に去りぬ』という小説の題名は、絶頂期にあったアメリカ南部の白人たちの豪華で貴族的な社会と文化が、南北戦争という一陣の風によって消え去ったことを寓意しています。良きにつけ悪しきにつけ、アメリカ人の歴史にとって忘れてはならない史実を綴った、大切な古典なのだと思います。
The Civil War アメリカの将来を決めるために避けられなかった戦争
アメリカが一八六一年から六五年まで戦った国内の戦争を、日本では南北戦争と呼んでいます。国が南北二つに分かれて戦ったからなのですが、英語では市民戦争 Cicil War と呼び、アメリカでは定冠詞をつけて The Civil War と呼んでいます。アメリカで市民戦争といえば南北戦争を指します。アメリカの歴史の方向を決定づけた大戦争だったのです。
アメリカは第二次世界大戦で四〇・五万人、第一次世界大戦では一一・六万人、ペトナム戦争で五・八万人、朝鮮戦争で三・六万人の戦死者を出しています。しかし南北戦争の死者は五〇万人を超えていると推測されています。国内戦であるにもかかわらず桁外れに多い死者が出ていることは、この血みどろの戦争がアメリカの将来図をまとめるために、避けられないものであったことを物語っています。この章では、アメリカが南北戦争に至るまでの経緯を、この大国の領土が拡大していった過程をたどりながら話したいと思います。
ナポレオンからルイジアナを買収できたアメリカの幸運
ミシシッピー川の西岸地域を占めていたルイジアナ地方は、一八○○年代の始めの頃はフランス領でした。その領域はミシシッピー川流域に沿って北上し、現在のミネソタ州に至り、さらにはカナダ国境をも越える広大な地域でした。フランス人の探検家ラ・サールが一六八二年に探検し、フランス領であると宣言した土地です。ルイジアナとはフランス語で「ルイに所属するもの」といった意味合いで、当時のフランス王ルイー四世にちなんだ名前です。またルイジアナの代表的な都市ニューオーリンズは、ミシシッピー川河口に近い東岸に位置しますが、この都市はフランス人によって一七二八年に建設されました。ニューオーリンズはフランス語ではヌーベル・オルレアンです。最初の総督がオルレアン公でした。
当時のフランスはミシシッピー川の東側の土地をも領有していました。全体では北米大陸の大半を占める広大な面積の土地です。しかし、フランスは北米で戦われたフレンチ・インディアン戦争(一七五五-六三)と、ヨーロッパで戦われた七年戦争(一七五六-六三)によって、これらの領地をすべて失います。ミシシッピー川以東の地は連合王国領に、ニューオーリンズとルイジアナはスペイン領に。スペインは七年戦争でフランス側に立って戦ったので、自国領であったフロリダを連合王国に割譲せざるを得ませんでした(アメリカ独立戦争後に、またスペイン領に戻ります)。その代償として、フランスはニューオーリンズとルイジアナをスペインに譲ったのです。フランスの手を離れたこれらの土地は、数十年後、また持主が変わります。
ミシシッピー川以東の地はアメリカの独立後、連合王国からアメリカに割譲されました。ルイジアナとニューオーリンズは、ナポレオンの第一統領時代にフランスが取り返しました(一八〇〇)。
ナポレオンは取り戻した新大陸の領地について、次のような構想を抱いていたようです。
西インド諸島の中のキューバ島に次いで大きい島、イスハニョーラ島。この島はコロンの新大陸到達以来スペイン領でしたが、一六九七年のプファルツ継承戦争の講和条約、ライスワイク条約によって島の西側約三分の一がフランス領となりました。この西側の地は先住民族によってHaitiと呼ばれていました。この名称は、英語ではヘイティ、原地ではアイティと発音され、ハイチは日本語だけの用語です。フランスはハイチにアフリカ黒人奴隷を投入し、サトウキビのプランテーションを開発して、砂糖の一大生産地としていました。
ナポレオンはハイチを拠点として新大陸に砂糖産業地帯をつくり、その食糧補給を中心とした後背地としてルイジアナを利用することを計画していました。そしてその交易の中心として、ニューオーリンズの港を位置づけていたようです。ところがこのハイチの人々はたくましい反骨精神に満ちており、フランス革命の影響を受けて、スベイン統治時代の一七九一年から革命を起こしていたのです。その中心は黒人とムラートと呼ばれる白人と黒人の混血児たちでした。彼らはフランス革命の自由・平等・友愛の精神を主張しました。「我らにも独立を!」
もちろんナポレオンは、この革命状態を熟知していました。そして一八○二年、革命の有力指導者をフランスに連行し獄死させています。しかし革命騒ぎは収まらず、新しい指導者が登場するありさまでした。しかも(イチの革命分子を、フランスのライバルである連合王国が、ひそかに援助していることも明らかでした。さすがのナポレオンもハイチには手を焼いてしまいました。その独立を認めてしまったら、ルイジアナやニューオーリンズの戦略的価値も半減せざるを得ません。
同じ頃、誕生してまだ日の浅いアメリカはニューオーリンズ港を欲しい、と思っていました。アメリカはミシシッピー川東岸の地を、連合王国から割譲されています。そこにはテネシー、南北カロライナ、ジョージアなど、豊かな大農業地帯が含まれています。アメリカはこれらの地で得られる綿花に代表される農産物を、ミシシッピー川を運河としてニューオーリンズまで搬送し、その港から輸出する構想を持っていたのです。そのためにはニューオーリンズ港の使用権をフランスから獲得しなければなりません。そこで時の大統領トマス・ジェファーソンは、買収特使としてジェイムズ・モンローをナポレオンの所へ差し向けます。モンローは後に大統領となり、アメリカのモンロー主義を宣言した人物です。
交渉に当り、モンローは相当の出費を覚悟していたかもしれません。モンローがナポレオンと会ったのは一八○三年、ナポレオンがハイチ革命で煮え湯を呑まされた翌年でした。ナポレオンはモンローに言いました。
「いっそルイジアナ全部を売ってやるよ」
ハイチの独立は避けられそうもない雲行きなので、ナポレオンの構想からルイジアナもニューオーリンズも消えつつあったのです。しかも彼の主敵である連合王国に比べると、アメリカとはフランス革命の時から友好関係にあります。ルイジアナを売却した資金で連合王国を叩く、という計算があったのかも知れません。
そして二一○万k㎡のルイジアナは一五〇〇万ドルで、アメリカに売却されました。アメリカの面積はほとんど二倍となりました。予想以上に安い価格です。この一五〇〇万ドルの資金は、ネーデルランドのホープ商会と連合王国のベアリング銀行が融資しました。連合王国側の銀行がアメリカに資金を融資したということは、ドライに商売を優先したか、それともアメリカに恩を売っておこうと考えたのか、興味のあるところですが。
このルイジアナ買収は、とてつもなくラッキーでした。ジェファーソン大統領はミシシッピー以東の農産物の流通のために、ニューオーリンズ港の譲渡を求めた。ところがナポレオンはニューオーリンズだけではなくミシシッピー川西岸の全流域を、アメリカに売却したのですから。
あまりにも多くの血が流れた政策論争
戦争は一八六一年に始まり一八六五年、北軍の勝利で終わりました。発端は一八六〇年に北部の支持するリンカーンが大統領に当選したことを契機として、南部一一州がアメリカ連合国を結成し、アメリカ連邦政府から脱退したことに始まります。その首都はリッチモンド。南軍の指揮官は名将リー将軍でした。
両軍を比較してみます。北軍(連邦国側)は二三州、人口は約二、二〇〇万。南軍(連合国側)は一一州、人口は黒人奴隷を含めて約九〇〇万(そのうち黒人奴隷が約四○○万)、しかし、黒人は戦いに参加せず、白人だけでは約五〇〇万でした。つまり南部の白人は北部の四分の一以下の人数で戦ったのです。
南軍が四分の一に満たない人口で、四年間も戦えたのは何故か。南部にはリー将軍を始めとして、優秀な将校が多かったからです。南部の裕福な農家の男子は、士官学校に進むことが多かったのです。このような傾向は発展途上段階の国家によくあることで、時の強国プロイセンの将校の多くも、豪農である地方貴族、ユンカーの出身者でした。一方で、アメリカ北部は多くの都市がある工業地帯で、軍関係に進む人は少なかったのです。
なお南北戦争時、南軍の首都のリッチモンドと北軍の首都ワシントンは、南北わずか一六〇キロしか離れていませんでした。そのために南北戦争の主たる戦場は、そのほとんどが東部戦線にありました。西部の戦場はテネシー州のナッシュヴィルやジョージア州のアトランタなど、数カ所にすぎませんでした。
南北戦争は一国の将来を決める政策論争を、あいまいな妥協で結着させず、血を流して決定した厳しい市民戦争でした。この市民戦争の記憶はアメリカの市民意識の中に、強烈に刻まれていると思います。
マーガレット・ミッチエルの大作『風と共に去りぬ』という小説の題名は、絶頂期にあったアメリカ南部の白人たちの豪華で貴族的な社会と文化が、南北戦争という一陣の風によって消え去ったことを寓意しています。良きにつけ悪しきにつけ、アメリカ人の歴史にとって忘れてはならない史実を綴った、大切な古典なのだと思います。