未唯への手紙
未唯への手紙
2.3.1~2.4.4
2.3.1
サファイア循環で、配置された点から循環させることで空間を作る手順を作り上げた。
(内と外)、(部分と全体)のように分けて、(思考と行動)という要素を加えて、四つのサブ空間を作る。それらの間を循環させることで空間が作られる。
2.3.2
循環には方向がある。全体で考えて、部分で行動するのが民主主義だが、部分で考えて、全体で行動すると全体主義になる。
全体への提案と部分への支援が循環を可能にする。
2.3.3
点は面積を持つことができる。それが近傍。それを連続性で連鎖することでカバーリングが行える。点から空間を作り出します。
プレーンでない限りは特異点が発生する。次元の異なる空間だが、連鎖を使えば、特異点は回避できる。これがトポロジーのアイデア。
2.3.4
全体というのは、既与のものではなく、作られるものです。全体を規定する。
現実の空間は全体を多重化したもので疑似すれば、その上で挙動解析が可能になる。これは位相空間のなせる技です。
近傍は基本空間とのマッピングが保証されます。
2.4.1「未唯空間として」
25年前に私に与えられたものを考え抜いて、集めることにしました。それを未唯空間と名づけて、表現することにした。私に与えられた偶然、ツール、そして時間を使ってきた。
2.4.2「空間とは何か」
空間の条件は体系化できること、全体として意味があること、そして空間そのものが一つの点になること。
民主主義が空間であれば、「自由」で表現される。今、「平等」まで含んだ空間が必要になってきている。空間が点になれば、次元を上げることが出来る。
2.4.3「数学の空間」
数学には多くのヒントが与えられている。逆関数でマッピングすることで疑似空間ができる。疑似空間で挙動解析することで実空間の意味がわかってくる。
未唯空間のような一塊の世紀空間、それを多重化した宇宙では制約を超越できる。地球原理を多重世界で説明するような飛躍も可能になる。
2.4.4「社会を取り込む」
未唯宇宙では社会を取り込んでいく。ターゲットは社会ではなく、その先の宇宙そのもの。社会を挟み込む。
社会の様相を把握して、位相社会に向かう準備をしていく。情報共有で個々が伝播する力が増してきている。社会変革の提案をしていく。数学の凄さを示すときです。
サファイア循環で、配置された点から循環させることで空間を作る手順を作り上げた。
(内と外)、(部分と全体)のように分けて、(思考と行動)という要素を加えて、四つのサブ空間を作る。それらの間を循環させることで空間が作られる。
2.3.2
循環には方向がある。全体で考えて、部分で行動するのが民主主義だが、部分で考えて、全体で行動すると全体主義になる。
全体への提案と部分への支援が循環を可能にする。
2.3.3
点は面積を持つことができる。それが近傍。それを連続性で連鎖することでカバーリングが行える。点から空間を作り出します。
プレーンでない限りは特異点が発生する。次元の異なる空間だが、連鎖を使えば、特異点は回避できる。これがトポロジーのアイデア。
2.3.4
全体というのは、既与のものではなく、作られるものです。全体を規定する。
現実の空間は全体を多重化したもので疑似すれば、その上で挙動解析が可能になる。これは位相空間のなせる技です。
近傍は基本空間とのマッピングが保証されます。
2.4.1「未唯空間として」
25年前に私に与えられたものを考え抜いて、集めることにしました。それを未唯空間と名づけて、表現することにした。私に与えられた偶然、ツール、そして時間を使ってきた。
2.4.2「空間とは何か」
空間の条件は体系化できること、全体として意味があること、そして空間そのものが一つの点になること。
民主主義が空間であれば、「自由」で表現される。今、「平等」まで含んだ空間が必要になってきている。空間が点になれば、次元を上げることが出来る。
2.4.3「数学の空間」
数学には多くのヒントが与えられている。逆関数でマッピングすることで疑似空間ができる。疑似空間で挙動解析することで実空間の意味がわかってくる。
未唯空間のような一塊の世紀空間、それを多重化した宇宙では制約を超越できる。地球原理を多重世界で説明するような飛躍も可能になる。
2.4.4「社会を取り込む」
未唯宇宙では社会を取り込んでいく。ターゲットは社会ではなく、その先の宇宙そのもの。社会を挟み込む。
社会の様相を把握して、位相社会に向かう準備をしていく。情報共有で個々が伝播する力が増してきている。社会変革の提案をしていく。数学の凄さを示すときです。
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ジェンダー平等は平和の基礎か
『平和をめぐる14の論点』より ⇒ ジェンダーには家族制度を変革する使命が未達成! 適当なところで自己満足している。
ジェンダー平等は平和の基礎か
「ジェンダー平等は平和の基礎か」という問いに答えるには、いくつかの段階を踏む必要がある。まず、ジェンダーが規範と権力の生成を読み解くきわめて政治的な概念であることを踏まえた上で、ジェンダーの視点で「平時」と呼ばれる状態を捉え直す必要がある。次に、戦争や武力紛争でジェンダーがどのように再定義され、暴力の経路となるのか明らかにしなければならない。これらは、「紛争後の平和構築」における「平和」とは、誰にとっての何のための「平和」なのかにという問いにつながってくる。一方、階級、人種、民族、南北の対立構造の中で、男女平等を追求することの限界と陥穿が問われ続けてきた。ならば、フェミニズムの理論と運動が「平和」に提供すべき固有の貢献は何なのだろうか。そうした問いを重ねながら本命題に答えていく。
4 ジェンダー平等に落とし穴はあるのか
Yes である。女性だからといって直面する状況が一様でないことは自明である。女性は人種、民族、階級、宗教、南北関係などに係わる階層秩序の中で生きている。フェミニズムの当初の目標は、各国で女性が男性と同等の政治的権利(参政権)を獲得することであった。その過程においても、中産階級と労働者階級の対立、共産主義との距離、植民地支配への立場、そして、体制が遂行する戦争への協力の是非において女性運動は一枚岩ではなかった。戦後の第二派フェミニズムは改めてその問いと向きあうことになった。
冷戦下の1975年にメキシコで開催された第1回国連世界女性会議では資本主義国、社会主義国、発展途上国の対立が鮮明となり、テーマの「平等、開発、平和」は、それぞれの陣営の関心を並べたものとなった。フェミニストたちは各陣営・各国代表のポリティックスに巻き込まれ、対立させられた。第三世界のフェミニストは植民地支配の歴史と現代の南北問題に無自覚な先進諸国のフェミニストを攻撃し、第二世界の女性たちは米国の覇権主義と軍拡を非難した。しかし、その経験から、伝統的形態の家父長制のみを非難するのではなく、家父長制は尽塙では軍事主義や新植民地主義の中に体現されているという認識が生まれた。そして、フェミニズムは、「平等」「開発」「平和」を単体ではなく、その連関を捉え、ジェンダーによる抑圧と南北の経済格差や多国籍企業の行動や抑圧的体制や大国の軍事的支配(代理戦争と独裁政権の容認)の共謀関係に切込むという新たな挑戦に乗り出した。
1980年代になると、ポストコロニアリズム批評やサバルタン・スタディーズが植民地主義と性差別の親和性を照射した。岡真理は「伝統や因習の犠牲となる女性への共感の中には植民地主義の論理が見られる」と警告を発している。岡は、FGM (女性性器切除)廃絶を目指すアフリカの女性たちが、FGM廃絶を唱道する西欧の女性たちに向けて発した非難に注目した。
「性器切除を無知、反啓蒙主義、搾取、貧困等のコンテクストに位置づけることなく、また、このような状況を永続化させる構造的、社会的関係を問うことなく、性器切除と闘うことは、〈白昼に太陽を見まいとする〉に等しい。これは、しかしながら、多くの西洋人がとっているアプローチであり、極めて疑わしいものである。なぜなら、西洋の者たちが、アフリカの人々、女性たちの搾取から直接的、間接的に、利益を得ているからである。(AAWORD [研究と発展のためのアフリカ女性協会1980年]がコペンハーゲンで開催された国連世界女性会議へ発出した声明)」
9・11後、タリバンによる女性の抑圧に反対する米国のフェミニストたちが一般市民を巻き添えにするアフガン攻撃をめぐって立場が分かれたように、このバトルはいまだに続いている。一方、途上国の債務危機の原因とIMFによる構造調整政策の社会的影響を解明する過程で、グローバルな金融体制が女性に与える影響への研究も始まった。
ジェンダーを非対称で序列的な分岐線と規定したクリスチーヌ・デルフィは、ジェンダー平等の陥穿について以下のように語った。「ジェンダーの問題提起の中で、男性を定義するなら、男性は、まずなによりも支配者である。彼らに似ることは支配者になることだ」と。女性(を含めてマイノリティー)が自己の状況を改善しようと動くとき、機会の拡大や地位の向上と引き換えに体制や権力側から忠誠を要求されることが多々ある。その結果、戦争や紛争においてエスニックやナショナルなアイデンティティに従って戦争の遂行や暴力行為に積極的に加担したり、「男性なみの企業戦士」となったり、「男性なみに軍隊に参加する」ことを選択したりするのである。
ジェノサイド後に多くのジェンダー課題を抱えたルワンダでは2003年に女性議員クォータ制が憲法に導入され、女性の飛躍的政治進出が実現した。しかし、女性の国会議員はすべて与党ルワンダ愛国戦線(PRF)から推薦を受けた者であり、同じ女性でも現政権の批判者は弾圧を受けている。例えば、野党FDU党のインガビレ党首は2010年の大統領選挙に出馬するために亡命先のオランダから帰国すると「ジェノサイド・イデオロギー法」違反とテロ共謀容疑によって長期間拘留された。彼女の主張は、ツチとフツの両方を虐殺の被害者として認めること、真実を語ることによる和解、そして多党制の導入である。ルワンダでは他の野党メンバー、ジャーナリスト、人権活動家やNGOもRPFを批判すると標的にされる。600万~1000万人の犠牲者を出した2回のコンゴ戦争は、ルワンダ軍の侵攻で始まった。その目的は、当初はコンゴに逃亡した虐殺の首謀者から国土を防衛することだったが、途中でコンゴの天然資源を奪うことに変質した。この戦争への批判もタブーである。
インドの零細経済部門で働く女性たちを組織したSEWA(自営女性協会)の創始者であるイラ・バットは、参画の意味について「私たちはただパイの一切れが欲しいのではなく、その味も選びたいし、その作り方も知りたい」と語った。社会学者の上野千鶴子は、「フェミニズムはたんに国家が占有し国民に恣意的に与えてきた市民的諸権利(義務を含む)の分配平等を要求する思想ではない」と強調する。では、フェミニストはどんなパイをどんな方法で作りたいのか。フェミニズムは何を目指すのか。
ジェンダー平等は平和の基礎か
「ジェンダー平等は平和の基礎か」という問いに答えるには、いくつかの段階を踏む必要がある。まず、ジェンダーが規範と権力の生成を読み解くきわめて政治的な概念であることを踏まえた上で、ジェンダーの視点で「平時」と呼ばれる状態を捉え直す必要がある。次に、戦争や武力紛争でジェンダーがどのように再定義され、暴力の経路となるのか明らかにしなければならない。これらは、「紛争後の平和構築」における「平和」とは、誰にとっての何のための「平和」なのかにという問いにつながってくる。一方、階級、人種、民族、南北の対立構造の中で、男女平等を追求することの限界と陥穿が問われ続けてきた。ならば、フェミニズムの理論と運動が「平和」に提供すべき固有の貢献は何なのだろうか。そうした問いを重ねながら本命題に答えていく。
4 ジェンダー平等に落とし穴はあるのか
Yes である。女性だからといって直面する状況が一様でないことは自明である。女性は人種、民族、階級、宗教、南北関係などに係わる階層秩序の中で生きている。フェミニズムの当初の目標は、各国で女性が男性と同等の政治的権利(参政権)を獲得することであった。その過程においても、中産階級と労働者階級の対立、共産主義との距離、植民地支配への立場、そして、体制が遂行する戦争への協力の是非において女性運動は一枚岩ではなかった。戦後の第二派フェミニズムは改めてその問いと向きあうことになった。
冷戦下の1975年にメキシコで開催された第1回国連世界女性会議では資本主義国、社会主義国、発展途上国の対立が鮮明となり、テーマの「平等、開発、平和」は、それぞれの陣営の関心を並べたものとなった。フェミニストたちは各陣営・各国代表のポリティックスに巻き込まれ、対立させられた。第三世界のフェミニストは植民地支配の歴史と現代の南北問題に無自覚な先進諸国のフェミニストを攻撃し、第二世界の女性たちは米国の覇権主義と軍拡を非難した。しかし、その経験から、伝統的形態の家父長制のみを非難するのではなく、家父長制は尽塙では軍事主義や新植民地主義の中に体現されているという認識が生まれた。そして、フェミニズムは、「平等」「開発」「平和」を単体ではなく、その連関を捉え、ジェンダーによる抑圧と南北の経済格差や多国籍企業の行動や抑圧的体制や大国の軍事的支配(代理戦争と独裁政権の容認)の共謀関係に切込むという新たな挑戦に乗り出した。
1980年代になると、ポストコロニアリズム批評やサバルタン・スタディーズが植民地主義と性差別の親和性を照射した。岡真理は「伝統や因習の犠牲となる女性への共感の中には植民地主義の論理が見られる」と警告を発している。岡は、FGM (女性性器切除)廃絶を目指すアフリカの女性たちが、FGM廃絶を唱道する西欧の女性たちに向けて発した非難に注目した。
「性器切除を無知、反啓蒙主義、搾取、貧困等のコンテクストに位置づけることなく、また、このような状況を永続化させる構造的、社会的関係を問うことなく、性器切除と闘うことは、〈白昼に太陽を見まいとする〉に等しい。これは、しかしながら、多くの西洋人がとっているアプローチであり、極めて疑わしいものである。なぜなら、西洋の者たちが、アフリカの人々、女性たちの搾取から直接的、間接的に、利益を得ているからである。(AAWORD [研究と発展のためのアフリカ女性協会1980年]がコペンハーゲンで開催された国連世界女性会議へ発出した声明)」
9・11後、タリバンによる女性の抑圧に反対する米国のフェミニストたちが一般市民を巻き添えにするアフガン攻撃をめぐって立場が分かれたように、このバトルはいまだに続いている。一方、途上国の債務危機の原因とIMFによる構造調整政策の社会的影響を解明する過程で、グローバルな金融体制が女性に与える影響への研究も始まった。
ジェンダーを非対称で序列的な分岐線と規定したクリスチーヌ・デルフィは、ジェンダー平等の陥穿について以下のように語った。「ジェンダーの問題提起の中で、男性を定義するなら、男性は、まずなによりも支配者である。彼らに似ることは支配者になることだ」と。女性(を含めてマイノリティー)が自己の状況を改善しようと動くとき、機会の拡大や地位の向上と引き換えに体制や権力側から忠誠を要求されることが多々ある。その結果、戦争や紛争においてエスニックやナショナルなアイデンティティに従って戦争の遂行や暴力行為に積極的に加担したり、「男性なみの企業戦士」となったり、「男性なみに軍隊に参加する」ことを選択したりするのである。
ジェノサイド後に多くのジェンダー課題を抱えたルワンダでは2003年に女性議員クォータ制が憲法に導入され、女性の飛躍的政治進出が実現した。しかし、女性の国会議員はすべて与党ルワンダ愛国戦線(PRF)から推薦を受けた者であり、同じ女性でも現政権の批判者は弾圧を受けている。例えば、野党FDU党のインガビレ党首は2010年の大統領選挙に出馬するために亡命先のオランダから帰国すると「ジェノサイド・イデオロギー法」違反とテロ共謀容疑によって長期間拘留された。彼女の主張は、ツチとフツの両方を虐殺の被害者として認めること、真実を語ることによる和解、そして多党制の導入である。ルワンダでは他の野党メンバー、ジャーナリスト、人権活動家やNGOもRPFを批判すると標的にされる。600万~1000万人の犠牲者を出した2回のコンゴ戦争は、ルワンダ軍の侵攻で始まった。その目的は、当初はコンゴに逃亡した虐殺の首謀者から国土を防衛することだったが、途中でコンゴの天然資源を奪うことに変質した。この戦争への批判もタブーである。
インドの零細経済部門で働く女性たちを組織したSEWA(自営女性協会)の創始者であるイラ・バットは、参画の意味について「私たちはただパイの一切れが欲しいのではなく、その味も選びたいし、その作り方も知りたい」と語った。社会学者の上野千鶴子は、「フェミニズムはたんに国家が占有し国民に恣意的に与えてきた市民的諸権利(義務を含む)の分配平等を要求する思想ではない」と強調する。では、フェミニストはどんなパイをどんな方法で作りたいのか。フェミニズムは何を目指すのか。
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「いま、ここ」へ引き寄せる「死」
『ころころするからだ』より
それぞれの人生が生と死によって円環的に成立しているのだと感じられても、人が亡くなる時はどんな場合でも無条件に悲しいものだ。他者の死という体験は、何度体験しようとも、決して慣れることはない。一回一回がすべて異なる体験として自分の身にやってくる。いのちが失われることは、この世界に穴が空くような喪失感を伴う。空虚感や欠落感は、代わりがなく埋め合わせることができないもので、ただただ悲しいものだ。永遠に会えない、触れることができない。生の一回性を強く感じるのは、喪失が起きた「今」というこのかけがえのない瞬間を体験させられるからだろう。
普段のわたしたちの頭は未来か過去かに縛られていることが多いが、死の体験は自分を「いま、ここ」へと強く引き寄せる。そこでは時や人生の一回性を強く感じるからこそ、バランスをとるように永遠性がじわじわと感じられることもある。死を迎えても、この自分や誰かの記憶の中に、時には場所の記憶の中に、死者は形を変えて存在しているのだ、と。死の現場でこそいのちの働きを強く感じることが多い。そうした体験は生の一回性の感覚と、いのちの永遠性の感覚とが分かちがたく混ざり合った不思議な体験だ。永遠性の感覚は、死者のいのちを生きているものがしっかりと受け取ったときに感じられるものなのかもしれない。他者の死とは、きわめて具体的なものだ。
しかし、自分の死は、きわめて抽象的なものだ。つまり、自分そのものの死は、具体的には永遠に体験できない。死とは、他者の具体的な死と自分の抽象的な死とが混じり合ったものだ。死の体験こそが、わたしたち人間のイメージやイマジネーシ’ンを活性化させる大きな体験ではないだろうか。死の体験から医学も哲学も宗教も、文化や文明も生まれてきているのだろうと思う。いのちの切実な体験でもあ
いのちは生まれたとき自分に与えられ、死ぬ時には誰か他者へと与えられる。それは光のように同じ場所に重なって存在できるものかもしれない。光が一つの場所にあたればあたるほど、その場は光が重なり強く輝くことと同じように。いのちは受け取れば受け取るほど、強度を持って光を放つものだと考えてみてほしい。輪廻や生まれ変わりという言葉が生や死を含むいのちの深い内的体験を心にうまくおさめるために生み出された言葉だとすると、そうとしか表現できなかった原体験こそ大切にしたい。死から生へと、いのちが渡され、異なる生へと受胎して続いていく。いのちは、そうして受け継がれてきた巨大な流れでもある。
そして、生きている、ということは「生き残っている」ということでもある。それぞれがいろいろな条件や環境の下で生きているが、全員が生き残っているわけではない。生きているだけで、生きることを継続できなかった誰かの代わりに生き残っているのだとも言える。戦争や災害などの特殊な状況を経て生き延びた人は、自分は「生き残ったのだ」という感覚が強く残りやすい。なぜあの人は生き続けることができず、自分だけが生き残ったのだろうか、と。
そのことは日々の日常の中でも言えるだろう。医療の現場であらゆる苦難を受け止めながら生きている人と出会う度に感じる。生きている人は、それだけで生き残っている存在なのだ。そして、生き残っている人には、生き残っているものしか果たせない役割があるのかもしれない。生きているだけで、死者の代わりに代表して生きているとも言える。実際の具体的な体験として他者の死を体験していなくとも死をイメージしただけでも、死から生へと何かが受け渡されるのを感じるはずだ。生き残っている人へ託した祈りのように。そういうことが、自分はいのちが受け渡されていることなのだと思う。いのちは光のように重なり、今生きている人のいのちと重なり合い、共鳴し合いながら存在しているように思う。
こうした生と死の関係性を考える時に、木という植物の存在や人間の皮膚のあり方が大きな示唆を与えてくれる。木は、寿命を終えて死んでしまった植物細胞が、硬い細胞壁を利用して木の中心の幹となり木の構造をつくる。死を迎えた多くの植物細胞が、木というひとつの大きな生命体を構造的にも支えながら存在しているのだ。
それに対して、人の皮膚細胞での生と死の関係性はまた違う。皮膚は体液の保持、異物侵入の防止、乾燥対策、免疫機能などさまざまな役割を持つ人体の中で最大の臓器でもあるが、皮膚表面の角層という部分は死んだ皮膚細胞がレンガのょうにうろこのように重なり合い、その隙間を脂質が埋める形で作られている。皮膚表面の細胞を顕微鏡で見ると、脱核といい、DNAを保持している核がなくなっている。それは死んだ細胞を意味する。
つまり、体を全身覆っている皮膚は死んだ細胞の集まりが常に更新され続けるという特異な構造をとっているのだ。死んだ皮膚細胞がわたしたちの表面をバリアのように覆いながら人間という生の全体性を守り続けていると考えると、いかに生命は生と死とを巧妙に組み合わせながら、いのちという生の全体像を成立させているのかと、感動すら覚えるだろう。
それぞれの人生が生と死によって円環的に成立しているのだと感じられても、人が亡くなる時はどんな場合でも無条件に悲しいものだ。他者の死という体験は、何度体験しようとも、決して慣れることはない。一回一回がすべて異なる体験として自分の身にやってくる。いのちが失われることは、この世界に穴が空くような喪失感を伴う。空虚感や欠落感は、代わりがなく埋め合わせることができないもので、ただただ悲しいものだ。永遠に会えない、触れることができない。生の一回性を強く感じるのは、喪失が起きた「今」というこのかけがえのない瞬間を体験させられるからだろう。
普段のわたしたちの頭は未来か過去かに縛られていることが多いが、死の体験は自分を「いま、ここ」へと強く引き寄せる。そこでは時や人生の一回性を強く感じるからこそ、バランスをとるように永遠性がじわじわと感じられることもある。死を迎えても、この自分や誰かの記憶の中に、時には場所の記憶の中に、死者は形を変えて存在しているのだ、と。死の現場でこそいのちの働きを強く感じることが多い。そうした体験は生の一回性の感覚と、いのちの永遠性の感覚とが分かちがたく混ざり合った不思議な体験だ。永遠性の感覚は、死者のいのちを生きているものがしっかりと受け取ったときに感じられるものなのかもしれない。他者の死とは、きわめて具体的なものだ。
しかし、自分の死は、きわめて抽象的なものだ。つまり、自分そのものの死は、具体的には永遠に体験できない。死とは、他者の具体的な死と自分の抽象的な死とが混じり合ったものだ。死の体験こそが、わたしたち人間のイメージやイマジネーシ’ンを活性化させる大きな体験ではないだろうか。死の体験から医学も哲学も宗教も、文化や文明も生まれてきているのだろうと思う。いのちの切実な体験でもあ
いのちは生まれたとき自分に与えられ、死ぬ時には誰か他者へと与えられる。それは光のように同じ場所に重なって存在できるものかもしれない。光が一つの場所にあたればあたるほど、その場は光が重なり強く輝くことと同じように。いのちは受け取れば受け取るほど、強度を持って光を放つものだと考えてみてほしい。輪廻や生まれ変わりという言葉が生や死を含むいのちの深い内的体験を心にうまくおさめるために生み出された言葉だとすると、そうとしか表現できなかった原体験こそ大切にしたい。死から生へと、いのちが渡され、異なる生へと受胎して続いていく。いのちは、そうして受け継がれてきた巨大な流れでもある。
そして、生きている、ということは「生き残っている」ということでもある。それぞれがいろいろな条件や環境の下で生きているが、全員が生き残っているわけではない。生きているだけで、生きることを継続できなかった誰かの代わりに生き残っているのだとも言える。戦争や災害などの特殊な状況を経て生き延びた人は、自分は「生き残ったのだ」という感覚が強く残りやすい。なぜあの人は生き続けることができず、自分だけが生き残ったのだろうか、と。
そのことは日々の日常の中でも言えるだろう。医療の現場であらゆる苦難を受け止めながら生きている人と出会う度に感じる。生きている人は、それだけで生き残っている存在なのだ。そして、生き残っている人には、生き残っているものしか果たせない役割があるのかもしれない。生きているだけで、死者の代わりに代表して生きているとも言える。実際の具体的な体験として他者の死を体験していなくとも死をイメージしただけでも、死から生へと何かが受け渡されるのを感じるはずだ。生き残っている人へ託した祈りのように。そういうことが、自分はいのちが受け渡されていることなのだと思う。いのちは光のように重なり、今生きている人のいのちと重なり合い、共鳴し合いながら存在しているように思う。
こうした生と死の関係性を考える時に、木という植物の存在や人間の皮膚のあり方が大きな示唆を与えてくれる。木は、寿命を終えて死んでしまった植物細胞が、硬い細胞壁を利用して木の中心の幹となり木の構造をつくる。死を迎えた多くの植物細胞が、木というひとつの大きな生命体を構造的にも支えながら存在しているのだ。
それに対して、人の皮膚細胞での生と死の関係性はまた違う。皮膚は体液の保持、異物侵入の防止、乾燥対策、免疫機能などさまざまな役割を持つ人体の中で最大の臓器でもあるが、皮膚表面の角層という部分は死んだ皮膚細胞がレンガのょうにうろこのように重なり合い、その隙間を脂質が埋める形で作られている。皮膚表面の細胞を顕微鏡で見ると、脱核といい、DNAを保持している核がなくなっている。それは死んだ細胞を意味する。
つまり、体を全身覆っている皮膚は死んだ細胞の集まりが常に更新され続けるという特異な構造をとっているのだ。死んだ皮膚細胞がわたしたちの表面をバリアのように覆いながら人間という生の全体性を守り続けていると考えると、いかに生命は生と死とを巧妙に組み合わせながら、いのちという生の全体像を成立させているのかと、感動すら覚えるだろう。
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イスラームは「絶対帰依すること」を意味する
『世界史のミカタ』より
イスラーム草創期の指導者~最後にして最大の預言者・ムハンマド
イスラームの歴史は預言者ムハンマドヘの啓示に始まり、正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の順に推移します。3代目正統カリフの時代まで信仰共同体とイスラーム国家が完全にイコールの関係にあり、宗教指導者が政治指導者を兼ねていました。
イスラームでは一神教の先輩にあたるユダヤ教とキリスト教にも一目置き、聖書に登場するアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスなどをも「預言者」と認めたうえで、アラビア半島メッカ生まれのムハンマドを最後にして最大の預言者と位置づけています。
多神教徒からの迫害が強まると、ムハンマドは信者たちともども近隣のメディナに移住しますが、いつまでも居候の身でいるのは体裁がよくないので、略奪目当てにメッカの隊商に対する襲撃を繰り返しました。それが原因でメッカとの全面戦争に突入すると、巧みな作戦指揮でメディナを勝利へと導きます。
ムハンマドは自分の指揮する戦いをジハード(聖戦)と称しました。戦利品の獲得はあくまで結果であって、本来の目的は信仰共同体の防衛にあるとしたのです。こうした説明は、ムハンマドの後継者たちにも継承されました。
イスラームの多数派であるスンニ派の歴史観では、ムハンマド亡き後には正統カリフ時代が訪れます。ムハンマドの愛弟子たちが「代理人」、「後継者」を意味するハリーファの肩書のもと、共同体を率いた時代で、教科書などに出てくるカリフというのは、このハリーファの英語読みです。
実のところ、ムハンマドが亡くなったとき、後継者を巡りひと悶着ありました。メディナの信者たちが地元出身者を擁立しようとしたのです。その会合の場に乗り込んだ古参の信者たちは粘り強い交渉の結果、ムハンマドの旧友で、親族以外では最初の信者であるアブー・バクルを後継者にすることに成功しました。アブー・バクルはメディナの信者たちのあいだでも人望があり、愛娘アーイシャがムハンマドに嫁ぎ、晩年のムハンマドの寵愛を一身に集めたという経緯もあって、大きな不満の声があがらなかったのです。
とはいえ、信仰共同体を維持するには信仰心だけに頼るわけにはいかず、戦利品という実利が必要とされました。そのため正統カリフ時代を通して、聖戦の名のもとの対外戦争と版図の拡大が継続されます。
信者の数が増えるに伴い、きちんとした制度や体制の整備が急務となりましたが、これはほぼ2代目のウマル・イブン・ハッターブの代になされました。征服地での軍営都市の建設をはじめ、国庫の創設、税制の整備、戦士の俸給制度や帳簿の管理、政治的決定の文書化、ムハンマドのメディナヘの移住日を元年元日とする独自の太陰暦の制定、法規定の整備などが行なわれたことで、信仰共同体はイスラーム国家へと変貌を遂げたのでした。
3代目のウスマーン・イブン・アッファーンの代で特筆されるのは、ムハンマドを通じて発せられた神の言葉を1冊の書物にまとめる作業です。口承のままでは違いの出てくることが避けられないため、正典を編纂する必要が生じたのです。かくして成立したのがイスラームの正典にして聖典にあたる『クルアーン(コーラン)』でした。
4代目のカリフにはムハンマドの従弟にして、ムハンマドの娘ファーティマの夫でもあるアリーが擁立されますが、同意しない勢力もあったため、これといった大事業をなすにはいたりませんでした。
アリーの存在はむしろ当人の死後、重大になりました。アリーは生前のムハンマドから後継者指名をされており、彼のみを預言者の正統な後継者とする集団が表れたのです。今日でいうシーア派がそれです。
スンニ派にとっては4代目の正統カリフであるアリーは、シーア派では初代イマームとして仰がれています。イマームとは、スンニ派では共同体の最高指導者を意味し、カリフの別称ですが、シーア派では政教両面での最高指導者の意味で使われています。
端的にいえば、スンニ派とシーア派の違いが、預言者ムハンマドの後継者として誰を正統とするかの一点につきます。冒頭に記したのはスンニ派の歴史観によるもので、シーア派ではアリーとその直系男子しか認めていないのです。
アラブ軍~二大大国の疲弊に乗じる
西にはコンスタンティノポリスを都とするビザンツ帝国、東には現在のイランとイラクを支配下に置くササン朝。6世紀から7世紀にかけて、この二大大国がシリア・パレスチナ地方の支配をめぐり激闘を繰り広げます。
ときにササン朝の弱体化が進んでいたのに乗じて、610年に即位したビザンツ皇帝ヘラクレイオス1世は小アジアだけでなく、シリア・パレスチナ地方とエジプトの奪還にも成功します。けれども、疲弊していたのはビザンツも同じで、戦争の継続は難しく、食糧の強制徴収などすれば、いつどこで反乱が起きておかしくない状況でした。反乱が起きた場合、鎮圧できるだけの力も残っていなかったのです。
東西の両大国が疲弊の極にあったとき、直接統治をする価値はないと放置されていたアラビア半島で大きな変化が起きていました。メッカ生まれのムハンマドにより、新しい宗教が誕生したのです。その名はイスラーム。これがアラビア語で「絶対帰依すること」を意味することから、研究者の間ではイスラーム教ではなく、単にイスラームと呼ぶのが一般的です。
ムハンマドが存命の間にアラブ・イスラーム国家はアラビア半島の西半分を、続く正統カリフ時代の初代カリフ、アブー・バクルの代にはアラビア半島全域を支配下に収めます。
2代目のウマル・イブン・ハッターブ(ウマル1世)の代には、636年のヤルムークの戦いではビザンツ帝国、642年のニハーワンドの戦いでササン朝を破り、シリア・パレスチナ地方に加え、エジプト、黒海とカスピ海の問のカフカス南部、イラン・イラクの大半を支配下に収め、占領地を2倍にも増やしました。
3代目のウスマーンの代にはササン朝を滅ぼし、現在のアフガニスタンからウズベキスタンにかけて、661年に始まるウマイヤ朝のもとではマグレブ(エジプト以西の北アフリカ)とイベリア半島の大半を支配下に収め、地中海を半ば囲う構えを築いたのでした。
それまで歴史の表舞台に立つことのなかったアーフブ人が、なぜ短期間でこれだけ広大な土地を占領することができたのか。それはビザンツ帝国とササン朝の疲弊や圧政という外因だけでは説明のつけきれないことです。
それまでまとまることを知らなかったアラブ人がイスラームヘの信仰という軸ができたことで、大同団結ができた。その結果、自分たちにも予測できなかったほどの巨大な力が生まれたということはいえると思います。
もちろん、これは一因であってすべてではありません。ムハンマドは戦利品の公平な分配を約束することで味方を増やすかたわら、自らが指揮する戦いを聖戦と位置づけることによって、戦死者の魂が天国に行くことを約束しました。アラブ・イスラーム軍の快進撃は現世利益と来世の保証という聖俗両面によっても支えられていたのです。
結束すれば強い国をつくれるだろうに。現在それをもっとも強く感じさせられるのは中東のクルド人です。イラン系民族である彼らの居住域は、トルコ、シリア、レバノン、イラク、イランにまたがっており、総人口は約2000万人といわれています。
一国をなすに十分な人数ですが、残念ながらクルド人には民族国家を築いた経験がありません。山岳地帯に居住するため地域ごとの方言差も大きく、信仰面ではスンニ派もいればシーア派もいるという状況で、なかなかアイデンティティの構築ができずにいるのです。
イスラーム草創期の指導者~最後にして最大の預言者・ムハンマド
イスラームの歴史は預言者ムハンマドヘの啓示に始まり、正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の順に推移します。3代目正統カリフの時代まで信仰共同体とイスラーム国家が完全にイコールの関係にあり、宗教指導者が政治指導者を兼ねていました。
イスラームでは一神教の先輩にあたるユダヤ教とキリスト教にも一目置き、聖書に登場するアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスなどをも「預言者」と認めたうえで、アラビア半島メッカ生まれのムハンマドを最後にして最大の預言者と位置づけています。
多神教徒からの迫害が強まると、ムハンマドは信者たちともども近隣のメディナに移住しますが、いつまでも居候の身でいるのは体裁がよくないので、略奪目当てにメッカの隊商に対する襲撃を繰り返しました。それが原因でメッカとの全面戦争に突入すると、巧みな作戦指揮でメディナを勝利へと導きます。
ムハンマドは自分の指揮する戦いをジハード(聖戦)と称しました。戦利品の獲得はあくまで結果であって、本来の目的は信仰共同体の防衛にあるとしたのです。こうした説明は、ムハンマドの後継者たちにも継承されました。
イスラームの多数派であるスンニ派の歴史観では、ムハンマド亡き後には正統カリフ時代が訪れます。ムハンマドの愛弟子たちが「代理人」、「後継者」を意味するハリーファの肩書のもと、共同体を率いた時代で、教科書などに出てくるカリフというのは、このハリーファの英語読みです。
実のところ、ムハンマドが亡くなったとき、後継者を巡りひと悶着ありました。メディナの信者たちが地元出身者を擁立しようとしたのです。その会合の場に乗り込んだ古参の信者たちは粘り強い交渉の結果、ムハンマドの旧友で、親族以外では最初の信者であるアブー・バクルを後継者にすることに成功しました。アブー・バクルはメディナの信者たちのあいだでも人望があり、愛娘アーイシャがムハンマドに嫁ぎ、晩年のムハンマドの寵愛を一身に集めたという経緯もあって、大きな不満の声があがらなかったのです。
とはいえ、信仰共同体を維持するには信仰心だけに頼るわけにはいかず、戦利品という実利が必要とされました。そのため正統カリフ時代を通して、聖戦の名のもとの対外戦争と版図の拡大が継続されます。
信者の数が増えるに伴い、きちんとした制度や体制の整備が急務となりましたが、これはほぼ2代目のウマル・イブン・ハッターブの代になされました。征服地での軍営都市の建設をはじめ、国庫の創設、税制の整備、戦士の俸給制度や帳簿の管理、政治的決定の文書化、ムハンマドのメディナヘの移住日を元年元日とする独自の太陰暦の制定、法規定の整備などが行なわれたことで、信仰共同体はイスラーム国家へと変貌を遂げたのでした。
3代目のウスマーン・イブン・アッファーンの代で特筆されるのは、ムハンマドを通じて発せられた神の言葉を1冊の書物にまとめる作業です。口承のままでは違いの出てくることが避けられないため、正典を編纂する必要が生じたのです。かくして成立したのがイスラームの正典にして聖典にあたる『クルアーン(コーラン)』でした。
4代目のカリフにはムハンマドの従弟にして、ムハンマドの娘ファーティマの夫でもあるアリーが擁立されますが、同意しない勢力もあったため、これといった大事業をなすにはいたりませんでした。
アリーの存在はむしろ当人の死後、重大になりました。アリーは生前のムハンマドから後継者指名をされており、彼のみを預言者の正統な後継者とする集団が表れたのです。今日でいうシーア派がそれです。
スンニ派にとっては4代目の正統カリフであるアリーは、シーア派では初代イマームとして仰がれています。イマームとは、スンニ派では共同体の最高指導者を意味し、カリフの別称ですが、シーア派では政教両面での最高指導者の意味で使われています。
端的にいえば、スンニ派とシーア派の違いが、預言者ムハンマドの後継者として誰を正統とするかの一点につきます。冒頭に記したのはスンニ派の歴史観によるもので、シーア派ではアリーとその直系男子しか認めていないのです。
アラブ軍~二大大国の疲弊に乗じる
西にはコンスタンティノポリスを都とするビザンツ帝国、東には現在のイランとイラクを支配下に置くササン朝。6世紀から7世紀にかけて、この二大大国がシリア・パレスチナ地方の支配をめぐり激闘を繰り広げます。
ときにササン朝の弱体化が進んでいたのに乗じて、610年に即位したビザンツ皇帝ヘラクレイオス1世は小アジアだけでなく、シリア・パレスチナ地方とエジプトの奪還にも成功します。けれども、疲弊していたのはビザンツも同じで、戦争の継続は難しく、食糧の強制徴収などすれば、いつどこで反乱が起きておかしくない状況でした。反乱が起きた場合、鎮圧できるだけの力も残っていなかったのです。
東西の両大国が疲弊の極にあったとき、直接統治をする価値はないと放置されていたアラビア半島で大きな変化が起きていました。メッカ生まれのムハンマドにより、新しい宗教が誕生したのです。その名はイスラーム。これがアラビア語で「絶対帰依すること」を意味することから、研究者の間ではイスラーム教ではなく、単にイスラームと呼ぶのが一般的です。
ムハンマドが存命の間にアラブ・イスラーム国家はアラビア半島の西半分を、続く正統カリフ時代の初代カリフ、アブー・バクルの代にはアラビア半島全域を支配下に収めます。
2代目のウマル・イブン・ハッターブ(ウマル1世)の代には、636年のヤルムークの戦いではビザンツ帝国、642年のニハーワンドの戦いでササン朝を破り、シリア・パレスチナ地方に加え、エジプト、黒海とカスピ海の問のカフカス南部、イラン・イラクの大半を支配下に収め、占領地を2倍にも増やしました。
3代目のウスマーンの代にはササン朝を滅ぼし、現在のアフガニスタンからウズベキスタンにかけて、661年に始まるウマイヤ朝のもとではマグレブ(エジプト以西の北アフリカ)とイベリア半島の大半を支配下に収め、地中海を半ば囲う構えを築いたのでした。
それまで歴史の表舞台に立つことのなかったアーフブ人が、なぜ短期間でこれだけ広大な土地を占領することができたのか。それはビザンツ帝国とササン朝の疲弊や圧政という外因だけでは説明のつけきれないことです。
それまでまとまることを知らなかったアラブ人がイスラームヘの信仰という軸ができたことで、大同団結ができた。その結果、自分たちにも予測できなかったほどの巨大な力が生まれたということはいえると思います。
もちろん、これは一因であってすべてではありません。ムハンマドは戦利品の公平な分配を約束することで味方を増やすかたわら、自らが指揮する戦いを聖戦と位置づけることによって、戦死者の魂が天国に行くことを約束しました。アラブ・イスラーム軍の快進撃は現世利益と来世の保証という聖俗両面によっても支えられていたのです。
結束すれば強い国をつくれるだろうに。現在それをもっとも強く感じさせられるのは中東のクルド人です。イラン系民族である彼らの居住域は、トルコ、シリア、レバノン、イラク、イランにまたがっており、総人口は約2000万人といわれています。
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