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子供を救え 梁庄小学校 中国はここにある

『中国はここにある』より 子供を救え 梁庄小学校

昔の家の入り口から、かつて通学に使った道を通って、もう一度梁庄小学校まで歩いてみた。小学校は壁で囲まれた四辺形の敷地だった。前の方は運動場で、敷地の真ん中に旗竿があった。小学校に通っていたとき、私たちは毎日朝晩ここで旗の昇降をした。後方の二階建ての赤レンガの建物が校舎だった。各階に五つの教室があった。私は子供のころ、大部分の時間をここで過ごした。朝六時、始業ベルが梁庄村の上空に響く。子供たちは大声をあげたり、友達を待ったりして、明け方の薄暗いなか学校に向かい、一日の学校生活を始める。大部分の村民も、このベルの音で時間をはかり、一日の生活のリズムを作っていたに違いないと思う。

梁庄小学校が閉鎖されてもうI〇年近くになる。敷地の空き地部分は、とっくに開墾されて、よく茂った畑になっていた。真ん中の旗竿は、セメントの台座だけが残っている。後方の建物はまだそのままだ。おそらく私たちの声が聞こえたからであろう、門番の興兄さんが正門左の小部屋から出てきて、私たちを見ると喜んだ。彼は中から鍵を開けながら、「門を開けちゃいけないんだ、家畜が入ってきて、畑を掘り返すから」とブッブツ言った。

教室の近くまで行ってみると、すでに壊れて使い物にならなくなっていることがわかった。教室のドアはほとんど腐蝕していて、ちょっと押すと、埃がハラハラと落ちてきた。破損したガラス越しに、教室の中の、あまりに悲しい「風景」が見えた。一階の教室には、ボロになった家具が積み重なっていた。ペッド、ソファー、椅子やスツール、鍋やお椀のたぐいがあちこちに捨てられていて、いつのものだかわからないノートも散らばっていた。きっと先生の宿舎だったのだろう。また戻ってくるつもりだったのかもしれない。荷物が片づけられていなかった。部屋の中には、壊れた生徒用の机と椅子も、床に転がっていた。別の部屋には、ペッドがあり、コンロまで置かれていた。最近まで人が住んでいたようだ。興兄さんが言った。「ここには梁さんの婆さんが住んでいた。嫁と喧嘩して、行くところがなくなり、ここに半年住んでいたんだ」。

手すりがなくなっている階段を上って、二階に上がった。どの部屋にもウサギや鶏などの家畜が飼われていた。きっと興兄さんが飼っているのだろう。床には食べ残しのカボチャ、汚れたたらい、干し草などがあった。二階の手すりのそばに立って、村を見てみた。学校が村でいちばん高いところにあったことに気づいた。ここに立つと、村の入り乱れた建物、夕食を作っている煙などが一望できた。かつて学校の場所を選んだとき、村をりIドしようという意図があったのかもしれないと思った。この学校が経験した盛況と興隆はどんなものだったろうか。それがどのようにして歴史の外に放り出されたのだろうか。私はかつて小学校の先生だった万明兄さんに話を聞きにいくことにした。彼は学校の元老であり、梁庄小学校のすべての歴史を知っている。

梁万明は、痩せた、五十数歳の人で、老人の帽子をかぶっていた。衣服はいまだに八○年代風の、灰青色で、長いこと洗っていないかのようなものだった。空が暗くなってきた。奥さんが灯りをつけると、青白い蛍光灯の光のもと、大きな客間が冷え冷えとして、お化けでも出そうに感じられた。二歳ほどの孫が門の内外を走り回っていた。浅黒い顔で、村の冬の寒さであかぎれしているようだった。娘の服は垢抜けていた。長いあいだ外で出稼ぎをしていると、ひと目でわかった。彼女は厨房に入ったかと思うと、部屋に来て腰かけ、どこか恥ずかしげに私を見た。やはり十数年も教師をしていただけのことはある。万明兄さんはことばをじっくりと選び、話しぶりはゆっくりだったが、自分の見解があり、しばしば驚くべきことを言った。

わしらの村の学校は、あのころほんとうに苦労して発展した。一九六七年、できたばかりのときは、民家を借りて、二学年一緒のクラスでやったんだ。文教局から教員が派遣されてきた。それが梁庄に学校ができたということだった。翌年、生産隊が土レンガの二部屋の建物を建てた。ぞのあと、周婆さんが帰ってきて先生になり、さらに一部屋増やした。それから食事係として周婆さんの母親を雇った。そのあと、西にさらに三部屋つけた。それが二棟の建物になり、梁庄小学校の雛型が完成した。文革のときはその建物だけだった。はっきり覚えている。生産大隊であんたの父さんの批判大会を開いたとき、あの小学校の建物の前でやったんだ。首長の訓話、毎日の最高指示〔毛沢東の言葉〕、大衆大会などいつもあそこで開いたものだ。

わしは今年五五歳だ。七八年に中学校を卒業し、二年間農業大学に通ったあと、小学校の教師になった。わしが来たときは建物が三つになっていた。いちばん規模が大きくなったのは九〇年代より前だ。一年生から七年生まで、六、七人の正規教員がいて、二〇〇人の生徒がいた。八一年にあんたの兄嫁が来たよ。そのころ国家が補助を始めて、農村教育建設(校舎)資金が補助された。今の建物はその年に作ったものだ。国家から少し補助が出て、村でも少し金を集めて、村民が残りの資金と労働力を出した。わしら梁庄小学校は郷で最初に作られたものだ。あのとき教育組は記念碑をくれた。「梁庄村の幹部、大衆全体で学校を興したことを記念する」と書いてあった。はっきり覚えてる。あのとき、学校建設に向けて村中の心がひとつになったんだ。ズルをしてうまくやろうとする人は誰もいなかったし、学校に行って文化を学ぶことについて、みんなの考えははっきりしていた。春に建て始めて、どの家も工事に人を出した。まだひどく寒かったけど、みんな力いっぱい働いた。誰もが笑顔で、心から喜んでいた。あんたたちが学校に行っていたころが、梁庄村がいちばん栄えたときだ。当時、学齢に達した子供の入学率は一〇〇パーセントだったんだ。あのころのテストの結果を見ると、呉鎮の中心小学校が二番、梁庄が二番で、光道、韓平戦、韓立閣たちがいたな。先生も二〇人近くいた。誰もが有名で、郷でも名が通っていた。

梁庄は学風も盛んだった。八○年代中期、たとえ知能に問題があっても、歩くことさえできれば、学校に通わせた。梁一族で学校に来ない子供がいたら、先生が家まで何度も呼びに行ったもんだ。あのころわしらの県は全国の状元県〔全国試験で一番の成績を取ること〕だった。大学統一入試で全国一位だった。ほんとうにすごかった。今はどうなってしまったんだ。

今の梁庄小学校は生徒がいなくなってI〇年になる。学校は自動的に閉鎖になった。一部の生徒は親が連れていってしまい、残った生徒では一クラスにならなかった。当時、一~三年生は残して、それより上を町に行かせるという話だった。やがて郷の教務事務室は教員を派遣しなくなり、学校もなくなった。数年前、校長は旗竿まで転売した。あれはステンレスだったから、百数十元にはなっただろう。それから、校長は学校に来ることすらなくなった。興兄さんが住んで門番をしている。

大きな道理から言えば、学校の閉鎖は、人口流動とて人っ子政策が合わさった結果だ。ただほんとうのところを言うと、村長と支部書記の一派がつぶしたんだ。上が教員を四人派遣してきた。先生が来たら、補助を出さないといけない。先生の給料は低すぎるから、村から補助を出し、そのうえ人を雇って食事を作ってやる必要がある。昔の梁庄は、どれほど貧しくても、先生への補助は減らしたことがなかった。ところが今は、その費用がないとか言って、村の支部書記が出さなくなったんだ。先生が来ても一年か半年で、みんな逃げてしまう。もし村が積極的で、郷に行って交渉したり、町に行ったり、あるいは教育局に行って先生が欲しいと言えば、それでもなんとかなっただろう。先生というものは、どこにでも教えに行くものだ。それに梁庄は郷でいちばん辺鄙な場所じゃない。そのうえ、親を説得して、子供を故郷に帰ってこさせて学校に通わせることもできる。親だってなにも子供を遠くに行かせたいわけじゃないからな。ところが村長はまったくそういったことを考える気がなかった。もちろん、何もしないでいることにうまみがあるのさ。毎年、教育統一計画費がおりてくるんだ。学校がなくなっても、教育統一計画費は来る。金が彼らの懐に入るわけだ。

今、わしらの村の学齢に達した子供を数えてごらん。一~三年生のクラスを開くのは、まったく問題ない。やろうとする人がいないだけだ。去年、ある農民が校舎を借り受けて、豚を飼った。昼間は庭で放し飼いにして、夜になると教室に入れた。校門の壁の標語が「梁庄養豚場、教育をして人を育てる」になってただろう。悪ガキたちのいたずらだ。教育局が、品がないと言って、やめさせた。

今はみんな考えが消極的になって、自分のことしか考えない。村の若い者はみんな出稼ぎに行き、誰もこのことに首を突っ込まない。学校が栄えていたとき、わしらの村では大学生が増えた。あのころ梁庄はすごいもので、何人も大学生を出した。八○年代、梁庄村の親は誰でも子供を大学にやりたいと思っていた。梁庄で大学に行った比率は結構高かったんだよ。

今は子供が学校に行っても、希望がない。最近一〇年来、子供たちの学問への意欲が明らかに減退してきた。国家の大学制度改革のせいだ。大学に行くと、金がかかるだけで、分配〔以前、大学卒業生は国家が仕事の配属先を決めていた〕がなく、卒業しても行くところがない。昔は、子供が学校に行かないと、親が棒を持って村中を追い回したもんだ。今は子供が学校に行かなくても叩くことはない。数年大学に行ったら、少なくとも四、五万元かかるだろ。それならば出稼ぎに行った方がいいからな。たとえ大学に合格して、卒業しても、そのうえI〇万元を使って就職のために奔走できる人がいるかい。
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豊田市中央図書館の状況と問題

『図書館の基本を求めて』より 豊田市中央図書館の状況と問題

豊田市中央図書館の状況と問題

 二〇一六年五月一四日に豊田市で『データで見る図書館民営化の実態』というタイトルの講演をした。TRC(図書館流通センター)指定管理の図書館が、いかにも大きな成果があがっているかのように宣伝されているが、数年の経緯を辿ってみると、利用が大きく伸びている図書館はほとんどなくて、むしろ貸出減少の傾向へ向かう事例の方が多いこと、経費についても削減どころか増加し、無駄な経費が増えていることなどを、データによって示すとともに、民営化された図書館の、特にその職員体制の劣化について、具体的な事例により説明した。

 この講演の中で、豊田市の状況について少しだけふれたので、この部分だけを紹介する。豊田市立中央図書館の年間貸出数の推移は二つのグラフの実線のとおりで、一九九九年度から一〇年間は貸出が増加し続け、二〇〇八年度と二〇〇九年度は二一○万冊を超えたが、その後は減少するようになった。この減少に影響していると予想される数値が点線のデータで、図1の点線は資料費、図2の点線は正規職員中の司書数である。資料費はもともと二億円を超えていて非常に潤沢だった。ある程度の減少はやむを得ないとしても、いきなり一億円以上削減している。せめて徐々に減少させる慎重さが必要だったのではないか。専任司書数は八人から、多いときで一一人までいたのに、最近の数年で激減して二〇一五年度はゼロとなった。貸出の減少と一致する動きを示している。なお、人口三〇万人以上の市で、専任司書数ゼロは豊田市と尼崎市だけなので、異常な状況というべきである。

 二〇一六年三月議会で、豊田市教育委員会教育行政部長が「司書率」について、次のように答弁している。「日本図書館協会の目標基準例によると、人口三〇万人以上の市で、司書率が五九・八%だが、豊田市の司書率は一七・五%で著しく低い」。この認識をもとに、司書率を高めるために指定管理者制度を導入するという方針が打ち出されている。

 「日本図書館協会の目標基準例」では、専任職員、非常勤・臨時職員、委託・派遣職員別に司書の数と司書率を例示しているが、そのうちの「専任職員の司書率が五九・八%」である。豊田市では『日本の図書館2015』(データ版)によると、専任職員二〇人(うち司書ゼロ、司書率O%)、非常勤・臨時職員(特別任用職員)五七人(うち司書一一人、司書率一九・三%)、委託・派遣職員二三人(うち司書一一人)である。特別任用職員のうちの司書が一〇人であれば、司書率が一七・五%になるので、教育行政部長の答弁の時点で一〇人になっていたと予想することができる。

 つまり、答弁における「基準例の五九・八%」という司書率は専任職員の司書率であるのに、豊田市の一七・五%という司書率は、非常勤・臨時職員の司書率であり、比較が不適切なのである(基準例では非常勤・臨時職員の司書率は六三・八%)。さらに、これを解決するために指定管理者制度を導入すると答弁しているが、全職員中の委託・派遣職員の比率そのものが、基準例ではわずか六・三%であるのに、指定管理者制度を導入すればこれが一〇〇%となり、この中でどれだけ司書の比率を高めたところで、専任職員の司書率はゼロ%で、基準例による「専任職員の司書率五九・八%」は完全に無視されている。日本図書館協会の目標基準例を持ち出すのであれば、教育行政部長の答弁には大きな矛盾があり、論弁というほかない。

 豊田市では、専任司書職員の比率を高める努力をしないで、ゼロにまで削減をした。全国には嘱託職員はほぼ全員が司書という自治体もあるのに、豊田市では特別任用職員についても、司書資格を重視してこなかった。非正規職員の司書率を規制する規則などあるはずがないから、その気になれば、特別任用職員の司書率を大きく改善することはすぐにでも可能である。利用減の原因は、豊田市内部に存在している。

 先日、豊田市が図書館総合研究所に三七〇万円で委託し、二〇一五年七月に作成された『豊田市中央図書館サービス向上計画報告書』を読んだ。図書館総合研究所はTRCの子会社であり、報告書は、数字の操作までして、最終的に指定管理導入へ誘導する内容になっている。TRCに計画を委託しているのだから、当然の結果であろう。図書館という「教育機関」の管理運営を指定管理して、外部の企業に丸投げする。その前提として、多額の経費を費やして施設・設備の大改造をする。市の責任放棄と多額のコストに見合うほどの大幅な成果が期待できるだろうか。報告書には、計画を実施した場合の目標数値すら示されていない。

モンスター化するTRC指定管理

 愛知県豊田市の中央図書館は中核市を代表する大規模図書館で、年間貸出点数も一時期は単独で二〇〇万点を超えていたが、数年前から貸出が減少しはしめた。そのため市では二〇一五年度にTRCの子会社である図書館総合研究所に『豊田市中央図書館サービス向上計画』の作成を三七〇万円で委託し、この報告書をもとに、二〇一七年度から中央図書館に指定管理者制度を導入することが決定された。経緯からも報告書の内容からも、指定管理者がTRCになることは既定路線である。しかし、実はこの報告書には驚くほど初歩的な誤りがあった。すでに豊田市の市民の方も気づいているのだが、公表しにくい状況もあるようなので、本稿で指摘する。

 報告書第二章の現状認識のページに、全国三九の中核市の中央図書館の数値を比較した表が二ページ分ある(数値は日本図書館協会刊『日本の図書館2014』による)。二〇一三年度の年間貸出数は、豊田市の数値は一七三万五一八五である。豊田市には、中央図書館以外に交流館図書室などと称される施設が計三一あり、図書館の分室として貸出をしている。このような、分館以外の施設の数値は、『日本の図書館』ではサービスポイント(以下SP)と称され、BM(移動図書館)の数値とともに、ふつう中央図書館の数値に含まれて掲載され、SPとBMの数値は内数として出ている。豊田市の場合は、SPによる貸出数の計は一九二万点て中央図書館よりも多い。『日本の図書館2014』の豊田市中央図書館の欄にはSPを含む三六五万五千点という数値があり、次行に内数のSPの数値一九二万点が出ている。

 ところが図書館総合研究所の『報告書』では、豊田市についてはSPを除く中央図書館だけの数値が出ているのに、他の三八中核市の欄は、SPやBMの数値を含む中央図書館の数値がそのまま出ている。つまり、豊田市以外は異なった内容の数値を出して、中核市の中央図書館を比較し、誤りの数字で豊田市の状況を順位付け、それをもとに、基本方針、新しい事業、図書館のあり方を提案しているのである。

 「うっかり間違えた」では済まない。たとえば、この表では岡崎市や長崎市の年間貸出数が二〇〇万点を超えているなど、ほかにも、全国の図書館の実状を多少でも知っていたら、一目でおかしいと気づく数値がある。つまり、この報告書を作成した図書館総合研究所は、図書館の実態も知らず、現場の感覚もほとんど持っていないのであり、そのような「研究所」が現状を分析したり、豊田市のサービス向上計画を作成したりしているのである。

 報告書では、この間違った数値をもとに、豊田市中央図書館では貸出数に対する職員数が少ない方からの順位で二三位、職員数が平均よりも多すぎる、職員の仕事の効率が悪いと結論づけて、これを理由に、「全国の自治体では、効率的な運営と高度の図書館サービスの提供に向けて、指定管理者制度の導入等民間委託の拡大を進めている自治体がある」として、指定管理者制度の導入へ誘導している。他市もSPとBMを除いて貸出数を比べると、豊田市の職員数の割合は平均よりも少ない。順位はおおよそ一五位くらい、しかも豊田市よりも順位が上の市の半数は、民営化を導入していない。偽りの数字により、偽りの結論へ導いている。ひどい報告書である。なお、数字以前の間違いもある。

 豊田市はこれほどまで間違いの多いお粗末な報告書に三七〇万円を支払った。豊田市の教育委員会の中にも、間違いや問題点に気づく人はいなかった。そして今、豊田市は指定管理者制度導入に向けてまっしぐらである。

 全国あちこちのTRC指定管理の図書館で、職員ばかりか責任者までが、どんどん辞めている。守谷市や三田市だけではない。名古屋市の志段味図書館(二〇一五年度からTRC指定管理)でも、一年目に総括責任者など責任者三人がそろって交代したことについて、議会で質問が出ている。しかし、あまり表には出ないし、報道もされない。図書館員も研究者も市民も、できれば指定管理の図書館の内部からも、このような事例をもっと率直に報告し、指定管理者制度の実態を明らかにしてほしいと、強く望む。

 五月はじめに、TRCは全国の図書館の一五%を受託したと誇らしげに発表した。実態は隠されたまま、TRCは専門性が高くて信頼できるという虚像がつくられている。TRCは自信に溢れ、いまや怖いものなしの勢いである。職員が次々辞めようが、専門職にほど遠い杜撰な仕事をしようが、間違いだらけの報告書をつくろうが、全国の自治体の責任者たちはひれ伏すばかり。TRCのシェアはますます拡大し、まるでモンスターのように日本の図書館を支配し、飲み込んでゆく。これでよいのだろうか。
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真珠湾攻撃⇒チャーチル「我々はこの戦争に勝った」

『チャーチルは語る』より

「我々はソ連に対してできるかぎりの支援を与える」 一九四一年六月二十二日

 一九四一年六月二十二日、チャーチルがアメリカ向けの演説を放送して一週間たたないうちに、ドイツはソヴィエト連邦へ侵攻した。一九三九年八月以来、ヒトラーのドイツはスターリンのソ連と同盟関係にあった。一九三九年十月、両国はポーランドを共同で侵略して分割していた。イギリスはそのポーランドの独立を守るために参戦したのだった。六月二十二日に突如としてドイツの猛攻撃が始まると、イギリスはソ連を同盟国と見なすべきか否か、ドイツの勝利を阻むためにイギリスがなしうるかぎりの援助をすべきか否か、チャーチルは決断しなければならなかった。その夜のラジオ放送で、彼はイギリス国民に自分の答えを伝えた。

 ナチス体制は、共産主義の最悪の形態となんら違いがない。そこには欲望と人種主義による支配以外のいかなる理念もない。凶暴な侵略を首尾よく進めていくナチスの残虐性は、人間のあらゆる邪悪さを凌いでいる。過去二五年間、私ほど一貫して共産主義と戦ってきた者はいない。これまで共産主義について言ってきたことを、私は一言も取り消すつもりはない。しかしいま繰り広げられている悲惨な光景を前にして、すべてが消え去った。犯罪と愚行と悲劇を伴う過去は、閃光のごとく消え去った。[……]

 我々の目的は一つしかない。ただ一つの不変の目的しかない。ヒトラーを打倒し、ナチス体制を跡形もなく消滅させることである。何があろうと、我々はこの目的からそらされはしない--何があろうと。

 それが我々の政策であり、我々の宣言である。こういうわけで、我々はソ連およびソ連国民に対してできるかぎりの支援を与える所存である。全世界のすべてのわが友好国と同盟国にも、我々と同じ政策を採用し、不動の決意で最後まで忠実に目的を追求するよう訴えたい。我々はヒトラーともその一味とも決して交渉しない。我々は陸で彼と戦い、海で彼と戦い、空で彼と戦う。神の助けにより、地球上からヒトラーの影を排除し、彼の支配から諸民族を解放するまで戦う。

 ナチス政権と戦い続ける人や国すべてに、我々は援助を与える。ヒトラーとともに進む人や国はすべて、我々の敵である。これは正式な国家のみに当てはまるのではなく、同胞と祖国を裏切ってナチス政権の手先となっている卑劣な売国奴集団のすべての代理人にも当てはまる。これらの売国奴は、ナチスの指導者そのものと同じく、その同胞によって始末されるほうが面倒がなくて望ましいが、始末されない場合は、勝利の暁に我々が彼らを連合国の法廷に引き渡し、裁きを受けさせることになる。

 我々はソ連政府に対し、彼らの役に立ちそうな技術的・経済的支援を力の及ぶかぎり提供しようと申し出た。我々は昼夜を問わずドイツに対する爆撃を強化する。月を追うごとにますます大量の爆弾を投下し、ドイツ人が人類に強いてきた苦痛を、月を追うごとにいっそう強烈に彼ら自身に味わわせる。ここで注目すべき情報をお伝えしよう。つい昨日のことだが、わがイギリス空軍はフランスの領土の上空に深く入り込んで戦った。ドイツが侵略し汚し支配下に置いたと主張しているフランスの領土の上空で、わが軍はきわめて軽微な損失を被りながらドイツ軍戦闘機を二八機撃墜したのだ。しかしこれは始まりにすぎない。これからわが空軍の主力が加速度的に増強されていく。わが国がアメリカから受けているあらゆる種類の軍需物資の援助、とりわけ重爆撃機の援助は、今後六か月のうちにその威力を発揮し始めるであろう。

 これは階級間の戦争ではない。イギリス帝国とイギリス連邦全体が、人種や宗教や党派の違いを越えて戦っている戦争である。私はアメリカの行動について発言する立場にないが、これだけは言っておきたい--もしヒトラーがソ連への攻撃によって、彼を倒そうと決意している二大民主主義国の目的をわずかでも分裂させたり努力を弱めさせたりできると考えているなら、哀れなほどの勘違いである。それどころか、我々はいっそう鼓舞され、彼の暴虐から人類を救おうとする努力をさらに強めることになる。我々の決意と精神力は強められこそすれ、断じて弱められはしない。

 各国と各政府が結束して行動していれば、このような破局から自国と世界を救うことができたであろうが、自らあいついで打ち倒されるに任せた彼らの愚かさを、いまさら説教しても始まらない。さきほど私は、ヒトラーの血に飢えた憎むべき欲望が彼をソ連侵略に誘い込み駆り立てたと述べたが、その暴挙の背後にはいっそう深い一つの動機があるとも指摘した。ヒトラーがソ連の力を破壊しようとしているのは、それに成功すれば、ドイツの陸軍および空軍の主力を東方から引き戻して、この島国に投入できると考えているからである。この島国を征服しないかぎり、自らの犯罪に対する処罰を免れないことを、彼は知っているのだ。

 ヒトラーのソ連侵攻は、わがイギリス諸島への侵攻計画の序幕にすぎない。疑いもなく彼は、冬が訪れる前にすべてを片付け、アメリカの海・空軍が介入する前にイギリスを制圧しようともくろんでいる。敵国を一つずつ撃破することによって、彼は長いあいだ成功し繁栄してきたが、その過程をもう一度、かつてないほど大規模に繰り返し、最終幕の障害を排除しようとしている。最終幕とは、それがなければ彼が征服してきたすべてが無に帰するもの、すなわち西半球を彼の意志に従わせ、ナチス体制の支配下に置くことである。

 ゆえに、ソ連の危機は我々の危機であり、アメリカの危機である。それは、自分の家庭のために戦っているソ連人の大義が、地球上のあらゆる地域の自由民や自由国民の大義でもあるのと同じことだ。これまでの苦しい経験によって与えられた教訓を、いまこそ学びとろう。さらなる努力を重ね、生命と力のあるかぎり、一致団結してぶつかっていこうではないか。

「我々はこの戦争に勝った」 一九四一年十二月七日

 一九四一年十二月七日、日本は真珠湾のアメリカ海軍基地を攻撃し、太平洋上のアメリカの領土(グアム、ミッドウェー、ウェーク島、フィリピン)へ海と空から攻め入った。日本軍は東南アジアのイギリス領(香港とマラヤ)とオランダ領東インドも攻撃した。チャーチルはこの運命の時を振り返り、『第二次世界大戦』に次のように書いた。

 アメリカ合衆国が我々の味方についたことは私にとって最大の喜びだったと公言しても、私が間違っていると思うアメリカ人はいないだろう。私は事態の展開を予測できなかった。日本の軍事力を自分が正確に見積もっていたと言うつもりはない。しかしまさにこのとき、アメリカがこの戦争に深く関わり最後まで関与し続けることを、私は確信した。ゆえに、結局のところ我々はすでに勝っていたのである! しかり、ダンケルクを経て、フランスの降伏を経て、オランの悲惨な一件を経て、空軍と海軍を除けば我々がほとんど非武装のうちに本土を侵略される危険を経て、Uボート戦争の死闘、すなわち危ういところで勝利した最初の大西洋の戦いを経て、一七か月の孤独な戦いと、恐ろしい重圧のもとで私が責任を果たした一九か月を経て。

 我々はこの戦争に勝ったのだ。イングランドは生き残る。イギリスは生き残る。イギリス連邦もイギリス帝国も生き残る。戦争がいつまで続くか、どのように終わるかは誰にもわからなかったし、このときの私はそんなことを気にしていなかった。わが島国の長い歴史の中で、再び立ち上がってみせるとしか思っていなかった。どれほど打ちのめされ、ずたずたにされようと、我々は危機を脱して勝利してみせる。決して抹殺されはしない。我々の歴史は終わりはしない。一人ひとりの人間としても、我々は死ななくてすむかもしれないとさえ思われた。

 ヒトラーの運命は定まった。ムッソリーニの運命も定まった。日本人はどうかと言えば、彼らは粉々に打ち砕かれる運命だった。その他すべてについては、圧倒的な力をしかるべく行使しさえすればよかった。イギリス帝国とソヴィエト連邦が、そしていまやアメリカ合衆国もが、全生命と全力を注いで結集したからには、その力は敵の二倍、いや三倍にさえなると私には思われた。おそらく長い時間がかかるだろう。束では恐ろしい損失を被るだろう。しかしすべては通過点にすぎない。我々が団結すれば、世界中の他のすべてを服従させることができる。多くの惨禍やはかりしれない犠牲と苦難が前途に待ち受けていたが、その結末についてはもはや疑いようがなくなった。

 愚かな人びとは、敵国内に限らず大勢いる愚かな人びとは、アメリカの力を見くびっていたらしい。アメリカは軟弱だと言う者もいたし、決して団結しないと言う者もいた。彼らは離れたところでのらくらしているだけだ。真剣に取り組むはずがない。流血に耐えられるはずがない。選挙を頻繁に繰り返すアメリカの民主主義と制度ゆえに、彼らの戦争への努力は無に帰する。彼らは味方にとっても敵にとっても、水平線上にぼんやりと姿が見えるだけだ。人口は多いが遠く離れたところにいる、裕福で口数の多いこの国民の無力さを、いまこそ我々は知るべきだ。

 しかし私はアメリカ人が最後まで死にもの狂いで戦った南北戦争のことを学んでいた。私の血管にはアメリカ人の血が流れていた。三〇年以上前にエドワード・グレイが私に言った言葉を、私は思い出していた。アメリカは「巨大なボイラー」のようだ。「いったんその下に点火すれば、際限なく力を生み出すことができる」と。私は感動と感激に満たされて床に就き、救われた思いで感謝の念を抱きながら眠りに落ちた。
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豊田市図書館の29冊

C61『モビリティ2.0』「スマホ化する自動車」の未来を読み解く

289.3『チャーチルは語る』

289.3『ヒトラーの家』独裁者の私生活はいかに演出されたか

673.98『カフェノナマエ』

019『愛読の方法』

926『中国はここにある』貧しき人々のむれ

209.74『大いなる聖戦 上 第二次世界大戦全史』

209.74『大いなる聖戦 下 第二次世界大戦全史』

750.21『MADE IN JAPAN』日本の匠:世界に誇る日本の伝統工芸

331.74『ケインズの経済学と現代マクロ経済学』

209『海の歴史』ジャック・アタリ』

350.1『データサイエンス「超」入門』嘘をウソと見抜けなければ、データを扱うのは難しい

319『グローバリズム後の世界では何が起こるのか』

010.4『図書館の基本を求めて Ⅸ』「風」「談論風発」2015~2017より

369.14『ソーシャルイノベーション』社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方創生!

319.53『無法者が塗り替える中東地図

290.93『地球の歩き方 イスラエル 2019~20年版』

366.32『パパとママの育児戦略』

361.4『僕たちはどう伝えるか』人生を成功させるプレゼンの力 中田敦彦

389.04『見知らぬものと出会う』ファースト・コンタクトの相互行為論

336『仕事はもっと楽しくできる』大企業若手50社1200人 会社変革ドキュメント

134.95『フッサールの遺産』現象学・形而上学・超越論哲学

316.1『カナダ人権史』世界歴史叢書 多文化共生社会はこうして築かれた

392.53『フューチャー・ウォー』米軍は戦争に勝てるのか?

332.22『チャイナ・イノベーション』データを制する者は世界を制する

201『トインビー 戦争と文明』

135.3『一八世紀 近代の臨界 ディドロとモーツァルト』

723.35『マルセル・デュシャン アフタヌーン・インタヴューズ』アート、アーティスト、そして人生について

336.3『セキュアベース・リーダーシップ』<思いやり>と<挑戦>で限界を超えさせる
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