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カナダの権利革命

『カナダ人権史』より 権利革命

カナダの権利革命を論ずるのに、社会のどれか一つの集団に焦点をあてるのは陳腐にみえるかもしれない。だが、この権利革命の情況や意味を理解するのに、それが女性、特に職場の女性にいかなる影響を与えたかからはじめることは有益である。たとえば、一九七〇年代の大半のカナダ女性の典型からほど遠い存在だったドリス・アンダーソンのことを考えてみよう。彼女は、一九五七年から一九七七年まで『シャトレーヌ』誌の編集長を務め、同誌をカナダで最も成功した雑誌に仕立てあげた功労者だった。けれども、在職中ずっと彼女が直面していた障害や不満は、男性優位の職場でほとんどの女性が味わっていたものと重なるものだった。一九五〇年代中葉に副編集長として、彼女は、毎週、男性編集長とのランチ・ミーティングに耐えなければならなかった。「彼は、私に自分と同じように飲めと強いたのです。私よりもゆうに一〇〇ポンド〔約四五キログラム〕以上も体重があったはずなのにです。当時、私は何とか耐えることができました--そのころ私のような仕事に就いた女性のほとんどは、そうしなければならなかったのです。でも、クレア〔編集長〕とのランチの後はいつも化粧室に行って、喉に指を突っこみ吐いたのです。そうでもしなければ、オフィスに戻って、少しでも能率よく働くことはできなかったのです」。彼女は、マクリーン=ハンター社の最も成功した雑誌を率いていたにもかかわらず、『シャトレーヌ』誌の編集長よりも上のポストに昇進することはなかったし、同社の他誌の編集長だちより二〇パーセントも給料が低かった。しかも、妊娠すると解雇されそうになったのである。セクシャル・ハラスメントは横行しており、日常茶飯事のようになっていた。「男性のなかには、セクシャル・ハラスメントは、ボスであることの特権のようにしか思っていない者もいました。……私が知っている独身女性で、セックスの誘いを受けたことがない人はいませんでした。誘うのは、たいていは既婚男性からでした」。

セクシャル・ハラスメントは、最終的にはカナダの人権法によって禁止されるのだが、当時は問題にはならなかった。「セクシャル・ハラスメント」という言葉は、女性グループが職場での脅迫に抗議したニューョトク州イサカでの言論集会まで使われたことはなかった。カナダでセクシャル・ハラスメントの初めての調査が行なわれたのは一九七九年になってのことだった。ブリティッシュ・コロンビア州人権委員会で証言したある女性は、自身が受けたセクシャル・ハラスメントの最も鮮明に残る一九七八年の体験を語っていた。

 私は、ドラッグストアの大型チェーン店でレジ係をしていました。ボスはいつも、女性たちに言い寄っていました。レジと壁の間には狭い通路がありました。あるとき、その通路を通っていると、向こうからボスがやってきたのです。ボスはどんどん歩いてきて、私に少し後ろにずれる余裕も与えないうちに、私を壁に押しつけました。すれ違いざま、ボスは私のお尻をつかんだのです。私は手をどけてと言いました。ボスは唖然とした様子で立ち去りました。その後、監督副主任が私のところにやってきて、解雇を告げられたのです。

やはり同じ委員会で証言した別の女性は、一九八〇年に同じような体験をしていた。

 雇われてから数か月のときに起きたのです。鍵のかかった在庫室でのことです。男はとても屈強で、私に近づき、小部屋に連れて行きました(私はいやだと言いました)。男は何もしないだろうと、私は思っていました。私をからかっているのだと思っていたのです。男は私の腕をつかみ、身体を触りはじめたのです。(涙ながらに)懇願してようやくやめさせたのですが、男は、俺が異動させられる前に、お前さんがどう思おうが、俺はお前と寝るからなと言ったのです。

セクシャル・ハラスメントは、権利に対する考えが時間とともにいかに変化したかを見事に表している。一九七〇年代、ある活動家は、セクシャル・ハラスメントのことを「あまりに当たり前すぎていて、めったに語られないものだ」と語っていた。セクシャル・ハラスメントは、公然と身体を触られたり男性従業員からセックスに誘われるものでなくても、ピンナップ写真や落書きのような形で表されることが多かった。たとえばジュリー・ウェブは、ヴァンクーヴァーのサイプレス・ピッツァで働いているときに、毎日のようにセクシャル・ハラスメントを受けていた。彼女のボスであるラジンダー・シン・ループラは、くりかえし彼女の髪を触り、肩に腕を回し、彼女がいやと言おうが、抱きしめ、いやらしい性的な言葉をかけ、色目をつかってじろじろ見、いかがわしい仕草をしたのだ。何度も夕食に誘い、モーテルに行ってポルノービデオを観ようと言い、彼女の性生活についてたえず問いただしたのだった。

長い問--一九七〇年代と一九八〇年代の大半--、人権をめぐる苦情でいちばん多かったのは、性差別に関するものだった。多くの女性にとって、差別は、人生の初めのころからはじまっていた。学校では、男性教師のほうが女性教師よりも高い給料をもらっていたし、女性教師は結婚や出産をすれば、退職に追いやられることに気づかされたのである。大学でも性差別は続いていた。クラスで女子学生は、排斥されたり隔離されたりする目にあったのである。シェリー・ラビノヴィッチは、大学四年だった一九七三年の体験を思い起こしていた。

 スタッキー博士は、性愛文学やポルノグラフィーのなかで女性がどのように描かれているかを分析する四年生向けのセミナーを開いていました--私は出席を許可されたのです。ヨーク大学は、リペラルな大学として有名だったのですが、私たちは、大学の構内でセミナーを開くことを許可されませんでした。そこで、約六人の女子学生は、スタッキー博士のご自宅にバスで行き、そこで、お茶を飲み、クッキーを食べながら、北米やヨーロッパの女性のハードコアな描写について討論したのです。

一九二〇年、カナダの大学生の数は、男子が一万九〇七五人だったのに対し、女子は三七一六人だった。一九六〇年になると、八万五八二人に対し二万六六二九人だった。一九七五年には、男子が一九万六九六人に対し、女子はまだ一四万二五八人だった。

学校を出て就職しても危険がともなっていたことは、一九八〇年でも同じだった。それをシャリ・グレイドンが回顧していた。

 国際広報企業で、それなりの給料をもらえる下級職に就いて一年たったころ、秘書の女性の一人とちょっと仲良くなりました。彼女は、代理店の新人社員が--新聞発表用の原稿すらまったく書けない男性でしたが--、私より八〇〇〇ドルも高い年収をもらっていると教えてくれました。おまけに彼女が打ち明けたのですが、その人は下着をはいていないのを彼女に見せるチャンスをつくるのには如才なかったというのです。

カナダの労働力全体に占める女性の割合は、一九四一年の二〇パーセントから一九七一年には三四・三パーセントに増加していた。雇用での差別は横行していた。女性は、タクシー運転手は危険すぎるという理由で断られたし、座席が大きすぎるという理由でバス運転手にもなれなかった。警察官や消防士には、身長と体重の最低基準をみたしていないとして断られた。男性のみに適しているとみなされた建設、炭鉱、測量、そのほかの数多くの職業にも就けなかった。ニューファンドランド州セントジョーンズの教育委員会は、常軌を逸したのか、女性用務員には、男性用務員よりも小さなブラシしかあてがわれていないことを理由に、男性よりも安い賃金であることを正当化していた。女性を不平等に扱うのは差別というよりも常識だとする見方はあまりにも定着していたため、オンタリオ州最高裁判所の判事は、一九六八年に公平な給与を求めた女性警察官の訴えを、次のような理由で退けたのだった。「経済、文明、家庭生活、常識のすべての原則に従って差異があるのであるから、男性警官とは異なる、差異のある給与をもらったことは、差別を受けたことにはならない」と。一九七四年の時点で、女性は、ロースクール在籍者のわずか二〇パーセントだったし、弁護士を開業しているのは五パーセント未満であり、裁判官は皆無に等しかった。一九一九年から一九七二年まで、女性議員が連邦下院議席の五パーセントを超えることはなかった。一九六八年から一九七二年までの間は、グレース・マッキニスがただ一人の議員だった。一九七四年の時点では、フルタイムで働く女性の賃金は、男性の六六パーセントたらずだったし、大学の学部卒業者の平均年間給与は、男性の三万ドルに対して、女性は二万一〇〇〇ドルだった。カナダ人の五人に一人が貧困の時代に、独身女性の四二・五パーセントと六五歳以上の女性の七四・四パーセントの年間所得は、一五〇〇ドルにも満たなかった。シングルマザーの三分の一が貧困だった。

権利革命の影響は、すべてのカナダ人に及んでいた。と同時に、権利に対する考えが変わったことで特に恩恵を受けたのが、女性やそのほかの周縁に追いやられた人たちだったことは容易に理解できるだろう。当初の差別禁止法が性による差別を考慮しなかっただけでなく、(多数のフェミニストを含む)活動家の大半は、一九六〇年代まで性差別を禁止するよう抗議行動を起こすことすらしなかった。ブリティッシュ・コロンビア州が、性に基づく差別を禁止した最初の州となったのは、一九六九年のことだった。

ブリティッシュ・コロンビア州が一九七三年に人権法典を可決したことは、カナダの人権史において、もう一つの重要な出来事だった。同法は、世界でもおそらく最も進歩的な人権法だった。実行を可能とする機関の設置など、モデルとなったオンタリオ州の法律の強みをすべて備えていたのに加えて、「道理にかなった理由」条項を含んでいたのである。カナダにあるほかの人権法では、人種や宗教といった特定の理由にかぎっていたのに対し、この「道理にかなった理由」条項は、被告人が道理にかなった理由を示さないかぎり、あらゆる差別を禁止したのだ。だが、法律改正というのは、人権がいかにカナダ社会を変化させていたのかを示す唯一の例ではなかった。カナダ政府は、世界人権宣言を拒絶同然にしてから一世代後になって、人権を外交政策のたしかな方針の一つにしたのだった。その間、活発な社会運動団体が出現していたが、その主張者たちは、人権という言葉を使って不満をさまざまに表現していた。さらに、幾度か試みが失敗した後に、権利の章典を組みこんだ憲法が返還されたのだった。

権利革命を具体的な形で表したのが、社会運動であった。一九七〇年代までにおびただしい数の社会運動が出現していた。過激な学生運動は、新左翼の誕生を促した。ブリティッシュ・コロンビア州だけでも、一九六九年には女性グループが二つだったのが、一〇年後には二〇〇を超えた。ヴァンクーヴァーとトロントに初のゲイの権利組織ができ、一九七五年には全国協会がつくられた。グリーンピースの創設は、現代の環境運動の誕生を画した。全国的な先住民組織は少なくとも四つ、州組織は三三にのぼっていた。アフリカ系カナダ人の社会運動組織は、カナダ全土に広がっていたし、子供の権利、囚人の権利、動物の権利、平和、貧困、公用語について主張する人びとの組織も未曽有の数になった連邦の国務省だけでも、一九八〇年代初期には、三五〇〇以上の社会運動組織を助成していた。こうした運動のすべてが、権利の言語を使っていたのだ。たとえば、ヴァンクーヴァー・ステータス・オブ・ウィメンは、女性権利省の設置を要求し、セクシャル・ハラスメントからの自由は人権だと訴えていた。カナダの教会でさえも人権革命に深く関与していた。キリスト教会、特にカナダ合同教会は、海外布教活動に代わって、海外での人権や権利に基づく活動を行なっていた。
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