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家族は宗教と同じ

ゴミを撒き散らす集団

 おまわりさ~ん、豊田市の町で、2階建ての街宣車がゴミをばらまいています! 周りに人が居るけど誰も片付けない。無法地帯になっている。

家族は宗教と同じ

 家族は宗教と同じで代償が大きすぎる。

 ジェンダー平等を求めるのであれば、家族制度を超えないといけない。完全な自立。

コペンハーゲン公共図書館は行きそびれた

 オランダ公共図書館の本を読んでいたら、「コミュニティを再生したコペンハーゲン公共図書館」と出てきた。昼食に向かう時に隣を通った。その後、間違えてコペンハーゲン大学の図書館に行ってしまった。昼食なしで行くべきだった。
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21世紀の北部ヨーロッパ図書館 生きるための情報を獲得する場所

『オランダ公共図書館の挑戦』より 21世紀の北部ヨーロッパ図書館

情報から取り残された人びとをターゲットとする公共図書館

 情報と文化へのアクセスに関して不利益な立場に置かれた人びとは難民だけではない。二〇一四年にアムステルダム公共図書館は、二〇一五年から四年間の方針を定めた文書のなかで、図書館サービスがとりわけ必要とされる弱い立場に置かれた人びととして、識字能力が低い住民、高齢者、失業者、ニューカマーノ非市民、読字困難者を挙げている。

 図書館サービスの必要性がほかの人よりも高い人びとに向けて、公共図書館は学習プログラムを集中的に提供してきた。代表的なプログラムは、読み書き能力を獲得するためのリテラシープログラム、コンピュータを使えるようになるためのIT支援プログラムである。公共図書館は、利用したいと思う人が自主的に利用する機関である。逆に言えば、使う必要がないと考える人は公共図書館に行く必要はない。しかし、情報と文化へのアクセスに関して不利益な立場に置かれた人びとへのサービスに関しては、この基本原則は当てはまらない。

 情報へのアクセスは人間の基本的権利であり、リテラシー能力を欠いていればこの基本的権利を満たせないことになる。だから、情報リテラシーを獲得できていない人に対しては、図書館の利用を各自の自主性に任せることはせず、図書館から積極的に働きかけて図書館に連れてこなければならない。近代公共図書館が誕生してから一五〇年が経つが、情報格差はなくならず広がるばかりとなっている。だから、図書館のプレゼンスはますます高まっている。

生きるための情報を獲得するためのデジタルリテラシー

 情報と文化へのアクセスに関して不利益な立場に置かれた人びとに対して、図書館は何をしているのだろうか。不利な立場に置かれた人は、自力で生きていくための情報を入手できるようになる必要がある。その中心となるITリテラシーの支援プログラムを図書館が提供しているのである。図書館ではいろいろなタイプの講座を用意して、利用者をサポートしている。

 通常、IT支援プログラムには「マンツーマンレッスン」と「集団レッスン」があって、参加者は好みに合わせた学習スタイルを選ぶことができる。マンツーマンレッスンのほうは、決められた時間に図書館に行って、司書やスタッフの手ほどきでITスキルを身につける。レッスンでは、パソコン、タブレット、スマートフォンなど機器の使い方について自由に質問することができる。

 デンマークのヴィボー図書館のように、訪問型IT支援サービスをはじめた図書館もある。新サービスは「図書館があなたのところに!」と名付けられた。その内容は、-―デジタル機器の出前講習会である。司書が小型のワゴン車にコンピュータ、タブレット型端末、スマートフォンなどを積み込んで、リクエストを受けた高齢者施設や学校を訪問する。訪問先では、IT機器のワークショップを開催したり、電子書籍端末を使った読書会やブックカフェを立ち上げたりと、訪問先に合わせたプログラムを試しているそうだ。

 デンマークにかぎらず行政手続の電子化が進むヨーロッパでは、図書館が行政からの依頼を受けてIT講座を開催している。イギリスの生活困窮者と行政との闘いを描いたドキュメンタリーに近い映画『わたしは、ダニエル・ブレイクでは、とても重要な場面で公共図書館のIT支援が出てくる。

 この映画では、新自由主義に席巻された社会において、政府が不利な立場に置かれた人びとに自己責任を求めることがいかに人びとを弱体化させていくかというプロセスがありありと表現されている。その重要な場面で公共図書館が登場するのだ。

 長年にわたって大工として生計を立ててきた主人公ダニエルは、心臓病を患って仕事ができなくなる。生活保護を受けるための手続きはオンラインでしか受け付けていないため、コンピュータを持たず、そのスキルもない主人公は、行政職員から教えられた図書館を訪れ、司書からマウスの持ち方を教わることにした。

 コンピュータ画面に示されたカーソルを上に移動させるためにマウスを机から持ち上げ、自分も一緒に立ち上がるダニエルに対して、司書はできるだけ親切にコンピュータの使い方を教えようとする。だが、困っている人はダニエルだけではない。彼にかかりきりになって教えるだけの余裕はなく、中立的な振る舞いが求められる。周りにいた利用者もダニエルを助けようとするのだが、どうしてもうまく操作することができず、結局ダニエルはコンピュータを使ってオンラインで行政手続をすることをあきらめてしまうのである。

 行政は、仕事の効率化を図るために、手続きを可能なかぎりオンライン化する方向で制度化を推し進めている。しかし、すべての住民がコンピュータスキルをもっていないことも十分に認識している。だから、無料でITスキルを学べる場所が必要となる。そこで白羽の矢が立ったのが公共図書館だった。図書館は、一〇〇年以上も前から常に公教育を補完するためのプログラムを用意しており、リテラシーに問題を抱える人びとの学びを支援してきたからだ。

 ダニエル・ブレイクのエピソードは何を示しているのだろうか。一つは、図書館はリテラシースキルをもたない人にいつでも開かれていて、学びの入り口となっていることである。これは、社会的救済機関としての図書館の価値である。もう一つは、これとは正反対の事実である。インフォーマル教育機関のなかでももっとも敷居の低い公共図書館は、ある意味で教育に関するセーフティーネットの一番下の網だが、そこから落ちてしまうことさえあるのだ。

 最低レベルのリテラシーがないために本当に困っている人にとっては図書館のIT支援は最後の砦となるのだが、それすら(ードルが高すぎるという過酷な現実がある。しかし、そうであっても図書館は諦めずにドアを開け続けている。
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監視社会をハンナ・アレントの『人間の条件』から分析

『監視社会をどうする!』より 現代社会のパノプティコン

私的領域と公的領域 

 さて、アレントが定義する私的領域とは、公的領域に対して「隠すべきもの」であり、具体的には、古代ギリシア・ローマの市民にとっての家族生活の領域のことを指す。他方、公的領域とは、政治的領域のことであり、具体的には古代ギリシアのポリスにおけ、る昔活を指す。

 私的領域は、人間が動物同様に生きるための必然性(生物学的生命の必要)に支配されている領域で、具体的には、生殖や食べていくための労働(主として奴隷が担当する)が行われる領域である。こうした私的領域の構成員は家長によって暴力的に支配されている。アレントによれば、この領域の克服が公的領域参加の資格要件とされる。

 公的領域すなわちポリスとは、上で述べた私的領域を克服した者だけが市民権を得られる政治的領域で、そこは生きるための必然性から解放された領域であり、支配者も被支配者もいないという意味で、すべての市民が平等な領域である。そこでは、どんな個欧も、それが活動において示される限り、尊重される。

 アレントによれば私的領域克服は公的領域参加の資格要件であるから、以下に述べるような架空の資格試験と合格後の実務家の世界の関係を想像してみるとわかりやすい。

 資格試験合格までが私的領域である。その克服が公的領域参加の資格要件ではあるが、この架空の制度では、公的領域はそのプロセスに一切関与しない。不正行為を除いて、とにかくどんな方法でもいいのでこの私的領域を克服した者でさえあれば、公的領域では完全に平等に扱われる。

 したがって、公的領域にはさまざまな個性の持主がやってくる。とんでもない勉強法や試験対策で私的領域を突破してくる超個陛的な人物もやってくる。しかし、公的領域はこうした個性を一切選別しないし、ランク付けもしない。公的領域は私的領域克服プロセスを一切問題にしないのであるから、そこで問題にされるのは、公的領域で市民権を得てからの各自の独自の活動だけである。だから、独自の活動を行い、自己の卓越を示そうと試みない者だけは軽蔑されるかもしれない。なお、暴力は禁止される。古代ギリシアの市民が公的領域で自己の独自性や卓越を示す手段は、あくまでも、言論と活動によらねばならないのである。

 なぜこのような公的領域が可能になるかといえば、アレントが定義する公的領域はまず、生きるための必然性から解放されているため、構成員が何か一つの考え方にコミットさせられ、従順になる必要がまったくないからである。したがって、このような公的領域では、構成員にどんな正解も押しつけられない真の個趾尊重社会が実現する。さらに、公的領域のリアリティが、「無数の遠近法と側面が同時的に存在する場合」とされるからである。わかりやすくいえば、異なった個性の持主たちが一つの世界を共有し、関係しあうことが公的領域の現実性とされるからで、だからこそ、公的領域は個欧形成プロセスに関与しないのである。

 さて、ここで気づかないであろうか。この章でこれまで議論してきたプライバシー権とは、まさに、こうした公的領域を可能にするための権利だということに。しかし、アレントが定義する古代の私的領域は、人間の動物的な側面として隠されるべき領域とされており、そこに現代の私たちが求めているプライバシー領域を発見することは難しい。するとなぜ、現代社会では古代ギリシア・ローマには見当たらなかったプライバシー領域が必要とされるようになったのであろうか。先に進もう。

社会的なるものの勃興

 さて、アレントによれば、やがてこの私的領域は、アレントが定義する「社会的なもの」へと吸収されてしまい、同時に、公的領域もその大部分が失われてしまう。つまり、時代の進展によって、かつての家族は奴隷や、多くの場合、土地や私有財産をも失い、もはや家族という私的領域内部だけでは生きるための必然性を克服することが不可能になる。こうして、家族としての私的領域は解体し、民族規模の家政によって経済問題(生きるための必然性に関する課題)を解決する組織としての「社会的なもの」、具体的には国民国家が成立することになる。

 つまり、アレントが定義する「社会」あるいは「社会的なもの」とは、かつての私的領域がその本質を変えずに「社会」という公的性格を受け取った(「隠すべきもの」という性格を奪われた)国家規模の集団組織のことである。したがって、そこは「公的でありながら生きるための必然性に支配される場」であり、多くの人間はこのような「社会」においてはじめて生命を維持できる存在になるのである。

 すると、こうした「社会」は、古代ギリシア・ローマ時代の家族と同じく、家長が構成員を暴力的に支配する仕組みに近づくことになる。ただし、家族には家長がいた。しかし、「社会」としての国民国家には、支配の仕組みやシステムが存在しているだけで、そこに具体的な人間としての支配者はいない。それはアレントが「ノーマンルール」と呼ぶ社会関係としてのパノプティコンである。なお、アレントはもちろん、「パノプティコン」という言葉は掴いておらず、これは私たちの文脈での意味にすぎない。

 こうして、人々の生命過程は「社会」に依存することになり、人々は「社会」が選択する価値観に従わされるようになる。「社会」もその構成員の画一化を目指すようになり、現代的な意味での個人のプライバシー領域にも干渉するようになる。

 するとかつての公的領域と私的領域との関係はどうなるのであろうか。

 かつての公的領域とは、かつての私的領域を克服した者だけが、そこで相互に自律した個人として他者と対等に交われる領域であった。しかし、かつての私的領域は解体され、国家規模に肥大し、「社会」になってしまった。この「社会」を克服できる個人はきわめて稀であろう。ということは、公的領域が存在するとしても、そこへの参加資格を得られる者はきわめて少数ということになる。こうして、強烈な個性の持主は、どく稀に「社会」から認められた者を除いて、逸脱者として排除や矯正の対象とされることになる。

 他方、大部分の人々が属する「社会」はその構成員を画一化しようとするため、個として生きることが困難な領域になる。こうして、個性的に生きようと欲する人々は、「社会」が強要する暴力的な画一化からの避難所へと追いやられることになる。

 この避難所が、私たちがこれまで議論してきた現代のプライバシー領域である。なお、アレントはこの領域のことを「親密さの領域」と表現している。つまり、現代社会において、私たちはこの領域においてこそ個を醸成することができることになる。そして以上で述べたような経緯に照らすと、この領域の性格は、かつての公的領域と対立する側面よりも、「社会」からの避難所という側面が圧倒的に強くなる。だからこそ、この領域で醸成される強烈な個趾は、時に「反社会的」と評価されることさえあるわけである。

 ところで、アレントによれば、このような近代社会の支配的理念とは生産性の拡大であり、産業の発展である。すると、そこでは実践的な成果を生み出すための知や活動が高く評価されることとなる。こうした成果を生まない、たとえば哲学者や「オタク」と呼ばれるような人々の活動は、たとえそれがいかに個陛的で自律的で、動物と区別される人間的な活動であっても、「社会」ではあまり評価されなくなる。

 アレントによれば、「社会」は「そのメンバーに純粋に自動的な機能の働きを要求する。それはあたかも、個体が自分から決定しなければならないのは、ただその個別性--まだ個体として感じる生きることの苦痛や困難--をいわば放棄することだけであり、行動の幻惑され『鎮静された』機能的タイプに黙従することだけであるかのようである。近代の行動主義理論が厄介なのは、それが誤っているということではなく、それが正しいものになったということであり、それが実際に近代社会のある明白な傾向を概念化するのに最も可能性のある方法であるということである。」という。

 つまり、「社会」の住人にとっては個性的に生きることがかえって苦痛で自然に反すると思えるようになり、「社会」の法則を認識し、それに従う(昨今の流行語では「忖度する」と表現される。)ことの方がむしろ自由で安楽だと思うようになる。これこそがパノプティコンの住人の典型的な症状である。

 実際、このパノプティコンの住人にとっての真理の規準とは、「社会」が認めるもの、多数派が賛同する事柄である。だからこそ、ネット上で表明される個性的な発言を炎上させ、自己の主張は主に社会常識に合致することを根拠に正当化する人々が増える世の中になる。彼らにとって、アレントが問題としたような、「社会常識に合致することがなぜ真理の規準になるのか」という疑問はけっして生じない。むしろ、社会常識が真理であることは前提とされ、「何が社会常識なのか」を発見することだけが彼らの関心事になるのである。

 こうして、このような「社会」の住人にとっては、法や法則に従わない具体的個人が消去されるべき「外れ値」や矯正されるべき「犯罪者」に見え、法則に従う従順な人々が現実的で模範とすべき正義の人に見えるようになる。つまり、カントが発見した自然科学や数学の主体的な認識形式が動かしがたい客観的な現実に見え、その実質、つまり具体的で感性的な存在(質料)がむしろ単に主観的にすぎない価値のない独りよがりな排除されるべきかりそめな存在として現象するようになる。

 しかし、このようど「社会」はいまやほとんどの人々にとって、かつての私的領域同様、生きるための必然性に支配されたプロセスである。つまり、多くの人々にとって、そこから排除されるわけにはいかない場所である。こうして、人々は「社会」の法則に従う道を自ら選択するようになる。自然科学の対象とされる「物」と同じく、尊厳を失い、パノプティコン社会の住人になるのである。
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人間はまだ世界の出来事を自らコントロールできるほど教育されてはいない

『新しい世界のための教育』より はじめに ~新しい人間~

私は、この本の中で、子どもの持つ偉大な力について述べようと思います。そして、教師がその仕事を骨折りなものから喜びに満ちたものへと、自然の抑圧から自然との協調へと変わるような、新しい視野を持つことができるよう導きたいと考えています。

今日のひきさかれた私たちの世界には、改革が必要です。そのためには、宗教の復興と同じく、教育の力を高めることが根源的な要素である、と心ある人々が訴えています。しかし、人類はまだ、歴史から戦争を消し去るような、平和で調和のとれた社会の建設を本気で願うほど進化しているとは言えないでしょう。すなわち、人間はまだ世界の出来事を自らコントロールできるほど教育されてはいないのです。その結果、今も多くの犠牲が生み出されています。

高尚な思想や立派な意見が常に論じられているにもかかわらず、戦争がなくなったことはありません。教育が、ただ知識の伝達にすぎないとするこれまでの考え方が続けられるかぎり、現代の問題は解決されることなく、したがって、私たちは未来に希望を持つことはできないでしょう。

人間の特性を科学的に探求することによってのみ、世界は救われると私は考えます。なぜならば、私たちには、もしそれが正しく開花すれば、真に世界の力となるような巨大な社会集団である精神的存在として、目の前の子どもたちが与えられているからです。救いと援助の道は子どもたちによってもたらされるでしょう。人類の建設者は子どもたちであり、社会を建設するのもまた子どもたちであることを忘れてはなりません。子どもたちは、私たちをより素晴らしい未来へと導く秘められた力を持っているのです。教育は、もはや知識を分け与えることを主要な仕事とするのではなく、新しい道を歩まねばなりません。それは、人間の可能性の解放のための道なのです。それでは、そのような教育はいつから始められるべきなのか、という問題が出てくるでしょう。人間の偉大な特性は誕生とともにあらわれます。これは、まことに神秘的なことですが、多くの現実が物語っているとおりです。

生まれたばかりの赤ん坊の持つ精神的生命は、すでに多くの科学者や心理学者に高い関心をもたらし、出生後の三時間から五日目までの詳細な観察がなされています。これらの記録からは、人生の最初の二年間が最も重要であるとの結論が出されています。幼い子どもたちには、特別の精神的な力が与えられており、自然との共同によってそれらをひきだすことIまさに文字どおり教育そのものでありますーが、私たちの歩むべき新しい道であるということをこれらの観察が示しているのです。

子どもの持つ生き生きとした躍動的で建設的な子不ルギーは、幾千年もの間、それが精神的な宝の鉱脈であったにもかかわらず、見い出されることかありませんでした。初めて大地に足を踏み入れた人々が、その足もと深くに隠された巨大な富を知らずにいたことと同じでしょう。人類は子どもの精神的世界の中に横たわる富を見い出すどころか、このエネルギーを抑圧し砕いてきたのです。今ようやく、わずかな人々が、これまで決して目を向けられることのなかった黄金よりも貴重なそれらの存在-人間の精神そのものーを感じはじめたのです。

出生後二年間の観察は、人間の精神の構造の法則に新たな光を与えました。すなわち、子どもの精神の構造と大人のそれとは、まったく異なるものであるという事実です。ここに私たちが進むべき新しい道が生まれました。その道とは、教師が子どもに教えるのではなく、子どもが教師を教える世界なのです。

最初この事実は信じがたいことかもしれません。しかし、子どもには知識を吸収する精神が備わっており、それゆえ、自らを教育することができる、という真実が発見される時、私たちはこの事実を理解できるようになるでしょう。たとえば、子どもが言葉を獲得する過程-すばらしい知性の働きーを参考にしてみても明らかでしょう。だれから教わったわけでもないのに二才の子どもは両親の話す言葉を使うことができます。人生の特定の期間のうちに、子どもは自分をとりまく環境とつながっている名称や単語を使い始め、さらには、外国語を学ぶ学生が悩まされる不規則変化や構文なども習得してしまうのです。子どもの内にはきわめて正確で精密な教師が存在しており、その教師は計画表にしたがい、もし大人がするならば心理学者が言うには六十年もかかるようなわざを三年間でなしとげるのです。

教育とは、教師が与えることではなく、一人ひとりの人間から自発的に生みだされる自然の過程である、ということを科学的な観察が明らかにしています。話を聞くことによってではなく、環境を経験することによって人間が生み出されるのです。したがって、教師の仕事は、文化的活動を促す構成を準備すること、すなわち、特別に整えられた環境を広げることであり、さらに、押しつけがましい干渉を慎しむことにあります。教師としての人間は、ただ、召使いが主人につかえるように、そこでなされている偉大な仕事を援助することだけなのです。そのようになれば、人類は人間の精神の真の開化に出会うことができるでしょうし、もはや戦争の犠牲者を生むこともなくなるでしょう。そこでは、未来の人間社会を導き、建設する、明確な洞察力を持つ新しい人間が誕生するのです。
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