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マケドニアがギリシアを征服できた理由

『学校では教えてくれない世界史の授業』より アレグサンドロズ大王こそ世界史の出発点

バルカン半島の付け根の東側、テルマイコス湾の奥、ピエリア山脈の裾に版図を構えたマケドニアは、多くのポリスからみれば遥か北の外れです。

建国が前七世紀半ば、アルゲアス家を王、ギリシア語の「バシレウス」ですね、この称号で担ぎ上げ、それを「ヘタイロイ」と呼ばれる貴族が支えているという王国です。

はじめは弱小勢力でした。前六世紀末、アミュンタス一世という王は、マケドニアの保身のため、ペルシアに臣従しています。その息子のアレクサンドロス一世にいたっては、前四八〇年、ペルシア戦争のときですね、ベルシアのクセルクセス一世の軍隊に同行して、一緒にギリシアを攻めています。まあ、それで戦争の帰趨を左右したわけでもない弱小勢力、ひたすら自らの生き残りに汲々としている。マケドニアは、そんな国だったということです。

力をつけ始めたのが、ペロポネソス戦争の頃からでした。山国ですから材木が豊富で、これが船の材料として大売れしたんです。諸ポリスが艦隊の整備に迫られていたときで、そのまま戦争に突入してポリスが潰し合いを演じたことも、マケドニアの存在感を増さしめたといえましょうね。

それにしても、ギリシア世界の主役ではありません。マケドニア人も一応はギリシア人で、スパルタなんかと同じドーリア人の一派、西方方言群と呼ばれる一派なのですが、先進のポリスからみると、「バルバロイ」、つまりは野蛮人と大差なかった。民主政の世界からすると、王政なんか敷いていること自体が、もう後進国の証なんですね。

こんなマケドニアが先進ポリスをさしおいて、どうして打倒ペルシアの旗手になったのか。そう問われれば、まさしく政治も経済も文化も遅れた田舎だったから、マケドニアは典型的な辺境だったからと答えるべきでしょうか。

歴史、あるいは政治や経済をみるときでも、しばしば引かれるのが辺境理論ですね。次の時代の覇権を握るのは、そのとき覇権を握っていた地域からみた辺境であるという。

簡単にいえば、辺境は覇権を握っていた地域、つまりは先進地に学べるわけです。それも効率がいい。先進地が苦労して創り上げたものを、自分たちは苦労しないで、結果だけパツと持ってきて、すぐ使うことができるんです。

マケドニアに話を戻すと、ペルシア戦争が終わった頃から、それこそペルシア軍に味方した王アレクサンドロス一世ですね、この王からギリシア文化の輸入に努めるようになりました。ヘラクレスの末裔なんだと称したり、ギリシア人しか参加できないオリンピックに出たいと熱烈に望んだり、もうギリシアの仲間に入りたくて必死ですね。

次のアルケラオス王は都をアイガイからペラに移すんですが、その新都は全てにおいてギリシア風を心がけましたし、そこに数々の文化人も呼びました。アテネの悲劇作家エウリピデスなんかも、そのひとりです。

啓二九九年、そのアルケラオス王が暗殺されて、マケドニアは四十年ほど混乱と停滞、ことによると存亡の危機にさえ見舞われました。前三五九年、あげくに王位についたのが、当時まだ二十三歳にすぎなかったフィリッポスニ世です。

マケドニアの歴史を大きく転換させる王ですが、このフィリッポスも典型的な辺境の個性でして、先進地ギリシアの良いところを貪欲なばかりに取り入れていきます。

例えば軍事--実をいうと、フィリッポス二世は前三六八年から前三六五年の三年間、マケドニアが敵対しない保証として、テーベに人質に出されています。人質といっても投獄されるわけでなく、有力者の家に軟禁される程度、場合によっては懇ろに教育を施されるんですが、その有力者というのがエパメイノンダスだったんです。

あの『プルタルコス英雄伝』にも出てきますね。前三六〇年代におけるテーベの優位を築いたエパメイノンダスとペロピダス、古代ギリシア史上屈指といわれる二人の名将のうちのひとりである、エパメイノンダスのことです。

剪二七一年、スパルタと戦ったレウクトラの戦いで、エパメイノンダスは斜線陣を用いました。左翼、中央、右翼を、斜めに前列、中列、後列となるよう並べて、まず左翼にして前列で攻撃開始、これで敵を押さえながら中央中列、さらに右翼後列で取り囲んでしまう戦術です。この当代最高の戦いぶりを、フィリッポス王子は間近で観察できたわけです。

この斜線陣、マケドニア王になったフィリッポスニ世の得意技のひとつになります。他にもスキタイ人やトラキア人からは楔形陣を取り入れましたし、シュラクサイからは破城槌、攻城塔、投矢機など、先進の攻城兵器も学びました。即位一番に取り組んだ兵制改革なども、テーベ体験をはじめとするギリシアに学んだ賜物でした。

マケドニアは山国ですから、馬の産地で、伝統的に軍は騎兵が中心でした。これが後進地と笑われる所以で、先進地のポリス、古代ギリシアの兵士といえば歩兵なんです。「ファランクス」と呼ばれる、重装歩兵の密集隊ですね。

周知のようにオリンピックは古代ギリシアが発祥ですが、その陸上種目、槍投げ、円盤投げ、砲丸投げ、ハンマー投げ、高跳び、幅跳び、徒競走などは、歩兵に求められる技能ですね。レスリングにもグレコ・ローマン(ギリシア・ローマ)スタイルがあって、あれも歩兵の技です。騎兵は組んだり投げたりしないわけです。

そのギリシアの歩兵をフィリッポス二世は、マケドニア軍に導入したんです。捕われていたテーベには「神聖隊」という、ペロピダスが率いる三百人、当時無敗の精鋭部隊もいましたから、大いに刺激されたんだと思います。

ただフィリッポスニ世は、そのまま模倣するのではないんですね。例えば槍の長さを変える。先進ポリスの槍より長い、五・五メートルの長槍を採用して、密集歩兵隊もマケドニア独自のスタイルを編み出すわけです。

かねて得意の騎兵も廃止せず、歩兵と騎兵を組み合わせた戦術を考えます。さらにいえば、これらを常備軍にしました。以後マケドニアの兵士は全て職業軍人です。いつでも、どこでも、どれだけでも使うことができますから、しごく有効な兵力になります。

これ、ギリシアは違うんですね。先進ポリスは民主政ですから、兵役も市民の義務のひとつです。結果、兵士は日本史にいう「半士半農」になります。季節兵士といいますか、素人兵といいますか、民主政の理念にはかなうけれど、軍隊としては相当な制約を受ける仕組みなんですね。

ポリスはそうやって発展してきたから仕方ない。けれど、マケドニアは倣わない。歩兵隊、歩兵戦術とプラスは入れるけれど、マイナスは無視して、むしろ逆方向に改革する。そうしてフィリッポス二世は、最強の軍隊を作り上げたわけです。

まあ、最強の常備軍も、金だけはかかります。生産的な労働はひとつもしませんからね。ポリスの市民兵は、そこは安上がりだったわけです。給養の経費は莫大でしたが、フィリッポスニ世はマケドニア東境パンガイオンで、金鉱を開発します。その上がりで常備軍を養う。のみか諸ポリスの有力者を抱きこむ賄賂にもなりました。外交でマケドニアの有利を整えると、まず始めたのがギリシア統一でした。

前三五四年、フィリッポス二世はマケドニアから南東のテッサリア地方に進出します。内紛に乗じて出兵するや、これを鎮めてテッサリア連邦の長官となり、同地の支配を固めたわけです。

啓二四八年は東のトラキアで、カルキディケ半島のオリュントスを壊滅させます。これがアテネの同盟市でした。緊張が高まるまま、前三四〇年にアテネはマケドニアに宣戦し、同時にテーベを自らの同盟に引き抜きます。

啓二三八年八月、迎えた決戦がカイロネイアの戦いで、これにマケドニア軍は大勝します。用いたのは斜線陣の応用でした。敵の戦列にはテーベの神聖隊もいましたが、これに初めて土をつけたのが、そこから多くを学んだフィリッポス二世だったわけです。

剪二三七年、そのままコリントスに全ギリシアから各勢力の代表を招集します。スパルタだけは応じませんでしたが、それを除いた全員でコリントス同盟を結び、マケドニア王がその盟主にして全権将軍の座につきます。ここにフィリッポス二世は、ギリシア統一を遂げたわけです。

それまでのギリシアはポリスの世界ですから、要するに小さいのが沢山あって、互いにやったりやられたりを繰り返していました。それぞれは繁栄していたし、相応に力もあったんですが、いかんせんバラバラで、全ギリシアとしては力を結集できなかった。

そこにフィリッポスニ世はマケドニアという、ひとつと抜きん出た国力で乗りこんできて、統一ギリシアという大きなまとまりを作りました。なんのためといって、ペルシアと戦うためですね。ギリシアが頭を押さえられている状況を変えるためです。

ペルシアは圧倒的な大きさです。それにギリシアがポリスごと、あるいはいくつかのポリスごとかもしれませんが、いずれにせよ小で戦うしかないとすれば、勝ちようなんかありません。ところが、そのギリシアがフィリッポスニ世の手でまとめられて、ペルシアは依然として大だけれど、圧倒的というほどの大ではないというところまで来たんですね。

次はペルシア--フィリッポスニ世は迷いません。ギリシアの悲願として、打倒ペルシアの気運が熟成されていたんでしょうね。あるいは時間を置いては駄目だ、せっかくまとめたコリントス同盟も、無為に日々をすごしては瓦解するかもしれないと、焦りもあったかもしれません。

パルメニオン将軍率いる先遣隊の出発が、前三三六年の春だったといいますから、ギリシア統一の直後、もう文字通りに軍を解散することなく、そのままペルシア遠征が着手されています。ところが、です。フィリッポスニ世は、ここで暗殺されてしまいます。

実行犯が近衛兵で、色恋沙汰、それも同性愛のもつれからとも、いや、背後にマケドニア宮廷の陰謀があったのだともいわれますが、とにかく殺されてしまうわけです。

せっかくの勢いが削がれます。実際、フィリッポスニ世の跡目争いが起こりました。先進のポリスは一夫一婦制でしたが、後進マケドニアは一夫多妻制でしたから、これは揉めてしまいますね。

ギリシアにもコリントス同盟から抜けて、反マケドニアの旗幟を鮮明にする動きがあります。ドタバタは不可避で、二年間くらい続きましたが、そのドタバタを収めたのがフィリッポスニ世の息子、新たにマケドニア王にしてテッサリア連邦長官、コリントス同盟全権将軍となった、アレクサンドロス三世でした。

いうところの、アレクサンドロス大王です。
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宇宙論学者は数学を使ってSFを書く

『ホーキング博士、人類と宇宙の未来地図』より 宇宙論学者は数学を使ってSFを書く

もうおわかりでしょう。ホーキングにかぎらず、宇宙論(コスモロジー)に取り組む宇宙論学者(コスモロジスト)たちは、いわば趣味で宇宙論をやっているのです。

「はやぶさ」のような(小)惑星探査機を設計したりする人たちは宇宙物理学者、惑星を研究している人も宇宙物理学者ですが、宇宙論学者というのは、まさに宇宙そのものを研究対象にしていて、その歴史とか未来とか、重力の正体とか別の宇宙の可能性とか、テーマはかなり大きな文脈から選ばれます。宇宙に関する研究をしている専門家のなかでも一番実用性から遠いというか、浮世離れしているというか、特殊な人種だと言えるでしょう。

宇宙論学者の仕事とは、いわば、数学を使って論理的なSFを書くことなのです。

だから無境界「仮説」であり、マルチバース「仮説」であるわけです。宇宙の始まりに「虚時間」を持ち込むのも、「こうしたらどうだろう?」という仮説にすぎません。宇宙論の分野で提出される論文というのは、そのほとんどが仮説なのです。

といっても、誰もが好き勝手に何を言ってもよいというわけではなくて、そこには最低限のルールがあります。そのひとつが、数学を用いると言うこと。数学によって、自分の仮説を表現し、そこに整合性が成り立っていることが、仮説の価値としては、必要最低限の条件と言えるでしょう。

いわば数学というのは、彼らにとってひとつの言語のようなものであり、そこで文法的に成立していないようだと、「通じませんよ」ということで、淘汰の対象になってしまいます。そのうえで、宇宙論学者は、ほぼ全員がアインシュタイン方程式を用いて、宇宙の知られざる顔を描出しようとしています。

アインシュタインの理論もまた、観測によって少しずつ検証が進んではいるものの、当時は仮説でしたから、その天才ぶりが窺えようというものです。100年経ってもその分野の最先端のプロたちが必須ツールとして用いるものを生み出したのですから。多くの学者たちは、「こんな場合はどうだろう?」と、さまざまに条件を変えながらアインシュタインの方程式を解き、宇宙の姿の隅々まで予測を立てようとしています。みんなして、さまざまな解を探しているわけです。

宇宙論学者は、SF作家のようなものである。

そんなふうに考えると、いろいろと仮説を提唱する意味や意図、彼らの活動の意義なども見えてくるのではないかと思います。

小説家でも、大家といわれる人は、より大きなテーマと正面から対決します。愛であったり死であったりを物語のスパイスに用いるのではなく、人間を形作る根幹部分として、それ自体をテーマにします。

「宇宙の始まり」という大きなテーマに取り組み、世界中で注目されたホーキングはそういう意味では、紛うことなく大作家であった、と言ってよいのかもしれません。アインシュタイン方程式が今でも使われている様子は、同じ文脈で言うと、100年前のモチーフが今でも新しい作家に引用されている、と例えることもできるでしょう。

彼らは「作家」ですから、イマジネーションを駆使して、いかに同業者の度肝を抜く仮説を提示し、今までの宇宙観をひっくり返すかに夢中です。それが衝撃的であればあるほど、「プロにはわかる」の枠を超えて、マスコミに注目され、大衆にも注目されていくことになります。真実の僕として地道に粛々と象牙の塔に寵もって研究に打ち込むというのは、宇宙論学者のイメージではないのかな、と思います。

いわば魅力的な世界観(宇宙観)を提示することで、人々のなかにある宇宙像を書き換えたい。そんな執念を燃やしている人たちなのです。そういう意味で、宇宙論学者には、ある種の文学的センスのようなものが必要だともいえるのではないでしょうか。

ただし、そんなふうに意識が先行していますから、出てくるものは、どれもが仮説。観測や実験によって、最終的に現実とぴったり合うような仮説がでてくると、同業者のプロだけでなく、周辺分野のプロから世間一般にまでそのすごさが伝わって大騒ぎとなり、ノーベル賞にまでつながっていくわけです。

ノーベル賞は、物理学の理論に関しては、観測や実験で「確かにそうだ」と証明されない限り与えられませんから、ホーキングは、ノーベル賞は受賞していません。ホーキングによるブラックホールが放射をするという予測は、今では大半の理論物理学者が正しいと認めているようですが、観測や実験によってはっきりと確かめるのは困難なので、ノーベル賞は与えられていないのです。ただし、理論上の重要性を評価して与えられる基礎物理学賞を受賞するなど各所で表彰されており、その功績は十分に称えられていると言ってよいでしょう(余談ですが、自伝では基礎物理学賞を「ノーベル賞よりも権威がある」としています。けれども、2012年に創設された国際的な学術賞ですから、半分は彼一流の皮肉でしょう。一方で、1990年代にイギリス政府から爵位を授ける打診を受けた際は、科学研究の助成金を巡る方針で反対の立場だったこともあり、辞退しています)。

同業者に自身の仮説が認められるには、数学的に正しいだけでは不十分で、その数式が「美しい」必要があります。「宇宙はこのような仕組みで動いている」という数式を提案したとして、現実にはさまざまな条件が発生しますから、その通りにはいかないこともあります。そのとき、変数として、いろいろな計算処理を数式に付け加えることで補正をかけ、現実に数式を合わせていくことは不可能ではありませんが、それは数学的に美しくありませんし、そんなことをしても意味がありません。究極的にはデータの数だけ変数がある、ということになってしまいますから、それならデータをただ集めるだけにした方が使いやすい分、マシです。

そうではなく、膨大に集めたデータをシンプルな数式で一括して表現し、「宇宙はこうなっている」と提示する。それが宇宙論学者の仮説としては、「美しい」わけです。再び文学に例えるなら、個々の人間の無数の体験に見られる普遍性を抽出して描写するからこそ、その作品には価値があるというわけです。

そういうわけで、理論物理学をやっている人と実験物理学をやっている人の間では、両者をどのようにつないでいくのか、ということが常に問題になります。ホーキングは理論物理学の人ですから、宇宙の始まりをどうやって説明できるかということを考えたとき、いかにシンプルな方程式で表現するか、にこだわります。そこには彼のアイデアが必ず盛り込まれています。アインシュタイン方程式を皆使っていると言いましたが、そこはある意味、全員通ってきた道なので、そのなかだけで何か新しいことをやろうというのは難しくて限界があります。一流の業績を打ち出すには、その次の一歩をどう踏み出すかが重要です。

数式を生み出す行為には無限の可能性がありますから、整合性や普遍性は問われるものの、ある意味、何をやっても構いません。そこでアインシュタイン方程式にちょこっとスパイスを加える人もいれば、大きな要素を付け加えようとする人もいる。なかでも最大の要素というのが、宇宙を真逆のスケールで描出する量子力学です。

アインシュタイン方程式と量子力学の基礎方程式を組み合わせるというのは、宇宙論学者なら誰もが夢見る「次の一歩」だったのです。それを実現したのがホーキングなのでした。アインシュタインの重力理論を量子力学と組み合わせるので、これを「量子重力理論」といいます。つまり、ホーキングは、量子重力理論の分野に先鞭を付けた人、という言い方もできるわけです。

ただし、この分野は、全体としてはまだ始まったばかりであり、両者は完全には統合がなされていません。あまりにもコンセプトがかけ離れているので、宇宙の始まりのようにかなり限定された状況では、なんとか一緒に扱えたものの、その他の条件でもうまく両者を合わせて扱うところまでは行っていないというわけです。

量子論というのは、非常に小さなものをうまく扱うことが上手な理論ですが、大きなものを扱おうとすると、とたんにうまくいかなくなります。例えば、人間を量子論で説明しようとすると、これは計算するべき事柄が膨大になりすぎて、できません。原理的には可能なのですが、人間はあまりにもたくさんの量子の組み合わせでできているので、その相互作用を全部計算しきることは事実上、不可能なのです。

逆にアインシュタイン方程式は、太陽系とかブラックホールとか、宇宙全体における重力の作用など、非常に大きな世界を説明する際にとても便利なツールです。両者を統合した方程式をひとつ作り、小さな極限の分野では量子力学の方程式の内容にほぼ帰着し、大きな極限の分野ではアインシュタイン方程式の内容に帰着する。そういうものを作れるかというと、これがなかなか難しいわけです。

そこで登場したのが先述した「超ひも理論」です。

超ひも理論は「両雄並び立たず」の状態だったものをうまく解決するのには、確かに今のところ成功しています。ただし、無理をした分、しわ寄せというか、別のところで違った難しさが出てきてしまいました。と言うのも超ひも理論では、宇宙の次元が4つでは足りなくなってしまったのです。今では、この宇宙は10次元とか11次元であるとか、そういう議論になってきています。

しかし、そうすると、どうしてその10次元や11次元は見えないの?という話に当然なります。でも、超ひも理論の学者たちは、重力の方程式と量子論の方程式を統合するための数学的な美しさを求めたあげく辿り着いた理論であるので、これでいいはずだ、と信じたいのです。

数学的な美しさが先にあって、実際に、そこで出てくる数式でうまく説明がつく。ならば、現実もそうなっているのに違いない、という発想ですね。

理論物理学者がこんなことを言い出すと、当然、実験物理学者は怒り出します。我々は空間は3次元しか測れないし、時間を合わせても4次元でしかこの世界を観測できない。君たちが言う6次元とか10次元とかはどこにあるのか、それを教えてくれれば実験で確かめるから言ってくれ、と。

超ひも理論の学者は、宇宙の初期はそうなっていた、と言います。宇宙が始まった頃は空間にエネルギーが非常に集中していたので、高次元の世界があったのだ、と。地上でも同じくらいエネルギーを集中させた環境を作ることができれば実験で確かめられるはずですが、これは難しい。地球上にある最新の実験施設(加速器。粒子を加速してその様子を観測する)でもパワーがたりません。

もしそれが可能になったら、超ひも理論が原理的に正しいかどうかがわかるはずです。逆に「宇宙全体を使わないと確かめられない」ということになると、これは事実上、検証は不可能、ということになります。

ちなみに、このような「数学的な美しさ」は、理論物理学者をおびき寄せる罠ともなり得ます。

アインシュタインは、統一場理論といういわば究極の方程式を発表して『ニューヨーク・タイムズ』の一面を飾りましたが、後に誤りだったことがわかりました。DNAの二重螺旋構造を発見したフランシス・クリックも、最初、DNAの暗号解読を試みて非常に美しい理論を作ったのですが、「なぜそのような暗号体系になっているのか」といういわば滑り出しのところから説明が間違っていて、無効になってしまいました。数学的には「これしかない」というほど美しい内容で注目されたのですが、実際の自然はそうはなっていなかったのです。このような例は、他にもたくさんあります。理論物理学者は、つい数学的な美しさに惹かれてしまいますが、それは必ずしも絶対ではないわけです。

理論物理学者のなかでも宇宙論学者は、半分ファンタジーの世界に足を突っ込んでいて、想像力を駆使して壮大なSFを書いているような人種です。もの凄い想像力であれこれと〝作品〟を発表しますが、そのうちのどれが正解であるのかは、いかに美しかろうとも、実験・観測で確かめられるまではわからないものなのです。
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いくちゃんの和ラーを探している

いくちゃんの和ラーを探している

 イオンにもいくちゃんのカニすき風和ラーがなかった。ドンキにもカニすきだけなかった。

 イオンになければ、豊田市にはないことになる。

トヨタに必要なもの

 今のトヨタに必要なのは「まともな会社」宣言。あまりにも異常な事態。異常に気づいていないほどの異常。

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新たなる帝国の時代

『AIを信じるか、神を信じるか』より 新たなる帝国の時代

イスラム世界の復興運動

 最高の権威を求めようとする動きは、イスラム世界においても見られる。

 それが、カリフ制再興の動きである。「カリフ」とは代理人を意味する。誰の代理人かと言えば、それは最後の預言者ムハンマドの代理人ということになる。ムハンマドが生きていた時代、神のメッセージを取り次ぎ、それをいかにして現実に適用するか、最終的な決定権はムハンマドが握っていた。

 ところが、ムハンマドも人間であり、その命は有限である。ムハンマドの死後には、『コーラン』が編纂され、その言行はハディースにまとめられ、イスラム法が確立された。イスラム教の信者は、このイスラム法に従って生活していくことになった。

 しかし当然だが、イスラム法をどのように解釈し、それを現実の生活に適用していくかで判断が分かれる場面が生まれる。たとえば、何をもって戦争を「聖戦(ジハード)」として正当化するかをめぐっては、さまざまな解釈が生まれる余地がある。なにしろ敵と味方に分かれて戦うわけで、敵と味方では主張がまったく異なるからである。

 そこで求められたのが、最終的な判断を下す存在である。それは、イスラム教の多数派であるスンナ派においてカリフの役割とされた。カリフの地位は世襲されるわけではないが、ムハンマドの出身部族であるクライシュ族の男子であるといった条件がつけられた。

 初代のカリフはムハンマドの友で、最初に入信したとされるアブー・バクルである。やがて、イスラム王国ウマイヤ朝以降、カリフの地位は世襲されるようになっていった。

 近代に入り、オスマン帝国が滅亡すると、同時にカリフも退任した。最後のカリフはアブデュルメジト2世であり、それ以降100年近く、カリフ不在の状況が続いている。

 イスラム教には組織がないことについては前述したが、問題が起こった時、その問題を解決する最終的な決断を下すことができるカリフの存在は、本来なら不可欠なはずである。最近では、イスラム教の復興という動きが起こっており、そのなかでカリフを再興する必要性が説かれるようになった。実際、イスラム国(IS)にはカリフを名乗る人物が出現したが、イスラム世界全体から承認されたわけではなかった。

イスラム教は、グローバル化と相性がいいり‥

 イスラム教でもっとも重要なことは、イスラム法が遵守される世界を確立することであり、その世界は「イスラムの家」と呼ばれる。それと対立するのが、イスラム法が確立されていない「戦争の家」である。最初期のイスラム教が、戦闘に勝利することで周囲の諸部族を統合していったのも、イスラムの家を拡大することが最重要だったからである。

 キリスト教や仏教では、信仰は究極的に個人のものであり、それぞれの人間が、心のなかで神や仏を信仰し、教えに従うことが決定的に重要な意味を持つ。

 ところが、イスラム教では、個人の信仰の確立よりも、イスラム法によって統治される社会を生み出すことが絶対的な前提であり、そのためには、戦争の家をイスラムの家に変えていくことが必要になる。

 イスラムの家は国家の枠を超えていくものであり、国民国家は意味をなさない。ところが現実には、イスラム世界は植民地化によって国境が定められ、イスラムの家も国家によって分割された。しかし、本来のイスラム教のあり方からすれば、国民国家は解体されなければならない。

 日本でカリフ制再興を強く主張している中田考氏は、この点について次のように述べている(「産経新聞」2017年9月24百)。

  まず、イスラム世界でカリフ制(イスラム共同体から選任されたカリフの下、全ての領域がイスラム法によって治められる)を再興し、西欧が引いた国境を廃し、イスラム法の支配の下にヒト、モノ、資本の自由な移動が保証される空間を再興する。

 これは、イスラム世界が、グローバル化を本質としていることを意味する。ムハンマドは商人の家に生まれ、自らも商人として活動した。商人にとっては、市場はできるだけ広いほうがよく、国境によって妨げられることは好ましくないのである。

 その点からしても、カリフ制が再興され、イスラム世界全体が風通しのいい市場として統合されることは、非イスラム世界にも影響を与えていく可能性を有している。中田氏の意見を見てみよう(同紙)。

  カリフ制再興が成功すれば、西欧にも影響が及び、ナショナリズム(民族主義/国家主義)の虚構性、領域国民国家の欺隔に人々は気付き始める。

帝国への服従

 ムハンマドの死後、イスラム教は周囲に広がり、そこには、「イスラム帝国」が生み出された。イスラム帝国(アッバース朝)は中東から、西は北アフリカ、東は中央アジアからインドにまで広がった。カリフ制再興は、このイスラム帝国を再興することにつながっていく。

 ロシアや中国の場合にも、それは国民国家というよりも、それを超えた帝国としてとらえたほうがわかりやすい。ソ連の解体によってさまざまな国家に分裂したが、それもソ連が社会主義の帝国であったからである。

 中国も、過去の歴史のなかでさまざまな王朝が存亡を繰り返してきた、中華帝国にほかならない。その指導者に権力が集中する傾向が見られるのも、帝国再興への歩みを続けているからと見ることもできる。

 ヨーロッパには、国民国家を超えたEUの共同体が存在している。それをヨーロッパ帝国としてとらえるならば、イギリスが離脱するのは、イギリス連邦という帝国であるからだろう。実際に、かつては「大英帝国」と呼ばれていた。

 アメリカも、合衆国であり、州の力が強いことから考えて、国民国家というよりも、やはりひとつの帝国としてとらえることができる。

 中田氏は、前掲の『帝国の復興と啓蒙の未来』のなかで、「19世紀は西欧列強による世界の植民地化の時代、20世紀が二度にわたる世界大戦による西欧の破産とその破産管財人である米ソによる残務処理の時代であった。そして21世紀は、西欧の覇権の下にあった文明、中国文明、正教/ロシア文明、インド文明、そしてイスラーム文明の再興による、世界的な文明の再編の時代である」と指摘している。

 ここには、中田氏の願望が反映されている部分もあろうが、グローバル化か国民国家の枠組みを揺るがしていることはまちがいない。その世界に生きる個々の人間は孤立し、自らの無力さを痛感するしかない。そうなると、そこには服従への道が待ち受けているのである。
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