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パブリック・ライブラリーの成立

『公立図書館の無料原則と公貸権制度』より アメリカ合衆国に誕生したパブリック・ライブラリー要件 ⇒ 20年前にパブリック・ライブラリーの概念を聞いて、驚いた。それ以降、米国/北欧の図書館を訪ねた。これこそが、本当のシェア社会をなすものである。

成立の過程

 一般に、英語の“Public Library” に対応する日本語が「公共図書館」であるように考えられているが、これは正確ではない。“Public Library”の歴史をたどることで、「公費支弁・利用の公開性・無料原則」などを備えた公立図書館を示すことが判明してくる。したがって本書では、“Public Library”について検討する際は、日本語の訳語を当てはめずにそのまま「パブリック・ライブラリー」を使用する。

 アメリカ合衆国において、近代パブリック・ライブラリーの歴史をたどることは社会機関としての図書館の成長を検証することである。パブリック・ライブラリーの歴史は、偏狭な保存機能から民衆教育の推進を目指す広範なプログラムヘの移行の記録でもある。パブリック・ライブラリーの目標の変化は、社会自体の変容を反映しているにすぎない。また、近代パブリック・ライブラリーは、民主主義にとって啓蒙的な選挙民が必要であるということを代弁しているのである。

 アメリカ合衆国におけるパブリック・ライブラリーの成立の時期については、多くの主張がある。この論争は、パブリック・ライブラリーという語が正確に定義されていないことに由来していると考えられている。

 パブリック・ライブラリーの定義について、図書館の利用に注目したシカゴ大学のカールトン・ジョッケルは次のように述べている。それは、「一般的な性質の無料図書館サービスをある特定のコミュニティあるいは、そういうコミュニティの一部に対して提供するために、公的に責任を持たされてきたか、自発的に責任を負ってきたような図書館なら、どれでもパブリック・ライブラリーと考えられる。結局のところ、定義を正確に述べることは難しいだろう。しかし図書館がコミュニティのパブリック・ライブラリーとして認識されることを示すのは比較的易しい」というものである。この定義では、パブリック・ライブラリーを正確に表すものとは言えない。むしろパブリック・ライブラリーの定義を正確に述べることが難しいという結論が重要である。

 しかしパブリック・ライブラリーの用語の定義をしなければ、パブリック・ライブラリー運動の開始時について主張ができないのである。

 1850年にスミソニアン・インスティチューション(Smithsonian Institutions)の図書館部長チャールズ・ジューエットは、連邦議会に図書館の報告書を提出している。同報告書では、パブリック・ライブラリーを7つに類型化している。その類型は、①州立図書館(States libraries):州政府の管轄下にある図書館・議会図書館も含む、②ソーシャル・ライブラリー(Social libraries):アセニアム(Athenaeum図書室、文庫)・ライシアム(Lyceums公会堂、文化会館)・青年会・職工学校・商事図書館等を含む、③カレッジ・ライブラリー(学生図書館を除く)、④学生図書館(Students' libraries):カレッジ・専門学校などにあり、学生団体が相互向上を意図して組織した図書館、⑤専門学校の図書館(Libraries of professional schools)とアカデミー(academies):神学校・法律学校・医学校・アカデミー等の図書館、⑥学術団体の図書館(Libraries of Learned Societies):科学協会・歴史協会等の図書館、⑦学校区図書館(Public school libraries):タウンシップや学校区を区域に、当該区域に住む全住民を対象にした図書館9)、などの7つである。つまり1800年代後半のパブリック・ライブラリーとは、現在の「公立図書館」だけではなくさまざまな図書館を含んでいたのである。

 したがって古い意味でのパブリック・ライブラリーとは、料金を徴収する図書館でも蔵書利用ができる(開放されてぃれば)とされていた。つまり蔵書の利用が開放されていれば設立の主体の公私を問わないし、有料・無料の区別も特に問われないものであった。

 それを示しているのはアメリカ図書館協会が編纂した1943年のGlossary of LLibrary Terma おける2つの公立図書館の定義のうち、2番目の定義に見られる。2番目の定義では「初期の時代では、コミュニティの全住民が利用できる図書館をいい、必ずしも無料である必要はない。個人文庫と区別して、この語が使われてきた。

 したがって、諸団体の図書館(Society library)や会員制図書館(Subscription library)も、パブリック・ライブラリーであったとしている。しかしこれには大学や学校関係の図書館が含まれていない。定義をした時が、1900年代半ばであるため、パブリック・ライブラリーの範囲が限定されてきていると思われる。

 パブリック・ライブラリーの初期の時代とは、ボストン公立図書館の設立された1854年頃を指すと思われる。アメリカ図書館協会の用語集の定義の2番目によると、この頃のパブリック・ライブラリーは必ずしも無料ではなかったということを示しているため、無料のパブリック・ライブラリーをフリー(無料)という文字をつけて「フリー・パブリック・ライブラリー」と呼んでいた。

 1885年にサンフランシスコ公立図書館館長のフレデリック・パーキンスは、「300冊以上の蔵書をもつパブリック・ライブラリーを約5000館とし、蔵書合計1300万冊、利用冊数合計1000万冊とした。そしてかなりの館は、あらゆる人の利用のために税や寄付で支えられている『フリー・パブリック・ライブラリー』である」と言及している。無料のパブリック・ライブラリーが多かったことが、この言及により判明する。

 1903年に、ニューヨーク・パブリック・ライブラリー初代館長ジョン・ヒリングスは「現在の大多数のパブリック・ライブラリーは、市政府から充当される資金で大部分あるいはすべてを賄っていると述べている。さらに1904年には、図書分類のデューイ十進分類法の考案者であるメルヅィル・デューイが慈善的意味を持つ「フリー」という文字を取り去るように提言している。デューイの提言により19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、パブリック・ライブラリーとは「公立図書館」を意味するようになっていったのである。

成立に関する要因

 近代的な図書館が始まったとされる1850年代にパブリック・ライブラリーと呼ばれた図書館にはさまざまな形態のものが含まれていた。複数の形態のパブリック・ライブラリーから、新しい社会機関としての図書館(パブリック・ライブラリー)と認められるようになるには、ある要因だけが影響してできるものではない。

 パブリック・ライブラリーという新しい図書館の形態が形成されるには、長期間に蓄えられた多くの諸力が収斂していった結果である。パブリック・ライブラリーの出現に貢献した要因について、次のような要因が考えられる。それは①経済力、②学術・歴史研究・資料保存への要求、③地元の誇り、④普通教育の社会的重要性、⑤自己教育とライシアム運動、⑥職業的彫響、⑦宗教・道徳・教会などである。

 これらの要因に加えて、ヨーロッパがアメリカ合衆国のパブリック・ライブラリーに2つの影響を与えた。直接的には、実際に組織形態を移植することで、パブリック・ライブラリーの促進に寄与した。ブック・クラブ、ソーシャル・ライブラリー、貸本屋などはすべてヨーロッパの模範に由来するか、企業心旺盛な商人がアメリカ合衆国に持ち込んだものであった。また間接的には、ヨーロッパは厖大な蔵書と組織を例示することで、興隆する文化の統合に図書館が重要であることをアメリ力人に示唆したのである。

 つまり、歴史研究や保存への要求、国や地元の誇りという力、普通教育の重要性に対する信念の成長、職業的問題への関心の増大、宗教の貢献等の要因が、アメリカ合衆国自身の経済力に助けられ、さらにヨーロッパからの刺激を受け、すべての人に無料の図書館を形成したのである。各要因の基礎にあるのは、アメリカ合衆国国民自身の影響であり、多くの個人が、パブリック・ライブラリーヘの信念を持ち、図書館の社会的価値をはっきりと信じていたことである。

 アメリカ合衆国がヨーロッパからの影響を受けたことを示す英国のパブリック・ライブラリーの状況を説明している文章がある。これは18世紀および19世紀初頭の英国において、「古い意味のパブリック・ライブラリー」が存在していたことを示している。Penny Rate:Asprchs of British Public Library History 1850-1950 の著作者であるW.A.Munfordが自著の序文で次のように言及している。「全国の大図書館はみな、18世紀および少なくとも19世紀初頭にあっては公共図書館(Public Library)であった。ジョンソン博士がこの言葉(Public Library)を何度か引用している。またローランドソン(Rowlandson)の1809年の魅力的な論文『ケンブリッジ公共(実は大学)図書館の内部観察』も良い例であろう。1820年頃までは多数の私営の図書館もこの言葉(Public Library)を使用していた。これによると、英国では、アメリカ合衆国よりも50年以上も前から古い意味でのPublic Libraryが存在していたことになる。

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刑法 原因において自由な行為

『刑法総論講義案』より 原因において自由な行為の意義と問題点

原因行為が実行行為であるとする考え方

 かっての通説的見解であった。間接正犯が他人を「道具」として利用する形態であるのに対し、原因において自由な行為は、自己の責任無能力状態を「道具」として利用した形態であると解する。その上で、間接正犯においては利用行為に実行行為性を認めるべきであるとする基本的立場から、原因において自由な行為においても、結果行為ではなく原因行為こそが実行行為であると解すべきであるとする。この考え方によれば、実行行為=原因行為の時点では責任能力に欠けるところがないから、原因において自由な行為においても同時存在の原則は完全に満たされることとなる。

 しかしながら、(a)もともと実行行為が何であるかは構成要件該当性の判断の段階で決定されることがらであり、たまたま結果行為当時責任能力が認められないからといって、責任判断の段階で実行行為を原因行為にさかのぼらせることには理論の筋道として疑問がある上、(b)そもそも、他人を殺害又は傷害するためのものとはいえ飲酒行為自体を殺人や傷害の実行行為と考えるのは常識に反するのではなかろうか。しかもこれを実行行為とすると、犯行決意のうえ飲酒だけして殺傷行為に及ばなかった場合にも、未遂犯が成立してしまうことになる。この説の主張者は、この点を認識して、飲酒行為などは殺人罪・傷害罪の実行行為としての定型性を有しないから、事実上故意犯に関しては原因において自由な行為が成立する余地はないとするのであるが、これでは原因において自由な行為の理論を認める意味がほとんどなくなるであろう。さらに、(c)道具理論を前提とする限り、限定責任能力の状態において犯行を行った場合には、道具状態にあるとはいえないから、原因において自由な行為を認めることができない。しかしながら、責任無能力の状態にまで達していた場合には犯罪が完全に成立すると考えながら、たまたま限定責任能力の状態にとどまった場合には刑の必要的減軽の対象となるというのはいかにも均衡を失するといわざるを得ない。

結果行為が実行行為であるとする考え方

 上記のように間接正犯理論を準用して原因行為を実行行為と考えることには種々の難点が存在するところから、近時は、結果行為が実行行為であると解した上で、同時存在の原則を修正したり、又は端的にその例外を認めたりして、原因行為の時点で責任能力があれば行為者に完全な責任を認め得るとする考え方が有力になりつつある。その基本的な考え方は、十分な責任能力の下にある原因行為時の行為者の意思決定を重視し、責任無能力又は限定責任能力の下にある結果行為を、その意思決定の実現過程として把握しようというものである。

 そして、この立場は上記のように基本的発想を共通にしながらも、その理論構成の違いによって更に下記の各説に分かれる。

  ⅰ 端的に同時存在の原則の例外を認め,自らの意思で責任無能力状態を招いておきながら、犯罪となる結果が発生したときに、その事情を自己の刑事責任を否定する趣旨で有利に援用することは社会的公平の見地から妥当性を欠くから、禁反言の法理にかんがみ、原因行為時に自由に意思決定をなし得た以上、結果行為時に責任無能力であったとしてこれを自己の有利に援用することは許されないとする説

  ⅱ 原因行為から結果行為=実行行為までの一連の過程が1個の意思の実現過程であると認められる場合には、全体を当初の意思決定によって貫かれた一つの「行為」としてとらえることができる。そして、責任非難は違法な行為をなす最終的な意思決定、すなわち原因行為時における意思決定に対して向けられているから、その時点で責任能力があれば結果行為を含む「行為」全体に対して責任を問うことができるとする説にの考え方は、同時存在の原則は「行為」と責任能力との同時存在を要求するものであるから、必ずしも実行行為と責任能力との同時存在は必要でないと解し、これにより原因において自由な行為と同時存在の原則との整合性を維持する。)

  ⅲ 責任能力の存する原因行為時において故意・過失が存在し、かつ原因行為と結果行為との間に相当因果関係が認められる場合には、原因行為における結果発生の危険が結果行為において実現したと認められるから、結果行為時には責任能力を欠いていたとしても完全な責任を問い得るとする説

 基本的には、この(2)の考え方が正当と思われる。実行行為は、法益侵害の現実的危険性を有する行為でなければならないが、原因行為だけでは法益侵害の危険性はいまだ現実的なものとはいえないから、結果行為が実行行為であると解するのが妥当である。このように解すると、表面的には同時存在の原則と抵触することになるが、(2)説の述べるように、結果行為自体が原因行為時になされた意思決定の実現過程と把握されるような性質を有している場合には、実行行為の時に責任能力があった場合とほぼ同視して考えることができるのであり、その行為はもともと有責とみられるべき性質を具備するものと解されるから、これを処罰の対象にしても同時存在の原則の基礎となっている責任主義の考え方には何ら反するものではないと考えられる。そこで次に、この立場を前提として、原因において自由な行為の要件を故意犯の場合と過失犯の場合とに分けて若干検討してみよう。

 ① 故意犯について

  原因において自由な行為の問題は、責任の要件に関する問題であるから、結果行為=実行行為につき故意犯の構成要件該当性及び違法性が認められることが前提となる(結果行為時に、精神障害の程度が進んで行為能力すら欠くに至ったような場合には、そもそも実行行為性を肯定できないから、原因において自由な行為を問題にする余地はないというべきである。)。したがって、故意犯の原因において自由な行為が認められるためには、まず、結果行為の時点においても構成要件的故意が認められなければならない。

  他方、結果行為時に責任能力があった場合と同視して考えられるためには、前述のように、結果行為が責任能力十分な原因行為時になされた意思決定の実現過程と把握される事態であることを要するから、原因行為時においても、結果行為時と同様の故意が存在していることが必要であると解される。

  このように考えると、故意犯の原因において自由な行為を肯定し得るためには、原則として、原因行為から結果行為にかけて故意が連続していることが必要であろう(もとより、意思の実現過程として把握されるためには、原因行為と結果行為及び現実に発生した結果との間に因果関係が存在することを要するのは当然である。)。

  そして、以上のような要件を具備する限り、結果行為の時に、責任無能力の状態まで至らず限定責任能力の状態にあった場合であったとしても、責任能力ある状態での故意が結果行為時に実現される構造は同一であるから、同じく原因において自由な行為の理論を適用することができよう。

 ② 過失犯について

  学説上は、例えば、酒を飲むと病的酪酎の状態に陥り他人に危害を加える性癖のある者が、今回は大丈夫だろうと思って飲酒したところ、案の定、病的酪酎による責任無能力状態になって暴行を働き他人に傷害を負わせたというような事例が、過失犯の原因において自由な行為の例として挙げられる。

  しかし、上記の事例は、真に原因において自由な行為の理論を適用すべき事案なのであろうか。過失犯の成立要件の項で述べたとおり、過失犯が成立するためには、過失犯の実行行為である過失行為の時点で結果予見可能性及び結果回避可能性が存在しなければならない。しかし、結果行為の時に行為者が責任無能力又は限定責任能力の状態にある場合には、結果予見可能性及び結果回避可能性は存在しないか、又は極めて乏しいというべきであろう。したがって、結果行為自体は、故意犯の構成要件該当性を認めることができても、過失犯の構成要件該当性は肯定することができない。上記事例でも暴行を働いた時点では過失犯を肯定することができないのは当然である。

  そうすると、原因行為の時点ではどうか。上記事例の場合、故意を認めることができない(なぜなら、傷害・暴行の認識はあっても認容がない。)から、故意犯の原因において自由な行為は成立しない。他方、過失犯に関しては、責任無能力等の状態に陥って他人に危害を加えることがないよう飲酒を差し控えるべき義務を注意義務(結果回避義務)として構成すれば、結果予見可能性・結果回避可能性はともに認められるし、上記の注意義務に反して飲酒した行為を過失行為として構成することができ、その成立を肯定することができる(同時存在の原則を満たしていることは明らかである。)。しかし、この場合、過失犯が成立するのは、原因において自由な行為の理論によったからではなく、単に原因行為の時点で過失犯の成立要件が満たされていたからにすぎないのである(結果行為は実行行為から結果に向かって進行する因果の一過程として把握される。)。
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ケアの実現のためのケアプラン

『今日から役立つケアプラン』より ケアの実現のためのケアプラン

ケアプランは何のために作成されるプランでしょうか。ひとことでいえば、ケアの目的を実現するための計画書のことをケアプランといいます。

人はなぜケアを必要とするのでしょうか。年をとると、老化に伴う諸機能の低下や疾病に起因する生活障害が起こります。これらの生活障害を改善して命を守り、生きる意欲を引き出し、自己実現を図っていくことが重要になります。そのためには、ます高齢者の抱える生活行為の欠けているところを補完する必要があります。これのみにとどまらす、内在している可能性を発見し、引き出していくことも重要です。

簡単にいえば、ケアプランとは、介護保険の利用者1人ひとりのためのプランであり、生活全体にわたるプランということになります。

サービスを具体化するためのプラン

 ケアプランには、効率的で有効性の高いサービスを提供することが求められます。これらサービスを組み立てるシステムのことを「ケアマネジメント」といいます。効率がよく有効なサービスを提供するためには、専門職によるチームケアが必要になります。このチームケアを推進していくためのシステムがケアプランです。

 つまり、ケアマネジメントで組み立てられたサービスを具体化するのです。

 ケアプランは、ケアマネジメントによって導き出されたサービスを実践に移すための、チームメンバーヘの実践指針でもあり、チームメンバーの実践のための約束ごとぷのです。また、利用者と家族、ケアチームをつなぐ接点として重要なものでもあり言す。さらに、介護保険サービス選択上の給付管理の役割をも担っています。

アセスメントのあり方で決まる

 ケアの目的を実現するためには、チームケアの推進が不可欠です。チームメンバーの合意形成プロセスがケアプラン立案であり、チームケアの実践指針なのです。結論は、ケアプランの適否はアセスメントのあり方で決まるということです。

基礎となるのはアセスメント

 利用者ニーズに適切に合致したケアプランを立案するため、ます利用者の生活を評価ず參ことが必要です。いかに正しくアセスメントを行うかによってケアプランの方向性が変わってしまいます。決められたアセスメントシートにそって項目を機械的に質問し、利用者の課題を羅列して分析するだけではいけません。

アセスメントの考え方

 アセスメントの考え方は、利用者の意志や意向を出発点にします。利用者の意志や雁前奏実現するためにどうすればよいか、実現するための障害になっているものは何か、その障害はどのように発生したかを明らかにし、解決策を探ります。

 問題点や危険因子を整理することは不可欠ですが、むしろ、その人が人生の中で大切に育んできた、文化的な価値観や社会観、倫理観を発見することのほうが重要になります。そして、その人の身についた能力や経験の蓄積などの評価が必要になります。

「いいとこ探し」のアセスメント

 アセスメントの過程において、その人のもっている可能性や自主性の発見を位置づけて「いいとこ探し」をするアセスメントの認識が重要です。

 この視点は、ケアプラン作成の視点として取り入れられているICF(国際生活機能 分類)や、ストレングス(利用者本人の有する能力、意欲、自尊心、嗜好、資産)視 点といった考え方と似ていて、利用者を否定的にみるのではなく、肯定的に可能性を引き出す視点が求められるのです。

ケアプランの10原則

 ケアプランは、介護保険を利用する1人ひとりのために、生活全体にわたるプランですから、ケアの目的を実現するために次の10原則を守ってよりよい援助活動につなげていきましょう。

 ① 利用者の生きる意欲を引き出し、自立支援に向けたケアプランであること

  利用者の問題点や危険因子をクローズアップするだけではなく、「何をしたいか」という動機や可能性に働きかけて、意欲を高める支援をします。

 ② 主体的な生活者として、自己実現の達成に近づけるためのケアプランであること

  利用者みすからがさまざまな問題を解決できる能力を身につけるように支援します。

 ③ 家族の介護負担の軽減と安定した生活を維持する方向をもつケアプランであること

  介護の重度化を防ぐ方策と予防が目標になっているケアプランであること

 ④ 実践の裏づけが明確であるケアプランであること

  どんなにすばらしいケアプランでも、そのプランが実践に結びつかなければ絵に描いた餅で終わってしまいます。そのためにも、実践可能であることが条件になります。

 ⑤ 利用者や家族の意思が反映されたケアプランであること

  サービス導入が家族の関係を疎遠にしたり、信頼関係を崩してしまうことのないように、家族との絆をより強くするために支援します。

 ⑥ 予測性に立ったケアプランであること

  現状の問題解決は重要ですが、それだ削ことどまらす、今後の生活の方向性も視野に入れることが重要です。病状が悪化した場合はどうするのか、家族の介護力が低下したときは本人の生活はどのように変化するのか、こうした生活の変化に、適切に対応できるようなプランであることが求められます。

 ⑦ 客観性に裏づけられたケアプランで、誰が見ても納得のいくものであること

 ⑧ ニーズを抑制するのではなく、必要なサービスを創設していく方向性をもったケアプランであること

 ⑨ 生活の質を高めるケアプランであること

  生活の質は日常的なルーチン化された生活行為の可否が大きく影響してきます。つまり、移動、食事、排泄、入浴などの行為を成立させる援助が必要になります。とくに離床時間、歩行時間の確保と延長などは精神的な活発さにも連動してくるのです。

 ⑩ 介護予防のためのケアプランであること

  要介護状態の発生は、心身機能の低下や疾病に起因していることが多いので、介護:=ま、疾病の管理や身体機能の保持にとどまらす、疾病や障害の状況と生活環境との関係に着目しながら、その相互関係の中から、問題の所在を明らかにして、介護予防の支援を組み立てていかなければなりません。
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子育て 生活をミニマルにする

『ミニマム子育て』より プロセス--さあ、はじめましょう ⇒ 未唯の子育てのヒントです。要約するとミニマルということ

私は、〈なにが大切か〉とくなにが実現可能か〉の二つに注目することにしています。まずは大切なことではなく、実現可能なことからです。もしこの実現可能なことを次々と成功させられたならば、あなたのやる気はぐっと大きくなって、本当に大切なことにも取りかかれるはずです。

目標への道筋を見つけるには、思い描いたビジョンと違っている箇所を見つけては捨てていく作業を繰り返す必要があります。家族は、それぞれの部屋でパソコンやテレビと暮らすのとは違います。子ども時代とは、記録的なスピードで世に出まわる商品や(これまでは大人だけにあった)ストレスを、なるだけ多く集めるようなレースではないのです。

生活をミニマルにすることは、今までのやり方を変えることです。それは家族が再生するためのスペースを与えてくれます。無駄を省いてゆくことこそ、明確さを招き入れてくれるのです。

さて、再び親たちは自分たちの理想の家庭像を描くことができました。

次のステップとしては、ミニマル化かどのように家族の方向性を変え、大きな変化、つまり理想と現実のギャップを埋める場を用意してくれるかを話し合います。ミニマルにすることが大型トラックに来てもらって、溜め込んだガラクタを次々に処分していくだけで済むのなら、それにこしたことはありませんが、そうもいきません。子どもたちは物が溢れ出るクローゼット以外にも、見えない物をたくさん背負い込んでいる可能性があるからです。

次章から順を追って詳しく説明していきますが、これにはごく簡単な、それぞれの領域に応じた捨てたり削ったりする作業があてはまります。

私と親たちは、〈環境〉〈リズム〉〈スケジュール〉〈大人の世界から子どもを守る〉の、四つの領域のミニマル化について話しあい、この四つのうち、どの領域がその家族にとって実行しやすいかを見ていきます。

おそるおそる、おもちゃを減らすことからはじめてみようと思う親たちがいる一方で、もっと難しい〈スケジュール〉や〈大人の世界から子どもを守る〉といった領域に飛び込んでいく親たちもいて、私を驚かせます。多くの場合、なにか大きなものへの直感的な一歩であれば、それは適切な目標設定と言えるでしょう。親たちは自分たちの目標と、家族が変わるためにどこから手をつければいいのか、本能的にわかっているのです。

マリーの両親は、生活環境から取りかかりましたが、じつはここが私の一番推奨するところです。マリーの両親のケースは、やりやすいところからはじめて、より大きな変化への道を拓くことを教えてくれるので、次に詳しく見ていきましょう。

私がマリーの両親とはじめて会ったのは、この朗らかで子不ルギッシュな女の子が幼稚園に通いはじめたばかりの五歳のときでした。

この時点で、何人ものベビーシッターがマリーのために雇われたものの、誰もが皆お手上げ状態でした。マリーは、いわゆる「手にあまる」子どもで、非常に活発で一ケ所にじっとしていられず、明らかに注意力が散漫でした。幼稚園に通う前にいた保育園には、通いはじめて数ケ月で、もう預かれないと言われてしまいました。

両親はとても感じの良い人たちで、娘のためならどんな苦労もいとわなく見えました。二人とも立派な仕事に就いており、それゆえ毎日が忙しく、三人揃っての面会時間を設けるのもひと苦労でした。やっとのことで面会を果たしたとき、この両親が、五歳にして波瀾万丈の経歴を持つ娘に大変心を痛め、また、親として失格の負い目を感じている様子がありありとしていました。

さっそく私たちはミニマル化作戦を立てました。

マリーの両親は家のなかの物理的な環境、特に子ども部屋のミニマル化からはじめることにしました。アメリカの子どものおもちゃの平均所有量が一五〇個だとしたら、マリーはどう見てもその倍は持っていました。本の数も相当なもので、本棚に入りきらないものは床にうず高く積まれ、そういった本の山や洋服、おもちゃの山を迂回して、数本のくねくねした通路がベッドヘと続いていました。

両親によると、ときおり、部屋を片付けるために考古学者よろしく発掘作業がおこなわれるようですが、この努力も数時間後にはむなしく、部屋は元の混沌へ戻ってしまうとのことでした。

箱、バスケット、トランク、クローゼット、あるいは積み上げられているものが小さかろうと大きかろうと、子どものおもちゃは我々、私と親たちの最初の焦点です。

まず、家中に散在しているおもちゃを子ども部屋へ集めて山にします。たいていの場合、この山は一見の価値ある大きさとなり、私の関わった親たちは皆、これほど大量のおもちゃを所有していたとは知らなかったと、驚きながらも認めます。

次に大きな黒いゴミ袋を手に、おもちゃの大量処分に取りかかります。私が勧めるやり方は、まず半分の量のおもちゃをゴミ袋に入れ(「そうそうそんな具合に、いいですよ」)、さらに残ったおもちゃの半量をゴミ袋に入れます。親たちには前々から捨てたくてしょうがなかったおもちゃがあって、喜び勇んでおもちゃの山へ飛び込んでいくでしょう。

たいていこういうおもちゃは、勝手に自己増殖しているかのようなプラスチックのおもちゃの類いで、ブーン、ウィーン、ウィーンと音を立てて旋回するもの、しゃべったり爆発音を立てたりするものです。つまり親たちは、おじいちゃんやおばあちゃん、独り者のおじさんがくれたおもちゃを探しているのです。
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パブリック・ライブラリはシェア社会の先駆け

図書館の無料原則

 知る権利のために図書館が存在する。それでもいいでしょう。だけど、知ってどうするのか。行動することになる。社会を変えることになる。社会を安定させる要素が社会を変えることになる。そこにジレンマが起こる。

 図書館が無料かどうかよりも社会を変化させる装置であることがジレンマです。次の時代の図書館はどういう形になるのか。社会が変わった後の図書館は、全体を維持する装置として働く。

パブリック・ライブラリはシェア社会の先駆け

 パブリック・ライブラリを知ったときは驚きでした。何のためにそこに存在するのかという役割を持っています。

それぞれのマルチコンテンツ

 DNA抽出をプレゼンしたらどうなるか。本全部よりも、その人に会った一部、音楽番組も11時間よりも2分30秒の抜き出しの方が価値が高い。そういうマルチなコンテンツが主流になっていく。それを可能にするデジタル技術。電子書籍の可能性は広大です。

UCバークレー

 サンフランシスコからバーツに乗って約30分。先取な精神にあふれるバークレーはエコの雑貨屋多いと書かれていた。それよりも大学生協で色々なものを売っています。その前で眼鏡を割ってしまって、その後にサンフランシスコの街を割れた眼鏡で歩いて帰った。予備の眼鏡を持って行って良かった。

 UCバークレーの図書館は刺激的だった。ボーイングの戦略爆撃機の格納庫のような、地下の蔵書。そこをおしゃべりしながら歩く、日本の女子大生三人組。ベトナムの女性などはたんどくだったけど、日本の女性は連れ立っていた。

NHKは先が見えていない

 NHKの乃木坂46SHOWで放映された「あらかじめ語られるロマンス」が許諾の関係で消えて、また、アップされた。そのたびにコメントが消えてしまう。NHKは未来が見えていない。

ユニクロは訳が分からない

 ユニクロで1980円に下がったジョグパンツを見つけたのに、試着後にカウンターに持って行ったら、2980円と言われた。共にジョグパンツと書かれていた。何が違うかを聞いたら、春・夏物と秋・冬物の差と言われたけど、どこにもそんなことは書かれていない。ユニクロは本当に訳が分からないです。

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