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私たちの世界 我々はヒトラーの世界の中を動き回る

『ブラックアース』より

私たちの世界

アメリカ人で戦車が砂漠で機能するのを否定する者はいまいが、アメリカ人で砂漠の面積がどんどん広がっているのを否定して止まぬ者はいる。アメリカ人で弾道学を否定する者はいまいが、アメリカ人で気候学を否定して止まぬ者はいる。ヒトラーは科学が栄養学という基本的問題を解決できることを否定したが、テクノロジーで領土を勝ち取れると決めてかかっていた。それに続くように思えたのは、研究など待っているのは無意味であり、即座に軍事行動に移ることが必要だということだった。気候変動の場合でも、科学の否定は同じように、テクノロジーヘの投資より軍事行動の方を合理的としてしまう。仮に人々が気候変動に自ら責任をとらなければ、その者たちは気候変動に伴う災厄の責任を他の者たちに転嫁することになる。気候学の否定が技術的な発展を妨げるならば、その否定は本物の災厄がやって来るのを加速するかもしれず、その災厄が今度は破局という考えをずっと真実味のあるものにしかねない。政治が生態学的なパニックに堕するという悪循環が始まりかねないの塔。

自由市場は自然なことだという一般の観念もまた、科学と政治の融合である。市場は自然ではない。自然に依存しているのだ。気候は取引される商品ではなく、経済活動そのものの前提なのだ。少数の人間のための利潤の名において世界を破壊する「権利」を主張するなどというのは、重要な概念上の破綻を露呈している。権利というのは抑制を意味するのだ。どんな人間も自身の中に目的を持っている。よって、ある人間の重要性というのは、誰か他の者がその人間に求めるものによって無に帰してしまうことはない。人々は、この惑星を舞台の謀議に荷担しているとか、消滅を運命づけられた人種である、などと定義づけられたりしない権利を持っている。人々は、彼らのホームランドを生息地と定義づけられたりしない権利を持っている。人々は、彼らの政体を破壊されない権利を持っている。

国家が不在になれば、いかなる定義にせよ「権利」は持続しえない。国家というのは、当然と見なされたり、いいように利用されたり、あるいは廃棄されたりすべき組織ではなく、長く静かな努力の賜なのだ。右翼のように嬉々として国家をばらばらにしたり、左翼のように訳知り顔でその破片を凝視するのは、そそられるが危険なことである。政治思想というのは、破壊であったり批評であったりするのでなく、歴史から学んだ複数の組織についての想像力なのだ--それでこそ、生命と品位とを将来へと維持しうる「現在」の営みとなる。多様性を示す一例は、政治と科学の間にある。政治と科学の異なった目的を認識することが、権利と国家について考えることを可能にする。政治と科学という異種を混成してしまうのは、国家社会主義のような全体主義イデオロギーヘの第一歩となる。多様性を示すもう一つの例は、秩序と自由の間にある。人は誰でも他者と異なっているが、他者に依存もしている。秩序が自由であるとか、自由が秩序であるとかいう主張は、独裁権力に行き着く。自由は秩序の不在だという主張は無政府状態に行き着くが、無政府状態は特殊な形をとった独裁権力でしかない。政治の要諦は、ナチスにせよ何にせよ、全体主義の夢に屈するのでなく、多様で単純化できない幸福を継続させることだからである。

スターリンのグラーグで苛酷な日々を過ごし、一方その弟マウルィツィはユダヤ人を匿っていたグスタフ・ヘルリンク=グルジンスキはこう記した。「人間は人間的条件の下でのみ人間たりうる」。国家の目的は、その市民が個人的に生き延びるのを唯一の目的と見なす必要がないように、そうした人間的条件を維持することである。国家は、権利を承認し、保証し、保護するためにある。裏を返せば、その条件下にあっては権利が承認され、保証され、保護されうる、そんな条件を国家は生み出さねばならない。国家は永続性の感覚を生み出すべく持続しているのだから。

最後の多様性は、よって時と関わってくる。我々が過去と将来についての感覚を欠くと、「現在」はぐらぐらする舞台、活動するには不確かな足場に感ぜられる。国家と権利とを保護するのは、仮に誰一人過去から学ばず、将来を信じていなければ、取りかかれるものではない。歴史を知ることは、イデオロギー面での罠に気づかせるし、何もかもが突然に変化したというので拙速な行動に移る必要について疑いを挟む気持ちも生じさせる。将来を信じることで、世界を、ヒトラーの言葉を借りれば「きっちりと測られる空間である地表」に留まらぬものと見せることができよう。四次元の時のおかげで、空間という三次元を閉所恐怖症的に眺めるきらいは薄れる。持続を確信することは、パニックの解毒剤になろうし、デマゴギーに対し気付け薬となろう。将来という感覚は、日常生活という三次元から構築した四次元の我々の過去についての知識から、「現在」において生み出されなければならない。

気候変動の場合には、我々は、パニックを抑え、時と折り合いをつけるために国家には何か可能かを知っている。我々は、動物よりも植物から栄養をとる方が、たやすい上に費用が安くつくことを知っている。我々は、農業生産性における改善が続いていること、海水の淡水化が可能であることを知っている。我々は、エネルギー使用効率が温室ガスの排出を減らす最も単純な方法であることを知っている。我々は、各国政府が、炭素汚染について「価格」を割り当てられること、相互に将来の排出量の減少を締約し、その締約が遵守されているかを査察できることを知っている。我々はまた、各国政府が、エネルギーについて適切なテクノロジーの発展を奨励できることを知っている。太陽光や風力によるエネルギーは、これまでになく安上がりとなっている。核融合や核分裂、潮力発電、収穫物に依存しない生物燃料は、新しいエネルギー経済にほんものの希望を与えてくれる。長い目で見ると、我々は大気中から二酸化炭素を集め貯蔵するための技術も必要とするだろう。こうしたことのすべてが、考えうるだけでなく、達成しうるものなのだ。

将来について落ち着いて考えられるように、国家は科学に投資すべきである。過去について学ぶことで、これが賢明な選択である所以が理解できよう。時が思考を支え、思考が時を支える。また、構造が多様性を支え、そして逆もまた真である。こうした論の組み立て方は、広汎な災厄を待望したり、個人的な救済を夢想するほどには、魅力的でないだろう。大量殺戮の効果的な防止はますます増加しているし、それを行う英雄は表に出ない。持続する国家という観念で、全体主義に太刀打ちできるものはない。環境保護主義の政治は、「ブラックアース」に流れる赤い血ほどわくわくさせるものには未来永劫ならない。けれども、悪に反対するには、感情を呼び覚ますような威勢の良いものでなく、健全なものが必要である。自然と政治における、秩序と自由における、そして過去と将来における多様性は、二〇世紀の全体主義的なユートピアほど人を酔わせるものではない。いかなる単一性も、イメージとしては美々しいが、論理としては循環的であり、政治となると専制的である。全体主義を求める者たちへ与える解答は無政府状態ではない。なぜなら、無政府状態は全体主義の敵ではなく、僕であるからだ。解答は、思慮に満ちた、多様性を持つ制度だ。しかり、差異を生じさせる創造を果てしなく紡ぐことである。これは、想像力、成熟、そして生き存えることの問題である。

我々は、ヒトラーと同じ惑星に住んでいるし、彼の関心事のいくつかを共有している。我々は自分で考えているほどには変わっていない。我々は自分たちの生存圏を好んでいるし、政府を破壊することを夢想しているし、科学を誹誇するし、大災厄を夢想する。仮に我々が、自分たちは何らかのグローバルな陰謀の犠牲者であると考えるなら、我々はまっすぐではないにせよヒトラーの方へとじりじりと進んでいるのだ。仮に我々が、ホロコーストは、ユダヤ人、ドイツ人、ポーランド人、リトアニア人、ウクライナ人等々どの民族でも良いが、彼らに固有の民族性の結果だと信じたなら、その時点で我々はヒトラーの世界の中を動き回ることになるのだ。

ホロコーストを理解することは、人間性を失わないようにするための好機、たぶん最後と言ってよい好機だ。ホロコーストの犠牲者にとっては、今更及ぶところでないが。いかに膨大なものであっても善をいくら積み上げたとて、悪を取り消すことはできない。いかに成功しようとも将来の救助が、過去における一件の殺害を起きなかったことにはできない。一人の命を救うことは世界を救うことだというのはおそらく正しいのだろう。けれど、逆は真ではないのだ。世界を救うことで、失われたただ一つの命も取り戻すことはできないのだから。
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