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駐車場の狭いコンビニが生きる道

駐車場の狭いコンビニが生きる道

 『100-200』という名のコンビニ。どっちみち、ランキング「1-100」はどこのコンビニでも売っているから、必要ないでしょう。

 そこでは、少ない人がじっくり選ぶしかないから、駐車場は少なくていいでしょう。

こんな世界はどうでもいい

 こんな世界はどうでもいい。ウィトゲンシュタインもマルクスもそう思ったんでしょう。マルクスの目的はちょっと違うけど。にもかかわらず、なぜ、彼らは本を書いたのか。ウィトゲンシュタインもソクラテスも書いてないけど。

 この世界に対して、感想を述べただけでしょう。だから、人類に対して、どうせよというつもりはなかった。自分のために考えて、自分に対しての結論を出したかった。それだけです。多くいる人の一部です。キリストも同じです。ムハンマドは違うけど。
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<インターネット>の次に来るもの ビカミング(なっていく)

『<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則』より ⇒ 概念として、「さあ!」は正しかった!

〈始まっていく〉ことは一世紀にも及ぶプロセスで、変わらずなんとか前に進み続けている。その巨大なデータベースと広大なコミュニケーションは退屈なものだ。リアルタイムの地球規模の意識の夜明けというこの事象は、無意味なもの、あるいは恐ろしいものだとして片付けられている。実際のところ、大いなる不安が沸き起こるのももっともで、というのもこの脈打つ鼓動から逃れられる人間の文化(や本質)は何一つないからだ。それでも、われわれは自分たちを超えたレベルで動き出した何かの一部でしかないために、この興隆しつつあるとても大きなものの全容を掴むことができない。分かっているのは、そのまさに始まりから、古い秩序を混乱させ続けていることだ。それに対する過激な揺り戻しもあるだろう。

このとても大きな傑作を何と呼ぶべきだろうか。それはマシンよりも生物に近い。その中心には70億の人々--すぐに90億に達するだろう--がいて、それぞれの脳を相互にほぼ直接リンクさせ、常時接続するレイヤーを作り出して自分たちをすぐに覆い始めた。100年前にはH・G・ウェルズが、こうした大きな存在を世界脳という名前で想像していた。テイヤール・ド・シャルダンはそれを思考の領域という意味でヌースフィアと呼んだ。それをグローバル・マインドと呼ぶ人も、それが何十億ものシリコンで製造されたニューロンでできているので超生命体と呼ぶ人もいた。私はこうした惑星レベルのレイヤーのことを、ホロス(holos)という短い言葉で呼ぶことにする。この言葉で私は、全人類の集合的知能と全マシンの集合的行動が結び付いたものを意味し、それにプラスしてこの全体から現れるどんな振る舞いも含めている。この全体がホロスに等しいのだ。

これはわれわれの人生が乗っかっている新しいプラットフォームだ。それは世界的な規模で、常に動いている。このままのペースでテクノロジーの普及が進めば、私の見積もりでは2025年までには、この惑星に住む住人すべて、つまり100%がこのプラットフォームにほとんど無料になった何らかのデバイスを使ってアクセスするようになるだろう。誰もがその上に乗るだろう。もしくはその中にいるだろう。もしくは単に、誰もがそれになっているだろう。

このグローバルなシステムはユートピアにはならないだろう。これから30年経っても、地域間の垣根はこのクラウド内にも残るだろう。ファイヤーウォールで囲まれたり、検閲を受けたり、専有化される部分もあるだろう。企業による独占がインフラのさまざまな面をコントロールするだろう。だがこうしたネットの独占は脆弱で一時的なもので、競合他社に突然ひっくり返される場合もあるだろう。最小限のアクセスは広く行き渡るかもしれないが、より高い帯域幅は一様ではなく、都市部近郊に集中しているだろう。金持ちはプレミアムなアクセスが可能になるだろう。つまるところ、資源の配分は、人生の縮図のようになるだろう。しかしこのシステムは、例えばわれわれの誰もその一部にはなれないとしても、決定的に重要で、変革を起こすものなのだ。

いまこの〈始まっていく〉とき、この不完全なメッシュは510億ヘクタールに広がり、150億のマシンにつながり、40億の人間の心をリアルタイムで相手にし、この惑星の5%の電気を消費し、人間離れした速度で動き、われわれの1日の半分をトラッキングし、お金の主な流通経路になっている。その秩序の階層はこれまでの最大の創造物である都市よりもさらに一段上だ。こうしたレベルの飛躍を物理学者なら相転移と呼ぶだろう。例えば氷と水、水と蒸気の違いといった、分子の状態が不連続に変化することだ。温度や圧力によって相が変化すること自体はほとんど当たり前だが、闘値を超えると根本的な再組織化が行なわれ、物質の振る舞いがまるで別のものになる。水は氷とは完全に違った状態のものだ。

この新しいプラットフォーム上ではあらゆる所で相互接続が大規模になされているが、それは一見するとこれまでの社会の自然な延長に見える--お互いが顔を合わせる関係に、そのままデジタルの関係を付け足しただけのように。友人を何人か増やす。知り合いのネットワークを拡張する。ニュースの取得源の幅を拡げる。自分の動きをデジタル化する。しかし、実際はそれらすべての質が確実に向上し、温度と圧力が次第に上昇したように、われわれは変曲点を過ぎ、複雑さの闘値を超える。そこでは変化は不連続で--まさに相転移があり--気がつくとわれわれは新しい状態にいる--違った世界で違った当たり前を経験することになる。

われわれは〈始まっていく〉プロセスの中にいて、その非連続性のまさにエッジにいる。新しい領域では、中央集権的な権威や画一性といった古い文化は縮小し、本書で書いたようにシェアし、アクセスし、トラッキングするという新しい文化的な力が、さまざまな組織や個人の生活を支配するようになる。この新しい局面が形になるにつれ、そうした力はますます強力になる。シェアしていくことは、いまでもやり過ぎだと思う人もいるが、まだ始まったばかりだ。所有からアクセスヘのシフトは、まだほとんど始まってもいない。〈流れていく〉こともストリーミングも、ぽつぽつと始まり出した程度だ。すでにトラッキングされ過ぎていると思うかもしれないが、これから数十年の間に数千倍はトラッキングされるようになるだろう。こうした機能はいま生まれたばかりの高品質のコグニフアイングによって加速され、やがて現在最もスマートに見えるものでさえ愚かに見えてしまうだろう。どれもまだ最終形ではない。こうした移行はくなっていく〉プロセスの第一歩を踏み出したに過ぎない。つまり〈始まっていく〉のだ。

この相転移はすでに起こっている。われわれは、すべての人類とすべてのマシンがしっかりと結び付いた地球規模のマトリックスに向かって容赦なく進んでいる。このマトリックスは、われわれが作ったものというよりプロセスそのものだ。われわれの新しい超ネットワークは途切れることのない変化の波であり、われわれの需要や欲望を新しく組み替えては絶えず前へと溢れていく。今後30年の間にわれわれを取り巻く個別のプロダクトやブランド、会社については完全に予想不能だ。ある時代に特定のものが成功するかどうかは、個人のチャンスと運の流れ次第だ。しかしこの大規模で力強いプロセスの全体としての方向性は、明確で間違いようがない。これまでの30年と同じように、これからの30年もホロスは同じ方向へと向かっていくだろう--つまり、より流れていき、よりシェアしていき、よりトラッキングし、よりアクセスし、よりインタラクションし、よりスクリーンで読み、よりリミックスし、よりフィルタリングし、よりコグニフアィし、より質問し、よりなっていく。われわれは〈始まっていく〉そのとば口にいるのだ。

もちろん、この〈始まっていく〉ことはまだ始まったばかりだ。
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<インターネット>の次に来るもの トラッキング(追跡していく)

『<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則』より ⇒ ブログ「未唯への手紙」は思考をトレースするためのもの!

セルフ・トラッキングは健康分野だけでなく、さらに広い応用が可能だ。それは人生と同じぐらい大きな話だ。ウェアラブルとなった小さなデジタルの目や耳が、誰に会って何を言ったかといった1日のすべての瞬間を記録し、われわれの記憶を助けてくれる。やり取りしたメールや文章を記録すれば、現在進行形の心の日記になる。そこには聴いた音楽や読んだ本や記事、訪れた場所も加えていける。日常の行動や出会いの中でのちょっとしたこと、そうした日常から離れた出来事や経験も同様に、ビットの世界へと流れ込み、時系列な流れと混ざり合っていく。

その流れは人生の流れと呼ばれる。それは1999年に、コンピューター科学者のデビッド・ガランターが最初に提唱したものだが、ただのデータのアーカイブ以上のものだ。彼はライフストリームを、コンピューターを構成する新しいインターフェースだと考えていた。デスクトップに代わるのは、新しい時系列な流れだ。ウェブブラウザーではなくストリームブラウザーだ。がランターと彼の大学院の学生エジック・フジーマンは、ライフストリームのアーキテクチャーを以下のように定義している。

 ライフストリームは時系列に並べられた文書の流れで、あなたの電子版人生の日記のようなものだ。あなたが作った文書や他人が送ってきた文書はすべてライフストリームに格納される。そのストリームの最後尾には最も過去の文書がある(いわばあなたの電子版人生の出生証明書だ)。その最後尾から現在へと前に進んでいくと、写真、手紙、領収書、映画、留守番電話、ソフトウェアといったより最近の文書が現れる。この現在を超えて未来に行くと、備忘録、カレンダーや仕事の予定など、これから必要になる文書が出てくる。

 ゆっくり腰を下ろしてどんな文書が来るか見てみるといい。ストリームの先頭にはどんどんと新しい文章が積まれていく。カーソルを動かすことでそのストリームを閲覧でき、画面卜の文章に触れればページがポップアップして中身をさっと見ることができる。あなたは過去に戻ってもいいし、未来に行って来週することや次の10年の予定を見ることもできる。あなたのサイバーな人生のすべてが、まさに目の前にある。

誰もが自分だけのライフストリームを生成する。私があなたに会ったとすると、私とあなたのライフストリームは時間軸で交差する。また次週会うとすれば将来また交差するし、去年会っていたり写真をシェアしていたりすれば、過去に交差している。われわれのストリームは艮い糾み紐のように複雑に絡み介っているが、どのストリームも厳密に時系列に並んでいるのでそれを追りていくのは簡単だ。われわれは自然と時間軸に沿ってある出来事に行き着いていく。「それはクリスマス旅行の後だったけれど、誕生日の前にあったな」という感じだ。

ライフストリームを物事を整理することの喩えに使う利点について、ガランターはこう言っている。「『その情報をどこに置いたんだろう?』という疑問に対する答えはいつも一つしかない。それは私のストリームの中だ。時間軸や年代記、日記、日誌、切り抜き帳といったアイデアは、ファイルの階層構造という考え方よりもさらに古いし、人間の文化や歴史に根差したよっぽど本質的な方法だ」。ガランターはかつてサン・マイクロシステムズの代表にこう語っている。「私が新しい記憶として、例えば、ある晴れた日にレッド・パロットの店の外でメリッサに会ったとしたら、その記憶に名前を付けたり人名簿に書き込んだりはしない。私は記憶の中にあるどんなものも、検索の鍵として使うことができる。同じように、電子ドキュメントに名前をいちいち付けるべきではないし、ディレクトリーに登録する必要もない。他のストリームを自分のストリームに混ぜ込めばいいのだ--他のストリームの持ち主が許可してくれる範囲で。私自身の個人的なストリーム、つまり私の電子版人生の物語は、他人のストリームも入れることができ、そうしたストリームは私が参加する集団や組織に属するストリームとなる。そしてやがては、例えば新聞や雑誌のストリームも自分の中に取り込んでもいい」

ガランターはこのソフトの商用化を1999年以来何度か試みたが上手くいかなかった。彼の特許を買った会社は、アップルがライフストリームのアイデアを盗んで、タイムマシンというバックアップのシステムに使ったと訴訟を起こした(アップルのタイムマシンでファイルを修復する場合は、時間軸を横に動かして目的の日まで遡る。その時点でコンピューターに入っていたものの内容が「スナップショット」として残っているのだ)。

しかし現在のソーシャルメディアでは、実際に稼働しているライフストリームの事例をいくつか見ることができる--フェイスブックだ(中国ならウィーチャット)。あなたのフェイスブックはあなたの人生に関する写真やアップデート、リンク、アドバイス、その他の文書で構成され流れ続けている。そのストリームの先頭に、常に新しいものが付け加えられるのだ。いま聴いている音楽や観ている映画を表示するウィジェットを追加することもできる。時間軸に沿って過去を回顧するインターフェースまで付いている。10億以上の他の人々のストリームがあなたのストリームと交差し合う。友人(もしくは他人)が投稿に「いいね!」を押したり、画像に写っている人にタグ付けすれば、二つのストリームが絡み合う。フェイスブックは毎日のように、最新の出来事やニュースのストリーム、それに会社のアップデートを世界規模のストリームに加えてい

しかしこうしたことですら、全体像の一部に過ぎない。ライフストリームとは活発で意識的なトラッキングだとも考えられる。人々はスマートフォンで写真を撮ったり、友人にタグを付けたり、フォースクエアで熱心にチェックインしたりして積極的に自分のストリームをキュレーションしている。フィットピット[Fitbit]で運動したデータや、万歩計の歩数ですらそうなのは、つまりそれらが注意を向けるべきものだということだ。ある程度の注意を振り向けない限り、自分の行助は変えられない。

意識されることなく活発でもないが、同様に重要なトラッキングの分野もある。この受け身型のトラッキングは、ライフログとも呼ばれる。それはただシンプルに、機械的に、自動的に、うわの空で、すべてのものを完璧にずっと追跡する。すべてのものが、なんのバイアスもなく、一生汎にわたって記録される。それは、将来もし必要になったら注意を払えばいい。ライフログは紀録したもののほとんどを一度も利用しないので、極めて効率が悪く無駄の多い手法だ。しかし他の多くの非効率なプロセス(例えば進化など)と同じく、そこには天才的なところがある。現在ライフログが可能になったのはもっぱらコンピューターやメモリー、センサーなどが格段に安価になったためで、たいしたコストもかからずにそれらを浪費できるようになったからだ。そして、コンピューターの能力を創造的に浪費することは、多くの最も成功したデジタルプロダクトや企業の秘訣であり、ライフログを使う恩恵もまた、コンピューターを無駄遣いすることで得られる。

ごく初期のライフログの例としては、1980年代半ばにテッド・ネルソンが行なっていたものがある(彼はそういう呼び方をしていないが)。ネルソンはハイパーテキストを発明した人物だが、他人との会話をすべて、どこでどんな内容であったとしても、録音したり映像に収めたりしていた。彼は何千人にも会っていたので、大きな倉庫を借りて、その中一杯に録音したテープを保管していた。もう一人は1990年代のスティーブ・マンだ。彼は当時MITにいて(現在はトロント大学)、頭にビデオカメラを装着し、毎日の生活を映像に記録していた。すべてを毎日、一年中だ。ここ25年間、起きている間はカメラを動かしっぱなしにしていた。彼の装置では、片方の目の前にスクリーンが付いていて、カメラが彼の視点から映像を撮っていたが、これはグーグルグラスに先駆けること20年も前の話だ。1996年7月にマンと初めて会ったとき、彼は自分がやっていることを「定量測定セルフ・センシング」と呼んでいた。顔の前にカメラがあって半分がよく見えず、マンとはあまり自然に会話できなかったが、彼はいまだに自分の人生すべてをいつでも記録している。
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225『インド現代史1947-2007 下巻』世界歴史叢書

319.2『「満洲国建国」は正統である』米国人ジャーナリストが見た、歴史の真実

131『哲学の始原』ソクラテスはほんとうは何を伝えなかったのか

145.2『夢の現象学・入門』』

010『「図書館のめざすもの」を語る』

104『核の脅威』原子力時代についての徹底的考察

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193.1『旧約聖書の世界』

130.4『哲学のメガネ』哲学の眼で<世界>を見るための7つの授業
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