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帝国再編とコミューン型共同体の活性化

『世界「最終」戦争論』より 帝国再編とコミューン型共同体の活性化 ⇒ トポロジーから考えた未来予想図と似た形を示している。地政学よりも近傍系で考える方が全体と先が見えてくる。

国民国家が解体し、世界は帝国化する

 姜 先ほど、今起きていることは、国民国家の液状化の始まりだとおっしゃいましたが、内田さんは、国民国家が液状化して消えた後、どういう世界が来ると予測しますか。

 内田 中田先生の予想では、帝国への分割という形になるんじゃないかということでした。

 姜 ああ、まさに中東で起きていることはそうですね。

 内田 ええ、今、中東で起きていることは「オスマン帝国への回帰」という風にも見ることができると思います。オスマン帝国がサイクス=ピコ協定で解体して、いくつかの国民国家に分割されたけれど、それが百年たって軒並み破綻国家になってしまった。この地域の秩序をもう一度再構築しようとしたら、今よりはガバナンスが効いていた過去の仕組みを参照するしかない。だから、中田先生はカリフ制再興(スンナ派において「代理人」「後継者」を意味する、政治・宗教・軍事における指導者「カリフ」によるガバナンスを回復しようとする思想、運動)を主張しているわけです。

  この動きがどこから始まるのか、予測は難しいんですけれど、中田先生はシルクロードに注目していました。新疆ウイグルから、カザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンと続くあのエリアは、今中国が「一帯一路」構想を打ち上げていますけれど、それはスンナ派のトルコ系住民の居住するエリアなのです。シルクロードというのは西域からイスタンブールまでトルコ系の「スンナ派回廊」で、実は人種的にも宗教的にも一続きなのです。

  それが細かい行政区分で切り分けられているから、僕たちはそれが一つのまとまりだと気付きませんけれど、遊牧民のコスモロジーからすれば、「一帯一路」はまさに「ひとまとまり」なんです。このトルコ系スンナ派回廊がそのまま延長すれば、中近東、マグレブにつながる。今起きつつある国民国家融解現象の様々な出来事はこの「ライン」の上で起きている。

  文明史的なトレンドを大づかみに見ると、この地域の人為的な国境線はいずれ消滅して、代わって巨大なイスラーム圏が形成されるという可能性がある。どういう政体になるかわかりませんけれど、オスマン帝国の版図が回復される方向にじわじわと動いているような感じが僕にはします。

  もちろん、シーア派イランはこのスンナ派ベルトができることを警戒していますから、アメリカ、ロシア、中国と連携して、これを抑制する動きに出るでしょう。そういう流れというのは、国民国家がそれぞれ自国の国益を追求して他の国民国家と戦ったり同盟したりするという旧来の「一国主義的」な国際関係理解では読み取れない。

 姜 国民国家の解体は全世界的に起きつつある。すると、いろんなところで帝国復活が始まる、いやもう始まっているというわけですね。

 内田 ええ。国民国家が液状化すれば、当然新たな秩序が形成される。国民国家の求心力が衰微すれば、人為的国境を越えて、宗教や言語や生活文化を共有する下位集団が横につながってゆく。その結果、いくつかの「帝国圏」ができる。

  プーチン「皇帝」が率いるロシア帝国、習近平「皇帝」が率いる中華帝国、「カリフ」が率いるオスマン帝国、ペルシア帝国、ムガール帝国……。ヨーロッパは神聖ローマ帝国の形に落ち着くかも知れません。もしドイツがその新たな帝国の盟主となるのであれば、これがドイツ「第四帝国」になる。そして、新世界では、ゆっくり凋落の道をたどるアメリカ帝国がある、と。そういう風にいくつかの「帝国圏」に分かれる。これはサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』やローレンス・トーブの『3つの原理』での主張とも重なりますけれど、こういう直感的な「大風呂敷話」の下す予測はなかなか侮れないです。

 姜 今のグローバル資本主義との対抗軸として帝国化が進むということですか。

コミューン型の連合体を基軸に

 姜 もう一つは、広域化と同時に狭小化も進むでしょうね。つまり、もっとローカライズが進むんじゃないかという気がする。

 内田 僕もそう思います。グローバル化は必ずローカル化を引き起こします。帝国というのは帝国臣民たち全員が同胞としての一体化を感じるにはあまりにサイズが大き過ぎる。ですから、もっと小さいローカルな共同体に個人は帰属感を感じるようになる。自然環境が同一であったり、方言が同一であったり、食文化や祭祀が同一であったりするローカル共同体が人々が一次的に帰属意識を感じる集団になると思います。

 姜 その一つのあらわれは例えばセパラティズムというか、分離独立主義で、例えばスコットランドとかバスクとか、日本でいえば沖縄ももしかして独立路線もあるかもしれない……。逆に言えば、そういう分離独立運動が国民国家を液状化させるモーメントになりますよね。

 内田 そうだと思います。スコットランドも、カタルーニャも、バスクも、どこも国民国家が液状化しているせいで独立の動きが出て来ている。国民国家の統合力が十分に強くて、中央政府のガバナンスが効いていれば、沖縄独立なんていう話は出て来ないですから。

 姜 そういうモーメントはこれからかなり強くなっていくだろうと僕も思います。

 内田 強くなりますね。ヨーロッパでは各地でその動きが起きています。ペルギーの場合、フラマン語、ドイツ語、フランス語と言語共同体ごとに政治的自治を要求しているうちに、小さな国なのに六つの自治体に分かれてしまった。でも、そうやって言語が違うところとは一緒にやれないというようなことをうるさく言い出すと、そのうちにうちの村と隣の村は方言が違うから一緒にやれないというようなことになりかねない。それまで認めたら、もう切りがないわけですね。共同体のアイデンティティを「自分たちが一体感を持てること」という風に曖昧に規定すると、どこまでも細分化する可能性がある。

  フランスやイタリアは基礎自治体がコミューンというものですけれど、これは一つひとつサイズが違うんです。千人のコミューンもあるし、十万人のコミューンもある。でも、サイズと関係なしにすべてのコミューンには、市長がいて、市議会があって、市役所がある。一見すると非効率的に見えるんですけれど、うまく機能している。なぜかというと、コミューンというのは昔のカトリックの教区だからです。中心に教会があって、教区民が集まって基礎自治体を形成している。教会に対する帰属感、同じ教区民に対する同胞意識という幻想をペースにしているから、サイズが違っても困らない。これから国民国家が液状化していく過程で、イタリアやフランスはコミューンが……。

 姜 減っていく可能性がある。

 内田 コミューンの統合力も国民国家の統合力と一緒に弱まるかもしれないですね。ベルギーのように、ローカルな共同体がさらに細分化してゆく可能性はありますね。日本の場合だと、僕はだいぶ前から「廃県置藩」を唱えているんです。これは同じようなことを榊原英資さん(経済学者。青山学院大学教授)もおっしゃっています。
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社会的正義の実現と教育の役割

『ファイナンスの哲学』より 資本(capital)/資本主義(capiitalism)

深刻な格差問題についてピケティが唱えているのが、そうした社会の不安定化を阻止するために、公権力が富裕層に対して一定の財産税を課し、それを循環させようという国際富裕税の考え方である。

ただし、こうした税当局の国際的連携と資産捕捉は、超国家的な権力の存在を前提にしており、この実現可能性を疑問視する声が大きい。

富を社会に循環させるもう1つの考え方は、富裕層が自ら富を社会の安定化やより良い社会の構築に向けて活用することである。たとえばマイクロソフトの創始者ビル・ゲイツが、ビル&メリンダ・ゲイツ財団を作って“social good” (社会善)のために活用しているように、また上述した“The Giving Pledge”という寄付プラットフォームのように、一部の富裕層は、すでにこうした自覚のもとに具体的なアクションを取り始めている。

私自身は、これからの世界の安定化のために、両方の手段を活用して富を社会に循環させていく必要があると思うが、実現可能性という意味で、後者の自発的なやり方に主眼を置いて考えている。

ピケティが指摘しているように、統計上、世界の純資産と純負債は合計すると、純資産が8%程度少なくなっており、その多くが富裕層の隠れた資産だと見られている。世界中で最も富が集中しているのが、ナンバーワンの経済大国である米国だが、その富裕層のロビイングの力は極めて大きく、課税逃れに対する取り締まりや、キャピタルゲイン課税の拡大が大きく進捗することは、当面、考えにくい。

したがって、迂遠ではあるが、富裕層が自ら社会の不平等を正すべく動き出すのを促す必要がある。しかしながら、ただ単に「富を差し出せ」と言われたからといって差し出すほど事は単純ではない。そうした動きは、あくまで内発的なものでなければならないし、そのためには富裕層の「心」が動かなければならない。こうした、社会の不平等や不正義を見逃せない心の育成というのは、小さい頃からの教育や環境の果たす役割が極めて大きい。

カネの魅力はその圧倒的な交換可能性と保存性と流通性にあるが、全てをカネで測定するということは、全ての事物・事象に切れ目のない無限の序列をつけることであり、そうであれば1万円の幸せは1億円の幸せに勝てず、1億円の幸せは100億円の幸せに勝てず、100億円の幸せは1兆円の幸せに勝てないという、無限のトランプゲームの繰り返しの連鎖に巻き込まれてしまう。

元来、我々はおカネの価値に換算してはいけないものを正確に理解していた。たとえば、お寺にある仏像の価値は、そこにあるということが本来の価値であり、それを金銭的な価値に置き換えることは意味のないことだと知っていた。それを正面からコマーシャルに利用した“priceless”という広告もあったが、その広告の裏側にある「pricelessな物をクレジットカードで購入しましょう」というあざとさは別にしても、言っていること自体は正しい。

金融技術とパーソナルコンピューターの進歩は、全ての事物をキャッシュフローの源泉とみなし、そこから生み出される将来のキャッシュフロー全てを現在価値に割り戻した数字を、その事物の経済的価値と見るようになった。そして、金銭に換算できない価値は、「金銭的な価値とは別の、違う尺度での固有の価値を持つもの」として正しく認識せずに、「金銭に換算できないものは、無価値なもの」あるいは「無視すべきもの」という間違った認識を持つ者の急増を促した。

重要なのは、貨幣や市場が提供するフィクションの部分を、あくまで便利な道具としてわきまえ、フィクションの部分と我々人間の感情や心性や肉体というリアルな部分の間に明確な線引きを行い、目的と手段を混同せずに生きることである。

私がこの『ファイナンスの哲学』を通して言いたかったのは、ファイナンスというのはあくまで1つの壮大なフィクションであり、また非常に役に立つテクニックではあるが、やはりそれはあくまでテクニックでしかなく、それが全てだとは思わないでもらいたいということである。

重要なのは、ファイナンスがよって立つ資本主義のゲームというのは社会全体を包摂する唯一無二の原理ではないということを自覚して、ゲームにはあくまでクールに参加することである。そして、そのゲームの勝者たちに強く求められるのは、ゲームに勝つこと自体を究極の目標にすべきではないと自覚することである。

ゲームの先にある人間としての自覚と目標にこそ、ゲームを極める本当の意味があるのだということを理解することが何よりも重要である。そうした自覚なく、資本の無限運動に生身の人間が巻き込まれてしまうのであれば、その人はどこにもゴールのない無限ループの闇の彼方に放り込まれてしまう。

わかりやすく言えば、我々は切れ味の鋭い包丁の使い方を未だ知らない駆け出しの料理人のようなものである。折角手に入れた包丁を正しく使い、美味な料理を作れば、皆が幸せになれるのに、それで人を傷つけてはならないのである。

資本主義社会というのは、これまで人類が実現してきた社会システムの中でも、社会的な富の蓄積にとっては最も優れたシステムであり、それが人間の本性に適っているか否かの検証は未だなされていないが、現時点でそれを覆して新たなシステムを提示・構築するのは現実的ではない。

国連人口部の推計によれば、人類は資本主義が実現した経済の目覚ましい発展により、1800年の10億人から今では73億人にまで達し、これが2050年には90億人に達すると見られている。

また、人類の平均寿命も、人類史初期の平均寿命が20~35歳であったと推定されるのに対し、1900年には先進国の寿命は40~50歳にまで延び、これが現在では80歳程度にまで延びている。

これは、経済システムとしての資本主義が果たしてきた大きな成果であり、その副作用のゆえにこれを放棄するというには、余りにも代償が大きいシステムである。人間に本来的に備わっている成長意欲がイノペーションを生み出し、それが経済の発展につながり、ひいては人類の幸福につながっていくのであれば、「角をためて牛を殺す」ことをしても意味がない。

事業家の事業意欲は単なる金銭欲ではないことが多く、特に社会全体を変革するようなシュンペーター的なイノベーションを起こす起業家は、むしろ金銭欲よりは事業意欲、成長意欲などが強いがゆえに事業家として成功していることが多い。

そうした事業家の事業意欲と、社会的な富の循環は決して両立し得ないことではなく、むしろ社会的な不平等や不正義を正したいという思いから起業する起業家も多い。こうした強い思いを抱いて、社会をより良くしていこうと考える起業家、企業人、富裕層を増やして、自発的な富の循環のモメンタムを強めることが、教育の重要な目標の1つだと考えている。

他人の心の中に立ち入らないという節度と、他人のことは関係ない、他人のことには無関心であるという態度とは、まったく別の次元の心性である。したがって、こうした公徳心を持った若者を育てるということが、迂遠ではあっても、資本主義のメリットを活かしながら、同時に社会正義を実現していくための重要な道筋だと思う。

我々人間は、望むと望まざるとにかかわらず、社会を構成して、集団として1つの歴史を歩んでいる。そして、元を正せば、人類の起源はわずか8人の人間にたどり着くと言われている。人間だけではない、地球上の生き物は全て同様の遺伝子を持つ共通の仲間である。仮に5%も遺伝子が異なっていれば、姿形がまったく異なる別の動物になってしまう。そして、それを成立させている、地球という存在もその仲間の一員である。

利己的な遺伝子が永遠に生き延びるために我々の肉体を利用していると見るには、あまりにも我々の脳と心は不思議に満ちている。宇宙の始まりや果てが未だ理解できていないように、人間の意識がどこから来るのかの研究もまだ緒についたばかりである。

神という宗教が取り上げるテーマと科学のテーマは、西欧合理主義の時代以降、長く切り離され、別の領域の問題として扱われてきたが、究極的には、「意識」「宇宙」「神」は、相互に影響し合いながら、再びつながりを取り戻しつつある。

畢竟、我々はゴーギャンの絵画にあるように、「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」、この答えを求め続けて旅をする仲間なのである。
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ソーシャルメディア時代のオンライン世界の今後

『ツイッターの心理学』より

発信コストの闘値を超えた低下とコンテンツの行く末

 ツイッターはウェブログ(ブログ)との対比によって「マイクロブログ」または「ミニブログ」と呼ばれる。これは発信(ツィート)に際して長文が要求されず、気楽に発信可能である側面を強調した表現である。「特にない」や「何となく」がツイート理由の頻出語として多く現れたことはそのことと関係が深い。活発な発信はSNSへ人を呼びこむ上での必須条件とも言え、それはビジネス上の要請でもある。他の発信者への反応を「ボタン」一つで可能にする「リツイート」や「お気に入り」、あるいは「いいね!」といった機能も利用者間の相互作用のハードルを下げ、プラットフォームの活性化を図る上での「最適化」であるといえよう。そしてこれは今日のオンライン世界全体のトレンドとも合致するものである。

 かつて「チープ・レボリューション」という言葉があった。これは、ハードウェアやインターネット回線の価格、オープンソース・ソフトウェア普及によるライセンス利用料などのすべてがある闘値を超えて低下したことにより、質的な変化、すなわちウェブサービス開発に代表されるイノヴェーションがどこででも起きるようになったことを指す。これにならえば、利用者による制作・発信コストの闘値を超えた低下によって、いま質的変化が起きていると考えることは可能であろう。

 その変化の一つは、ある種の「クリエイティブ」な才能がウェブ上で見出される機会の拡大である。それをもたらしたのはスマートフォンを含むデバイスの普及に伴う表現者の裾野の広がりである。このことはインターネットの普及初期から指摘されていたことであり、発信コストの闘値を超えた低下が起き、まさに万人が表現者となりうる時代の到来がこの変化を生んでいる。

 だが表現者の裾野の広がりは、オリジナルコンテンツを作成する者のみならず、オリジナルをコピーする者や、オリジナルに対する反響をコンテンツとして制作する者も生み出しており、主流たるビジネスモデルに呼応して、「面白さ」の追求と流通がなされている。発信コスト低下は何気ない自己開示や感情の発露を、ウェブ上に大量に出現させることにもつながっており、それが発信者にとってカタルシス効果を持つこともある。また「腹立たしさ」「疲れ」「悲しみ」を表現したツイートが読み手を想定されないままに発信される傾向もある。つまりもうひとつの質的変化として、情報過多がどこででも起きつつある。

 こうした問題に対する技術的な解決方法は日々研究開発が進められており、サービス提供者側が解決してくれる可能性は十分にある。だが、それが娯楽情報への傾斜、「フィルターバブル」、そして新たなデバイドといった問題とも関係するならば、インターネットの持つ「カスタマイズ可能性」の行く末と同程度に、その「発信可能性」の行く末にも私たちは注視すべきである。

オフライン世界と切り離されたオンライン世界の意義

 最後に、ソーシャルメディア時代のオンライン世界とオフライン世界の関係を述べて、本書を終えることにしよう。

 利用人口の増加とともにインターネット上のコミュニケーションサービスには様々なものが登場しているが、それらをプライペート・パブリックの次元で整理する。「プライペート」とは特定の他者にしか情報が届かない程度、「パブリック」とは不特定多数の他者に閲覧される程度である。ツイッターはダイレクトメッセージ機能、フェイスブックはメッセンジャー機能など、プライペート性の高いコミュニケーション機能も内包するが、「リツイート」や「シェア」機能の存在もあり、全体としては不特定多数の他者に届きうるコミュニケーションを実現させる。

 こうしたパブリック性の高いコミュニケーションサービスにはオフライン世界との重複度の高いものと、オフライン世界とは独立したものとがある。ツイッターはそのどちらをも含むシステムであり、両方が一つのサービス上で実現している。ツイートが想定外に拡がり大きな波紋を引き起こすケースは、投稿者がツイッターのパブリック性の高さに意識が向いていなかったことに起因する部分が大きいと考えられる。こうしたトラブルの回避策として、アカウントを非公開にする方法がありうるが、そうした運用は自分のオフライン世界以外に向けたコミュニケーション活動に大きな機会損失をもたらしている。偶有的関心によるオンライン世界での出会いはすべてが炎上となる訳ではない。

 現在のウェブサービスで圧倒的存在であるフェイスブックは、パブリック的サービスで、オフライン世界との重複度が高い。創業者であるマーク・ザッカーバーグの「2種類のアイデンティティを持つことは、不誠実さの見本だ」という発言に象徴されるように、利用者に対して単一のアイデンティティを求め、透明性の高い、隠し事のできないコミュニケーションを要求する。

 この考え方に反論を唱える人もいる。そもそも人は状況に合わせて他者に見せる「自己」を変化させる存在であり、レイニーとウェルマンはそうした自己を「ネットワーク化された自己」と呼んだ。古くはE.ゴッフマンが人々はそのときどきの社会的文脈の理解にもとづいて自己呈示を行うと論じた。ボイドはネットワーク化された環境においてそうした社会的文脈が衝突し、印象管理が困難になってきていることを指摘する。2章ではオフラインの文脈とは切り離されたネットワークをツイッター上で構築している利用者は、活発にツイートすることを確認したが、社会的文脈の衝突や崩壊を避けるためにも、オフライン世界と切り離されたオンラインでの自己表現と相互作用を実現するためにも、オンラインコミュニケーションサービスやアカウントの使い分けに対する欲求は残り続けるだろう。

 インターネット利用が日常生活に広まっている以上、オンライン世界はオフライン世界に組み込まれているという見方もある。だがツイッターでも見られるような、オフライン世界と切り離されたオンライン世界でのコミュニケーション活動は残存しうる。その影響や社会的意昧には今後も注目する必要があろう。
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トポロジーから見る未来構造

トポロジーから見る未来構造

 今後の姿をトポロジーから観ている人間はほとんど居ない。皆、感覚的なもんだけど、構造としてみていない。

 グローバル化にしてもローカル化にしても、近傍系の概念とカバーリングがナチョナルと思えば、容易に未来構造が見えていくのに。地政学的なアプローチをトポロジーで考えればいいだけです。

 一神教も同じです。どのように安定的なカタチにしていくのか。ハイアラキーは成り立たないと言うことです。多様化とぶつかります。
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豊田市図書館の27冊

933.7『ようこそ、映画館へ』

371.42『ネットいじめの構造と対処・予防』

498.02『天国の扉をたたくとき』穏やかな最期のためにわたしたちができること

367.9『セクシャル・マイノリティQ&A』

589『いま使いたい、ニッポンのいいもの』

724.4『60歳からはじめる風景スケッチ』

743.5『情景写真術』アニメ・映画のようなワンシーンを写し出す

C51.1『トムスの軌跡』400冊限定販売』

159.6『50代から生きるのがうまい女、ヘタな女』?をかさねてみえてくる、本当の人生の楽しみ方。

010.1『公立図書館の無料原則と公貸権制度』

326.1『刑法総論講義案』

726.5『こぶしのなかの宇宙』

331『行動経済学の逆襲』

293.4『ドイツ』

230.3『アレキサンドリア戦記 アフリカ戦記 ヒスパーニア戦記』

625.37『オレンジの歴史』「食」の図書館

232『ローマ建国以来の歴史2』伝承から歴史へ(2)

910.26『あとは死ぬだけ』

295.39『ロサンゼルス サンフランシスコ シアトル』

336.49『3秒でOKがもらえる「伝え方」の基本』「プレゼン&資料作成」のプロが明かす!

007.3『<インターネット>の次に来るもの』未来を決める12の法則

010.4『魔女っ子たちの図書館学校』

021.4『編集』悪い本ほどすぐできる 良い本ほどむずかしい ⇒ この本はすぐできそう

021.4『学術書の編集者』

289.1『僕はこうして科学者になった 益川?英自伝』

159『大人はもっと遊びなさい』仕事と人生を変えるオフタイムの過ごし方

002『爆笑問題の日本の教養』生物が生物である理由


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