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レオナルドの「最後の晩餐」 完全なコントロールの下で

『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』より 逆転劇、息をのむ名作

ダ・ヴィンチは、起こり得る異論から身を守るため、修道士やミラノ公が見慣れている最後の晩餐の伝統的な型を維持する。つまり、食卓の準備がされたテーブル、装飾された晩餐室、いつものようにテーブルの中央に座るキリストの横に配置された使徒たちである。しかしながら、よく見ると、レオナルドの「最後の晩餐」はまったく新しいものとなっている。どの人物も、どのディテールも、どの筆さばきも、彼は伝統的な図像学を大混乱させており、これから先の画家だちがインスピレーションを得るような新しいモデルを提示する絵を作り上げている。

レオナルドはまるで映画を撮影する時の監督のように動いている。最初に使徒たちの描写に集中して注意を払い、おのおのの動作がその精神状態や気持ちを物語るようにつとめる。使徒は二人一人異なっており、自由に動き、仲間と会話している。当時のレオナルドの手稿には、壁画を創り上げる過程に光をあてるスケ″チやメモが残っている。まず脚本を書く。一種のストーリーボードのようなものだ。「飲んでいた者はグラスをテーブルに置いて頭を発言者のほうに向ける。もう一人は両手を組みあわせて眉をつり上げて仲間を見る……。別の者は両手を広げて手のひらを見せながら、肩をすくめて驚きのあまり口をぽかんと開けている。またある者は隣の者の耳元に何やらささやき、それを聴く者は、片手にナイフ、もら一つの手にはそのナイフで切ったばかりのパンを持ちながら、その者に身体ごと耳を向ける。他の者は手にナイフを握ったまま振り向いたため、その手でテーブルの上のグラスを倒してしまう」。実際には、ここで描かれた身ぶり手ぶりはどれも使徒たちのポーズとは一致しない。だが、この一節はダ・ヴィンチが、補助的なディテールよりも、登場人物一人一人の動きをいかに研究していたかを示している。結局のところ、彼はいつもこういう作業に心をとらわれてきた。「東方三博士の礼拝」の聖母子を取り囲む群衆の中の個々の描写に始まり、「荒野の聖ヒエロニムス」の緊張感あふれる身ぶり、「白貂を抱く貴婦人」のチェチリア・ガッレラーュや「ラ・ベル・フェロニエール」のルクレツィア・クリヴェッリの革新的な姿勢に至るまで、人の動きに焦点をあてるのだ。

ダ・ヴィンチは、「最後の晩餐」でこのような実験的な動きを一三もの異なるケースで表わすが、同時に、場面全体を並外れた手法でコントロールすることにも成功している。「東方三博士の礼拝」では軽率に描いた熱狂的な動きが混乱と不安定さを引き起こしたが、ここでは調和がとれたリズム感のある動きに変化している。ミラノ宮廷の舞台演出で何十人もの俳優やダンサーを使うことに慣れていたレオナルドは、絵の中でも、三人ずつのグループに分けた使徒たちに、まさにオリジナルの振り付けを演出する。特に、彼らの顔と手ぶりに注意をして、なめらかな自然の動きを作り上げる。福音書が語る、イエスの言葉を聞いて「弟子たちは互いの顔を見合わせていた」という、まさに、その瞬間が、史上初めて絵の中で実際に起こるのである。画面の左端では、バルトロマイがすぐに立ち上がってキリストを見つめる。今聞いた言葉が本当なのか確かめるためだ。小ヤコブは背中をたたき、いっぽうでアンデレは両手を上げてそんな話はまったく知らなかったと表明する。彼らの反応は、そのすぐ横の他の三人の使徒グループのしぐさと比べても、大体においてつり合いが取れている。ペテロはヨハネの耳元でささやく。「誰のことを言っておられるのか、知らせなさい」。ヨハネはそれをあきらめたょうに聞きながら、イエスから聞いたばかりのひどい話をほとんど拒否しているかのようだ。ここに、レオナルドが挑戦した小さなリスクがある。キリストの最も愛する使徒がイエスの胸元に寄りかかっていない。それどころか遠ざかっている。

レオナルドは知るよしもないが、この選択が将来、様々な仮説や推測の飛びかう大騒動を引き起こしてしまう。実際には、キリストの姿を自由にして、周りに空間を作り、その存在を際立たせたかっただけである。これほど近いのにこれほどまで異なるペテロとヨハネの顔を見ていると、ダ・ヴィンチが過去に何度も使った独自の理論を思い出す。それは、真逆の対象を並べると、見る者に強烈な印象を与える効果があるということだ。二人の使徒はまったく逆の世界に属しており、一人は激昂しやすく、もう一人はおとなしい。ペテロの手はナイフを握っており、パンを切るために使いたいのではない。裏切り者に飛びかかろうとしているのだ。指の位置がそれをはっきり示している。実際、数時間後には、ペテロは怒りの爆発を抑えることができずに、ゲッセマネのオリープ園でイエスを守るため神官の召使いマルコの耳を切り落としてしまう……。

ベテロとヨハネのそばにはユダがいる。定番だったテーブルをはさんだ向かい側ではなく、裏切り者は使徒たちの顔の中に紛れ込んで正体が分からないようにしている。ただし、これを見る修道士たちの目にそれがユダであることを気づかせるために、レオナルドはュダを薄暗がりに置いて区別している。神の恵みの光は他の使徒たちの顔を照らしているが、ユダの顔だけは光を受けていない。罪の中に沈んでいるわけだ。それだけではなく、左手でイエスからパン切れを受け取ろうとしている。レオナルドもそうだったが、左利きは、当時、それ以上に否定的なものはないというほど偏見を抱かせる特性とされていた。キリストの言葉に動揺して、イスカリオテのュダはデナーロ銀貨の入った小袋を唐突に手でつかんで隠す。心の高ぶりから腕が塩つぼにぶつかってテーブルの上に転がり貴重な塩をこぼしてしまう。このディテールはまさに巨匠の仕事である。細やかで洗練された手法で、レオナルドは私たちにその突然の動きをあたかも今見てしまったかのように錯覚させる。私だちが見ているのは、それから一〇〇年後にカラヴァッショが表現することになる「その瞬間の動き」ではないが、カラヴァッジョの即時に引きこまれてしまう絵画世界へと続く道は、まさにここが出発点となるのである。

イエスをはさんでテーブルの画面右側には、イスからほとんど飛び上がらんばかりの反応をする三人の使徒の姿がある。大ヤコブは両腕を広げて、間近に迫ったイエスとュダの手の交差を恐怖の面持ちで見つめている。すでに誰が裏切り者であるかに気がついたのだ。フィリポは懇願するようにキリストを見つめ、ほとんど涙を浮かべている。トマスには、レオナルドが自分の絵で使うのが好きなしぐさをさせている。指が天をさしている。これはもうほとんどレオナルドの署名のようなものだ。ただし今回は、その手ぶりが完璧にトマス自身の象徴となっている。彼はその指で数日後にイエスが本当に復活したのかどうかを確かめようとするからだ。これらの登場人物の緊張感は極限に達していて、ほとんどイエスを責めたてようとする勢いだ。それほど動転したように見えないのが、最後の三人、マタイとタダイのユダと熱心党のシモンである。まるでそのテーブルの位置ではイエスの言葉がよく聞き取れなかったかのように、不明な点を明らかにするために協議しているようだ。確かに彼らの顔には他の使徒たちのような恐怖感はなく、どちらかというと疑惑の表情だ。

キリストのそばにいる二つのグループは、テーブルの端にいるグループに比べてよりいっそう不穏なムードを醸し出しているように見える。これは偶然の産物ではない。どうやらダ・ヴィンチは、使徒たちの連鎖反応を表現することで音の伝播現象を実験的に再現したかったようだ。イエスの言葉はすぐそばにいる使徒たちにははっきりと伝わり、即座に反応してテーブルクロスの上にある物をひっくり返したり、驚いて口をぽかんと開けたり、泣き出したりしている。それに反して、テーブルの端には音声が弱くなって届くため、そこにいる者は言葉を聞き逃し、理解のための説明が必要となる。そう、だからこそ小ヤコブはペテロに確認しようとし、マタイは自分の右横に腕を伸ばして仲間に言葉をかけるのだ。「なんとおっしゃったのだ? 私はちゃんと聞いたのだろうか?」レオナルド自身、手稿にメモを残して、構図の秘密を明らかにしている。「わたしは、遠くにある物を少しずつ見えなくなっていくように表現する。ちょうど音楽家の奏でる音が遠くで聴く者に少しずつ聴こえにくくなっていくように」。

ダ・ヴィンチは、サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ聖堂の修道院の壁に、もう一つの、彼の名高い劇場舞台を用意したのであった。使徒たちのしぐさは厳密にコントロールされているか、ごく自然である。完璧な舞台空間を創り出し、そこでキリストは抗いがたい際立った影響力を及ぼしている。その役割は、ただ単に物語に基づくものではなく、とりわけその位置にある。キリストの額の真ん中には、壁画全体を作り上げる遠近法の線が集まる消失点がある。イエスは物語の理想的かつ現実的な基点となっているのだ。物語と絵が完全に一致するのである。食堂の中央から壁画を見た者は、深い奥行きを持つ舞台を前にする感覚を持ったに違いない。そこでは、ちょうど衝撃的な裏切りが明らかにされたばかりだ。レオナルドの生きた時代、床は今より一メートル低い位置にあった。したがって、壁画は、バンデッ口がその著作の中で強調しているように、もっと上にあり、よりいっそう迫りくる印象を与えて抗いがたい魅力を放ったはずである。何人かの研究者は、ダ・ヴィンチが福音書の記述を忠実に尊重しようとしたと力説している。福音書ではコエナクルムは建物の二階にある部屋をさしており、まさにレオナルドが食堂に描いた人物だちが位置する高さにあるからだ。
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ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」

『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』より 人体への飽くなき興味 人間の起源

バランスの探究

 レオナルドがとりつかれていた人体への興味はただちに哲学的内省に結びつく。彼は自分の目で観察したことを述べるだけにとどまらず、宇宙での人間の役割について深く考える。この飽くなき考察が、レオナルドの非凡な精神力を作り上げ、数々の障害も気にすることなく、自分の目で確かめた以上のものを求めて先へ進もうとさせる。

 この頃、レオナルドの探究の本質的な要素となる出会いがあった。一四九六年、数学と幾何学、経済学に精通した修道士、ルカ・パチョーリがミラノにやって来る。のちにルドヴィーコ・イル・モーロに「神聖比例論」を献呈することになるこの偉大な数学者のおかげで、レオナルドはより知的な科学的探究に近づくことができる。パチョーリのそばでレオナルドは自分に欠けていた一連の教養を埋めていき、当時評価されていた優秀な哲学者にひけをとらないほどの理論を初めてまとめることができるのである。

 いわゆる「ウィトルウィウス的人体図」は、科学に関するレオナルドの新たな姿勢を証明するものだ。解剖学と医学の探求から生まれた有名な人体図には、真円と正方形の内側に一人の人間が裸で描かれている。パッと見ると手品のような印象で、人間の胴体に四本の腕と四本の脚があり、それらが真円の円周と正方形の直角部分に内接している。しかし、この奇妙な図の裏には実に多くのことが隠されている。レオナルドの目的は、ュークリッド幾何学のベースであるシンプルな二つの図形の中に人間が完璧に内接するということを証明することだった。真円の中心点には人間のへそを位置させ、正方形の中心点には骨盤の少し上を合わせている。現代では信じられないかもしれないが、これは当時としてはまったく革新的なものであり、新しいものの見方を世に知らしめる始まりとなったのである。

 人体が真円と正方形に内接するという概念は、古代ローマ時代のウィトルウィウスが『建築論』の第三章ですでに述べている。この理論は一四世紀の終わりに芸術家が再発見し、企画立案する際のバイブル的存在になったものだ。ウィトルウィウスは、人間の寸法と形には基本的に幾何学的かつ数学的な比例の法則があることを説いた。要するに、調和は正確に計算できるということである。両腕を横に伸ばした長さは身長に等しく、頭は身長の七分の一にあたる。ラテン語著作家ウィトルウィウスは、あくまでも実用的な目的のために分析したのであって、哲学に導くものではなかった。つまり、この計算法を利用することで、画家は騎士の肖像や聖人像をより完璧な姿にすることができ、彫刻家は巨大な公的事業の作品のバランスに反映させ、建築家は建物の構造において美しい数学的比率を再現できるのだ。ピエロ・デラ・フランチェスカやドナテッ口、レオン・バッティスタ・アルペルティのような巨匠たちは、ウィトルウィウスの法則に忠実に従うことで傑作を生み出している。レオナルドはラテン語が分からなかったが、ポッジョ・ブラッチョリーニのイタリアロ語訳を読んでいたのでこの理論をよく知っていた。そして決定的な一歩を踏み出すのである。トレッツォとカラヴァッジョ(出身地の名前で呼ばれる二人の若者)の身体を正確に測ったあとで、まず人体の比率をきちんと整理する。そして、顔、つまり額の髪の生え際からあごまでの長さは、身長の一六分の一にあたり(ウィトルウィウスの言う七分の一ではない)、足の長さは身長の七分の一であることを明言する。単純に身体の寸法を再計算したものではなく、宇宙の秩序の中での人間の役割を説明しようとする小さな革命である。

 ダ・ヴィンチは、自然界に存在するあらゆるものを支配する比率、すなわち黄金比に従って人体の各パートが発達することを示す。植物や花々、木々や山の寸法さえもこの計算法則に従って存在し、黄金比は、すべての命ある完璧な創造物の大きさのベースとなっているのである。一五世紀の人々は宇宙に存在する万物の生命の秘密を説明し得る法則を追い求めていた。そして、黄金比はバランスに関するすべての疑問に対する答えのように思われた。芸術家は、形を丹念に作り上げるための不変の基準点としてこの数字を活用する。「ウィトルウィウス的人体図」は、この法則に沿いながらも、人体が真円と正方形の両方同時に内接できるという結論にレオナルドを導くのである。その時代、真円と正方形という二種類の幾何学的図形は天と地を示していた。つまり、それら二つが一緒になることで宇宙を表わすのだ。人間はそのいずれにも完全に収まる。そして、その中心に位置するのである。

宇宙の中心

 この証明が持つ価値は天地がひっくり返るほど強烈なものだった。世界の中心にいるのは、もはや神ではなく人間だ。中世の見方からの完全な脱皮である。

 実は、この理論はその数年前からささやかれていた。むろんレオナルドが最初に考えたわけではないが、「ウィトルウィウス的人体図」を描くことで理論を具体化し、誰もが認めるものにするのだ。これは、図書館にある多種多様な論文や哲学的対話集よりもはるかに説得力がある。これこそが、現代に至ってもなお、この人体図がルネッサンスのイコンと見なされる理由なのである。それは、ルネッサンスの本質を完璧に表現している。バランスを称賛し、人間を中心に世界が動いていることを証明するものなのである。

 人体図の描かれた紙葉が精密で綺麗なことから、研究者は、レオナルドがこれを論文の表紙に使うつもりだったのではないかと仮定している。おそらく、解剖学の本をまとめる際に使いたかったものなのだろう。しかし本が世に出ることはなかった。それでも、ダ・ヴィンチは、一生をかけて人体の探究を続け、たとえそれが系統的なものではなかったにせよ、必要不可欠な外観の考察に始まり、より科学的なものへと移っていく。表面から少しずつ人体の内部へと入っていくのである。まさに世の中に知らしめるためであるかのように、それぞれの解剖図にはかなり詳細な説明書きがつけられていて、そこには驚くほど現代的な見解が書きとめられている。
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本は時空を超越する道具

『ひとりを怖れない』より

存在するだけで承認されている

 私には居場所かない--。

 こうした負の感情は孤独感から生まれます。孤独感は分離感、つまり自分か誰ともつながっていないという哀しみの感情から生まれます。本当は魂で皆つながっているのに。

 孤独感か強くなると生まれるのか「承認欲求」です。

 これは誰かに、社会に認められたいという欲望です。認められたいとあがき続けるのは、そうでないと自分の居場所かどこにも確保できないという恐怖心からです。

 私たちはそこに存在するだけで、この世のすべてからすでに承認されています。

 まずその前提を知ることか大切です。

 何かすごいことを、誰かか喜ぶようなことをしないと、自分という存在の居場所がどこにもないわけじやありません。こっちの世界に生まれた時点で、すべてのひとに最初から居場所があるのです。居場所はそのひとか、今立っているところです。

 また、分離感か強いひとは、言葉に過剰に反応します。

 でもひとか口に出方一言葉なんてコロコロ変わります。昨日はAと話していたのに今日はB、明日はCかもしれません。

 ひとの思いは移り気です。コロコロ変わる気持ちに承認してもらおうと考えるのは、土台無理があります。

本は時空を超越する道具

 私は読みなから、重要な部分に線を引いたり付箋をつけたりしますか、そんな時間はまさに至福の時間です。

 本は、すでにこの世にいない著者ともつながることかできる「時空を超越する道具」です。時間と空間を軽々と飛び越え、本を書いたひとと自分か意識を共有し、一対一の対話かできる大変便利な道具、それか本です。

 本はしゃべりませんが、自分の中にある疑問、あるいはモヤモヤする情報を、解決してくれることかあります。

 本は動きませんか、私たちが考えたり動いたりするための「きっかけ」を与えてくれます。
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プトレマイオスと学術都市アレクサンドリア

『128億年の音楽史』より 宇宙という音楽 はじめに「音」があった ⇒ ビッグバンから137億9千万年だから、切り上げて138億年と言っている。1千万年ってすごくない。

プトレマイオスと学術都市アレクサンドリア

 舞台は、二世紀のアレクサンドリア。ここで十数年間、星を眺めていたことだけが伝えられる、ひとりの男がいる。その名は、クラウディオス・プトレマイオス。彼については、生年も没年もわかっておらず、ただ一二七年から一四一年にかけて、アレクサンドリアで天文観測を行った記録が残っているだけだ。わずか十数年間、星を眺めたことだけで知られる男とは、なんともカッコいいではないか。

 アレクサンドリアは、地中海の知の聖地であった。世界中からありとあらゆる叡智がここに集結した。古代世界最大の学術都市は、ローマでもアテナイでもなく、アフリカ大陸の地中海沿岸に、紀元前四世紀に建設された都市、アレクサンドリアだったのだ。

 この街の象徴は、世界七不思議のひとつに数えられたフアロス島の大灯台と、アレクサンドリア宮殿に付随するムセイオンと呼ばれた研究機関と図書館。当時地球上で最も高い建造物といわれたフアロス灯台に導かれて、港には世界中からあらゆる交易品が運び込まれ、研究機関ムセイオンには、世界中から選りすぐりの知性が集結して、互いに切磋琢磨しながら研究が行われていた。研究者は、エジプト人、ギリシャ人、ローマ人、ガリア人、バビロニア人、ペルシャ人、ユダヤ人、フェニキア人など。研究分野は、幾何学、天文学、音楽、哲学、工学、医学、解剖学、占星術、地理学、神学、錬金術など。まさに古代世界最大の知のシンクタンクである。

 アレクサンドリア図書館には、遠くはインドからも文字で書かれたものはすべて収集されたという。最盛期の蔵書数は約七〇万冊。まだ印刷技術もない紀元前の話だということをお忘れなく。創設から七世紀という永きにわたって、この図書館は、世界一の知の宝庫であり続けた。この地位は、アレクサンドリアがローマ帝国に支配されたのちも変わることはなく、ローマにとって、この街は「知恵袋」ともいえる存在だった。たとえば、カエサルがローマで制定したユリウス暦(一年をはじめて三六五日とした画期的な暦)は、アレクサンドリアのムセイオンで、ソシゲネスの研究によって発明されたものだ。

 もし、この図書館がなければ、ピュタゴラスだけでなく、ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、彼ら古代ギリシャの賢者たちの業績は、歴史の闇に永遠に消え去っていたかもしれない。そうなれば、いまのヨーロッパが誇る知の体系の根幹はどうなっていたことか。

プトレマイオスとハルモニア論

 プトレマイオスが古代天文学の完成者といわれるのは、宇宙のすべての運動について、完全な説明を加えることができた最初の天文孚者だったからだ。彼による精緻な宇宙モデルは、コペルニクスの地動説が出現するまで、じつに二四〇〇年以上にわたって西洋天文学のスタンダードであり続けた。

 アラビア語で「もっとも偉大なもの」を意味する『アルマゲスト』という名で知られる、プトレマイオスの天文学書には、四八の星座を構成する一〇二二個もの星の膨大なデータが収められているという。この驚異的な情報量と緻密な宇宙モデルは、天文学者としての彼の功績には間違いないが、それを支えた当時のアレクサンドリアの天文学界のレベルが、いかに高かったかを示している。

 彼の地理学者としての名声も特筆すべきものだ。特に、都市の緯度と経度が記された史上初の地理書といわれる『ゲオグラフィア』の奇跡的な発見の物語などは、まるで歴史ミステリーだ。本題から逸れるので、簡単なあらすじだけを書いておくと、『ゲオグラフィア』は、世界中のあらゆる都市の地理的特徴が網羅された奇跡の書と伝えられていたが、アレクサンドリア図書館の破壊によって写本も失われたと思われていた。ところが、十数世紀を経て、遠く離れたコンスタンチノープルで東方正教会の修道士に発見され、大航海時代を迎えようとしていた中世ヨーロッパにラテン語訳がもたらされると、その地理学的思考に革命をもたらし、まさに時代の「道しるべ」となったのだ。

 そして、もう一冊。最晩年のプトレマイオスが書いた未完の書が『ハルモニア論』である。このなかでプトレマイオスは、彼自身が「完全音階」と呼んだ惑星音階のシステムから天体運動の原理を解明しようとした。簡単にいえば、太陽の軌道(黄道十二宮)を音階の一二の音に対応させようとしたのだ。この書の冒頭で、プトレマイオスは「ハルモニア論は、さまざまな音の高さの差を把握する能力である」という、あっけないほど簡単な定義を与えているが、彼が描いた宇宙モデルは、シンプルな定義とは対照的に、極めて精巧で複雑だ。たとえば、地球を中心に円運動をする天球層のほかに、各々の惑星が個別に円を描く周転円を組み合わせた複雑な惑星運動モデルが構築されているが、その結果、じつに八〇もの天球層を持つ、複雑な宇宙モデルとなっている。

 のちに、このモデルをもっとシンプルにできるはずだと考えたコペルニクスが、別の宇宙モデルを模索するなかで「地動説」の発見につながったというエピソードもあるが、この『ハルモニア論』に触発されて、プトレマイオスから、ピュタゴラス、プラトンまでを包括した天球の音楽史に燦然と輝く体系を確立させたのが、一六世紀後半に登場したヨハネス・ケプラーである。

悲惨と飢餓を歌う地球

 ケプラーの生涯は、嵐のような宗教闘争の真っただなかにあった。彼が生まれたのは、一五七一年一二月二七日午後二時三〇分。母親が彼を身寵もったのが、同年五月一六日午前四時三七分。胎内にあった時間は、二二五日と九時間五三分。これはすべてケプラー自身の記録に基づくもので、ホロスコープによる緻密な計算と、正確さを追求する姿勢は、いかにも計算に細かい天文学者らしいといえるが、見方を変えれば、ただの変人である。

 プロテスタントだった彼は、カトリックのプロテスタント弾圧により、幾度となく職を剥奪され、街を追われるという苦い経験を味わう。歴史の教科書では、一五五五年のアウクスブルクの和議によって、プロテスタントがドイツ地域で容認されたことになっているが、実際には、各々の信仰が容認されたのは領主だけで、領民たちは領主の選択に振り回されるという混乱のなかにあったという。ケプラーが生まれた翌年には、フランスで聖バーソロミューの虐殺という、大勢のプロテスタントがカトリックによって虐殺されるという凄惨な事件も起きている。

 同じキリスト教から分裂した両派は、まるで不倶戴天の仇のような泥沼の闘いのなかで、ヨーロッパを混乱の渦に巻き込み、社会は疲弊していく。その暗澹たる時代を象徴するかのような記述が、『宇宙の調和』のなかに見られる。惑星の極限運動(遠・近日点の両極運動の意)を旋律のような音型に置き換えて解説している部分である。

 たとえば、地球は、MI FA MI(ミ・フア・ミ)という音型で表されるが、これについてケプラーは「地球は、ミ・ファ・ミと歌うので、この音節からも、われわれの住む地が、悲惨と飢えに支配されていると考えられる」と解説している。これは「ミ」と「ファ」のふたつが、ラテン語で「悲惨」を意味する「miseria」と、「飢餓」を意味する「fames」の頭文字であることからきている。

 晩年、ケプラーは死の床で「私はプロテスタントとカトリックを取りまとめるためにできるだけのことはした」と語ったと伝えられるが、それを聞いたプロテスタントの牧師は「キリストとサタンを和解させるようなものだ」と冷たく答えたという。このケプラーのことばに、なぜ、彼が自身の思索の集大成として『宇宙の調和』を自身の天文学体系として著そうとしたか、その意図が隠されているような気がする。

 『宇宙の調和』を執筆中のケプラーは、魔女の疑いで告発された母親のための裁判や、娘カテリーネの死、教会からの破門という嵐のような現実のなかを生きていた。この本は、一般には「惑星の公転周期の二乗と太陽からの平均距離の三乗は比例する」というケプラーの第三法則が示された書として理解されている。だが、天動説から地動説へという、それこそ天地がひっくり返るような激動の時代にあって、宇宙と調和という古代宇宙論から近代天文学を貫くテーマによる天球の音楽の体系書としてあらためて読み解けば、宇宙をひとつのシンフォニーと考えた彼の壮大な構想が透けてみえてくるように思える。

 ケプラーにとって、音楽とは何か。もし、この問いを本人に投げかけてみたら、きっと「調和そのものである」という答えが返ってくるに違いない。
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株式会社の弱点

改憲の目的

 改憲の目的は9条「戦争放棄」と21条「表現の自由」。その先にあるモノは明白です。表現を制約して、戦争をするため。勝てそうもないし、勝ってもどうしようもないのに。アメリカとの関係でこれらは決まる。国民は関係なくなっている。日本の国民は国家に従属している。

 だけど、トランプのように、アメリカは離れたくなっている。そうなると話は変わります。日本の核武装が焦点になる。戦争の前提は核の有無です。北朝鮮が存在できているのは核を保有しているからです。通常兵器は意味をなさない。

政治の株式会社化

 株式会社の仕組みが政治にドンドン適用されている。ハイアラキーの思想です。自行程完結で、全体を知らなくても、回るやり方です。何も考えない指導層の考えを国民に適用させていく。そこにあるのは、全体主義的な効率化です。ハイアラキーそのものです。それぞれが個別なことをさせない。

 ナチは効率化で、ユダヤの貨物移送にIBMのパンチシステムを採用した。データ上ではユダヤ一人ひとりの移送費用をドイツ国鉄に払っていた。

株式会社の弱点

 株式会社に大きな弱点があります。そこで考える人間を疎外できない。これが簡単に抹殺していた、ナチとかポル・ポトとの差です。考えない人間のレベルを上げるぐらいしか出来ない。考えない連中を組織の上に持ってくることは彼らの権限で出来る。考える人間を素撫すことが出来ない。

 それは会社間の競争があり。イノベーションが必要です。それを生み出すのが、考える人間への自由です。それが原動力だから。考える人間が居て、はじめて組織は機能します。新しいことが出来ます。イノベーション出来ます。組織を守るだけの人間だけでは、組織は守れない。

 政策決定しても、それを守っていれば、組織は活性化できるかというとそうではない。それぞれが政策を気にせずに立ち入るから出来るのです。

 この弱点を活用して生きてきたので、比較的に自由にやってこれた気がする。本来何をすべきかを考えれば、人もお金もシステムも付いてくる。

技術者が従うモノ

 エンジンの開発も一緒です。単純に守っているだけなら、ドンドン古くなります。そこにイノベーションを与えるのが技術者です。技術者の考える範囲は限定できない。それをF3Eで習った。自分のテーマは自分でやるしかない。

 上からの指示、社長からの指示は意味をなさない。現場から発想するしかない。分かっているのは、自分たちだから。

販売店の活力

 販売店での活力がメーカーの活力になればいいけど、メーカーはバカだから、販売店は生きていくためには、販売店は勝手なことをするしかない。メーカーが販売店に寄り添えば、全国レベルの活動になり、個別よりも何十倍にもなるのに。

 地域のオーソリティになった販売店は地域のために動くことではじめて、存在が認められる。そして、市民から援助が得られる。販売店は自分たちのアイデアを実行できる部隊を持つ。それの一番大きなモノがシステムです。

国家の株式会社化

 国民国家に株式会社を活用する試みは2000年のブッシュから始まった。その発想はトランプに生きている。何しろ、株式会社のトップだから。

大学を株式会社化

 大学を株式会社化している。教育を変えるにはどうするのか。これをどうするのか。地域から新しい組織に変えていく。地域はあくまでも生活のための場で、発想が会社とは異なります。

 その発想の原点は、何のためにそんなことをするのか、何のために生きているのか、というところです。大学も何のために存在するのかを考えると、効率化している場合ではない。自己評価を下げさせて、適当に使うというのが、今のやり方。99%に対して、それを行なっても、1%でイノベーション出来るというのか。

英語を社会公用語にする魂胆

 社内公用語を英語にする理由は、ベトナムとかフィリピンの英語を使う、高い能力者を集めることで、全体のコストを下げるのが移民の考え方。

 これを発見したのはユニクロです。日本国内で見ている限り、このトリックには気づかれない。知らない間に「国際企業」になっている。日本を出て行くよりも、英語を使える人材を安く使おうという魂胆。

消費者民主主義からの脱却

 消費者民主主義では、商品購入でしか自分らしさを発揮できないと臣事させる。それは教育システムのカタチです。

 教育行政の狙いは金儲けのために、最適なシステムを作ることになっている。本来の市民的な成熟を求めていない。これを突破できるのは、図書館です。教育委員会の支配から脱却しないと実現できない。

 この教育システムでは何が達成できるのか。何のために存在するのかというところに戻ればいいだけです。これが存在の力です。津波が来たときにどのようにして命を守るのか? 逃げられる者から逃げる。これが現時点での対処方法です。
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