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OCR化した7冊

『特別の教科 道徳Q&A』

 どうして今、道徳教育なの?

 今の子どもたちにはどんな未来が待っているの?(子どもたちが生きる未来社会)

  さらに進む少子高齢化

  二○年間で倍になった海外在留邦人

  技術革新が変える働き方と社会

  予測困難な時代を生き抜くための道徳教育

 未来を生きる子どもたちはどんな力を身に付けれはいいの?(成熟社会で求められる力)

  学校教育において身に付けるべき力

  自ら課題を発見し、解決する

  道徳の教科化の方向性

 学校教育も変わっていくの?(学校教育における不易と流行)

  これからの時代を見据えた学校教育のあり方

  進化する学習指導要領

  次期学習指導要領の改訂

  次世代の学校・地域創生の実現

  高大接続について

 そもそも道徳って何?(道徳の定義)

  道徳の多様性

  自由だから道徳がある

  幸福を創るカに

 道徳は、家庭や社会で身に付けるものじゃないの?(社会全体で進める道徳教育と学校教育の役割)

  社会全体で進める道徳教育

  家庭、地域とどう連携・協力するか

 道徳よりも学力の方が大事じゃないの?(道徳と学力)

  そもそも学カって何?

  見える学力と見えない学力

  学ぶことと生きること

 道徳教育は「いかに生きるべきか」に答えてくれるの?(生きる力を育てる道徳教育)

  みんなで考えを深める時間

  道徳は道徳的な問題について考え、議論する時間

 今までと違う道徳教育が必要なの?(道徳教育の使命)

  道徳教育の使命は変わらない

  考え、行動する資質・能力の育成を

 学校の道徳教育は、いじめにどう向き合うの?(いじめ問題への対応

  いじめ防止は道徳教育の責務

  正面から、自分たちの問題として取り上げる

 外国にも道徳教育があるの?(諸外国の道徳教育)

  道徳の授業が外国にもあるの?

  道徳か宗教か

  「考え、議論する」授業が主流に

『ポスト人口転換期の日本』

 縮減する社会をどう捉えるか?

  人口成長から人口縮減へ

  従属人口指数の推移

  長寿化と少子化の影響

  日本の人口転換における長寿化と少子化の作用メカニズム

  「縮減する社会」の危機

  社会システムの持続可能性

『核の脅威』

 激変(一九五八年)

  全能によって大国に

  核による全体主義

  政治的なものの終焉

  われわれが全能なのは、われわれが無力だからである

『哲学の始原』

 ソクラテスという人物と彼の哲学

 ソクラテスの問答

 プラトンが理解したソクラテスの問答

『旧約聖書の世界』

 アブラムの旅立ち 創世記

 故郷を出るアブラム

 神との契約 創世記

 神の使い

 ソドムとゴモラ 創世記

 殲滅する神

 ハガルとイシュマエル 創世記

 荒れ野の民の父となるイシュマエル

 アブラハムとイサク 創世記

 アブラハムを試す神

 イサクの嫁リベカ 創世記

 神との約束によって得る妻

『哲学のメガネ』

 経験のさらに前提にあるものを探るのが哲学である

 存在というもう一つのパラドクス

 道徳が良心となるために宗教があった

 宗教に頼らず道徳を身につける方法もあった

 生きているからこそすべてはある、という新しい世界観

『インド現代史』

 プロローグ--不目然な国

 エピローグ--インドが生き残る理由
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インド現代史 エピローグ--インドが生き残る理由

『インド現代史』より

もしインドがざっと見て五〇パーセントの民主主義国であったなら、その統一はだいたい八〇パーセン卜というところだろう。カシュミールと東北インドの一部は政治的独立を要求する反乱勢力の支配下にある。一部の中央インドの森林地帯は毛沢東主義の革命家によって握られている。しかし、これらの地域は、それ自体としては広いにしても、インド国家の主張する全領土の四分の一をかなり下まわる。

インドの五分の四以上の領土では、選挙で選ばれた政府が権力と権威の正当性を享受している。この領域内では、インドの市民は生き、学び、仕事をし、ビジネスに投資する自由がある。

インドの経済的な統合は、政治的統合の帰結である。両者は相互補強的な循環の関係にある。インド全域にわたり、物や資本や人間の移動が活発であればあるほど、これにより結局は一つの国であるという意識が強まるだろう。独立後の最初の一〇年は、国営企業がこうした統一感を強化するうえでもっとも貢献した。ビラーイーの大規模な製鉄所のようなプラントでは、アーンドラ出身者がパンジャーブやグジャラートからの出身者と並んで働き、生活し、かれらがみな同じ国民の二鄙だという事実を実感しつつ、他の言語、習慣、料理などへの理解を深めた。人類学者のジョナサンーパリーが論じるように、ネルー的な想像力のなかでは、「ビラーイーとその製鉄プラントは歴史の松明をかかげ、鉄を産み出すだけでなく、新たな種類の社会を産み出すものとしてみなされた」。この試みは失敗ではなかった。ビラーイーで生まれ育った第一世代の労働者の子供たちの間では、州に対する忠誠よりは、より包摂的な愛国主義、「よりコスモポリタンな文化スタイル」が優越していた。

より最近では、これほど強烈ではないにせよ、民間セクターが国民統合のプロセスをうながした。タミル・ナードゥ州に本社のある会社がハリヤーナー州にセメント・プラントを建てる。アッサムで生まれ教育を受けた医師がボンベイで病院を開業する。ハイダラーバードのIT技術者の多くはビハール州からやってくる。移動は専門職種に限られない。ウッタル・プラデーシュ州の床屋が、ラージャスターン州からの大工とともに、バンガロールで働く。しかし、流れが対称的ではないことは指摘する必要がある。「ブーム」の都市や街がよりコスモポリタンになる一方、経済的に置き去りにされた州はますます深く州優先主義にはまり込むのである。

独立インドは、考えようによれば、ヨーロッパの過去であると同時に未来でもある。それは、近代化、工業化そして都市化社会の矛盾を、より強く激しいかたちではあるが、再現しているという点において、ヨーロッパの過去である。しかし同時にそれは、多言語、多宗教、多エスニックな政治経済共同体を創り上げようとするヨーロッパの努力を、この半世紀の間に先取りしたという点で、ヨーロッパの未来でもある。

あるいはインドは、「この惑星の最初の多エスニックな民主主義国」と正当にも讃えられるアメリカと比較できるかもしれない。アメリカの約二世紀のちに生まれたインド共和国は、今日では、最大の多エスニックな民主主義国であると安んじていうことができる。しかし、それぞれを構成するエスニシティ間の関係を規定する(もしくは緩和する)手法は、いくぶんか異なっている。なぜなら、サミュエル・ハンチントンが最近になって論じたように、アメリカ国民は、「キリスト教、プロテスタントの価値と道徳原理、勤労倫理、英語、法と秩序それに政府の権力の限界に関するイギリスの伝統、さらにヨーロッパの美術、文学、哲学そして音楽の遺産」を含む「中心的な要素」からなる「信条的文化」によって一体となっているからである。まさに、「二十世紀において、パキスタンとイスラエルが、その根拠の一部として、それぞれムスリムとユダヤ教徒の社会として創造されたとまったく同様に、アメリカはプロテスタント社会として創造された」のであった。

アメリカはいうまでもなく、移民からなる国民である。この国の歴史のほとんどの時代を通じて、新たな集団が到来しては、支配的な文化と融合した。ハンチントンは、「アメリカ史を通じて、アングローサクソン・プロテスタントでない人々は、アメリカのアングロ・プロテスタント文化と政治的価値とを採用することでアメリカ人となった」と書く。しかし、近年のより新たな移民のグループは、かれらの固有のアイデンティティを維持しようとしている。その最大のものはヒスハニックで、かれら自身の飛び地に住み、自らの食べ物を料理し、自らの音楽を聴き、自らの信仰に従い、さらにもっとも重要なことは、自らの言語を話す。ハンチントンは、もしこれらの集団を早急に同化させなければ、かれらは「アメリカ全体を二言語、二文化社会に変換する」であろうと危惧した。

同化の古いモデルであるアメリカ・モデルは「メルティング・ポット[るつぼ]」と呼ばれてきた。個々の集団は、るつぼにそれぞれの香りを投げ込み、そこから単。の、同じ味のする飲み物を味わう。いまや、アメリカの社会と国民は、それぞれのグループが、その外見においても行動においても、はっきりと目立ち、異なり、区別される「サラダ・ボウル」に類似してきた。

ハンチントンはサラダ・ボウルの理念にはまったく関心がない。かれにとって、アメリカは、かつても今後も、永遠に「単一の深く浸透した国民文化をもつ社会」でなければならない。かれは国民が脅威にさらされたとき、アメリカ人はこの文化に強く同一化すると見ている。戦争は国民の団結だけでなく、文化的統一をもたらすのである。もともとのアメリカの信条は、土着のアメリカ人、イギリスの植民者、そして南部諸州との戦争の結果として創り上げられた。9・H同時多発テロ事件は、またしても愛国主義と国民的団結を前面に押し出した。このエネルギーの散逸を危惧するハンチントンは、かれの考えによれば「わが国の統一と力」の源泉であるこの信条に、徹底的に立ち戻るよう、要請するのであび。

興味深いことに、ハンチントンの見解に共鳴しているのは、オーストラリアの首相ジョン・ハワードの最近の声明である。この国もまた、当初はほとんどがヨーロッパ人であったが、近年ではよりはっきりとアジア的な性格をとる、何次かにわたる移民の波にさらされてきた。ハワードは複数の文化がオーストラリアにおいて共存する可能性を否定する。「あなたがたは支配的な文化をもたねばならない。われわれの文化はアングロ・サクソン文化、一言語、一文学、一制度であび」とハワードは主張した。

ハンチントン・ハワード流の理屈は、もちろん、インド史を学ぶものには、じつになじみ深い。インドでは、そうした考えはM・S・ゴールワルカルのような政治イデオローグや、ジャナ・サンガおよびBJPのような政党によって主張されてきた。かれらは、インドは「支配的文化をもたねばならない」と主張し、この文化は「ヒンドウー」文化であるとする。実際には、こうした見解は、インド国家の創設者たち、インド憲法の起草者たち、さらには独立後の最初の数次の政権を指導した人々によって受け入れられなかった。こうしてインドは、るつぼであるよりはサラダ・ボウルの国民となったのである。

インドはこの歩みを続けてきた。宗教的、言語的多様性、まさにハワードやハンチントンが国民の生存と団結に有害とみなしたところの多様性を維持してきた。イスラエルやパキスタンのように、特定の信仰や特定の言語をもつ市民を有利に扱うことによって、異なるもう一つ道を歩ませようとする圧力に、インドは抵抗を続けてきたのである。
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インド現代史 プロローグ--不目然な国

『インド現代史』より プロローグ--不目然な国

キプリングがインド文明の古臭さを強調しているのに対して、他の植民地主義者は同じ結論に至るために、インド人の心性の未成熟さを強調した。いずれにせよ、インド人は自己統治ができないというのである。インド滞在歴四〇年の、あるクリケット選手兼茶園主はこう主張する。

 原住民たちに自分らの始末を任せるといった馬鹿げたことをわれわれがしようものなら、混沌がインドを支配する。とんでもない。混乱、へま、失政のまぜあわせ、それどころでない惨状が、たちどころにやってくる。われわれが導きさえすれば、この巨大な民はどこへなりとも行き、何なりとも成し遂げられるのだ。かれら自身は、統治や政治に関してはいまだに幼児である。いわゆる指導者連中はそのなかで最たるものだ。

この類の発想はインドだけでなく本国のイギリス人の間で広く見られた。政治的には、これら「ストレイチー主義者」のなかでもっとも重要であったのは、間違いなくウィンストン・チャーチルであった。インドの独立が最終コーナーを曲がろうとする一九四〇年代、自分は英帝国の解体をとり仕切るために国王陛下の首席大臣になるつもりはないと、チャーチルは豪語した。

その一〇年ほど前、チャーチルは、インドの自治への反対論を、下降線にあったかれの政治生命復活の踏み台にしようとした。一九三〇年に行われた塩税に抗議するガンディーの「塩のサティヤーグラハ[不服従運動]」以来、イギリス政府は植民地自治領の地位を付与する可能性をめぐって、インドのナショナリストと交渉を開始した。地位の定義も明確でなく、実施の時期も明示されないままではあったが、それでもなおチャーチルはこの構想を「それ自体において夢想的であるばかりか、その効果において犯罪的なまでに有害である」と批判した。インド人は自治に適さないのであり、そのような可能性を阻止するために、「英帝国の冷静かつ決然たる力」を駆使することこそが必要なのだ、と述べた。

一九三〇年から三一年にかけて、チャーチルはインド独立に反対する支持層の喚起を狙って、はなはだ冷静ならざる表現を用いて、数多くの演説を行った。一九三〇年一二月、ロンドン市の聴衆に向かって、かれは、かりにもイギリスが亜大陸から撤退すれば、ヒンドゥー教徒の武力支配を確保するためには、必要とあらば、ドイツ人を将校にまでして白人近衛兵が雇われることになるだろうと語った。その三ヵ月後にはアルバート・ホールにおいて、かれの縁戚でもあるマールボロ公爵を司会に「インドに対するわれわれの責務」と題する講演を行い、「(会議派を牛耳っているとかれが考えた)バラモンの支配の前に、インドを投げ出すことは、残忍かつ悪質な過誤行為となろう」と主張した。もしイギリスが撤退するなら、かれらによって築き上げられた行政機構の総体、司法、医療、鉄道、公共事業などの部局すべてが崩壊し、「インドは何百年かのうちに、中世的野蛮と欠乏に、一気に逆戻りするであろう」と予言した。

ウィンストン・チャーチルの発した警告から一五年後、イギリスはインドを立ち去った。野蛮と欠乏の時代はたしかに続いたが、その責任が誰にあるかについては、大いなる論争の余地がある。しかしながら、ある種の秩序は保たれた。平和を維持するためにドイツ人は必要としなかった。ヒンドゥー教徒の支配も、それが仮にあるとしても、武力によってではなく、普通成人選挙権にもとづいた定期的な選挙によって維持された。

しかし、インド独立後の六〇年を通じて、インドがいつまで統一を保ち、民主主義の制度と手続きを維持し続けられるのかについての憶測は絶えなかった。首相の死去のたびに、軍事支配が民主主義にとって代わると予言され、モンスーンの不調のたびに全国的な飢饉が予期された。そして新たな分離主義運動が発生するたびに、統一体としてのインドの終焉が予見された。

こうした終末論者のなかには、一九四七年以降は、イギリス人というよりも、多くのアメリカ人著作家がいた。注目すべきなのは、インドという存在が、その場限りの観察者や通り一遍のジャーナリストにとって謎だっただけではなく、アカデミックな政治学者にとっても例外的存在であったことである。なぜなら、かれらの定理によれば、文化的な異質性と貧困は、国民を、ましてや民主主義を育成しないからであった。インドが「民主主義制度を維持できるという可能性は、外見上きわめて低いように思われる」と政治学者ロバート・ダールは言い、「そのための有利な条件にすべて欠けている」とも言う。また他のアメリカ人学者は「インドは社会科学の一般理論を拒否することで定評がある」としたうえで、「にもかかわらず、本論の所見はインドにおける民主主義の存続可能性への疑念を根拠づけるものである」と書いている。

本書のそこかしこには、インドの差し迫った解体や、無秩序や権威主義支配への転落への予言が散りばめられているが、ここでは、インドヘの共感に満ちた観察者であるイギリス人ジャーナリスト、ドン・テイラーの予言を紹介するにとどめよう。執筆は一九六九年で、すでにインドは二〇年にわたり統一を維持し、四回の総選挙を経験したのちのことである。それでもなおテイラーは、こう考える。

 核心にある問題は同じだ。インドは一体として存在し続けるのか、分裂するかだ。この広大な国、五億二四〇〇万人の人口、一五の主要な言語、相対立する宗教、多数の人種、これらを見るだけでも、一つの国民が生まれるとは信じがたい。

 この国は、心のなかに収めきることすら難しいのだ。威容を誇るヒマラヤ、太陽に焼き焦がされ、強烈なモンスーンに叩かれた広大なインダス・ガンジス平原、東部デルタの緑の洪水、カルカッタ、ボンペイ、マドラースの大都会、とても、一つの国とは思えない。にもかかわらずインドには、その存続を保証するかに見える強靭さがある。インドの精神としか呼びようのない何ものかがある。

 アジアの運命はその存続にかかっているといっても過言ではない。私はそう信じてる。心がインドの生存を願っても、頭はそれを懸念する。インドはあまりに複雑で混沌としている--一つの国民、それはいってみれば不自然なのだ。

事実、国が生まれてこのかた、インド人のなかにもインドの存続を疑問視するものは少なくなかった--あるもの(愛国者)は危惧の念から、そしてあるもの(分離主義者や革命家)はそれをむしろ期待して、外国の同調者とおなじく、かれらはインドが一つの国民としてはあまりに多様であり、民主主義を維持するにはあまりに貧しすぎると信じたのである。
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未唯宇宙のコンテンツ

未唯宇宙のコンテンツ

 菅谷さんの「未来を作る図書館」をアップしたのは、2004年の4月4日でした。そこまで、たどり着きました。まあ、わかりやすいですね。4.4.4です。しあわせ(四合わせ)ですね。

 同じ頃に、ジャグリングの本を借りています。2005年の1年前です。ボランティアで参画するための手段として、ジャグリングを考えました。ものにはなりませんね。

 未唯宇宙の本からは、この12年間の私の興味が分かります。

行動の連続性

 やはり、連続性の中に居ないと行動できない。
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