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OCR化した11冊

 『ツイッターの心理学』

  人びとの「つぶやき」のわけ--情報発信手段としてのツイッター

   オンラインでの情報発信動機

    場に向けて情報発信する動機

    個人的空間に情報発信する動機

    場の解体されたサービスヘの情報発信動機

   ツイート内容の定量的把握

    ツイートの種類

    オリジナルツイートの内容

   「つぶやき」を生み出す感情

   「つぶやき」のコンサマトリー性とカタルシス性

    コンサマトリー性の動機を満たすツイート内容

    カタルシスをもたらすツイート内容

   「つぶやき」の理由や意図

    「つぶやき」の想定読者

    ツイートする理由や意図

    特に目的なくなされる「つぶやき」

   10代利用者の「つぶやき」の理由や意図

   「つぶやき」の理由や意図に関するまとめ

    ツイートの頻出語と感情に関するまとめ

    ツイート内容と投稿理由の関係

    七つの「つぶやき」のわけ

    ツイッターにおける他者への期待

  ソーシャルメディア時代のオンライン世界の今後

   メディアの「境界線」の溶解と娯楽への傾斜の可能性

   カスタマイズ可能性と永続的個人化の行く末

   ネットワーク化された個人主義と新しいデジタルデバイド

   発信コストの闘値を超えた低下とコンテンツの行く末

   オフライン世界と切り離されたオンライン世界の意義

 『ファイナンスの哲学』

  資本(capital)/資本主義(capiitalism)

   ファイナンスにおける資本

   資本の定義

   「資本主義」という言葉

   資本主義の起源

   資本主義はどこまで拡大するのか?

   資本主義の暴走は止められるか?

  新しい資本主義社会の可能性を求めて

   現代の経済学と社会との関わり

   新自由主義(ネオリベラリズム)とは何か?

   新自由主義の限界を超えて

   哲学や社会科学からのアプローチ

   リーマンショックは終わっていない

   社会的正義の実現と教育の役割

 『世界「最終」戦争論』

  帝国再編とコミューン型共同体の活性化

  国民国家が解体し、世界は帝国化する!?

  帝国再編のコスモロジーと宗教

  コミューン型の連合体を基軸に

  グローバリズムの凋落はあり得るか?

  難民が帰属感を得られる共同体支援は?

 『ミニマム子育て』

  プロセス--さあ、はじめましょう

 『今日から役立つケアプラン』

  ケアの実現のためのケアプラン

   サービスを具体化するためのプラン

   アセスメントのあり方で決まる

   基礎となるのはアセスメント

   アセスメントの考え方

   「いいとこ探し」のアセスメント

   ケアプランの10原則

  在宅ケアにおけるケアプラン

   介護を家族のみに頼れない

   介護の長期化・重度化

   介護者の高齢化

   家事機能の低下

   家庭内介護力の低下

   家族の介護意識の低下

   医療の支援不足

   地域包括ケアシステムの実現

   経済基盤の脆弱化

   住宅構造の不備

   地域からの孤立化

   認知症・1人暮らし高齢者の増大

   在宅ケアのプランづくり

   アセスメントが重要になる

 『刑法総論講義案』

  原因において自由な行為

   原因において自由な行為の意義と問題点

   原因において自由な行為をめぐる学説の状況

    原因行為が実行行為であるとする考え方

    結果行為が実行行為であるとする考え方

   原因において自由な行為に関する判例の状況

    原因行為時の故意と結果行為時の故意とが連続している場合

    原因行為時に故意があるものの、その故意と結果行為時の故意とが連続していない場合

    原因行為時に故意がなかった場合

    実行行為継続中に心神喪失又は心神耗弱の状態に陥った場合

 『公立図書館の無料原則と公貸権制度』

  アメリカ合衆国に誕生したパブリック・ライブラリー要件

   パブリック・ライブラリーの成立

    成立の過程

    成立に関する要因

   パブリック・ライブラリーの要件

   公立図書館の定義

   「ユネスコ公共図書館宣言」へのパブリック・ライブラリー要件の継授

  アメリカ合衆国と英国の無料原則の由来と法的根拠

   アメリカ合衆国

    ボストン公立図書館成立の利用条件

    州憲法

    州図書館法

   英国

    『エワート報告(Ewart Report)』

    1850年の公立図書館法

   アメリカ合衆国と英国の無料原則の相違

  「ユネスコ公共図書館宣言」の無料原則と各国の対応

   無料原則の変遷

   無料原則の各国の対応

 『天国の扉ををたたくとき』

  新時代の〝死ぬ技術″

   第1ステージ 虚弱化

   第2ステージ 衰弱

   第3ステージ 機能障害

   第4ステージ 健康障害

   第5ステージ 臨死期

   第6ステージ 死別の悲しみ

 『<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則』

  未来を決める12の法則

   ビカミング(なっていく)

   コグニファイング(認知化していく)

   フローイング(流れていく)

   スクリーニング(画面で見ていく)

   アクセシング(接続していく)

   シェアリング(共有していく) SHARING

   フィルタリング(選別していく) FILTERING

   ジミクシング(リミックスしていく)

   インタラクティング(相互作用していく)

   トラッキング(追跡していく)

   クエスチョニング(質問していく) QUESTIONING

   ビギニング(始まっていく)。

 『編集』

  編集という仕事

 『学術書の編集者』

  編集とは何か--挑発=媒介と専門知の協同化

   編集の役割(1)--たて・とり・つくり

   編集の役割(2)--読むこと、そして挑発=媒介

   専門知の媒介卜協同化の必要性

   専門知と徳科学論

   専門知の協同化の類型

   共通の知的基盤と「新しい教養」

   知識のメディエーションと「知識人の機能」

   大学出版・学術書出版の役割
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編集の役割--読むこと、そして挑発=媒介

 『学術書の編集者』より 編集とは何か--挑発=媒介と専門知の協同化

 つまり、編集の役割といってもこの程度のことで、編集者がすべてコントロールしているといったことではけっしてありません。しかも私は、編集の仕事の醍醐味は、ほんとうは、本を書くことを依頼した際の、編集者の期待を軽々と超えてしまう、そんな原稿を初めて読んだとき、その衝撃で自分白身が変わってしまうような経験にあるとすら思っています。米原万里さんの本のタイトルに『打ちのめされるようなすごい本』というのがありましたが、そうした原稿はたしかに存在するのです。ただしそれを読むことは、一方で苦しい経験でもありまして、読み進めようとしても、ひっかかって進まなくなったり、これでいいのか心配になったり、考えるのをやめたくなったりもします。とにかく、自分のそれまでの物の見方・感じ方を変えてしまう、つまり自己変容をせまってくる部分がありますので、これはたいへんなことでして、そうした場合には、他に計画中だった本を、少なくとも前と同じようにはつくりつづけることができなくなるくらいです。しかし、これはけっして悪いことではなくて、むしろその衝撃の波を何らかの形で他の出版企画に投げかけていくことは、編集者の重要な役割だと思います。つまり、これこそ、先ほど言いました「挑発」の、大きな原動力の一つになるわけです。

 ところで、先ほど「体系化」という言葉も使いましたが、学術書にとって体系性はきわめて重要です。これはもっと一般的には、書物のもつ「世界」と言い換えることもできます。個々の論文ではなくて書籍をつくること・本を読むことの重要性はここにあると言っても言い過ぎではありませんので、あえて強調しておきたいと思います。従来、紙の書物の中では、読むための機能と、検索するための機能が共存してきましたが、現在、デジタルーネットワーク化によって、検索機能が肥大化して突出する中で、読むことが、特に体系性や世界性を読むことが、衰弱しつつあるように見えます。検索の驚くべき便利さは否定しようもありませんが、しかしそれは、読むことに取って代わることはできない、という点が重要です。さらに言いますと、多くの人が、読まずに直ちに情報にたどりつこうという欲望をもった、検索情報の消費者となり、できればその情報を操作する主体になりたがっていて、他方、読むことについては労苦としか捉えていないように見えます。その背後にはひょっとすると、読むことによる衝撃やそれによる変化に対する恐れ(あるいは疲れ?)のようなものすらあるのかもしれません。そこでは読むことがなにか受け身で、さらには誰かに操作されることのように捉えられて、マイナスの価値を与えられているようなのです。たしかに、読むことは労力や時間を必要とするものですが、しかし、読むことによる衝撃は、人間を変えることができるものですから、けっしてその過程を軽んじてはいけないと思います。むしろ、不完全な情報の中で生きるしかない人間が、創造的に生きようとすれば、こうした、読むことによる自己変容・自己変革は最も重要なものの一つです。そしてこの自己変革こそ、イノベーションといわれるものの根本ではないかと思います。

 さて、先ほど編集者の役割として「挑発」ということを言いまして、その原動力の一つをあげましたが、「挑発」とは何か、まだよくわからないというかたもおられるかもしれませんので、あと二つ例をあげてみたいと思います。

 申すまでもなく、編集者は個々の学問分野に関して専門家ではありません。つまり非専門家です。しかし、非専門家だということは、いろんな分野に関わるということです。逆に、専門家というのは特定の分野のことはよく知っておられますが、その専門を離れると--ある種の共通項を外れると--、近いと思われる分野のことでも驚くほどご存知ありません。ところが、非専門家である編集者の方は、いろんな分野で本をつくりますから、多少ともそれぞれの事情を知ることができる立場にありまして、それを専門家の世界へとフィードバックすることができるわけです。たとえばAという分野で新しいおもしろい問題が出てきたときに、Bという分野でもそれと同様の問題が考えられることは結構ありまして、それをB分野の著者に伝えて「挑発」するのです。これを、専門分野のあいだの媒介者の役割と言ってよいかと思います。

 もう一つあげてみます。東京大学の安冨歩先生が、専門家とは盲点を共有する集団だと言っておられますが、そういう盲点を少なくしてよりよい認識に到達するには、外部の社会からの声を吸収することが重要になります。しかし実際には、専門度の高い内容について、それは簡単なことではありません。そこで、名古屋大学名誉教授の安藤隆穂先生は、いろんな本を読むこととならんで、専門性を理解する編集者との対話を、文系の学問におけろ二種の「実験」だと位置づけて、社会からの声を自分の学問に織り込むための方法として捉えておられます。要するに、専門家にとって当然の前提となっている事柄には、一般の目から見て「おかしい」と思われることや、「それを論じるならば、なぜこれを論じないのか」といったことがよくあるのですが、そうした疑問--その疑問が絶対に正しいということではなく、それをわきまえた上で、しかもある程度専門性を理解した上で--、疑問を発すること。言い換えれば、専門家の盲点に、外部からの声をさしむけて「挑発」することで、編集者は、専門と社会のあいだの媒介者の役割も果たすわけです。

 以上、「挑発」による「媒介」の例を三つあげました。第一に、新たな知の波動を、読むことによる自己変容を通して伝えること、第二に、複数の専門のあいだを媒介すること、第三に、専門と社会のあいだを媒介すること、の三つです。「挑発」という強い言葉を使っていますが、それはあえて言いますと、「励ますこと」の逆説的な形だと言えるかもしれません。また、「媒介する」とは、裏返して見れば、「隔てとなっている障害を--境界ではなくて障害を--取り除く」ということです。そしてこの二つが合わさって、「ディシプリンを大切にしつつ、それを超え出る」よう促すわけです。いま言いました境界と障害の違いがわかりにくいというかたは、アメリカの詩人ロバート・フロストの「よき垣根は、よき隣人をつくる」という言葉を思い浮かべていただくとよいかもしれません。

 ここまで、「たて」「とり」「つくり」から成る編集者の仕事と、それ(特に前二者)による「挑発=媒介」という機能について見てきました。私はここに、よくいわれる「エディターシップ」というものの核心があると考えています。
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編集という仕事

 『編集』より 編集という仕事

  じつは、編集という作業は、日常的に誰でもやっていることである。世間にイヤというほど溢れている膨大な情報を、すべて受け取ることはできない。だから、人は、テレビを観ている時も、本を読んでいる時も、街を歩いている時も、誰かと話している時も、自分に利益があると感じたことに、自然に反応するようになっている。自分に必要な情報だけを抽出している。これが「編集」である。

  そして、じつは、もともと、ボクたちが触れている情報も、あらかじめ編集されたものである。「ドコソコのおじいさんが、朝ごはんを食べました」なんてことは、いちいち報道されない。もっとも、いまは、ネットで自分の日記を公開するような時代だから、他人には、どうでもいいようなことも、タレ流されている。

  それでも、自分に必要ではないことは拾わない。捨てている。出版における編集も基本は同じである。その中で、より多くの人が注目するであろうことを、紙という入れ物に載せて頒布する。これが、商売としての編集である。

  日本の場合、学校を卒業して出版社に就職すると、すぐに「○○編集部・編集者」という名刺を渡される。それだけで、編集者(エディター)になったと思うのは、大きな間違いである。欧米の出版社では、編集部に入った新入社員は、まだ編集者ではない。アシスタント・エディターである。

  それから、短くて三~五年、長ければ七~八年、アシスタントとして勉強をする。そして、特定の著作者(オーサー)と信頼関係を結び、「この人が依頼するのなら仕事をしよう」という著作者が増えてくると、一人前の編集者になる。絵描きでも作家でも、自分の薬寵中の人として握る。つまり、信頼を得ることが、いい編集者の条件なのである。

  一人前の編集者になる前は、助手である。大学でいえば、教授になる前の准教授のような存在である。アシスタント・エディターの時に、きちんとこういう自覚を持っていない人は、勉強しなくなる。いや、たいてい、みんな、編集者の名刺をもらった途端、勉強をやめてしまう。面倒クサいからである。そんなことではいけない。たとえ、一人前の編集者になっても、勉強すべきである。

  人には、生まれながらに持っている天性の性質がある。これを「資質」という。編集者にとって大事なものは感性である。連想力でもある。これらを「資質」として持っている人は、魅力的である。しかし、資質として持っていない人もいる。そういう人の中には、歳を取るにつれて、自然に身につけていく人もいれば、社会人になって、先輩の仕事を見倣いながら、切磋琢磨して身につけていく人もいる。

  こうして、後天的に身につけた資質を、ボクは「培質」と言っている。辞書には載っていない言葉である。はっきり言って、この培質ができない人もいる。培質したのかどうか分からない人もいる。開拓できる人とできない人がいるのである。資質でも培質でも、いずれにしても、編集者としての能力を備えていれば、どちらでもいい。

  ボクが、意識的に自分を「培質」した方法は、カタっぱしから、本や新聞を読むことだった。いわゆる雑読・雑学である。専門分野に特化した出版社でない限り、じつに、多種多様な分野の本を出版する。いくら、ある分野の専門知識が豊富でも、それだけでは、総合出版社としての対応はできない。

  専門知識に突出している学者には、雑読をイヤがる人もいる。しかし、あらゆる読者のニーズに応えるためには、雑読・雑学が編集の基本である。雑学を恥じず、とにかく、大量に読むことである。それには、インターネットのような、デジタルコンテンツを眺めるだけでは、ダメである。雑読にならない。やはり「紙」である。

  その紙というメディア(入れ物)に入っている「新聞記事」が、すべてのジャーナリズムの基本である。大手日刊紙の朝刊が、すべてのメディアの情報源になっている。出版企画もテレビ報道も、全部、全国紙の朝刊から生まれているのは事実である。なのに、編集者は新聞を読まない。ボクが、編集者の友人や知人と昼飯を食いながら話をしても、朝刊を読んでいるヤツは、ほとんどいない。

  試しに、周りの人を見渡してみれば分かる。出版社はおろか、新聞記者も読んでいない。不思議なくらいである。その点、テレビ関係者は、ネタに飢えているから、けっこう読んでいる。朝のワイドショーには、新聞紙面そのものが、ズラリと並んでいる。編集者が新聞を読まないのは、はっきり言って、日本の出版界の弱点である。しかし、ただ目を通せばいいというものでもない。新聞を読むにしても、上手な読み方と下手な読み方がある。ちゃんと意識して読めば、新聞と出版の文章・文体が全く違うことが分かる。これが、上手な読み方である。このことを理解した上で、情報源として活用すべきなのである。

  編集者には、培質を重ねた末にホンモノの編集者になった人と、歳を重ねただけで中身はアシスタントのまま、という二通りの人がいる。そういう先輩たちを見据えて、ホンモノの編集者から学んでいけばいい。ここが、バイシツの急所である。

  編集者は、著作者とうまくつき合い、いい関係を構築していかなければならない。

  たとえば、能狂言の世界では、主人公を「シテ」という。脇役は「ワキ」である。シテとワキ、それぞれの「お供」のことを「ツレ」という。主人公のお供は「シテツレ」、脇役の場合は「ワキツレ」である。歌舞伎では、ツレのことを「黒子」ともいう。全身に黒い物を被って役者の背後にしゃがみ、様々な手助けをする男のことである。黒子がいないと踊れない役者は、案外多い。黒子は、役者に台詞を教えたりもする。だから、黒子がいると、役者は台詞を間違えないですむ。

  この構造を、出版に置き換えてみると、著作者は主役の役者フンテ」、編集者は黒子「ツレ」である。漫才でいえば、「ボケ」と「突っ込み」。シテもツレも、ボケも突っ込みも、ひとりで両方を兼ねることはできない。シテがいてこそのツレである。関西人や高齢者は、友人のことを「ツレ」という。これは、「連れて歩く」のツレ。「一緒トゥギャザー」という意味である。
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