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図書館クラウド

小乗と大乗

 仏教には小乗と大乗がある。元々の仏教は小乗です。自分で答えを出す。そのために鍛える。自分の感覚が問題であって、世の中を変えるつもりはなかった。それだと救われないという思いと、それを使って、世の中を変えようとする連中が大乗を作った。キリスト教も同じです。

 そう考えると、作っている未唯空間でも、自分にとってはあまりにも小さくて、世界にとってはあまりにもでかい

図書館サービスコスト

 図書館のサービスコストは、館内閲覧は一冊当たり277円、レファレンスで913円、延滞督促で1844円かかっている。だから、NYPLなどでは、市民の口座からの自動引き落としにしている。

 図書館運営は市の財政だから、安くしないといけない。そこまではいいけど、その後の図書館がなぜあるのかというところがなっていない。市民が参画する図書館にする。TRCみたいなところに委託するのはいいけど、肝心の市民が動いていない。そのためには教育委員会を超えることです。

 運営費用低減の決め手はクラウドです。MARC、運営費用、データベース、市民とのデータベースにしてもクラウド化していかないといけない。それで、AMAZONとかGooGleなどを経由して、もっと大きなところとつなげていく。

 個別の1万の市民に対して、10万の市民に対して、100万の市民に対して、全体に対して、サービスをすべて変えていく。それで電子化に向かっていく。

 豊田市はICチップ化とかはしているけど、レファレンスなどの市民に対しての仕掛けを行なっていない。民間にすることでコストパフォーマンスを気にしているけど、金儲けが主だから、変革にはつながらない。市民のコミュニティからのモデルをどう作っていくか。

 これは田原市図書館などの試みが十分あります。豊田市は20年ぐらい経つけど、あまりにも市民は動いていない。

民主主義の自由と生ちゃんの自由

 民主主義での自由を考えたときに気になるのは、生ちゃんの自由です。乃木坂というコミュニティでの「自由」です。

 個人としての自由に対して、コミュニティでの自由。それでもって、コミュニティを発展させる。発展させることで、メンバーをもっと自由にさせることを可能にする。

自由と専制と中間の場

 政治の世界では、自由に対して専制があります。自由はすぐに専制につながる。自由の放棄です。存在の力からすると、自由を確保することは中間の存在で可能になってくる。全体に対するとか、個人に対するというのは、難しい。

 それはコミュニティの中の信頼関係による。市などの行政レベルでは、それを目的としていない。ハイアラキーでの役割を果たすだけになっている。アイヒマンがそうであったように。

 世界の内に、自己と全体しか見なくなる、民主的論理。これは個人を軽視し、社会全体を代表する権力を守ろうとするから。個人と全体を対比させるやり方。その場合は全体の方が勝つ。中間の存在がないと、どうしても専制的になる。

 これは神との関係でも同じです。神と個人だけにすると、個人は完全にいかれてしまう。だから中間の場が必要なんです。個人は色々な面を持っているが、神は絶対的です。その間を持つもの、熟成させるものが必要なんでしょう。

行政による専制

 中間の場と行政による専制。その違いはどちらを向いているだけではなくて、大きな違いがある。選挙が自由を行使する機会になっているのか、あまりにも短く、小さい。あまりにも選択幅が少ない。行政は自由を邪魔しようとする。

 個人より全体を優先し、専制に向かう。専制は行政の専制であり、行政権力の肥大と統制の強化。これが今のデモクラシー。

自由のあるデモクラシーの可能

 意識する習慣をつけるエリアが必要です。自分たちの意識をハッキリさせるところ。そこで初めて、全体と向かい合える。それを訓練する場。知識と意識の場。そこが表現の自由を保障する場になる。

 国民国家としてのイスラエル。そこでの民族。それが国民国家を規定する。そんな国にした覚えはない。

監視社会への警戒心

 診察時にチェックしているのに、また、チェックしないといけないのか。それも民間企業の薬局で。これを受け入れるのは監視社会です。

 考え方としては。逃げれるものから逃げる。それが監視社会というツナミから逃げられる方法です。

アーレントの政治哲学

 アーレントの政治哲学の出発点は、ナチズムだけではなく、シオニズム、国民国家に対して、あるものを根絶しようとした。両方共に全体主義を感じる。
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豊田市図書館の18冊

509.6『会社を強くする習慣』人を育み、利益をもたらす 枚岡流「徹底3S」9つのルール

913.68『小説の家』

293.48『もうひとつのチェコ入門』

327.3『民事執行法のツボとコツがゼッタイにわかる本』最初からそう教えてくれればいいのに!

943.6『マケドニアを行く』カール・マイ冒険物語 オスマン帝国を行く

290.93『東アフリカ』ウガンダ エチオピア ケニア タンザニア ウワンダ

C31.1『トヨタの伝え方』 ⇒ どこの「トヨタ」の話?

498.14『ルポ 看護の質』--患者の命は守られるのか

332.1『国際競争力』

369.26『新地域支援事業の姿』地域で助け合いを広める鍵と方策

726.6『ミス・ポターの夢をあきらめない人生』ピーターラビットとともに歩く

369.26『「ユニチュード」という革命』なぜ、このケアで認知高齢者と心が通うのか

334.31『ポスト人口転換期の日本』人口学ライブラリー

375.35『特別の教科 道徳Q&A』

327.6『伊藤真の刑事訴訟法入門』講義再現版

673.97『ラーメン技術教本』人気店に学ぶ、スープ、自家製麺、トッピング

491.3『体と体質の科学』からだにまつわる身近な疑問とその対処法

376.8『社会人&学生のための大学・大学院選び』貯蓄0から大学・大学院
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縮減する社会の危機

『ポスト人口転換期の日本』より 縮減する社会をどう捉えるか? 人口成長から人口縮減へ

日本の人口転換における長寿化と少子化の作用メカニズム

 ここで従属人口指数(世代間の扶養負荷)という指標を鍵として、日本の人口転換における長寿化と少子化の作用メカニズムを考えてみよう。

 まず女性の平均寿命の延仲(長寿化)の影響を、年少と老年に分けて観察すると、全体の従属人口指数は長く安定していたが、平均寿命が70年を超えたあたり(年次では1975年以降)から急激に増大する。これに対し年少の指数は当初より平均寿命の延伸とともにゆるやかに減少、平均寿命が70年を超えたあたりからは底を打ち30ぐらいの水準で安定する。逆に当初より徐々に増加していた老年の指数は、平均寿命が70年を超えたあたりから急激に増大する。このような変化の背景には、女性の平均寿命の上昇とともに各年齢区分の生残率が若年から老年に向け累積的に増大すること、また若年や生産年齢の死亡率が比較的早い時期に下限のOに近づく(生残率が1に漸近する)のに対し、70歳以上の死亡率の低下には時間が掛かること(下限のOまで十分な距離がある)が関係している。

 さらに、平均寿命が延伸する過程で女性の50歳時までの生残率は当初の51.1%から97.4%まで大幅に上昇した。この結果、女性が出産可能期間を生き延びる確率が高まり、再生産に必要な置換水準の出生力も当初の約4人から2.10人まで低下した。そして、実際の出生力も、この置換水準を後追いする形で低下してきた。しかし、女性の平均寿命が70年に達したあたりから置換水準を割り込むようになり、現在までのところ合計特殊出生率が1.5を下回る、超低出生力状況が続いている。

 このことを女性の出生行動の変化と関連づけて捉えると、平均寿命の延伸過程においては出産可能期間の女性の生残率が高まり、さらには生まれてくる子ども自身の生残率も高まったので、仮に出生抑制を行わなかったとすれば、年少扶養負荷が急激に増大したはずである。しかし、年少扶養負荷が増大すれば、子ども1人あたりに投入しうる資源は減少し、母親自身の生活資源も圧迫される。また多産にともなう死亡リスクも累積的に増大する。従って、女性の再生産戦略としては、子ども数を可能な限り少なく抑え、出産・子育てにともなう母子のリスクを最小化することが最適であり、これに対応した事後的な出生抑制行動(有配偶関係における平均出生児数の低下、あるいは多子家族から2子家族への収束)が広がっていったと解釈できる。

 また平均寿命が70年を過ぎたあたりからは長寿化による年少扶養負荷は底打ちし、逆に老年扶養負荷が上。昇し始める。つまり出産・子育てにともなうリスクよりも、自分自身の将来(長い人生)に関するリスクや親の介護リスクの方が高まって行く。また女性を取り巻く教育・就業環境の変化もあり、結婚・出産のタイミングを先送りすること(晩婚一晩産化)で、将来の家族形成にともなうリスクを低下させる新しい再生産戦略が生じたと思われる。その結果、人口再生産期間(生殖可能年齢)の利用は期間の後半にずれ込み、期間内に結婚・出産が間に合わない場合に、生涯未婚、有配偶無子、あるいは第2子出生に至らないケースが増加し、結果的に出生力が人口置換水準を割り込むようになったと考えられる。

 これらの知見をまとめると、日本の人口転換と従属人口指数(世代間の扶養負荷)との関係は、女性の平均寿命が40年から70年まで延伸する過程と、70年を超えて延伸する過程の2つの時期に分けて記述することが可能となる。まず、前者の過程では「各年齢における死亡率の低下=平均寿命の延伸」自体は直ちに扶養負荷の増大を引き起こさない。理論的には出生力が人口再生産水準に留まる限り、年少扶養負荷の低下と老年扶養負荷の増加が相殺され総扶養負荷は53~54程度の水準に留まる。しかし、その一方、出産可能期間の「女性生残率の上昇→純再生産率の上昇→年少扶養の負荷が上昇」という連鎖から出生抑制への圧力は高まる。そこで出生抑制が機能せず、女性の生残率の上昇をそのまま反映して合計特殊出生率が増大する場合は、年少扶養負荷が増大し、これが平均寿命の伸びを抑え、マルサス的な負のフィードバックが働き均衡状態へ向かうことになる。これに対し日本で起きたように出生抑制が徐々に機能し出生力低下に向かえば年少の扶養負荷は上昇せず、女性の平均寿命がさらに延伸するという正のフィードバックが働き、多産多死から少産少死へと向かう人口転換が進むことになる。

 これに対し、女性の平均寿命が70年を超えて延伸する段階では、年少者の死亡率や再生産年齢の死亡率の低下は順次下限(O水準)に漸近するため、高齢の死亡率のみが持続的に低下する。このため平均寿命の延伸が総扶養負荷の増大を引き起すことなる。つまり年少扶養負荷は下げ止まるが、「老年扶養負荷の増加=総扶養負荷の増大」となり、その水準は70を超える。その一方、年少扶養負荷の圧力が減少しても、結婚・出産のタイミングを先送りすることで将来の家族形成にともなうリスクを低下させるという新しい再生産戦略が始まり、晩婚・晩産化に伴い合計特殊出生率は置換水準を割り込み引き続き低下する。このため平均寿命の延伸効果に低出生力の効果が加わり、総扶養負荷が80から90へと上昇するとともに人口減少に突入する。この状況に対し、仮に個人レペルではなく社会レペルで対応することで出生力の人口置換水準への回復が図られるならば、扶養負荷の上昇は、平均寿命の延伸効果のみに限定され、人口は長期的に定常化する。

縮減する社会の危機

 近代日本は、女性の平均寿命の40年から70年までの対応(総数抑制:多子から2子へ)において優れて適応的であったといえる。つまり人口転換による扶養負荷の減少と人ロボーナスの発生が、経済成長に貢献する形で今日の繁栄をもたらした。

 しかし、その適応過程において人口「再生産」の個人化(女性の自由意思・自己責任化)が進み、女性のライフコースの「男性化」が起こった。その一方で、医療・年金・介護保険制度の創設などの形で、高齢者がもたらす扶養負荷への対応が先行して社会化した。その結果、子どもを産み育てるコスト・ベネフィットは女性にとり極めて不均衡なものとなり、リスクを最小化しようとする出生行動のもとで、出生力は人口置換水準以下に留まっている。このような出産・子育ての自己責任化の動きに何も手を打たないとすれば、出生促進に向かう社会的インセンティブはほとんど働かないであろう。

 従って、現代の日本における、女性の平均寿命70年からの対応(晩婚・晩産・少子化、無子の増加)は依然として非適応的であるといえる。つまり、人口転換の結果、日本は人口オーナス期に入り、現状のまま推移すれば、経済の低迷、ことに需要の減少、社会の再分配機能の低下から、社会・経済格差はますます拡大してゆくことになる。また老年扶養負荷の増大から高齢者医療・年金・介護システムも維持が困難となる。さらに財政危機から出産・子育ての社会化(児童手当、育児休業、保育サービスなどの充実)も進ない。その結果、個人にとって「再生産」に要する負担はさらに増加するので、「縮減する社会」の状況が一層加速化する。

社会システムの持続可能性

 日本では,戦後の第一の出生力低下(1950年から1961年まで)と第二の出生力低下(1975年以降)の二つの時期を通じ世代間の扶養負荷(従属人口指数)が低く抑えられてきた。このことは,先に述べたカウフマンの社会契約的な世代間扶養の考えに立てば、その分,高齢化に見合う形での世代間契約の履行が「節約」され次世代へと先送りされてきたといえる。

 すなわち歴史的な扶養負荷と平均寿命の延伸を加味した長期的な扶養負荷との乖離部分は、戦後の出生力低下を通じ「節約」部分として経済成長や国際競争において有利に作用し、世界経済上の高い地位をもたらしたといえるが、結果的には、人口「再生産」の基盤となる家族形成(あるいは、そのための投資や支援)を、その代償としてきたといえる。とりわけ1985年以降、出生力(純再生産率)低下の影響を加味した扶養負荷は、長期的な扶養負荷からも乖離し始め急速に上昇しており、この先送りされた世代間扶養の不履行部分を将来担うことになる次世代の人々の間で、社会的分配を巡る様々な衝突が深刻化してゆくことになる。というより、このように増大する扶養負荷の上昇に、次世代の人々が耐え切れないとすれば、なおのこと出生力の人口置換水準への回復は見込めず、さらに負荷が増大してゆくという悪循環に陥り、社会システムはその持続可能性を失うことになる。
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道徳教育は「いかに生きるべきか」に答えてくれるの?

『特別の教科 道徳Q&A』より どうして今、道徳教育なの? ⇒ 覚醒する力をどう作り出すのか? 道徳と宗教から存在の力を導き出せるか? 今の大人にはムリでしょう!

そもそも道徳って何?(道徳の定義)

 道徳の多様性

  「私はどう生きるべきか」。この大きな問いが道徳に関わる問いです。道徳は、私たちが何を選択し、いかに生きるかを決定する規準になります。でもそれだけでは漠然としていますね。そこで、もっとしっかり定義しようとすると、さまざまな見方に気づきます。

  たとえば、ある人にとって道徳とは集団や社会で生活する上で最低限守らなければならないきまり。ある社会で「善い行い」として共有されている慣習や常識。いや、時代や場所が変わっても大切にすべき人間の本性、人としての理想と考える人もいるでしょう。自分の生き方を「私の道徳」と表現する人もいます。

  道徳を最低限のルールとみなすのと、人間の理想と考えるのでは、道徳教育で何を教えるかも変わってきますね。時代を経ても変わらないものなのか、それともそれぞれの時代にふさわしい道徳を創っていくのか。どう見るかで道徳教育への見方も変わりそうです。

  実は、この多様な解釈は、道徳自身から生まれてきたものです。だから、先のさまざまな見方も誤りではありません。どこから見るかで見之方が違うのです。

 自由だから道徳がある

  では、この多様な見え方を貫くものは何でしょう。

  一つ確かなことは、道徳は人間について使われるということです。人間以外の動物も社会を構成し仲間を守る行動をとることがありますが、私たちはそれを「道徳的」とは呼びませんね。

  それは、人間が動物と違って、本能をコントロールする理性を持つ、と考えられてきたからです。人間には、本能に支配されない【自由】があり、自分の意志と責任で自分の行為を選択できる。それゆえに、「どうしたいか」という欲求や願望だけでなく、「どうすべきか」という行為選択の原理を持っているのです。

  人間も動物も、自分の利益や幸福を追求する本能を持って生まれてきます。ところが、その利益の追求が他人に害を及ぼしうるとき、人は「それでよいか」と自問します。大きな目標に向かっている時には、一時の快楽を我慢することもできます。人間の心にはこのように自己利益や欲求をコントロールする仕組みが備わっています。人はそれによって、「今、此処にいる自分」だけの利害を超えて、共に未来の社会を創ることができるのです。道徳は、一人では弱く傷つきやすい人間が、他者と共に生き、よりよい社会と幸福な人生を築くために、人間に備わっている力なのです。

 幸福を創る力に

  道徳には社会を築く力がありますが、必ずしもいいことばかりではありません。たとえば、ネット社会で見られる炎上。誰かの行為が「道徳的でない」と認知された時、その人を一斉に「叩く」行為は、道徳が時に人を傷つける武器にもなりうることを示しています。

  道徳がその本来の力、多様な人々がそれぞれの幸福を追求していける「よりよい社会」を創る力を発揮できるように、私たち大人には、子どもたちが生きるこの時代にふさわしい道徳教育を創る責務があります。

道徳教育は「いかに生きるべきか」に答えてくれるの?(生きる力を育てる道徳教育)

 道徳を学べば「いかに生きるべきか」の答えがわかるわけではなく、道徳を学ぶことを通して、自分自身が「いかに生きるべきか」についての考えを深めていくことができるのです。

 みんなで考えを深める時間

  私たちは日々の生活において、数多くの道徳的問題に直面しています。たとえば環境問題といった地球規模のものから、友人関係といった身の回りのものまで大小さまざまです。これらの問題の中には、機械的に答えを導くことができるものもあるかもしれませんが、多くの場合、問題を解決するに当たって自分が取り得る行動を考える時、その行動がどう回りに影響を及ぼすのか、もっと最善の方法はないのか、自分自身はそれでいいのかなどさまざまな価値の問題が関わり思い悩みます。

  では悩んだままにしておいていいかと言われればそうではありません。前に進むためには、その時々で問題に対する答えを考え抜き、最善と思われる「解」を見つけださなければならないのです。考えるに当たってば、まず自分の考えをしっかりもっていなければなりません。その上で、他者と共に協働することも大切でしょう。自分の考えを確かなものとするために問題の原因を探るなどの情報収集も必要です。そしてこのようにして考え抜いた「解」はそれはそれで価値のあるものです。安易に判断することなく、さまざまな問題に正対し、じっくり考えることにより、自分は「いかに生きるべきか」ということの考えを深めていくことができるものと考えます。

 道徳は道徳的な問題について考え、議論する時間

  中央教育審議会答申でも、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」としています。学習指導要領解説においても、「道徳教育においては、…(中略)…人としてよりよく生きる上で大切なものとは何か、自分はどのように生きるべきかについて、時には悩み、葛藤しつつ、考えを深め、自らの生き方を育んでいくことが求められる」とされています。

  このように道徳教育は、自分で考え、他者と議論し、さらに自分の道徳的諸価値の理解を深めていく時間なのです。このような道徳教育を通じて、これから自分自身が生きていく中で直面する問題を、道徳的価値との関係でどのように捉え、どのように解決することができるのか、その答えを自分自身で探究し、よりよい解決策を導き出すための資質・能力を身に付けることが求められています。

  これからを生きる子どもたちには、これまで以上に複雑な問題が待ち受けているものと予想されます。今後社会の有り様が変化し、科学技術もさらに発達していく中で、人間としてのあり方や生き方を問われる場面も増えていくかもしれません。そのような中だからこそ、「いかに生きるべきか」を考え続ける姿勢は大変重要であり、だからこそ道徳教育の果たす役割はますます大きくなっているのです。

外国にも道徳教育があるの?(諸外国の道徳教育)

 道徳の授業が外国にもあるの?

  日本の道徳教育では、戦後の一時期を除いて、「道徳」を教える特定の時間が学校に設置されてきました。外国にもそういう学習時間があるのでしょうか。

  言語や数理を学ぶ教科は、世界各国でほぼ共通に設置されています。それに比べると、道徳教育は国によってかなり違います。人格や人間性の育成は学校教育の重要な課題とみなされていますが特定の教科等を設置している国もあれば、特定の教科によらず、学校の教育活動全体で行う道徳教育に力を入れている国もあります。

  なぜ、国によってこんなに違うのでしょう。

 道徳か宗教か

  日本では、公立学校で宗教の教義などを教える宗教教育は行えないと定められています(教育基本法第一五条二項)。他方、世界には、学校で特定の宗教を教えている国があります。ヨーロッパの多くの国やイスラム圏の学校もそうです。これらの国では、伝統的に宗教教育が道徳教育の役割を担ってきました。

  学校における宗教教育では、信仰の異なる子どもへの対応が問題になることがあります。たとえば、ドイツでは、伝統的にキリスト教による宗教教育が教科として実施されてきましたが、一九七〇年代頃から、宗教を履修しない子どもが増加してきたことに対応して、「道徳」などの代替科目の導入が進みました。多民族国家であるマレーシアの学校では「イスラム教」が教えられてきましたが、一九八〇年代から、イスラム教徒以外の子ども対象に「道徳」が設置されました。

  公立学校で宗教教育を実施せず、道徳にかんする学習を必修教科として設置している国には、フランス(「道徳・公民」)、中国(「品徳と生活」・「品徳と社会」)、韓国(「道徳」など)、シンガポール(人格・市民性教育)があります(括弧内は設置教科名)。

  アメリカやオーストラリアでは、公立学校で宗教や道徳を教える教科は設置されていません。これらの国では、学校教育全体で「人格教育」(アメリカ)や「価値教育」(オーストラリア)が進められています。

 「考え、議論する」授業が主流に

  では、世界各国の多様な取組に何か共通する特徴があるでしょうか。

  フランスやシンガポール、韓国など、これまで独立教科を設置してきた国では、近年、大きな教育改革がありました。これらの国々では、学校内外での体験活動も充実し、教育活動全体を通した道徳教育に力を入れるようになっています。教室での学習にとどまらず、参加や体験が重視されているのです。

  体験的な学習を重視する一方、授業では、子どもが実生活で出会うさまざまな問題を取り上げて議論する学習活動が多くの国で推奨されています。

  「考え、議論する道徳」の授業は、世界でも積極的に導入され、定着しつつあると言えるでしょう。
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未来を生きる子どもたちはどんな力を身に付けれはいいの?

『特別の教科 道徳Q&A』より どうして今、道徳教育なの? ⇒ 生きるためのインフラを変えるには、何をしたらいいのか? 大人から変わる手段が必要!

今の子どもたちにはどんな未来が待っているの?(子どもたちが生きる未来社会)

 携帯電話やインターネットの普及で、他者との空間的な距離は縮まり、どこにいても誰とでもつながることができるようになりました。日々の生活で必要な情報も、パソコンやスマートフォンを操作するだけで得ることができます。このような今の世の中を、先人たちはどの程度想定することができていたでしょうか。

 私たちの身の回りはここ二、三〇年の間でも目まぐるしく変化しています。そして、これからの社会はこれまで以上にその変化の速度が速まることが予想されます。未来を確実に予想することは困難ですが、各種統計などから、ある程度どのような未来が待っているのか想定してみることは可能です。

 さらに進む少子高齢化

  総務省の統計によれば少子高齢化の進行により、二〇三〇年には我が国の総人口の三割が六五歳の高齢者となり、さらに約五〇年後には総人口が現在より約三割減少、六五歳以上の割合が総人口の約四割に達するといった超高齢社会に突入します。このことにともない生産年齢人口は減り続けます。また、二〇三〇年には、世界のGDPに占める旧本の割合は、現在の五・八%から三・四%にまで低下するとの予測もあり、日本の国際的な存在感の低下も懸念されています。

 二○年間で倍になった海外在留邦人

  外務省の統計によれば、海外在留邦人は平成二六年度の調査で約百三〇万人となっており、この数は二〇年前の約二倍となっております。また、総務省の統計では、日本で暮らす外国人の数も年々増えており、これらの数は今後さらに増えることが予想されます。

 技術革新が変える働き方と社会

  さらに、子どもたちが将来就く職業のあり方についても、技術革新等の影響により大きく変化することになると予測されています。人工知能をはじめとする技術革新により職業のあり方だけでなく、身近な生活を含め社会のあらゆる面に変化が及ぶと考えられます。

 予測困難な時代を生き抜くための道徳教育

  以上、ここで紹介をさせていただいたものは一例に過ぎませんが、今後ますます、将来の社会の変化を予ただけたのではないでしょうか。このような時代を前に私たちはどのように生きていくことが求められるのでしょう。また同時に私たちは、新しい時代を生きる子どもたちに何を準備しなければならないのでしょう。しっかりと考えていかなければなりません。

  このことは道徳教育も同様です。詳細は次頁以降で解説をいたしますが、学校教育も社会の変化を乗り越え、これからを生きる子どもたちが他者と協働しながら新たな価値の創造に挑み、自ら未来を切り拓いていく力を確実に身に付けることができるように変化をしていかなければならないのです。

未来を生きる子どもたちはどんな力を身に付けれはいいの?(成熟社会で求められる力)

 予想が困難な未来には、今まで以上に正解のない課題が待ち受けていると予想されます。そして、このような課題の解決は、個人や、前例にのみ倣った方法で立ち向かうだけでは限界があるでしょう。その中では、一人ひとりが多様な価値観の存在を認識しつつ、自ら考え、他者と対話しながら、よりよい方向を目指そうとする力が重要となると考えられます。

 学校教育において身に付けるべき力

  平成二七年八月に出された中教審教育課程企画特別部会の論点整理では、これからの時代に求められる人間のあり方として、「個性や能力を生かしながら、社会の激しい変化の中でも何か重要かを主体的に判断できる人間」、「多様な人々と協働していくことができる人間」、「自ら問いを立て、解決方法を探索して計画を実行し、問題を解決に導き新たな価値を創造していくとともに新たな問題の発見・解決につなげていくことのできる人間」ということをあげています。

  その上で、現在、こうした人間のあり方を、教育課程のあり方に展開させるため、各教科等において育成すべき資質・能力を、①「何を知っているか、何かできるか」、②「知っていること・できることをどう使うか」、③「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか」という柱で整理が行われています。

 自ら課題を発見し、解決する

  新しい時代に必要となる資質・能力の育成に関しては、これまでも、たとえばOECDが提唱するキー・コンピテンシーの育成に関する取組や、論理的思考力や表現力、探究心等を備えた人間育成を目指す国際バカロレアのカリキュラムなどが実施されています。これらの取組に共通しているのは、知識の伝達だけに偏らないことや、学ぶことと社会との繋がりを意識した教育を行い、子どもたちがその過程を通じて、基礎的な知識・技能を習得すると共に、実社会や実生活の中でそれらを活用しながら、自ら課題を発見し、その解決に向けて主体的・協働的に探究し、学びの成果を表現し、さらに実践に生かしていけるようにしようという視点です。

 道徳の教科化の方向性

  この度の道徳の特別教科化は、これらの議論の先駆であると言えます。

  たとえば今回の学習指導要領の改訂では「問題解決的な学習など多様な方法を取り入れた指導」について新たに規定がなされました。このことは道徳の授業が道徳的価値の自覚を深め、子どもたちが生きる上で出会うさまざまな道徳上の問題を、他者と協働し多面的・多角的に考え、主体的に判断し実行し、よりよく生きていくための資質・能力を養うことを一層明確にしたものです。道徳教育は、まさに未来を生きる子どもたちに求められる力を育む基盤となるものなのです。
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