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裏ロジック 自分編

1.1 生まれてきた
 孤独から真理へ
  意識し始めた時から、他人との接触がなかったし、意識できなかった。どうなっているか、を知りたくて、真理を求めた。
 真理の対象
  数学を武器に自分の中のエネルギーで生きていくことにした。それが孤独な戦いになることは、最初から明らかであった。
 数学をベースに
  数学を武器に自分の中のエネルギーで生きていくことにした。それが孤独な戦いになることは、最初から明らかであった。
 考え続ける
  孤独をいやすことはできない。孤独は絶対的なモノです。その中で考えることを見いだした。社会も歴史も対象とした。

1.2 前向きに生きる
 観点をもつ
  夢を見るのは、数学者の特権です。空間を見るためには、ある観点から絞り込み、ムダなものは排除することで先が見えた。
 女性の立場
  孤立した世界に居ると、自分を自由に変えることができる。もう一人の私に女性を選びました。自由は発想が可能になった。
 偶然は必然
  全てを知ることも、認識することもムリです。無限に対する有限の制約です。偶然は必要なものを見せてくれます。
 早く抜け出す
  いつも、本当にそこにいる気がしていない。ものごとを単純にして、いつでもそこから抜け出せるようにまとめておきます。

1.3 宇宙の旅人
 自分の定義
  宇宙の旅人と自分を定義することで、今の社会常識から分離できた。そのかわりに、社会変革のミッションをになう。
 分析手段
  いつでも飛び出せる宇宙の旅人として、今の社会そのものを分析する手段を作り出して、社会の事実を蓄えている。
 メッセージの発信
  自分の中の社会を見る目が明確になってきた。その立場から社会を見て、当事者にメッセージを発信していきます。
 宇宙の旅人としての行動
  宇宙の旅人として、社会の方向を示します。所詮、私は宇宙の旅人です。やるのはそれぞれの当事者です。

1.4 社会にメッセージ
 発信できるもの
  何しろ、発信していきます。発信できるだけのモノを自分の内に持ちみます。それが循環を起こしていきます。
 サファイアで発信
  サファイア循環で自分の内側にメッセージが持てました。それを未唯への手紙で思いを表に出しています。
 自分を変える
  社会の全体像がつかめていない。ローカルから変わるのを見ながら、提案していく。その前に、自分が変わりましょう。
 しあわせをつなげる
  社会にボランティアなどで風穴を通す道は遠い。原動力は笑顔というのは変わっていない。イメージを積み上げていく。

1.5 存在と無
 悩みの根源
  自分が在ることを考えると鬱陶しい。なぜ、ここに居るのか?居ることに 意味があるのか?なぜ、いるのか?
 どこでも行ける
  無はある意味では楽しい。透明人間です。どこへも行けます。だけど、無のイメージは恐い。だから、見ていくしかない。
 行動は無意味
  社会と関わったのは、知りたかった。仕事では、考えるだけでは済まされない。どうでもいいのに、行動を要求される。
 宇宙の旅人としての行動
  存在と無から、結果を出した。数学モデル・社会モデルを考えてきた。私がコミュニケーションを標榜する矛盾している。

1.6 未唯空間
 サファイアの要素
  理論的なサファイアも、環境問題と販売店の本社・店舗の関係を見ていくことで、具体的な構成要素が分かってきた。
 未唯空間へ
  サファイア循環で自分の内側にメッセージが持てました。それを未唯への手紙で思いを表に出しています。
 思いの集積
  未唯空間で、全てを表現している。過去の思いの集積です。それに日々の変化も追加している。それらを付け加えます。
 線形での表現
  未唯空間は私の関心の全領域をカバーしている。五次元での表現で表せない詳細な部分をアウトラインで追加していく。

1.7 内なる世界に
 自分なりのまとめ
  すべてを出すことを集中的に行ってきた。それをまとめることはさらに集中力がいる。読むから書くの時代です。
 カントを真似する
  項目ナンバーでロジックを設定する。大分類・中分類は取ってつける。ロジック中心になる。ライブラリも兼ねる。
 書く相手の想定
  前から、μと未唯的な人としてきました。彼女らを通じて、自分と社会に向けていきます。自分史かもしれない。
 宇宙の旅人としての行動
  難しいのは、どこまでの詳細を入れるか、重なりといかに省くかです。構造中心に作り上げたので、余分が多すぎる。

1.8 社会に提案
 肯定的な人生観
  未唯空間で認識した、自分自身のキーワードを否定的に扱うのではなく、肯定的な形で人生としてまとめる。
 ローカルの力
  グローバルの外向きに対して、自分の中のローカルの力を生かして、それなりに作り上げた。その中で循環させていく。
  価値観の逆転
  価値観の逆転を行うシナリオです。それを行うのも、無視するのも自分たちで決めてください。私には縁がない世界です。
 どこへ飛ぼうか
  自分に還ることで、自己を確立し、存在と無での宇宙の旅人の中に入ることができる。どこでも飛んでいくことができる。
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iPad2の生活環境

iPad2での環境

 iPad2で打っています。スタバのツイッター検索サイトを見つけたので、「スタバで手作りの誕生日メッセージカードをもらった。嬉しかった。」というツイッターを再録。

 iPadでデジタルライブラリを作り上げる。機能を見る限りはないので、パソコンとつなぎ合わせる。その他はブログとツイッターの道具にしていく。法事の写真を見せろ、とのこと。iPadで写真が撮れたことに気付いた。 iPadのカバーではなく、袋にします。

 iPadのメモを使った、Twitter入力し、PCでブログに編集する。こんなことを試します。入力方法がかなり違います。まだまだ、Twitterが出てくるタイミングがわからない。ブログもTwitterもアドレス帳に設定できた。

 iPadのカバーは書類袋にしましょう。iPadとはわからないでしょう。無印良品とハンズで見てきます。起きました。寝ながら、ブログのチェックとTwitterが観れる。

未唯空間のエッセイ版

 OCRの入力は止めて、未唯空間のエッセイ版の考える部分に向かいます

 自分編の最後を変えました。外なる世界を内に取り込むことです。お坊さんにもこの感覚を聞きたかった。この感覚についてこれるのは宗教者ぐらいでしょうか。

 仕事編の役割は未唯空間全体の仮説・実証です。次期ネットワークからの店舗活性化も社会活性化の先駆けです。

 本・図書館編の最終目標は地域コミュニティの意識と知識の支えにすることです。読書量が14500冊を超えて分かったことです。

今日からダイエット

 今日からダイエットです。法事の時のしゃぶしゃぶは一人7千円です。これの元を取れるぐらいのダイエットです。

 週日はスタバだけで済ましましょう。Iさんとのあいさつがあれば、持ちこたえられます。月・木のサウナでの計量が進捗の目処です。

 難しいのは土・日の午後です。家での入力作業での間食ですね。それを考える意識が上前ることが出来るかです。

 ダイエットの目標を決めていません。とりあえずは、六月のヨーロッパ鉄道旅行を想定します。

人間の鎖

 プーチン選挙への抗議の人間の鎖。バルト三国の首都をつないだのを想起。宇宙から見える大きさになっていくのか。

 リトアニアとの関係があると気に、1989年の人間の鎖を知りました。
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裏ロジック 数学編

2.1 真理は数学に
 あるとしたら、数学
  数学に真理を求めたのは、私にとって重大な決意だった。その時には、就職とか、将来の生活は考えていなかった。
 考えることが基本
  数学科は考えていればよかったし、四方さんに会って、考える意味・姿勢を習得できた。そして、多様体に出会った。
 社会を見る
  多様体は未来の社会を体現している。抽象化しても肝心なものが残り、動き方が明確になります。社会が見えた。
 居場所ができた
  多様体は豊富なものを含んでいた。無限次元空間に私の居場所ができたことで、本当の自由を手に入れることができた。

2.2 トポロジーの考え
 幾何学を感じる
  数学とは、空間の中でインバリアントを見つけて、空間を再構成するものです。同時に、そのイメージを感じるものです。
 いつもゼロから考えた
  数学の一番の強みはゼロから考えて、作り上げられることです。素直に考えれば、答が空間イメージが出てきます。
 複雑性で救われた
  複雑性はトポロジーの考えを社会に当てはめたもの。複雑で空間を割れば、簡単になるのに、簡単で割るから複雑になる。
 数学の手法化
  現実的な方法として、五次元シートを作った。{ローカル、グローバル}×{Think、Act}で四次元。それに中核を加えて五次元。

2.3 数学は先駆け
 規則のはじまり
  平面での体系が空間をつくる。経験から理論への方向ができました。その上で、成り立つルールを競って、探し出した。
 算数から数学へ
  ルールを変えれば、空間は変わる。新しい数学がつくられる。物理などの束縛されない、数学の独立性と先行性が発揮されてきた。
 自然な発想
  組織と同様に、座標軸という制約の中にいたいという気持ちは分かるが、よく考えると、ローカルから発想する方が自然です。
 時空間を創る
  こうして、数学は座標軸などのグローバルでの制約の時を経て、ローカルから全体を創り上げる世界に入り込んだ。

2.4 社会に適用
 多様な発想
  数学者は多様な目で社会を見ている。数学者がいないので、社会は組織に支配され、窮屈なものになってしまった。
 数学思考
  インターネット活用で、個人が武器を持つようになった。リテラシーとしての数学思考を使えば、力を発揮します。
 社会変革を求める
  {ローカル、グローバル} ×{Think、Act}の五次元シートで仕事編で試した。インバリアントを変えると、社会変革はできる。
 生活規範
  デカルトは哲学に当たり、生活規範をつくり、社会の煩わしさから逃れた。それに見習って、生活規範を作る。

2.5 未唯空間の理論
 4つのつなぎ
  4つのステイタスと4つのつなぎ、facilitation, Interpretation, Realization, Empowermentで未唯空間をつくる
 対応する考え
  仕事編でライブラリとコラボレーションがキーになった。未唯空間を補完して、現実化する。
 カバーリング
  トポロジーの基本は関係性です。近傍系から特異点を除いて、カバーリングして、関係を保証する。これは有効な手法です。
 ふつうの理論化
  数式とか、ホメロジーとか連鎖というイメージを目論んだが、難しい。そんなカタチにすること自体が無意味です。

2.6 新しい数学
 自己中心
  エッセイとして、まとめることを生活の中心に置く。自分の時間は自分で使う。これらは自己中心でしかできない。
 7つのジャンル
  自分、数学、社会、歴史、仕事、本・図書館、生活の7つのジャンルと、それらの関係を対象に事例を作り出す。
 考え、感じたこと
  新しい数学を通して、新しい生活についても言及する。存在と無の世界で、何を頼って生きればいいのか。
 電子書籍
  グランド・セオリーとして、カタチにした数学をまとめていく。プレゼンの技術を生かして、電子書籍にしていく。

2.7 具体的課題解決
 ローカルから思考
  デカルト平面全体では、次元に縛られる。空間は同一の次元で拡がっているのではなく、様々な要素が絡み合っている。
 グローバルとの関係
  ローカルから発想して、同じような部分をつなげて、空間を作ることで、「位相」がなりたち、計算が成り立つ。
 アナロジー
  数学で証明されたことは一般的な空間とか、具体的な事象での挙動を保証される。数学はアナロジーから成り立っている。
 無限次元空間
  数学の魅力は、無限の自由度です。無限次元という考え方が理解できれば、社会の制約に縛られずに、どこでも住める。

2.8 社会の基本理念
 書き方
  考え方だけではなく、書き方自体も未唯空間の目的にする。あわせて、カント的な思想そのものもターゲットにする。
 本質を表す言葉
  ニーテェとかデカルトのように、本質を表す言葉を見つけたい。そのために、全面的な見直しをしていく。
 数学の先進性
  数学の先進性を皆に理解してもらいたいが、その前に、トポロジー自体を理解してもらうことです。分かりやすい説明を行う。
 変わってもらう
  人に変わってもらうことは簡単ではない。とりあえずは、効果を信じて、行動して、実感してほしい。一気には変わらない。
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ヨーゼフ・シュムペーター 『資本主義・社会主義・民主主義』

『政治哲学』より

政治家の支配

 民主主義とは人民が人民を支配することであった。ルソーはそれを通して一般意志が実現されると考えた。あるいは功利主義者たちは、民主主義を通して、最大多数の最大幸福、すなわち公益が実現されると考えた。シュムペーターが古典的民主主義学説と呼ぶ理論においては、個々の人民の意志と人民全体の意志が一致すると理解されていた。

 シュムペーターは個々の意志と全体の意志が一致したものを「公益」だとするが、このような公益は存在しないと主張する。公益というものの内容は、個々人や集団の間で異なるものなのである。さらに人民たちが理性的に公益や全体の利益を発見できる力があることにもシュムベーターは懐疑的である。シュムペーターはグレアム・ウォーラスの『政治における人間性』をひきながら、現実の有権者に見られるのは「責任感の減退」「思考力水準の低下」「非論理的な力に対する過度の敏感」だと言う。それは公益を発見しようとしている市民というよりは、おのれの欲望を追求している消費者の姿勢なのである。

 古典的民主主義学説の理論的な難点と現実の有権者の姿を見て、シュムベーターは別の民主主義を提案する。古典的民主主義では第一義的な目的は選挙民に政治問題の決定を帰属させること、代表の選抜は第二義的ものとされた。シュムペーターは、この関係を逆転させ決定を行うべき人々の選挙を第一義的なものとしようと提案する。人民の役割は政府を作ることであり、「民主主義的方法とは、政治決定に到達するために個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行うことにより決定力を得るような制度的装置」なのである。

 民主主義とは端的に言えば、人民が彼らの支配者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会を与えられおり、支配者たらんとする人々が選挙民の投票をかき集めるために自由な競争をすることを意味しているだけである。すなわち、シュムペーターは「民主主義とは政治家の支配」だと言う。

エリート民主主義

 シュムペーターは社会主義の台頭と資本主義の没落への予感の中で、このような民主主義論を提示した。社会主義における民主主義は資本主義下の民主主義(ブルジョア民主主義)とは異なり、人民の意志が実質的に表明される、より高次の民主主義だとの議論があった。シュムペーターの民主主義論は、民主主義を資本主義と社会主義から切り離し、それをある種の制度として捉えたものだと言える。制度であるから、それは資本主義体制においても社会主義体制においても導入可能なものとなる。こう捉えることで、ブルジョア民主主義とプロレタリアート民主主義とどちらがレペルの高い民主主義かという不毛な論争を避けることが可能になる。同時に競争環境なき、現実の社会主義下の民主主義は制度的に民主主義とは言えなくなる。

 シュムベーターにとって民主主義とは何らかの社会の種類でも道徳的理想でもない。それは政府を選び、それに権威を与える政治的方法、制度メカニズムなのである。有権者は投票により、一定の人々(政治家)に次の選挙まで支配する資格を与える。これがうまく機能するためには、有権者が理性的判断ができるといったことを求めはしない。政治エリートたちが、競争をするかどうかにかかっている。これは市場競争と消費者の関係を政権選択と有権者の関係にあてはめた議論だとも言える。

 ルソーは『社会契約論』で「イギリス人が自由なのは選挙の時だけだ」と言った。これは間接民主主義の限界と問題点を指摘した発言だと言える。これに対してシュムペーターは「選挙の時だけ自由だ」ということで全く問題はないと言っているわけだ。大衆民主主義時代にふさわしいエリートによる支配が、民主主義という制度なのである。民主主義とは人民の自己統治だとする見方の非現実性を、シュムペーターはドライに指摘したのである。

 シュムペーターは民主主義を制度として捉えているが、それがうまく回っていくためのいくつかの条件をあげている。これは民主主義をエリートの競争と選抜だと捉えるのに批判的な人も聞く価値がある。さらに間接民主主義のより良い制度を構想する上でもきわめて示唆的であるばかりか、政治エリートの資質を規範的に考える上でも有効である。

 第一の条件は政治家が高い資質をもっていなければならないことである。第二の条件は有効な政治的決定の範囲を限定的に考えるべきだということである。つまり、自己の政治生命のために不断の競争にさらされている政治家が行いうる決定の範囲は限定的だということをわきまえなければならない。第三の条件は、民主的政府は、強烈な団体精神をもち、よく訓練された官僚をきちんと把握しなければならないことである。第四の条件は「民主主義的自制」である。それは国民の側で法令を遵守することだけでなく、政治家の側でも法令や議会ルールさらにはエチケットに従って行動することが求められる。第五の条件は政治家たちの競争が有効に行われるためには、異なった意見に対する極めて広い寛容の精神が必要なのである。

民主主義の転換

 シュムペーターの議論の最大の学問的功績は、民主主義の科学的実証的研究への道を拓いた点にある。つまり、個別の意志と全体の意志は一致しうるのかとか、人民が人民を支配するとはどのようなことかといった哲学的論争から民主主義を解放したのである。民主主義は制度であり、エリートの競争である。だとすれば、エリートが実質的に競争しているかどうかは経験的に確認できる。のみならず、民主主義のパフォーマンスの比較も可能になる。 1950年代以降、アメリカで花開くロバート・ダールらの民主主義の実証研究は、シュムベーターによる民主主義像の転換なくしては実現できなかったとも言える。シュムベーターは政治学の科学化に貢献したのである。

 しかし、民主主義をエリートの競争とした代償も小さくはない。現実の民主主義では「選挙の時だけ自由な有権者」が増加し、人民の政治的な意見は消費者的欲望としてエリートに届くか、さもなければエリートに対する怨念として社会に沈殿していくかのどちらかである。大規模化し複雑になった社会で、個別の意志が全体の意志にどのようにつながるのか、公益を見つけ出すことは可能なのか、そして私たちが私たちを支配することは可能なのかという問題に回答を与えることは難しい。

 エリートの支配としてではない民主主義を描くことはできるのだろうか。シュムベーターが政治哲学に突きつけた問題は、今もとても重たい。
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シャンタル・ムフ 『政治的なるものの再興』

『政治哲学』より

ラディカル・デモクラシ-

 現代社会の特徴は、人々の利害と価値観の多様化にある。多様化した利害と価値観は時に鋭く対立し、それを調停することは極めて難しい。これは民主主義を悩ませる問題でもある。利害と価値観の対立は、社会全体での合意形成を阻む要因となるからだ。

 現代民主主義がもつこの種の難しさに対応する方法がいくつかある。第一はルソー流に、人々がいだく利害や価値を特殊意志とし、その集計ではなく、人民の一般意志を探し求めることだ。第二は多数決でさばさばと決めていくことである。シュムペーターの競争的民主主義はこれに該当する。第三は粘り強く、各人の利害と価値観の変容を模索し、合意の地平を広げていくことだ。熟議民主主義はこれに該当する。これらの民主主義観はそれぞれ魅力的だ。それらの民主主義観では、対立を乗り越えられるべきものと捉えている点に共通性がある。しかし、人間にとって対立とはネガティヴな意味しかないのだろうか。民主主義にとって対立が実は積極的な意味をもっているとしたのが、ラディカル・デモクラシーである。その代表的作品がムフの『政治的なるものの再興』である。

 ムフはカール・シュミットを参照して政治概念を提示する。シュミットが政治を「友敵関係」と定義したことは有名だ。ムフは友敵関係で問題となるのが「彼ら」の画定によって「我々」を作り上げていくという事実だとする。この画定作業は人間がアイデンティティを確証していくことでもある。ここに政治的なるものの重要性がある。つまり「政治的なるものは、すべての人間社会に内在する一つの次元として、またわれわれのまさしく存在論的条件を決定づける一つの次元として、把握される必要がある」。

 このように政治における対立は人間のアイデンティティ確証にとって不可欠の次元なのである。シュミットからヒントを得たムフは、対立的関係をある種の民主的な関係におきかえようとする。対立関係にある他者を「敵」とするならば、それは殲滅の対象にしかならない。ムフは対立者を殲滅の対象ではない「対抗者」にしていかなければならないという。このように対立する他者を敵ではなく対抗者として捉えることで、政治空間は「闘技」の空間となる。ムフが言う「闘技的民主主義」である。

 民主主義は何らかの課題を決定していくものではなく、各人のアイデンティティ形成に不可欠の次元であるとムフは主張するわけだが、その際、人間のアイデンティティを本質主義的に理解してはならないことに注意を喚起する。本質主義とは、ある属性をその人の本質として捉えようとする思考である。例えば、伝統的マルクス主義であれば、階級という属性が人間の本質であったように。

 ムフは人間主体を「脱中心化され脱全体主義化された行為者」として理解すべきだと言う。私は日本人、男、労働者、父親、夫、コミュニティ・ボランティアといったさまざまな属性をもっている。各属性に応じて、他者との関係ができあがる。それは他者との協力かもしれないし対立かもしれない。そのようなつながりの地点において、主体というものは構築されるにすぎない。このような人間の捉え方は、「○○が人間の本質である」という捉え方を拒絶すると同時に、抽象的な人間概念も拒絶する。かっての民主主義論のような人民一般といった規定はここにはない。人間はたえず個別的なものであり、多様なものであり、そして異質なものなのである。これらの個別性や多楡注を承認していくことが民主主義の課題なのである。そしてその相互承認が「闘技」でもある。

 ムフの民主主義は、政治空間が既に確固として存在し、それをどのように民主化していくのかというものではない。人間が形作っているさまざまな社会関係に民主主義を拡張し、その中で民主的実践を増殖していくことが民主主義の意義なのである。ラディカルとは「根源的」「根底的」という意味である。ムフの民主主義は社会の根源からの民主化を目指す点でラディカルであり、さらに主体のあり方を根源から問い直す点でもラディカルなのである。

新しい民主主義の可能性

 1980年代以降の政治のトレンドは、市場化の推進であったと言える。 1980年代の新保守主義、その後登場したネオ・リベラリズムは、福祉国家の下で肥大化してきた政府活動の市場化を目指した。いわば公的活動の私化(市場化)である。

 福祉国家の下では個々人が直面する問題の一定部分は、政府活動によって保護されていた。この政府活動が縮小し、市場にゆだねられると、かつて保護されていた問題が一気に可視化されると同時に、個々人はその問題を私的に(市場を通して)解決せざるをえなくなる。つまり、貧困、格差、女性の抑圧、社会的排除などがまさに裸の個人に襲いかかったのである。市場化の中、私的領域で抱え込まざるをえない問題を再度、公共領域に投げ返す、すなわち再政治化したのが、ヨーロッパを中心に登場してきた新しい社会運動である。新しい社会運動は従来の労働運動のような階級を主体とした運動ではない。さまざまな課題を掲げた運動体のゆるやかなネットワーク的運動である。それらは自分たちの利益の実現を目指すだけでなく、自分たち自身のあり方も問い直していくものであった。

 ムフのラディカル・デモクラシーは抽象度の高い議論である。しかし、そこで描かれている政治は, 1980年代以降、先進国で登場した新しいカウンター勢力のありかたと符合している。ヨーロッパでは今でも、移民の運動やエコロジーの運動などが次々に登場し増殖を続けている。政府政策を批判するだけでなく、文明のありかたをラディカルに問い直すものもある。

 選挙や個別争点の評価の際にどのような判断をしたらいいのか、民主主義を制度としてどのようにしていったらいいのかといったことは民主主義の依然として大きな課題である。同時に、私たち自身が自分たちの生活諸領域を他者とともにどのように民主的に組み替えていくのかも民主主義の課題である。ムフの議論は、民主主義社会に生きる私たちの生き方に再考をせまるものである。
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7回忌で坊さんと会話

7回忌

 今日は父親の7回忌です。奥さんと妹が仕切っていた。集まったのは、未唯を除く家族4人と妹です。未唯は動物病院で手術が2件あるので、法事には出席できず。次男は静岡から朝、出てきたそうです。ミニ・クーパー・ワゴンで2時間とのこと。

 お坊さんは近所のお寺のジュニア。威厳はありません。こちらも、5人なので、のんびりと。正座はしびれるので、最初から胡坐です。妹が許可をもらっていた。

震災と親鸞

 お経が終わり、坊さんから講話。元々、正座ではなく、胡坐だったという話から、震災と親鸞の話になりました。法然と親鸞の南無阿弥陀仏について、かなりの知識を持っているので、震災がらみでお坊さんにぶつけました。親鸞の時と同じように、今は変革の時です。状況は似ています。そんなテーマにしていくつもりでロジックの組み立てを行いました。

 その時点で、奥さんから無関心と時間がないというサインが送られてきた。その後に、カントとかニーテェという西洋哲学に振るつもりだったが、取りやめました。お坊さんもこういう話をする相手がいないので、残念そうでした。

大きな肉のしゃぶしゃぶ

 お坊さんが帰らえられた後に、妹に怒られました。12時のしゃぶしゃぶへ行く時間が遅れた。孫たちが待っているそうです。本当に豪勢な肉でした。腹いっぱいになりました。

 奥さんには、この法事が終わったら、ダイエットに入ると宣言していたので、心置きなく食べました。

豊田市図書館は人でいっぱい

 今日、10時からの新刊書争いに完全に出遅れて、3時半過ぎに、図書館につきました。

 図書館は普段の2倍の人が居た。原因は不明です。そういえば、暖房が効いています。このせいかも知れない。感じとして、豊田市の町に来ている二との半分ぐらいいます。

 それに逆比例で、新刊書コーナーは壊滅状態でした。

豊田市図書館で借りた7冊。一冊は去年、予約した本なので、新刊書コーナーの本は6冊です。今までの最低です。

 311.23『西洋政治思想史』

 767.8『K-POP』遥かなる記憶

 993.61『粛清』

 548.29『iPad2ハイパーナビゲーター』パワーユーザーの上級テキニックを完全凝縮!!

 764.3『楽都ウィーンの光と陰』比類なきオーケストラのたどった道

 336.49『20代で絶対知っておきたい働く女性のマナー』24時間が“ハッピータイム”に変わる本!

 749.09『印刷業界の最新動向とカラクリがよ~くわかる本』 業界人、就職、転職に役立つ情報満載 「出版デジタル化時代のビジネスモデルを展望する! 次男が関係する業界です。今の状況はシャープのTVの販売不振で大きく変わったとのこと。

iPad2の再構成

 図書館に予約しておいた『iPad2ハイパーナビゲーター』が来たので、奥さんが使っていないiPad2を当分借りて,テストすることにした。

 販売店のコミュニケーションとかポータルをイメージします。
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国民統合をめざす「新しい政治」の系譜学

『現代史のリテラシー』より

ジョージ・L・モッセ『大衆の国民化-ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化』 (佐藤卓己、佐藤八寿子訳、柏書房、一九九四年)

「ナポレオン戦争から第三帝国期に至るドイツの政治シンボルと大衆運動」を原著の副題とする本書は、ナチズム研究にシンボル分析を導入してファシズム理解に新局面を開いた名著である。二〇世紀のナチズム(国民社会主義)をナショナリズム発展の極致ととらえ、フランス革命以来「世俗宗教」となったナショナリズム(国民主義)を大衆的な儀礼や神話の領域から考察している。

そもそも、「大衆の国民化」というタイトルは、アドルフーヒトラーがその国民社会主義運動の目標を述べた『わが闘争』第一巻(一九二五年)の次の言葉から引かれている。

「広範な大衆の国民化は、生半可なやり方、いわゆる客観的見地を少々強調する程度のことでは達成されず、一定の目標をめざした、容赦のない、狂信的なまでに偏った態度によって成し遂げられるのだ」。

ドイツ史研究者の間では早くから注目されていた著作だが、その「国民化」概念の重要性がわが国で評価されるようになったのは翻訳刊行以後といえよう。エリック・J・ホブズボームが「伝統の大量生産」(『創られた伝統』所収)の冒頭で注記しているように、構築主義的ナショナリズム論の先駆としても評価できる。日本語版に寄せた序文でモッセは執筆の目的をこう要約している。

「〈ヒトラーの成功はどのように説明できるのか?〉 この問いは絶えず新しく投げかけられている。ナチ党の権力掌握への「政治」は十分明らかにされたし、その社会的諸前提の解明に多くの歴史家が携わってきた。しかし、国民社会主義を勝利に至らしめ--そして今日もなお広く影響を及ぼしている--「政治」の新たな認識については、総じて言えば、隅のほうで言及されるのみであった。本書が取り組んだのは、まさに自己表現によって政治とよばれうる“政治”の把握である。この時代を体験した我々の多くは、ナチ宣伝を、また大衆の感性的動員を軽蔑的に語るが、次の事実を忘れている。つまり、問題は主権在民に基礎付けられ、すでにルソーとフランス革命以来、近代の中心課題の一つと認められてきた政治様式なのである。すなわち、いかに住民大衆を国民国家に組み込み、いかに彼らに帰属感を与えることができるか、という問題である」。

こうした大衆参加の「ドラマとしての政治」が、ナチズムで終わらずテレビ時代、さらにインターネット時代の現在も「美しい装い」で演じられていることは改めて確認するまでもあるまい。

モッセは、大衆が国民として政治に参加する可能性を視覚的に提示する政治様式を「新しい政治」と呼ぶ。それは議会制民主主義者が理想とする合理的討論ではなく、国民的記念碑や公的祝祭などで表現された美意識に依拠する大衆政治の様式である。この「新しい政治」はルソーの一般意志、フランス革命の人民主権に端を発し、一九世紀を通じて大衆の自己表現と自己崇拝の様式を発展させ、国民社会主義を極致とする「世俗宗教」としてのナショナリズム運動において絶大な威力を発揮した。こうした視点から、モッセはナチズムを宣伝操作の運動ではなく、共感と合意の運動として捉えている。大衆の政治参加の感覚から民主主義を理解するならば、ヒトラーもまた民主主義者となる。資本主義を恐慌から発想することが許されるなら、民主主義をファシズムから思考実験することも許されよう。こうした文脈から、以下のように独特な章立てがなされている。

第一章・「新しい政治」、第二章「政治の美学」、第三章「国民的記念碑」、第四章「公的祝祭-源流と展開」、第五章「公的祝祭-演劇と大衆運動」、第六章「諸組織の参入-体操家・男子合唱団・射撃協会・モダンダンス」、第七章「労働者の貢献」、第八章「ヒトラーの美意識」、第九章「政治的祭祀」。

第一章で大衆参加のドラマを演出する「新しい政治」を定義した後、その政治美学を文学、美術、建築、演劇などから多角的に分析し(第二章)、その担い手となった建築家や芸術家(第三章)、あるいは体操家や合唱団などの市民サークルや教会(第四・五よ(章)、さらには労働者組織(第七章)までもがナチズムの政治的祭祀(第八・九章)に統合されていく過程をドラマチックに描き出している。また、分析の対象は絵画、彫刻、建築、賛美歌、演劇からスポーツ、労働者文化までドイツ文化史全域に及び、その分析には歴史学はもちろん神学、社会学、文化人類学、芸術学などの成果が盛り込まれている。特に、政治的祝祭の舞台である「聖なる空間」の構成要素、記念碑や広場、劇場などの分析は魅力的で、メディアーイペント史、ファシズム建築史としても読めるだろう。さらに「モダ三スム芸術はナチズムにどう受容されたか」(第五章)、「自立的諸組織(アソシエーション)の公共圏への参入はナショナリズムに何をもたらしたか」(第六章)、「労働者運動はナチ運動にいかなるモデルを提供したか」(第七章)という魅力ある個別テーマにも一定の回答を出している。

こうしたシンボル政治論によれば、大衆は政治組織によってのみならず、祝祭や神話、記念碑、美術、小説、音楽、演劇など広範な文化活動によっても政治の舞台に引き込まれる。つまり、日常生活のあらゆる相互行為は政治的意味を帯びてくることになる。ちょうど、キリスト教における良心の糾明で「行い」も「怠り」も罪になるように、政治の舞台では、参加するにしろ無視するにしろ非政治的であることは許されない。モッセが政治的無関心という大衆人の政治的な罪の言い訳に論駁し、大衆政治の現実に手を汚すことなく「イデオロギーの繭」に閉じこもった教養市民に厳しい批判を向けるのはこのためである。その意味で、ナチズム運動の成功を「プロパガンダ」や「テロル」という用語で説明することにモッセは批判的である。

「プロパガンダによってナチ党が幻影のテロリスト世界を樹立しようとしたという告発は、部分的にしか支持できない。テロルの存在は誰しも否定はできまい。だが、効果を上げるためにテロリズムの刺激を必要としないナチ文学やナチ芸術の正真正銘の人気を裏付ける証拠には十分な蓄積がある。これはまた同様に、ナチ党の政治様式についても妥当する。つまり、ナチ党の政治様式は民衆の好みにあったお馴染みの伝統に根ざしていたので人気を博したのである」。

つまり、ヒトラーの成功は、人々を操る宣伝技術によっていたのではなく、大衆が参加を体験しアイデンティティを獲得するシンボリックな同意承諾によって達成されたのである。

「ヒトラーの趣味は幼稚だと言われてきた。洗練された知識人の目から見れば、それはそうなのだが、ヒトラーの趣味は伝統的な民衆の理想にまったく調和していた」。

こうしたナチズム=ヒトラー理解には、「ドイツ国民もナチズムの絶対的なプロパガンダに操られた被害者だった」とする戦後的弁明に対するユダヤ人モッセの批判がこめられていよう。反ユダヤ主義について、モッセは経済的社会的要因に対する文化や神話の自律性を主張している。その妄想は経済的社会的な意味でのユダヤ人の存在やその解放とまったく無関係であり、むしろユダヤ人というフンンボル」が中産階級の疎外感や社会的ヒエラルヒーの危機感、あるいは都市の不安などにたまたま結びついたにすぎなかった。こうしたシンボル作用の解明には、宗教的祭儀の効果を説明する神学のカテゴリーが必要だとモッセは主張している。その結果、統計数値や官製文書に基づく歴史研究への懐疑的姿勢とともに、三文作家のベストセラー小説やキッチュな複製芸術などそれまで歴史家がすすんで取り上げようとしなかった大衆文化への真剣な取り組みが、本書の特徴となっている。
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絶滅型反ユダヤ主義の原典なのか アドルフ・ヒトラー『わが闘争』

『現代史のリテラシー』より

アドルフ・ヒトラー『わが闘争』 一九二五・二六年

かれら〔ユダヤ人〕がしばしば今まで住んでいた生活圏を放棄してきたことは、かれらの意図によるものではなく、追出された結果であり、かれらは、時々悪用した母体民族によって追出しを受けた。だがかれらの自己繁殖は、すべての寄生虫に典型的な現象であり、かれらはつねに自己の人種のために新しい母体を探している。(中略)つまり悪性なバチルスと同じように、好ましい母体が引き寄せられさえすればますます広がってゆく寄生動物なのである。そしてかれの生存の影響もまた寄生動物のそれと似ている。かれらが現われるところでは、遅かれ早かれ母体民族は死滅するのだ。

戦争開始時に、そして戦争中も、あらゆる階層から出て、あらゆる職業をもったわが最良のドイツ労働者数十万が戦場でこうむらなければならなかったように、これらの一万二千か一万五千のヘブライ人の民族破壊者連中を一度毒ガスの中に放り込んでやったとしたら、前線での数百万の犠牲者がむなしいものにはならなかったに違いない。それどころか、これら一万二千のやくざ連中が適当な時期に始末されていたとしたら、おそらく百万の立派な、将来にとって貴重なドイツ人の生命が救われたかも知れないのだ。だが、まつげ一本動かさずに数百万の人々を、戦場で血にまみれて死んでゆくままに放置したにもかかわらず、一万あるいは一万二千の民族を売る者、奸商、高利貸、詐欺師等を貴重な国民の宝物とみなし、それゆえかれらに触れることができないなどと公に布告することは、たしかにブルジョア階級的「政治」にお似合いのことでもあった。

ユダヤ人絶滅政策--ナチ自身の言葉で「最終的解決」--の発生メカニズムの説明方法において、ドイツ現代史の研究者は「意図派」と「機能派」とに分類されてきた。青年時代に反ユダヤ主義の思想を抱いた独裁者ヒトラーがそのプログラム通りに、一貫してユダヤ人の絶滅を目指しガス室を実現したとする「意図派」に対して、「機能派」は多頭支配の中でヒトラーを取り巻く諸勢力が競い合ってユダヤ人迫害をエスカレートさせた結果と解釈する。当然ながら、「意図派」は第三帝国の政策決定におけるヒトラーの絶対的な指導力を前提としており、「機能派」はナチ党内部の権力闘争の関数としてヒトラーの指導力を相対的に低く評価する。絶えず相対立し分裂を孕んだナチ運動の中で、総統ヒトラーの役割は分裂を回避し団結を維持することであった。そのため、多様な支持者の利害関係から超越した外敵シンボルとしてユダヤ人は最適であった。こうした反ユダヤ主義は運動のダイナミズムを維持するために繰り返されて過激化し、閉塞状況の中で単なるレトリックを超えた『袋小路からの。脱出策』(M・ブローシャート)として物理的絶滅が選択された。こうしたシステム維持機能論の他に、東欧ロシアに建設を予定したゲルマン大帝国のための強制移住政策、すなわち「民族の耕地整理」(G・アリ士との関連、あるいは独ソ戦の展開による食料問題や軍需問題を重視する機能的説明も有力である。いずれにせよ、社会構造史としてモデル化しやすい「機能派」が学界では主流だが、世間一般の通説としては「ヒトラー主義の論理的帰結」とする「意図派」的説明が受け入れられている。歴史家の批判を浴びながらもD・J・ゴールド(ーゲン『ヒトラーの自発的処刑執行人たち』二九九六年)がドイツでベストセラー化したのも、「絶滅型反ユダヤ主義」が普通のドイツ人にまで浸透してホロコーストを引き起こしたという直線的明快さにある。

実際、ヒトラーの主著『わが闘争』には、「絶滅型反ユダヤ主義」のステレオタイプが散りばめられている。この引用箇所も「意図派」の著作でしばしば引用されてきた。もちろん、「ヘブライ人の民族破壊者連中を一度毒ガスの中に放り込んでやったとしたら」という文句は、直接アウシュヴィッツのガス室を意味するものではない。また、害虫駆除・殺菌用のチクロンBが選ばれたのも決して「寄生虫」「バチルス」という比喩のためではない(最初は一酸化炭素が使われた)。それにもかかわらず、引用箇所は二つの点で重要である。

一つは、『わが闘争』にあふれるユダヤ人に対する独特な形容や比喩--たとえば「腐っていく死体の中の姐虫」「黒死病よりも悪質なペスト」「もっとも悪質な病原菌保菌者」「人類の永遠のバクテリア」「民族の毛穴から血を吸う蜘蛛」など--は、病理・衛生・生物学的な発想に依拠しており、ユダヤ人の宗教的定義を真っ向から否定する極端な人種的定義となっていることである。「血のボルシェヴィキ化を企むユダヤ人」の排除にも、「血のボイコット」たる人種法にも、人種衛生学や民族優性学の技術と知見が総動員された。ユダヤ人やロマ(いわゆる「ジプシー」)に対する絶滅政策を、精神薄弱者や精神病者への安楽死政策、労働忌避者や同性愛者など民族内部の「劣等分子」の強制収容や断種政策などと並ぶ「負の人種改良」とすれば、それは健全なアーリア人種の出産奨励や母性保護など「正の人種改良」と表裏をなすものであった。

もう一つは、ヒトラー自身が戦場で体験した「毒ガス」が象徴する第一次大戦によって、敗戦国ドイツが負ったトラウマである。ヴェルサイユ体制下のあらゆる社会的不満をヒトラーは国際的ユダヤ主義の陰謀と結びつけた。反ユダヤ主義の伝統は紀元四世紀にまで遡れるとしても、「アウシュヴィッツ」を生み出した直接の契機は、第一次大戦による無意味な大量死という国民的体験であろう。つまり、「奸商、高利貸、詐欺師等」という伝統的なユダヤ人イメージは、国民国家成立の一九世紀後半に流行した「人種衛生学」と結びつき、第一次大戦の厳しい経験の中で「民族共同体内の害虫」として鍛え上げられた事実を『わが闘争』はよく示している。世界史を優勝劣敗の人種競争と解するヒトラーの結論はつぎのようになる。「ユダヤ人問題を解決することなしに、ドイツの再生や興隆を別に試みることはすべてまったく無意味であり、不可能でありっづけるということである」。

こうしたヒトラーの意図は、「最終的解決」との直接的な因果関係はともかく、自殺の前日の日付をもつ「政治的遺言」の末尾まで一貫している。

「他の何ものにもまして、国家の指導者とその信奉者たちは人種法を厳重に維持し、あらゆる民族の毒殺者たる国際ユダヤ主義に対して容赦なく反対しなければならないのだ」。

だが、その一貫性にもかかわらず、「意図派」の議論は、ホロコーストの責任を独裁者ヒトラーの「個人責任」に集約してしまいがちであり、それを可能にしたドイツ社会やユダヤ人難民の受け入れを拒んだ周辺諸国の政治的責任を見落とす傾向もあるようだ。
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危機感から幸せに切り替える

未唯へ

 ドリップをラテにしたら、早々と用意をしていたバリスタが後方で慌てていた。豊田市の時には、ラテをモカにしたら、「もう、ミルクを泡立てたのに」と怒られました。やはり、連携プレーなのでしょうね。

 ラテに合うお菓子がない。あっさり系か、サンドイッチ系ですね。とりあえず、北海道のバターサンドにしました。

裏のロジックに真理があるのか

 考えるのに目先を変えて、「裏のロジック」を作っていた

店舗の活性化

 今のシステム全てが、One of themのライブラリになります。その元で、販売店は自分たちで考えればいい。未来のために、今のために何をすべきか。特に店舗の活性化から地域の活性化に持っていくために何をするのか。

 売るのが店舗ではない。社会に存立するのが店舗です。危機意識が少なくて、メーカー頼りになっている。コンビニよりも低レベルです。自分たちで考えて、上げてこない。何のために地域にあるのか。

地域コミュニティ

 地域コミュニティは2015年までに、コンセプトをキッチリと固めないといけない。30年までに作り上げます。2050年までに、地域コミュニティから社会に変えさせていきます。

 この特徴はいろいろ所から色々な試みで出てくることをいかに、横軸を通すことです。流れを定めていく。トルコの地域コミュニティと日本の田舎が一緒になろうと、ギリシャが一緒になろうと、それはどうでもいいです。だから、政策よりもはるかにでかいです。展開力は強いはずです。

危機感をベースに

 そのベースになるのは危機感であり、ライブラリです。危機感をどう持たせるのか、それをどう意識させるのか、それをどのように社会に発展させていくのか。恐怖だけでは、その時は動くけど、維持できない。


 幸せになれることが一番の原動力です。危機感を契機にするけど、その結果として、幸せになるためです。エネルギーがいくら合っても幸せにはなれません。エネルギーがなくなることの危機感から自分たちの幸せが何かを考えてやっていくための価値観の変化が必要になってきます。
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考えられる生活に戻ろう

考えられる生活

 考えられる生活に戻すにはどうしたらいいのか。今はあまりにもいい加減です。時間だけが過ぎていきます。本から助けが得られるかどうか、わかりません。

 次の次を考え過ぎていると、狭いけど。次程度では、とてもじゃないけど、考えが収まりません。

 本当に、怠けています。考えたら、絶対に出すはずです。どの部分でもいいから、考えましょう。結局、考えるための素材を創ると言いながら、何も作っています。それを出しても、そこに手を入れないと意味がない。一番で、カントをやりましょう。

ネットワーク設置の先

 ネットワークの設置、その前の社内の合意、そんなことよりも先に行っています。ネットワーク増強を機に、販売店に中でどうやって、変革を起こさせるか。当然、ライブラリなど、4つの機能を使っていかないといけない。ネットワーク、ライブラリ、コラボレーションと事務局です。

 そして、希望は一つしかない。

未唯空間の裏ロジック

 裏ロジックの連結部分は、思い切り、考えて、飛びだします。題名だけで振ることも可能です。そうしないと、自由になりません。

 連結部分はそれにしても、武器は数学と歴史と本です。本からの理論を強化します。ひし形みたいなものです。よくわからないけど、裏ロジックで見ていくことです。考えるのは丁度いい。それにしても、未唯空間は膨大ですね。裏ロジックも。

 その一方で、「もういいのかな」と言っています。

言うことと行動すること

 朝のネットワークの会議も何というつまらないことをやっているのかという感覚になります。何も変わらないじゃないか。言うだけで、行動しないのはつらいものです。行動するとさらにつらいです。しがらみばかりで何も動かなくて、すりつぶすだけです。

内なる世界

 こんな世界を私は作った覚えがないのに。どうしても、内なる世界に向かいます。他り出そうか。内なる世界の制約も大きいです。

 まずは、内なる世界からロジックを整理するのも手です。色々な本があります。それを本当に実践していいのか。この認識は変わらない。世の中の常識は信用できない。信用できない以上は動けない。こういった感覚は正論よりも裏側で展開した方がいい。

販売店ヒアリング

 精神を安定させるために、店舗の活性化から始めるか。そのためには販売店経営者へのヒアリングですね。2年前は暴走できた。パートナーと別の関係になっていたから。

 販売店ヒアリングのサファイアに戻って、学習しましょう。あの時に、結論のファクターをどのようにするつもりだったのか。インタープリターをどうするつもりだったのか。あれは、明確な一つの答えでした。1年間で、大きく変わりました。進化しました。

 コラボレーションもポータルの延長戦で考えると、ネットワークと同じ範疇です。ライブラリのデータベース部分はeに任せましょう。事務局だけはよくわからない。パートナーの仕事ですけど。

地産地消とクルマの関係

 市民はエネルギーを使うだけの存在ではあり得ない。地産地消が成り立たない。いかにローコスト・ローエネルギーのコミュニティを作り上げていく。それぞれの地域で異なります。それが端的に表れるのが、クルマです。車を買うだけではダメです。

GMへの説明

 そんなことを考えて、今のGMに去年の3/2の説明をすることにした。

 年替りのGMだから、来年は誰に説明しているのか。
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