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国民統合をめざす「新しい政治」の系譜学

『現代史のリテラシー』より

ジョージ・L・モッセ『大衆の国民化-ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化』 (佐藤卓己、佐藤八寿子訳、柏書房、一九九四年)

「ナポレオン戦争から第三帝国期に至るドイツの政治シンボルと大衆運動」を原著の副題とする本書は、ナチズム研究にシンボル分析を導入してファシズム理解に新局面を開いた名著である。二〇世紀のナチズム(国民社会主義)をナショナリズム発展の極致ととらえ、フランス革命以来「世俗宗教」となったナショナリズム(国民主義)を大衆的な儀礼や神話の領域から考察している。

そもそも、「大衆の国民化」というタイトルは、アドルフーヒトラーがその国民社会主義運動の目標を述べた『わが闘争』第一巻(一九二五年)の次の言葉から引かれている。

「広範な大衆の国民化は、生半可なやり方、いわゆる客観的見地を少々強調する程度のことでは達成されず、一定の目標をめざした、容赦のない、狂信的なまでに偏った態度によって成し遂げられるのだ」。

ドイツ史研究者の間では早くから注目されていた著作だが、その「国民化」概念の重要性がわが国で評価されるようになったのは翻訳刊行以後といえよう。エリック・J・ホブズボームが「伝統の大量生産」(『創られた伝統』所収)の冒頭で注記しているように、構築主義的ナショナリズム論の先駆としても評価できる。日本語版に寄せた序文でモッセは執筆の目的をこう要約している。

「〈ヒトラーの成功はどのように説明できるのか?〉 この問いは絶えず新しく投げかけられている。ナチ党の権力掌握への「政治」は十分明らかにされたし、その社会的諸前提の解明に多くの歴史家が携わってきた。しかし、国民社会主義を勝利に至らしめ--そして今日もなお広く影響を及ぼしている--「政治」の新たな認識については、総じて言えば、隅のほうで言及されるのみであった。本書が取り組んだのは、まさに自己表現によって政治とよばれうる“政治”の把握である。この時代を体験した我々の多くは、ナチ宣伝を、また大衆の感性的動員を軽蔑的に語るが、次の事実を忘れている。つまり、問題は主権在民に基礎付けられ、すでにルソーとフランス革命以来、近代の中心課題の一つと認められてきた政治様式なのである。すなわち、いかに住民大衆を国民国家に組み込み、いかに彼らに帰属感を与えることができるか、という問題である」。

こうした大衆参加の「ドラマとしての政治」が、ナチズムで終わらずテレビ時代、さらにインターネット時代の現在も「美しい装い」で演じられていることは改めて確認するまでもあるまい。

モッセは、大衆が国民として政治に参加する可能性を視覚的に提示する政治様式を「新しい政治」と呼ぶ。それは議会制民主主義者が理想とする合理的討論ではなく、国民的記念碑や公的祝祭などで表現された美意識に依拠する大衆政治の様式である。この「新しい政治」はルソーの一般意志、フランス革命の人民主権に端を発し、一九世紀を通じて大衆の自己表現と自己崇拝の様式を発展させ、国民社会主義を極致とする「世俗宗教」としてのナショナリズム運動において絶大な威力を発揮した。こうした視点から、モッセはナチズムを宣伝操作の運動ではなく、共感と合意の運動として捉えている。大衆の政治参加の感覚から民主主義を理解するならば、ヒトラーもまた民主主義者となる。資本主義を恐慌から発想することが許されるなら、民主主義をファシズムから思考実験することも許されよう。こうした文脈から、以下のように独特な章立てがなされている。

第一章・「新しい政治」、第二章「政治の美学」、第三章「国民的記念碑」、第四章「公的祝祭-源流と展開」、第五章「公的祝祭-演劇と大衆運動」、第六章「諸組織の参入-体操家・男子合唱団・射撃協会・モダンダンス」、第七章「労働者の貢献」、第八章「ヒトラーの美意識」、第九章「政治的祭祀」。

第一章で大衆参加のドラマを演出する「新しい政治」を定義した後、その政治美学を文学、美術、建築、演劇などから多角的に分析し(第二章)、その担い手となった建築家や芸術家(第三章)、あるいは体操家や合唱団などの市民サークルや教会(第四・五よ(章)、さらには労働者組織(第七章)までもがナチズムの政治的祭祀(第八・九章)に統合されていく過程をドラマチックに描き出している。また、分析の対象は絵画、彫刻、建築、賛美歌、演劇からスポーツ、労働者文化までドイツ文化史全域に及び、その分析には歴史学はもちろん神学、社会学、文化人類学、芸術学などの成果が盛り込まれている。特に、政治的祝祭の舞台である「聖なる空間」の構成要素、記念碑や広場、劇場などの分析は魅力的で、メディアーイペント史、ファシズム建築史としても読めるだろう。さらに「モダ三スム芸術はナチズムにどう受容されたか」(第五章)、「自立的諸組織(アソシエーション)の公共圏への参入はナショナリズムに何をもたらしたか」(第六章)、「労働者運動はナチ運動にいかなるモデルを提供したか」(第七章)という魅力ある個別テーマにも一定の回答を出している。

こうしたシンボル政治論によれば、大衆は政治組織によってのみならず、祝祭や神話、記念碑、美術、小説、音楽、演劇など広範な文化活動によっても政治の舞台に引き込まれる。つまり、日常生活のあらゆる相互行為は政治的意味を帯びてくることになる。ちょうど、キリスト教における良心の糾明で「行い」も「怠り」も罪になるように、政治の舞台では、参加するにしろ無視するにしろ非政治的であることは許されない。モッセが政治的無関心という大衆人の政治的な罪の言い訳に論駁し、大衆政治の現実に手を汚すことなく「イデオロギーの繭」に閉じこもった教養市民に厳しい批判を向けるのはこのためである。その意味で、ナチズム運動の成功を「プロパガンダ」や「テロル」という用語で説明することにモッセは批判的である。

「プロパガンダによってナチ党が幻影のテロリスト世界を樹立しようとしたという告発は、部分的にしか支持できない。テロルの存在は誰しも否定はできまい。だが、効果を上げるためにテロリズムの刺激を必要としないナチ文学やナチ芸術の正真正銘の人気を裏付ける証拠には十分な蓄積がある。これはまた同様に、ナチ党の政治様式についても妥当する。つまり、ナチ党の政治様式は民衆の好みにあったお馴染みの伝統に根ざしていたので人気を博したのである」。

つまり、ヒトラーの成功は、人々を操る宣伝技術によっていたのではなく、大衆が参加を体験しアイデンティティを獲得するシンボリックな同意承諾によって達成されたのである。

「ヒトラーの趣味は幼稚だと言われてきた。洗練された知識人の目から見れば、それはそうなのだが、ヒトラーの趣味は伝統的な民衆の理想にまったく調和していた」。

こうしたナチズム=ヒトラー理解には、「ドイツ国民もナチズムの絶対的なプロパガンダに操られた被害者だった」とする戦後的弁明に対するユダヤ人モッセの批判がこめられていよう。反ユダヤ主義について、モッセは経済的社会的要因に対する文化や神話の自律性を主張している。その妄想は経済的社会的な意味でのユダヤ人の存在やその解放とまったく無関係であり、むしろユダヤ人というフンンボル」が中産階級の疎外感や社会的ヒエラルヒーの危機感、あるいは都市の不安などにたまたま結びついたにすぎなかった。こうしたシンボル作用の解明には、宗教的祭儀の効果を説明する神学のカテゴリーが必要だとモッセは主張している。その結果、統計数値や官製文書に基づく歴史研究への懐疑的姿勢とともに、三文作家のベストセラー小説やキッチュな複製芸術などそれまで歴史家がすすんで取り上げようとしなかった大衆文化への真剣な取り組みが、本書の特徴となっている。
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