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ヨーゼフ・シュムペーター 『資本主義・社会主義・民主主義』

『政治哲学』より

政治家の支配

 民主主義とは人民が人民を支配することであった。ルソーはそれを通して一般意志が実現されると考えた。あるいは功利主義者たちは、民主主義を通して、最大多数の最大幸福、すなわち公益が実現されると考えた。シュムペーターが古典的民主主義学説と呼ぶ理論においては、個々の人民の意志と人民全体の意志が一致すると理解されていた。

 シュムペーターは個々の意志と全体の意志が一致したものを「公益」だとするが、このような公益は存在しないと主張する。公益というものの内容は、個々人や集団の間で異なるものなのである。さらに人民たちが理性的に公益や全体の利益を発見できる力があることにもシュムベーターは懐疑的である。シュムペーターはグレアム・ウォーラスの『政治における人間性』をひきながら、現実の有権者に見られるのは「責任感の減退」「思考力水準の低下」「非論理的な力に対する過度の敏感」だと言う。それは公益を発見しようとしている市民というよりは、おのれの欲望を追求している消費者の姿勢なのである。

 古典的民主主義学説の理論的な難点と現実の有権者の姿を見て、シュムベーターは別の民主主義を提案する。古典的民主主義では第一義的な目的は選挙民に政治問題の決定を帰属させること、代表の選抜は第二義的ものとされた。シュムペーターは、この関係を逆転させ決定を行うべき人々の選挙を第一義的なものとしようと提案する。人民の役割は政府を作ることであり、「民主主義的方法とは、政治決定に到達するために個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行うことにより決定力を得るような制度的装置」なのである。

 民主主義とは端的に言えば、人民が彼らの支配者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会を与えられおり、支配者たらんとする人々が選挙民の投票をかき集めるために自由な競争をすることを意味しているだけである。すなわち、シュムペーターは「民主主義とは政治家の支配」だと言う。

エリート民主主義

 シュムペーターは社会主義の台頭と資本主義の没落への予感の中で、このような民主主義論を提示した。社会主義における民主主義は資本主義下の民主主義(ブルジョア民主主義)とは異なり、人民の意志が実質的に表明される、より高次の民主主義だとの議論があった。シュムペーターの民主主義論は、民主主義を資本主義と社会主義から切り離し、それをある種の制度として捉えたものだと言える。制度であるから、それは資本主義体制においても社会主義体制においても導入可能なものとなる。こう捉えることで、ブルジョア民主主義とプロレタリアート民主主義とどちらがレペルの高い民主主義かという不毛な論争を避けることが可能になる。同時に競争環境なき、現実の社会主義下の民主主義は制度的に民主主義とは言えなくなる。

 シュムベーターにとって民主主義とは何らかの社会の種類でも道徳的理想でもない。それは政府を選び、それに権威を与える政治的方法、制度メカニズムなのである。有権者は投票により、一定の人々(政治家)に次の選挙まで支配する資格を与える。これがうまく機能するためには、有権者が理性的判断ができるといったことを求めはしない。政治エリートたちが、競争をするかどうかにかかっている。これは市場競争と消費者の関係を政権選択と有権者の関係にあてはめた議論だとも言える。

 ルソーは『社会契約論』で「イギリス人が自由なのは選挙の時だけだ」と言った。これは間接民主主義の限界と問題点を指摘した発言だと言える。これに対してシュムペーターは「選挙の時だけ自由だ」ということで全く問題はないと言っているわけだ。大衆民主主義時代にふさわしいエリートによる支配が、民主主義という制度なのである。民主主義とは人民の自己統治だとする見方の非現実性を、シュムペーターはドライに指摘したのである。

 シュムペーターは民主主義を制度として捉えているが、それがうまく回っていくためのいくつかの条件をあげている。これは民主主義をエリートの競争と選抜だと捉えるのに批判的な人も聞く価値がある。さらに間接民主主義のより良い制度を構想する上でもきわめて示唆的であるばかりか、政治エリートの資質を規範的に考える上でも有効である。

 第一の条件は政治家が高い資質をもっていなければならないことである。第二の条件は有効な政治的決定の範囲を限定的に考えるべきだということである。つまり、自己の政治生命のために不断の競争にさらされている政治家が行いうる決定の範囲は限定的だということをわきまえなければならない。第三の条件は、民主的政府は、強烈な団体精神をもち、よく訓練された官僚をきちんと把握しなければならないことである。第四の条件は「民主主義的自制」である。それは国民の側で法令を遵守することだけでなく、政治家の側でも法令や議会ルールさらにはエチケットに従って行動することが求められる。第五の条件は政治家たちの競争が有効に行われるためには、異なった意見に対する極めて広い寛容の精神が必要なのである。

民主主義の転換

 シュムペーターの議論の最大の学問的功績は、民主主義の科学的実証的研究への道を拓いた点にある。つまり、個別の意志と全体の意志は一致しうるのかとか、人民が人民を支配するとはどのようなことかといった哲学的論争から民主主義を解放したのである。民主主義は制度であり、エリートの競争である。だとすれば、エリートが実質的に競争しているかどうかは経験的に確認できる。のみならず、民主主義のパフォーマンスの比較も可能になる。 1950年代以降、アメリカで花開くロバート・ダールらの民主主義の実証研究は、シュムベーターによる民主主義像の転換なくしては実現できなかったとも言える。シュムベーターは政治学の科学化に貢献したのである。

 しかし、民主主義をエリートの競争とした代償も小さくはない。現実の民主主義では「選挙の時だけ自由な有権者」が増加し、人民の政治的な意見は消費者的欲望としてエリートに届くか、さもなければエリートに対する怨念として社会に沈殿していくかのどちらかである。大規模化し複雑になった社会で、個別の意志が全体の意志にどのようにつながるのか、公益を見つけ出すことは可能なのか、そして私たちが私たちを支配することは可能なのかという問題に回答を与えることは難しい。

 エリートの支配としてではない民主主義を描くことはできるのだろうか。シュムベーターが政治哲学に突きつけた問題は、今もとても重たい。
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