未唯への手紙
未唯への手紙
パソコンと会議
プレゼンの強み
一つのことを言うのに、64倍以上考える強み。全域の要約を言葉にすることを行っている。
環境塾のコメンテーターにしても、それ時の感覚だけです。現象でいいか悪いかです。根本を遡っていない。
次期ネット
この前に資料にしても、指摘したことをすべて、反発しておいて、3時間後に出てきたものは、指摘したことが入り込んでいます。もうちょっと素直になってくれると心地いいのに。
誰の責任かを明確にします。その人に責任を取ってもらえばいい。どうするかではなく、どう責任をとれるかですかです。この室は何もしないことを責任をとってももらいましょう。
Sの了解を得るとといっても、どうでもいい。毎回言うことは違うから、7回聞いて、そのうちの多数決で決めるしかない。何しろ、考えてないし、見ていない。
サファイアは永遠です。2030年にはサファイア社会にするのが目的です。新ネットもないし、次期ネットはないです。サファイアが答えです。まだまだ、サファイアのカタチが見えていない。
パソコンと会議
パソコンを使わない会議。これは当たり前です。あんなものを使っても何も出てきません。それよりも本を読んで、大量データ処理になれた方がいい。
パソコンを向かい合って使うのは、25年前にマックでやっていた。それを見ていた、中野さんが何をやっているですか。懐かしいですね。それで、気づきました。考えるときは、パソコンは不要です。
元々、会議自体が不要です。自分の中で考えればいいことです。
ネットワーク部署の役割
ネットワーク管理部署に関しては、つながるとサファイアをつなげるということです。彼らの力を使って、メーカーのネットとサーバを管理下におきます。
そうしないと、販売店の中が混乱します。パートナーの事務局を有効にさせます。重要なのは、ローカルからの発想です。
一つのことを言うのに、64倍以上考える強み。全域の要約を言葉にすることを行っている。
環境塾のコメンテーターにしても、それ時の感覚だけです。現象でいいか悪いかです。根本を遡っていない。
次期ネット
この前に資料にしても、指摘したことをすべて、反発しておいて、3時間後に出てきたものは、指摘したことが入り込んでいます。もうちょっと素直になってくれると心地いいのに。
誰の責任かを明確にします。その人に責任を取ってもらえばいい。どうするかではなく、どう責任をとれるかですかです。この室は何もしないことを責任をとってももらいましょう。
Sの了解を得るとといっても、どうでもいい。毎回言うことは違うから、7回聞いて、そのうちの多数決で決めるしかない。何しろ、考えてないし、見ていない。
サファイアは永遠です。2030年にはサファイア社会にするのが目的です。新ネットもないし、次期ネットはないです。サファイアが答えです。まだまだ、サファイアのカタチが見えていない。
パソコンと会議
パソコンを使わない会議。これは当たり前です。あんなものを使っても何も出てきません。それよりも本を読んで、大量データ処理になれた方がいい。
パソコンを向かい合って使うのは、25年前にマックでやっていた。それを見ていた、中野さんが何をやっているですか。懐かしいですね。それで、気づきました。考えるときは、パソコンは不要です。
元々、会議自体が不要です。自分の中で考えればいいことです。
ネットワーク部署の役割
ネットワーク管理部署に関しては、つながるとサファイアをつなげるということです。彼らの力を使って、メーカーのネットとサーバを管理下におきます。
そうしないと、販売店の中が混乱します。パートナーの事務局を有効にさせます。重要なのは、ローカルからの発想です。
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なぜ私は善良であるべきなのか? カント
『哲学オデュッセイ』より
心のうちなる法則 Immanuel Kant
一九七〇年、パルト海沿岸の世界に門戸を開始した小都市ケーニヒスベルクの門の前を、夜もふけた遅い時間に、母と彼女の六歳になる息子が散歩していた。母は息子に彼女が知っている自然について、植物と薬草について、動物と鉱物について、優しく丁寧に説明していた。街の通りはわずかに照らされているだけで、あたりは暗闇に包まれていた。すると母は注意深く聞いていた息子に、はるか彼方の星空を指し示した。ふたりはおごそかに頭上に広がる無限の彼方を見つめるのであった。少年は魅了されていた。のちに彼は次のように記している。「それについて何度もくり返し、じっくりと考えれば考えるほど、つねに新たに増大する感嘆と畏敬の念で心が満たされる二つのものがある。私の上なる輝く星空と、私のうちなる道徳法則である。私はこれらを目のあたりに見るとともに、私の実在の意識にじかに結びつけるのである。」そして事実、のちに彼はこの二つの領域において成功を収める。すなわち、天文学と道徳哲学においてである。
ごの少年の名はイマヌエル・カント。信心深くしかも教養ある母親の庇護のもとでの幸福な子ども時代は、早くも十三歳で終わりを告げる。母を亡くし、水色の目をしたこの心優しい少年は、深く、そして長いあいだ、母の死を悼むのであった。皮革工房の親方であった父は、繊細で傷つきやすい息子の素質を伸ばすために、あらゆる努力を惜しまなかった。父は息子を、その町で最高水準のギムナジウムであるフリードリヒ学院に入学させた。この学院で、さらにのちにはケーニヒスベルク大学でも、この胸囲の狭い青年は、非常に優秀な生徒であることを証明するのであった。彼は何よりも学校の屋上にある「天文台」に感激し、夜になると、そこでたびたび時間を忘れて星を眺めていた。
十六歳で彼は、ケーニヒスベルク大学の入学試験に合格する。当初は神学を学ぶはずだったが、それよりも数学、哲学、物理学が彼の心を占めた。自由時間には、料理人ならびに賭博師として光彩を放っていた。彼は卓越したビリヤード・プレイヤーであり、また、小さな声で不明瞭にもごもごと話すにもかかわらず、ケーニヒスベルクのパーティでは歓迎すべき客として迎え入れられた。とはいえ、彼の最大の情熱は、いまだに星と宇宙であった。論理学と形而上学の教授マルティン・クヌッツェンが、力のおよぶかぎり彼を援助していた。私用の反射望遠鏡--あの偉大な物理学者アイザックーニュートンが使っていたのと同じもの--が、魔法のようにカントの心を引きつけた。
彼は宇宙の構造についてのニュートンの基本的な著作を読み、数字や表や計算式に没頭し、そこから物理的世界についてのきわめて独自のモデルを導き出した。それについてカントが書いた本は、途方もない主張と、『一般的自然史と天界の理論』という壮大なタイトルがつけられた薄い本であった。数学の計算式を立てることなく、彼は世界の構造を、彼自身の推論だけで究明しようとした。型破りであるとともに野心的なプロジェクトである。自然科学者たちがこの本をほとんど認知しようとしなかったにもかかわらず、カントは自分の方法を成功したものと見なしていた。彼はその方法をあらゆる分野において保持し続けるのである。かくして、彼はおのれの洞察力の多くが正しいものであることを信じて疑わなかったが、それはまた。彼の死後長くたってから正しいことが認められた。今日の太陽系は、諸要素の引力と圧力と斥力(反発力)によってのみ生まれた、とカントは推測している--惑星系の誕生を神の助力をかりずに解明しようとした最初の試みである。
カントの見解が果敢で進歩的である一方で、彼はみすからの立身出世のための計画の立て方は知らなかった。大学での勉学を修了した後の彼の道のりは、順風満帆とはとてもいえないものであった。彼は生涯の九年間を家庭教師として無益に過ごした。三十一歳にしてはじめて--当時としては非常に遅い--彼は火について学位論文を書きあげた。カントは大学の私講師となったが、収入はほんのわずかばかりのものであり、四〇歳までの彼の職業的道のりは、いってみれば半ば惨たるものであった。カントは豊かな天分に恵まれ、高い知性の持ち主であり、ほとんどあらゆることに興味を持っていた。神学と教育学、自然法と地理学、人類学と論理学、形而上学と数学、力学と物理学。ながい歳月がすぎて、大学は彼に教授職を提供するが、それはよりによって文学の教授であった。課題として、自作の詩が盛りこまれた装飾的な祝辞を用意することが科せられた。カントはこれを辞退した。合計十五年間にわたる私講師生活の後、彼はとうとう、長く待ち焦がれていた論理学と形而上学の教授のポストを手に入れる。
カントは、自分の健康がいくらか損なわれており、哲学の世界に際たった足跡を残すためには、もはやあまり多くの時間が残されていない、と思いいたった。彼はこれにいたく衝撃をうけると、ほとんど一夜にして彼のほぼすべてが変わった。その人生は退屈の権化そのものと化した。のちに詩人のハインリヒ・ハイネは、このことをからかいながら、カントについては、誰もその生涯の物語を書くことができない、と述べている。というのも、カントには人生も物語もなかったのだから。朝の五時に使用人に起こしてもらい、毎日同じ時間に散歩に出かけ、夜は十時きっかりに就寝した。カントはこのようにして、はぼ八○歳の高齢に至るまで暮らした。彼の判で押したような日常は、まるで人生にたいするプロテストソングのような印象すら与える。しかし、彼がその後の三十四年間に書いたあまたの著作は、退屈なものではけっしてない。それらは多く人びとにとって、およそドイツ語で書かれた哲学書のなかでも最も重要な作品なのである。
カントは人間の精神を自然科学者のように観察しようとはせず、あるいは多くの彼以前の哲学者たちがしたように、神の視点から見ようともしなかった。むしろ彼は、人間精神を法学者のように研究していた。カントは「法則」を探していたのである。彼は若いときには、宇宙の「総合的な状態」を解明しようとした。いまや彼は人間の意識における習慣と法則性を見つけ、そこから拘束力のある法則を導きだそうとしていた。この課題を克服するため、彼はまず、哲学のおそらく最も重要な問いを明らかにしなければならなかった。それは私たちがすでに本書で取り組んだ、私は何を知ることができるか、という問いにある。さらにそのさい、私はどこからその正しさの保証を得るのか、という問いでもある。
心のうちなる法則 Immanuel Kant
一九七〇年、パルト海沿岸の世界に門戸を開始した小都市ケーニヒスベルクの門の前を、夜もふけた遅い時間に、母と彼女の六歳になる息子が散歩していた。母は息子に彼女が知っている自然について、植物と薬草について、動物と鉱物について、優しく丁寧に説明していた。街の通りはわずかに照らされているだけで、あたりは暗闇に包まれていた。すると母は注意深く聞いていた息子に、はるか彼方の星空を指し示した。ふたりはおごそかに頭上に広がる無限の彼方を見つめるのであった。少年は魅了されていた。のちに彼は次のように記している。「それについて何度もくり返し、じっくりと考えれば考えるほど、つねに新たに増大する感嘆と畏敬の念で心が満たされる二つのものがある。私の上なる輝く星空と、私のうちなる道徳法則である。私はこれらを目のあたりに見るとともに、私の実在の意識にじかに結びつけるのである。」そして事実、のちに彼はこの二つの領域において成功を収める。すなわち、天文学と道徳哲学においてである。
ごの少年の名はイマヌエル・カント。信心深くしかも教養ある母親の庇護のもとでの幸福な子ども時代は、早くも十三歳で終わりを告げる。母を亡くし、水色の目をしたこの心優しい少年は、深く、そして長いあいだ、母の死を悼むのであった。皮革工房の親方であった父は、繊細で傷つきやすい息子の素質を伸ばすために、あらゆる努力を惜しまなかった。父は息子を、その町で最高水準のギムナジウムであるフリードリヒ学院に入学させた。この学院で、さらにのちにはケーニヒスベルク大学でも、この胸囲の狭い青年は、非常に優秀な生徒であることを証明するのであった。彼は何よりも学校の屋上にある「天文台」に感激し、夜になると、そこでたびたび時間を忘れて星を眺めていた。
十六歳で彼は、ケーニヒスベルク大学の入学試験に合格する。当初は神学を学ぶはずだったが、それよりも数学、哲学、物理学が彼の心を占めた。自由時間には、料理人ならびに賭博師として光彩を放っていた。彼は卓越したビリヤード・プレイヤーであり、また、小さな声で不明瞭にもごもごと話すにもかかわらず、ケーニヒスベルクのパーティでは歓迎すべき客として迎え入れられた。とはいえ、彼の最大の情熱は、いまだに星と宇宙であった。論理学と形而上学の教授マルティン・クヌッツェンが、力のおよぶかぎり彼を援助していた。私用の反射望遠鏡--あの偉大な物理学者アイザックーニュートンが使っていたのと同じもの--が、魔法のようにカントの心を引きつけた。
彼は宇宙の構造についてのニュートンの基本的な著作を読み、数字や表や計算式に没頭し、そこから物理的世界についてのきわめて独自のモデルを導き出した。それについてカントが書いた本は、途方もない主張と、『一般的自然史と天界の理論』という壮大なタイトルがつけられた薄い本であった。数学の計算式を立てることなく、彼は世界の構造を、彼自身の推論だけで究明しようとした。型破りであるとともに野心的なプロジェクトである。自然科学者たちがこの本をほとんど認知しようとしなかったにもかかわらず、カントは自分の方法を成功したものと見なしていた。彼はその方法をあらゆる分野において保持し続けるのである。かくして、彼はおのれの洞察力の多くが正しいものであることを信じて疑わなかったが、それはまた。彼の死後長くたってから正しいことが認められた。今日の太陽系は、諸要素の引力と圧力と斥力(反発力)によってのみ生まれた、とカントは推測している--惑星系の誕生を神の助力をかりずに解明しようとした最初の試みである。
カントの見解が果敢で進歩的である一方で、彼はみすからの立身出世のための計画の立て方は知らなかった。大学での勉学を修了した後の彼の道のりは、順風満帆とはとてもいえないものであった。彼は生涯の九年間を家庭教師として無益に過ごした。三十一歳にしてはじめて--当時としては非常に遅い--彼は火について学位論文を書きあげた。カントは大学の私講師となったが、収入はほんのわずかばかりのものであり、四〇歳までの彼の職業的道のりは、いってみれば半ば惨たるものであった。カントは豊かな天分に恵まれ、高い知性の持ち主であり、ほとんどあらゆることに興味を持っていた。神学と教育学、自然法と地理学、人類学と論理学、形而上学と数学、力学と物理学。ながい歳月がすぎて、大学は彼に教授職を提供するが、それはよりによって文学の教授であった。課題として、自作の詩が盛りこまれた装飾的な祝辞を用意することが科せられた。カントはこれを辞退した。合計十五年間にわたる私講師生活の後、彼はとうとう、長く待ち焦がれていた論理学と形而上学の教授のポストを手に入れる。
カントは、自分の健康がいくらか損なわれており、哲学の世界に際たった足跡を残すためには、もはやあまり多くの時間が残されていない、と思いいたった。彼はこれにいたく衝撃をうけると、ほとんど一夜にして彼のほぼすべてが変わった。その人生は退屈の権化そのものと化した。のちに詩人のハインリヒ・ハイネは、このことをからかいながら、カントについては、誰もその生涯の物語を書くことができない、と述べている。というのも、カントには人生も物語もなかったのだから。朝の五時に使用人に起こしてもらい、毎日同じ時間に散歩に出かけ、夜は十時きっかりに就寝した。カントはこのようにして、はぼ八○歳の高齢に至るまで暮らした。彼の判で押したような日常は、まるで人生にたいするプロテストソングのような印象すら与える。しかし、彼がその後の三十四年間に書いたあまたの著作は、退屈なものではけっしてない。それらは多く人びとにとって、およそドイツ語で書かれた哲学書のなかでも最も重要な作品なのである。
カントは人間の精神を自然科学者のように観察しようとはせず、あるいは多くの彼以前の哲学者たちがしたように、神の視点から見ようともしなかった。むしろ彼は、人間精神を法学者のように研究していた。カントは「法則」を探していたのである。彼は若いときには、宇宙の「総合的な状態」を解明しようとした。いまや彼は人間の意識における習慣と法則性を見つけ、そこから拘束力のある法則を導きだそうとしていた。この課題を克服するため、彼はまず、哲学のおそらく最も重要な問いを明らかにしなければならなかった。それは私たちがすでに本書で取り組んだ、私は何を知ることができるか、という問いにある。さらにそのさい、私はどこからその正しさの保証を得るのか、という問いでもある。
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純粋理性批判7の数学表現
『純粋理性批判7』より 独断的な使用における純粋理性の訓練
831 数学での成功による理性の錯覚
数学は、経験の助けを借りずに、純粋理性がみずからの領域を拡張することに成功した輝かしい実例である。ところで実例というのは伝染するものであって、理性は[数学という]一つの分野で大きな成功を収めたために、その他の分野でも同じような成功を収めることができると自負するようになってしまうのである。こうして純粋理性は、数学という分野でなし遂げたように、[理性の]超越論的な使用の領域においても、数学の分野できわめて有益だった方法を適用することで、同じような成功を収めて、理性の領域を根本的に拡張できるのではないかと期待するのである。だからここで何よりも必要とされているのは、数学という学問分野において、数学的な方法という名前で、必然的な確実性に到達するために使われた方法が、哲学において同じように必然的な確実性を獲得しようとする方法と同じものであるかどうかを調べることである(哲学の分野ではこの方法は独断論的な方法と呼ばれている)。
833 哲学と数学における個別的なもの
だから哲学的な認識では、特殊なものは普遍のうちだけで考察されるが、数学的な認識では普遍を特殊において、それだけでなく個別において考察するのである。ただし数学では、対象を理性によってアプリオリに考察するために、個別的なものを、その〈構成〉に含まれた特定の普遍的な条件に規定されたものとして考察する。この個別的なものは、その概念に対応する図式の役割をはたすのであって、この概念の対象もまた普遍的に規定されていると考えねばならない。
834 哲学と数学の違い--形式の違い
だから「哲学的な認識と数学的な認識という]これらの二種類の理性認識の本質的な違いは、形式における違いであって、その実質が違うわけでも、対象が違うわけでもない。ときに、哲学の客体ぱたんなる性質であり、数学の客体は量であると、[客体の違いによって]哲学を数学と区別しようとする人がいるが、それは結果[にすぎないもの]を原因と考えてしまったための間違いである。
数学的な認識の形式のために、数学は量だけにかかわることができると考えられるようになったのである。というのは、構成することができるのは、すなわち直観のうちでアプリオリに示すことができるのは、量の概念だけだからである。これにたいして性質は、経験的な直観としてしか示すことができない。だから性質の理性的な認識は、[構成ではなく]概念によってしか示すことができない。いかなる人も、実在性の概念に対応する直観は、経験のうちからしか取りだすことはできないのであり、自分のうちからアプリオリに取りだすことはできず、このような経験的な意識に先だって、この直観にかかわることはできないのである。
わたしたちは円錐形を、いかなる経験の手助けもなしに、概念だけにしたがって直観することができる。しかしこの円錐の色彩は、あれこれの経験によって前もって与えられていなければならない。またわたしが経験によって獲得した実例に頼らずに、原因一般の概念を直観において示すことは決してできないのである、などなど。
また哲学は数学と同じように、量を考察することもある。たとえば全体性や無限などの概念は量を扱う概念である。さらに数学で[量ではなく性質を扱うことがある。たとえば]さまざまな性質をもつ空間的な要素としての線と平面の違いを考察したり、空間の性質としての拡がりの連続について考察したりすることもある。このような場合には数学と哲学は同じ種類の対象を考察するのであるが、理性がこれらの対象を取りあつかう方法は、哲学的な考察と数学的な考察ではまったく異なるのである。
哲学的な考察はたんに普遍的な概念だけにかかわるが、数学的な考察は、たんなる概念だけではまったく作業を進めることができず、ただちに直観に助けを求める。数学は直観において概念を具体的に考察するが、経験的に考察するのではなく、数学においてアプリオリに描きだした形で、すなわちアプリオリに構成された直観において考察するのである。こうした直観においては、構成の普遍的な条件によって定められたものが、構成された概念の客体についても普遍的に妥当しなければならない。
835 哲学のやり方と数学のやり方--三角形の実例
哲学者に三角形の概念を与えてみよう。そして三角形の内角の和加直角とどのような関係にあるか、哲学の方法で調べさせてみよう。その場合に哲学者がもっているのは、三つの直線によって囲まれた図形という概念と、この図形のもつ二つの内角という概念だけである。哲学者がどれほど時間をかけてこれらの概念と取りくんだとしても、そこから何も新しいものを取りだすことはできないだろう。たしかに直線、内角、三という概念を分析して、それらの概念を明確にすることはできるだろうが、これらの概念のうちに含まれていない性質を発見することは、どうしてもできないのである。
ところがこの問題を幾何学者に与えてみよう。幾何学者はまず三角形を〈構成する〉ことから始める。そして一つの直線のある点から何本の直線を引いたとしても、その接する角度の合計は二直角になることを知っているので、三角形の一つの辺を延長してみる。この直線において接する[三角形の内角と外角の]二つの角度の合計は、二直角になる。次にこの内角の点から、三角形の対辺に平行な直線を引いてみると、「外角が二つの角に分割されることになる。」この二つの外角はそれぞれが、他の二つの内角の一つと等しいのである、などなど。このように幾何学者はつねに直観に導かれながら、推論の連鎖を構築する。そしてこの問題を完全に明白に、そして普遍的に解いてみせるのである。
831 数学での成功による理性の錯覚
数学は、経験の助けを借りずに、純粋理性がみずからの領域を拡張することに成功した輝かしい実例である。ところで実例というのは伝染するものであって、理性は[数学という]一つの分野で大きな成功を収めたために、その他の分野でも同じような成功を収めることができると自負するようになってしまうのである。こうして純粋理性は、数学という分野でなし遂げたように、[理性の]超越論的な使用の領域においても、数学の分野できわめて有益だった方法を適用することで、同じような成功を収めて、理性の領域を根本的に拡張できるのではないかと期待するのである。だからここで何よりも必要とされているのは、数学という学問分野において、数学的な方法という名前で、必然的な確実性に到達するために使われた方法が、哲学において同じように必然的な確実性を獲得しようとする方法と同じものであるかどうかを調べることである(哲学の分野ではこの方法は独断論的な方法と呼ばれている)。
833 哲学と数学における個別的なもの
だから哲学的な認識では、特殊なものは普遍のうちだけで考察されるが、数学的な認識では普遍を特殊において、それだけでなく個別において考察するのである。ただし数学では、対象を理性によってアプリオリに考察するために、個別的なものを、その〈構成〉に含まれた特定の普遍的な条件に規定されたものとして考察する。この個別的なものは、その概念に対応する図式の役割をはたすのであって、この概念の対象もまた普遍的に規定されていると考えねばならない。
834 哲学と数学の違い--形式の違い
だから「哲学的な認識と数学的な認識という]これらの二種類の理性認識の本質的な違いは、形式における違いであって、その実質が違うわけでも、対象が違うわけでもない。ときに、哲学の客体ぱたんなる性質であり、数学の客体は量であると、[客体の違いによって]哲学を数学と区別しようとする人がいるが、それは結果[にすぎないもの]を原因と考えてしまったための間違いである。
数学的な認識の形式のために、数学は量だけにかかわることができると考えられるようになったのである。というのは、構成することができるのは、すなわち直観のうちでアプリオリに示すことができるのは、量の概念だけだからである。これにたいして性質は、経験的な直観としてしか示すことができない。だから性質の理性的な認識は、[構成ではなく]概念によってしか示すことができない。いかなる人も、実在性の概念に対応する直観は、経験のうちからしか取りだすことはできないのであり、自分のうちからアプリオリに取りだすことはできず、このような経験的な意識に先だって、この直観にかかわることはできないのである。
わたしたちは円錐形を、いかなる経験の手助けもなしに、概念だけにしたがって直観することができる。しかしこの円錐の色彩は、あれこれの経験によって前もって与えられていなければならない。またわたしが経験によって獲得した実例に頼らずに、原因一般の概念を直観において示すことは決してできないのである、などなど。
また哲学は数学と同じように、量を考察することもある。たとえば全体性や無限などの概念は量を扱う概念である。さらに数学で[量ではなく性質を扱うことがある。たとえば]さまざまな性質をもつ空間的な要素としての線と平面の違いを考察したり、空間の性質としての拡がりの連続について考察したりすることもある。このような場合には数学と哲学は同じ種類の対象を考察するのであるが、理性がこれらの対象を取りあつかう方法は、哲学的な考察と数学的な考察ではまったく異なるのである。
哲学的な考察はたんに普遍的な概念だけにかかわるが、数学的な考察は、たんなる概念だけではまったく作業を進めることができず、ただちに直観に助けを求める。数学は直観において概念を具体的に考察するが、経験的に考察するのではなく、数学においてアプリオリに描きだした形で、すなわちアプリオリに構成された直観において考察するのである。こうした直観においては、構成の普遍的な条件によって定められたものが、構成された概念の客体についても普遍的に妥当しなければならない。
835 哲学のやり方と数学のやり方--三角形の実例
哲学者に三角形の概念を与えてみよう。そして三角形の内角の和加直角とどのような関係にあるか、哲学の方法で調べさせてみよう。その場合に哲学者がもっているのは、三つの直線によって囲まれた図形という概念と、この図形のもつ二つの内角という概念だけである。哲学者がどれほど時間をかけてこれらの概念と取りくんだとしても、そこから何も新しいものを取りだすことはできないだろう。たしかに直線、内角、三という概念を分析して、それらの概念を明確にすることはできるだろうが、これらの概念のうちに含まれていない性質を発見することは、どうしてもできないのである。
ところがこの問題を幾何学者に与えてみよう。幾何学者はまず三角形を〈構成する〉ことから始める。そして一つの直線のある点から何本の直線を引いたとしても、その接する角度の合計は二直角になることを知っているので、三角形の一つの辺を延長してみる。この直線において接する[三角形の内角と外角の]二つの角度の合計は、二直角になる。次にこの内角の点から、三角形の対辺に平行な直線を引いてみると、「外角が二つの角に分割されることになる。」この二つの外角はそれぞれが、他の二つの内角の一つと等しいのである、などなど。このように幾何学者はつねに直観に導かれながら、推論の連鎖を構築する。そしてこの問題を完全に明白に、そして普遍的に解いてみせるのである。
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