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数学と哲学の認識方法の違い

『純粋理性批判7』解説より 純粋理性の訓練

まず数学と哲学の認識方法の違いについて考えよう。この問題はすでに考察されてきたテーマであり、たとえば序文では形而上学は「経験が教えることをまったく超越して、たんなる概念だけによって認識する」が、一方で数学は「概念を直感に適用して認識する」学であるとして、その違いが示されていた。

ここではカントはこの説明をさらに詳しく、「哲学的な認識とは、概念を使った理性認識である。数学的な認識は、概念の構成による理性認識である」ことを確認する。概念による哲学の認識では、利用できるものはただ概念だけであり、直観を利用することはできない。これにたいして概念を構成する数学では、それを直観に適用することによって、新たな考察が可能になる。

カントは三角形の内角の和か二直角であるという証明を例にとる。哲学においては、三角形という概念には、「三つの直線によって囲まれた図形という概念と、この図形のもつ三つの内角という概念だけ」しか含まれない。この概念についてどれほど考察しても、そこから新しい概念を作りだすことはできない。

これにたいして幾何学者は、「想像力によって、純粋な直観として描きだすか、それともこの純粋な直観に基づいて、「実際の紙の上に、経験的な直観として描きだす」かのいずれかの方法によって、三角形の概念を「構成する」、すなわち「その概念に対応する直観をアプリオリに示す」のである。

その場合には、幾何学者はその直観に示された三角形の図形を使って、さまざまなことを証明できる。たとえば三角形の三つの角ABCのうちの角Cに接するように、辺ABに平行な直線を補助線として引いてみるとしよう。すると二本の平行な直線に交わる一つの直線がそれらの平行な直線にたいして構成する角は等しいという定理に基づいて、三角形の内角の和は二直角であることがすぐに証明できるだろう。「哲学的な考察はたんに普遍的な概念だけにかかわるが、数学的な考察は、たんなる概念だけではまったく作業を進めることができず、ただちに直観に助けを求める」ものである。数学ではこれによって、哲学には不可能なさまざまな考察と証明が可能となるのである。

この違いは認識方法の違いであって、考察する対象の違いやその実質の違いにかかわるものではない。カントは通説においては、「哲学の客体はたんなる性質であり、数学の客体は量である」ことによって哲学と数学が区別されることが多いが、それは間違いであることに注意を促している。

哲学は性質だけではなく、数学と同じように量についても考察する。量のカテゴリーにおいて、単一性、数多性、全体性などのカテゴリーが含まれているのは、その証拠である。あるいは数学においても性質を無視することはできない。数学でも「さまざまな性質をもつ空間的な要素としての線と平面の違いを考察したり、空間の性質としての拡がりの連続について考察したりする」のである。

第二の違いは、哲学も数学もアプリオリな総合判断を行う学であるが、そのための方法が異なることにある。総合判断においては、経験的でないアプリオリな概念を扱うことになるが、それが与えられる方法に違いがあるのである。経験的でないアプリオリな概念は、数学では「すでに純粋な直観を含んでいて、この直観から構成することができる」ものである。これにたいして哲学では、「アプリオリには与えられていない可能的な直観の総合しか含んでいない」のである。数学の場合にはアプリオリな概念を直観のもとで判断することができるが、哲学では直観を使わずに、「概念にしたがって論証によって判断できるだけ」なのである。

数学は、考察すべき概念について、「直観のうちで具体的に考察し、概念の対象に含まれるものをアプリオリに」認識することができるという利点がある。このアプリオリな認識は直観によってその真理性が保証されているのである。これにたいして哲学は、実体や力などの超越論的な概念において、「その概念に対応する直観にアプリオリに赴くことはできない」のであり、「超越論的な命題は、たんなる概念による総合的な理性認識であり、論証的な命題である」にとどまるのである。

第三に、カントは数学的な推論方法が哲学には適用できないものであることを、定義、公理、証明の三つの方法について考察する。まず定義であるが、数学は定義することから始める。数学においては「定義する前にはいかなる概念も存在しない。定義によって初めて概念が示される」のである。

しかし「哲学においては、数学の真似をして最初に定義を示すようなことをしてはならない」。むしろ定義がえられれば、そこで仕事を終えねばならないのである。それにはいくつもの理由がある。

第一に、哲学において使う概念には、経験的な概念とアプリオリな概念がある。経験的な概念は、ある事柄や事物について、その本質を示すものであるが、その本質がどのようなものであるかについて、数学における定義のような一義的な理解をもたらすことはできない。たとえば、黄金の本質が何であるかは、人によって解釈が異なるのである。

また黄金のような経験的な概念だけではなく、「実体、原因、正義、公正さなど、アプリオリに与えられた概念も、厳密な意味では定義することができない」。これらの概念には、さまざまな形で定義があたえられうる。たとえば「正義」とは何かという定義は、プラトンとアリストテレスとアウグスティヌスでは、かなり大きな違いがみられる。¥真理」など、哲学にとってきわめて重要な概念でもそうであり、むしろ重要な概念ほど、哲学者によって違いは大きくなると言えるほどである。それはこうした抽象的な概念には、多義的な解釈が含まれるからであって、「このように混乱した形で与えられた概念には、多数の曖昧な像が含まれうる」からである。

第二に数学は公理を利用する。公理とは、「直接に確実であるようなアプリオリで総合的な原則である」。数学においては「対象の直観のうちにおいて概念を構成することによって、対象の述語をアプリオリに、かつ直接に結びつけることができる」のであり、公理が可能となる。カントのあげる例は、「三つの点に共通な平面がつねに一つは存在する」という公理であり、これはだれもが直観においてその真理を確認できるものである。

これにたいして哲学は、直観の助けを借りない「たんに概念による理性認識」であるために、「総合的な命題は、概念だけによっては決して直接に確実なものとなることはできない」のである。哲学では、このような直接に確実な原則を利用することはできず、ただ推論によって判断することしかできない。そして「論証的な原則はつねに根拠づけ[=演繹]を必要とする」のである。

第三に数学における証明は、直観的に絶対的に確実な「表示的な証明」である。三角形の内角の和が二直角であることは、補助線を引いて、一つの公理を利用することで、だれにとっても直観的に納得できる。しかしこのような直観的に確実な証明か可能なのは数学だけである。すでに考察してきたように「数学は概念からではなく、概念の構成から、すなわち概念に対応してアプリオリに与えられることのできる直観から、認識を引きだす」からである。

これにたいして哲学の認識では、普遍的なものについては直観によらず、つねに概念だけで考察しなければならない。そして概念というものは、その定義のところでも明らかにされたように、つねに多義性をそなえているものである。そのため概念をどのように定義しているか、それをどのように推論において使うかは、多義的になる。カントは数学の表示的な証明と対比するために、概念による思考のうちでの推論を「論述的な(論証的な)証明」と名づけている。概念だけによる判断は、どうしても「独断論的」な傾向を排除することはできないのである。

それだけに純粋理性は、独断論に陥ることのないように、厳しい訓練が必要なのである。哲学は数学的な方法を模倣して、あたかも直観的に確実な証明が行えるかのように考えるならば、独断論に陥るのである。しかしこの独断論こそは、「哲学を欺き、哲学ほんらいの意図、すなわち理性のすべての歩みを、きわめて輝かしい明晰な光のもとにもたらすという意図を妨げる」のであり、これを防ぐためにも訓練が必要なのである。
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人間観察

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