未唯への手紙
未唯への手紙
ハイデッガーの不安
未唯へ
珍しく、起きたのが6時20分です。存在に関することを、夢の中で三項目考えていました。7時20分のバスです。遅いバスは混むから嫌です。やはり、朝一番です。
TMさんのYシャツ姿がかわいらしい。ポニーテールと合っている。
依存に関して
現在の哲学が言っているのは、依存していてはいけない、と言うことです。考えて、自分なりに生きることです。依存しておいて、文句を言うのは禄でもない。
販売店には裏切られてきた。彼らは何も考えない、何もしないというがモットーです。文句があるのであれば、自分たちでやってもらいましょう。
地域コミュニティは変質させることです。クルマのコミュニティから図書館コミュニ、今あることを武器にして。
パートナー
パートナーはSの思惑を考えすぎている。何も考えずに、その場での言動です。神経を未来に向けて、情報レベルに差をつけないように。
ハイデッガーの不安
『なぜメルケルは「転向」したのか』より
私はドイツ人のリスク意識について考える中で、いくつかの哲学書を絡いた。哲学というと、「難解だ」と拒否反応を示す方もいると思うが、この学問の重要な課題の一つは人間存在の意味を探求することである。哲学は普遍的な性格を持つ一方、哲学者が生まれ育った文化圏の人生観や倫理観、価値観をも色濃く反映する。その意味でドイツ人の不安や悲観主義、高いリスク意識の理由を探るうえでも、この国の哲学者たちの論考にはいくつかの鍵が隠されている。
たとえばマルティンーハイデッガー(一八八九~一九七六)は、こう喝破した。「不安こそが人間の基本的な心境」
二I年間この国に住んでいる私は、この文章を読んでドイツ人らしい観察だと膝を打った。ハイデッガーは一九二七年に著した『存在と時間』(Sein und Zeit、岩波文庫ほか)の中で、不安について比較的多くのページを割いている。日本語の訳書は、原書以上に難解なので(たとえば「被投的」などという訳語は、何のことだかさっぱりわからない)、私は訳書を離れ、ドイツ語の原文に基づいて解説する。
人間は住み慣れた環境から切り離されたり、見慣れない物に接したりすると不安を感じる。人間は自分が孤独であり、住み慣れた環境から隔絶された「外界」に投げ出されていることを痛感するのだ。つまり人間は不安を通じて、外の世界を知るわけである。とりわけ死に対する不安は、最も根源的で絶対的な不安である。つまり人間に「自分は死に向かう存在である」と自覚させるものが、不安なのである。
『存在と時間』によって哲学界に強い衝撃を与え、その後の存在論に深い影響を与えたこのドイツ人哲学者が、不安を人間の存在を規定する要素として重視していたことは興味深い。また、人間を死に向かって歩む存在と定義した点も、ドイツ人の悲観主義を象徴している。
だがハイデッガーは、「人間はどうせ死んでしまう」という虚無主義に陥っているわけではない。それどころか、不安には前向きな側面もあると指摘している。
我々人間は、不安のおかげで外の世界を認識することができ、井の中の蛙になることを避けられる。不安という心の動きがなかったら、我々は心地よい繭の中にいつまでもとどまっていて、生命を脅かす危険に気づくことができないかもしれない。つまり不安は、人間を行動に突き動かす「早期警戒システム」なのだ。
ハイデッガーはこう述べている。「不安だけが、人間に開示(Erschliesseコ)の可能性を与えてくれる」
Erschliessenとは、新しい物を開拓、発見することだ。我々は、不安を通じて自分の認識能力、理解能力に限界があることを悟る。不安が、新しい段階に飛翔するための手がかりを与えてくれるのだ。
不安という心の動きがあるからこそ、我々は目に見えないリスクを想像し、リスクがどのくらいかについて分析しようという気を起こす。不安がなかったら、リスク管理は始まらない。つまりハイデッガーのいう不安は、リスク管理の原点なのである。ドイツには、「不安は羽根を与えてくれる」という諺もある。不安が人間に前進するための原動力を与えるという意味であり、不安が持つプラスの作用を示す言葉だ。
たとえば、二〇一一年三月末のバーデン・ヴュルテンペルク州議会選挙では、それまでの選挙で棄権していた人のうち、二七万人が投票所に足を運んで緑の党に票を投じた。福島事故による不安が、人々を突き動かしたのである。
ドイツ人には悲観主義者が多く、常にいろんな不安を抱いている。だからこそ、リスク意識が鋭敏になり、リスクを減らすための対策を取ろうとする傾向が強いのだと思う。
珍しく、起きたのが6時20分です。存在に関することを、夢の中で三項目考えていました。7時20分のバスです。遅いバスは混むから嫌です。やはり、朝一番です。
TMさんのYシャツ姿がかわいらしい。ポニーテールと合っている。
依存に関して
現在の哲学が言っているのは、依存していてはいけない、と言うことです。考えて、自分なりに生きることです。依存しておいて、文句を言うのは禄でもない。
販売店には裏切られてきた。彼らは何も考えない、何もしないというがモットーです。文句があるのであれば、自分たちでやってもらいましょう。
地域コミュニティは変質させることです。クルマのコミュニティから図書館コミュニ、今あることを武器にして。
パートナー
パートナーはSの思惑を考えすぎている。何も考えずに、その場での言動です。神経を未来に向けて、情報レベルに差をつけないように。
ハイデッガーの不安
『なぜメルケルは「転向」したのか』より
私はドイツ人のリスク意識について考える中で、いくつかの哲学書を絡いた。哲学というと、「難解だ」と拒否反応を示す方もいると思うが、この学問の重要な課題の一つは人間存在の意味を探求することである。哲学は普遍的な性格を持つ一方、哲学者が生まれ育った文化圏の人生観や倫理観、価値観をも色濃く反映する。その意味でドイツ人の不安や悲観主義、高いリスク意識の理由を探るうえでも、この国の哲学者たちの論考にはいくつかの鍵が隠されている。
たとえばマルティンーハイデッガー(一八八九~一九七六)は、こう喝破した。「不安こそが人間の基本的な心境」
二I年間この国に住んでいる私は、この文章を読んでドイツ人らしい観察だと膝を打った。ハイデッガーは一九二七年に著した『存在と時間』(Sein und Zeit、岩波文庫ほか)の中で、不安について比較的多くのページを割いている。日本語の訳書は、原書以上に難解なので(たとえば「被投的」などという訳語は、何のことだかさっぱりわからない)、私は訳書を離れ、ドイツ語の原文に基づいて解説する。
人間は住み慣れた環境から切り離されたり、見慣れない物に接したりすると不安を感じる。人間は自分が孤独であり、住み慣れた環境から隔絶された「外界」に投げ出されていることを痛感するのだ。つまり人間は不安を通じて、外の世界を知るわけである。とりわけ死に対する不安は、最も根源的で絶対的な不安である。つまり人間に「自分は死に向かう存在である」と自覚させるものが、不安なのである。
『存在と時間』によって哲学界に強い衝撃を与え、その後の存在論に深い影響を与えたこのドイツ人哲学者が、不安を人間の存在を規定する要素として重視していたことは興味深い。また、人間を死に向かって歩む存在と定義した点も、ドイツ人の悲観主義を象徴している。
だがハイデッガーは、「人間はどうせ死んでしまう」という虚無主義に陥っているわけではない。それどころか、不安には前向きな側面もあると指摘している。
我々人間は、不安のおかげで外の世界を認識することができ、井の中の蛙になることを避けられる。不安という心の動きがなかったら、我々は心地よい繭の中にいつまでもとどまっていて、生命を脅かす危険に気づくことができないかもしれない。つまり不安は、人間を行動に突き動かす「早期警戒システム」なのだ。
ハイデッガーはこう述べている。「不安だけが、人間に開示(Erschliesseコ)の可能性を与えてくれる」
Erschliessenとは、新しい物を開拓、発見することだ。我々は、不安を通じて自分の認識能力、理解能力に限界があることを悟る。不安が、新しい段階に飛翔するための手がかりを与えてくれるのだ。
不安という心の動きがあるからこそ、我々は目に見えないリスクを想像し、リスクがどのくらいかについて分析しようという気を起こす。不安がなかったら、リスク管理は始まらない。つまりハイデッガーのいう不安は、リスク管理の原点なのである。ドイツには、「不安は羽根を与えてくれる」という諺もある。不安が人間に前進するための原動力を与えるという意味であり、不安が持つプラスの作用を示す言葉だ。
たとえば、二〇一一年三月末のバーデン・ヴュルテンペルク州議会選挙では、それまでの選挙で棄権していた人のうち、二七万人が投票所に足を運んで緑の党に票を投じた。福島事故による不安が、人々を突き動かしたのである。
ドイツ人には悲観主義者が多く、常にいろんな不安を抱いている。だからこそ、リスク意識が鋭敏になり、リスクを減らすための対策を取ろうとする傾向が強いのだと思う。
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