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本がある理由

個人の活性化

 根源から考えていかないといけない。それで考えていくと、いかに個人を活性化するかという話になります。だから、ややこしいです。それをやらない限り、変わるはずがない。個人と大きな部分の二つを一緒に考えないといけない。

 だから、ローカルとグローバルを変えると同時に、考える部分と行動する部分を変えて、循環させたのが、サファイアです。

協調性の考え方

 部分としての協調性、それでもって、作り出す世界。今まではベースにしてきたけど、これは成り立ちません。まあ、そこで金を使うから、回ると言う部分はあるけど、今後はローコスト・ローエネルギーです。つまり、使わない。使うのであれば、全体のために使う。

 協調性の考え方も変わっています。自分の部署に居ながら、全体を考える。今までは、そんなことは邪魔だった。自己完結しておれば、全体が回ることが保証されていた。

 ところが、全体を回すところが限界に来ています。あまりにもファクターが多いのと、循環するためのエネルギーがない。だから、ローカルから満たしていくしかない。ローカルから満たすものが全てを動かしていくためには、皆がトータルで持っていないとダメです。

本がある理由

 本はそのためにあります。自分に関係することだけだったら、あまりにも少ない。にもかかわらず、0から9までのジャンルがあるのか。また、環境問題についても、日本の政策まで書かれているのか。個人に言うにはあまりにもでかいです。

 だからと言って、パナソニックではないけど、エコだ、エコだと言って、買わせます。そんな世界は終わりです。買うというコスト自体がローコストに反している。また、ローエネルギーにも反しています。

 使わなければいいんです。持たなければいいです。使うんだったら、使い切ればいいです。

話し相手

 こういうことを話せる相手を探しています。去年は行政と大学に求めたけど、やはりダメです。自分の説を主張するだけです。聞く気はない。また、聞くにしても、私の説はあまりにもでかいから聞けないです。

 だから、それを分かりやすくするためのプレゼンを用意しています。大きさは相変わらずです。その過程で、14文字のメッセージを考案しました。140文字でも短いのに、14文字です。

 どうしても、空間論になります。だから、彼らの理解を超えてしまいます。

 カントのように言い切るしかない。
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納得の構造

『人間にとって科学とはなにか』より 湯川×梅棹の対談の抜粋

梅棹 意味を伝えるということは、自分とは異なる情報体系をもっている他人から発せられたものを、受け手の方が、みすからの体系の中に、いかに組みこむかということでしょう。組みこみ方が大事なのであって、うまく組みこめないというのは納得がゆかんということですよ。はっきりした意味を持ったということは、自分が持っている体系の中に新しい情報がうまく組みこまれたということ、情報体系の中に組みこまれたということですね。それが納得がいったということでしょう。だから納得の方法がいくつかあるということは、その組みこみ方にいくつか種類があるということです。受け手の方からいえば、そういうことになる。


湯川 文章がうまくても、内容か嘘だったらもちろんだめで、ほんとうでなかったらいかんのですけれども……しかし文章が相当に効いてきますね。効いてくるというのは、よそに対して効くだけでなく、その人自身にとって重要なことじゃないかと思うのです。これも、そううまいこと表現できん問題ですけれども、文章がうまいということは、あなたのおっしゃる話でいえば、納得という問題、自分か納得する、それと同時に他人を納得させる、その両方にかかっているんじゃありませんか。
梅棹 そうです。問題のテーゼが、自分の体系の中で上手に部分化されているということが必要なのでしょう。上手に組みこまれている。それをさらに、他人の体系の中に、それを上手に組み入れる手段というのか文章でしょう。だからその意味では科学も文章の一種だろうと思うんです。一般の文章よりももう少し拡張された形で、ある体系の中にあるものを、別の体系の中に上手に組み入れさすことができる。そこまでゆくと、納得させるという機能を最大限に発揮するのは、科学的方法とか数学的方法がやはり一番です。しかしそのどれもこれもひっくるめていうと、これはやはり広い意味でレトリックの問題なんです。レトリックという語は悪い意味で使われるようになったので困るんですか、それは違った体系の中に新しい要素を組みこませるために開発された合理的手段だ、言語的手段として合理的なものだと考えていい。

湯川 現代の高等数学にトポロジー、位相幾何学というのがあります。そこではこんな考え方をする。たとえば円がある。円がいくらへしゃげていても、周囲の線がきれいに閉じていたら、どんな形に変わってもみな同じ種類のものと思え、という考え方です。また中味の詰まった球と、ドーナツ型のものを考えます。いくらひずましてもいい。しかしドーナツをどんなに変えていっても、球にならない。そこで卵と球は同じだが、ドーナツと球とは違うというふうに判断する。われわれの直観ではよくわかる。ところがそういう学問は実は非常にむつかしい。考え方としては非常にわかりやすいが、それを数学として発展さすのはユークリッド幾何学よりずっとむつかしい。位相幾何学は算術を経由せずに、いきなり球とドーナツとは違うという直観から出発する。
梅棹 そういうところを出発点として、そこから数学を築き上げていったら、逆に一たす一は二であることを理解することがたいへんむつかしいことになるかもしれない。非常に高等な数学をやって、一たす一は二であるということかやっとわかる……。
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