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ニーチェ

『西洋哲学史』より

ニーチエ(一八四四~一九〇〇年)は、牧師の息子として生まれ、文献学の優れた学生となり、バーゼル大学で教鞭をとった。しかしながらそのキャリアをすぐに捨て、彼はある仕事に没頭する。みずからの病やひとびとからの不理解にもかかわらず、彼は情熱的にその仕事に取り組んだ。しかし最終的にぱ、ニーチェ自身か狂気におちいることによって、この仕事は頓挫することとなる。

ニーチェの諸々の著作は、難解さや矛盾、誇張、象徴的で詩的な表現などによって彩られているために、彼の仕事をひとつのまとまったものとして厳密に理解することは困難である。しばしばひとはニーチェを暴力(ナチズム)に関係づけたり、あるいは戯画化してきた。ニーチェはまったく独自の思想家であるか、とはいえ初期に彼か受けていた影響を見逃してはならないだろう。とりわけ重要であるのは、ワーグナーの作品とショーベンハウアーの思想である。

ショーペンハウアー(一七八八~一八六〇年)はたんに「ペシミズム」で通った哲学者であるばかりではない。彼は人間についてのお高くとまった幻想を一刀両断した者でもある。彼は自然主義からニヒリズムヘの移行を実現した。それは人間の究極的な真理となろう。フロイトやモーパ″サソといった幅広い著述家たちのうちに、ショーペンハウアーの影響を見出すこともできる。

ショーペンハウアーは物自体と超越論的主観性に立ち止まることなく、世界を表象へと還元することによって、カント的批判を先鋭化した。すべての根底に、意志、すなわち生きんとする意志が存在する。それは純粋な自発性であり、普遍的な生の盲目的な力であり、それ自体は根拠も理由も目的ももたないものである。

この無名の意志は、暫定的なものでしかない諸々の個体を媒介にして、世界のうちにみずからを表わす。そのように表われた意志は、時間と空間の鏡のなかに映された、たんなる仮象にすぎない。空間のみがつねに若いままに保たれている。なぜなら空間は生まれることも死ぬこともないからである。人間だからといってなにかをもたらすということもないし、どこにもいたりつくこともない。人間の歴史は空虚である。なぜならすべては反復し、同一のものへと回帰するのだから。精神とは、意志か生み出す諸々の不一致によってつくられた幻想である。愛も幻想であり、その本性は種の再生産に奉仕することである。絶えずよみかえってくるわれわれの欲望は、あるときは障害に出会って満たされず、あるときは充足されることによって解消される。だからこそ、「生とは、苦痛と退屈のあいだを振り子のように揺れ動く」のである。

絶望のあまり自殺したとしても、ひとは満たされないひとつの生を消し去るだけであり、生そのものを抹消するわけではない。むしろ欲望に立ち向かうことによって、悪を根源から断ち切らなければならない。この「仏教的」診断か、われわれを同情道徳(われわれに人間の統一を感じさせるもの)へと向かわせ、禁欲(生きんとする意志の中断)へと、そして無関心な観想へと向かわせるのである。

ショーペンハウアーによってなされたこの最後の転回は、ニーチエがおこなう攻撃の特権的な標的のひとつとなった。

 1 哲学と価値--哲学者だちか織り成す協働のうちに入り込むのではなく、たとえそこに不協和音を鳴り響かせることになろうとも、ニーチエがただちに望んだのは、挑戦的で攻撃的な破壊者となることであった。「最後の哲学者」を自称することによって、ニーチエは〔哲学の〕墓堀人の役目を中し出たのである。彼は哲学のなにを非難したのだろうか。それは、哲学がそこから生まれ出たにもかかわらず、生を否定していることである。哲学は実在を仮象の名のもとに既め、無を実在(純粋精神やプラトンの《善そのもの》)の偶像とすることによって、みすがらの世界にたいする誤認を正当化してきたのである。

 2 評価の系譜学--道徳の足跡をたどっていくと、われわれは生へといたりつく。それは条件づけられていない唯一のものである。諸々の価値に気をとられることなく、われわれは諸価値の価値について考えなければならず、価値の背後にある評価の働き、および評価の背後にいる評価者を探求しなければならない〔以下、『道徳の系譜』の概要〕。

 3 ニヒリズムの乗り越え--利他的な価値は「終わりの始まり」である。キリスト教的「ニヒリズム」(神は十字架に架けられて死んだ)から近代のニヒリズムヘと進む連続的な運動が存在する。しかし近代のニヒリズムが「神の死」を宣言するとき、それがなにを意味するのかはまだ十分に理解されていなかった。この無神論は偶像崇拝のうちにとどまっている。なぜならそれはつねに否定すべきなにかを前提にしているからである。しかし神がまったく存在しないために、ちょうど仏教徒がそうしたように、みながこの無を絶対へと仕立てあげたのである! 「神の死」とはすべてのものの真理、意味、統一目的の終わりである。これぱ袋小路であろうか。それとも世界を全面的に新しく創造するチャンスであろうか。

 4 永遠回帰--「現代を覆っている解体や未完成という麻庫させる感覚に抗して、私は永遠回帰を差しだしたのだった」とニーチエは書く。なにものも存在せず、すべては生成し、生成したすべてのものは回帰する。存在は絶えず始まり、諸々の可能性の量は有限であり、すべてはかつて存在していた。同一のもの、がつねに回帰するのだから、神聖な意志というものは存在しない。また、始まりも中間も終わりもない世界はそれ自身で充足している。なぜなら、それはつねに始まりであり、中間であり、終わりだからである。言い換えれば、永遠回帰とは無神論を現実化するものである。永遠回帰は諸宗教の宗教である。古代において永遠回帰は予感されていた。子供たるゼウスはいたずらにさいころを投げ、そうして偶然は必然へとおちいる。古典的な哲学者たちは「悪いプレイヤー」である。つまり、彼らは原因、意味、目的を見つけようと望んでいるのだ。
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臨床哲学「哲学と市民」

『応用哲学を学ぶ人のために』より

はじめに

 本章は「哲学と市民」の主題系に属する。哲学と同じくらい「市民」も自明ではない。哲学が市民とかかわるとき、その市民とは誰なのか。誰が市民ではないのか。いまの日本の市民である〈われわれ〉と、たとえば古代ギリシアの市民とはどう違うのか。本章では、大阪大学を中心とした臨床哲学の取り組みを解説しつつ、プラトンの対話篇におけるソクラテスの振舞いと当時の市民たちの反応を参照して、「かかわり」のなかで哲学と市民の双方を究明し、かかわりの実践を反省し、構想したい。

哲学は街角に出るーどんな街に?

 ソクラテスは好んでアゴラ(市場)に立った。書物を通して自分を売り込むこと、後世に名を残すことを望まなかった。「書を捨てて街に出る」のは臨床哲学の第一感でもあった。そしていま、臨床哲学の多くのメンバーは大学の外、喫茶店や駅地下スペースなどで、市民と「哲学カフエ」を行っている。もっとも、その経験を論文その他のかたちでまとめ上げて、言葉にし、それをまた市民との対話ヘフィードバックする試みは続いている。

 それまでの階級社会と違って、ポリス市民たちは相互に「似通った」者たち、さらには「等しい」者たちであった。奴隷や女性を排除して成立するその同質性のうえで、若者たちの競争が生じる。彼らは「民会」で雄弁をふるって政治家としてのし上がろうとした。そのためにソフィストたちに金を払って、「都市における権力行使のための準備教育」を受けようとしたのである。現代の哲学カフェに集う若者たちはそのような権力志向を共にしていないように見える。それは彼らが--ソクラテスに慕い寄った青年たちがソフィストの顧客と一線を画したように--政治やビジネスの道具と化した知識を拒んで、真の「知への愛=哲学」を求めているからだろうか。確かなのは、ギリシアの合理的な公共精神と「正義」への信頼を彼らが失ったように見えることだ。ポリスの青年たちがポリスを防衛するために兵士として出陣し、あるいは近親者が殺されたときはその仇を討って共同体に代わって懲罰を下し、それらの危険と引き換えにのみ政治参加の権利を得たのと違い、現代の若者たちは軍事・警察・治安維持に汗や血を流すことなく、投票に行き、家でパブリック・コメントを書き込むなどすることができる。かたや、「死刑になりたくて」無差別の殺人を犯し、司法制度を自殺補助機械として利用しようとする者までいる。そのような「街」で市民とは何であり、知はどのような働きをし、哲学はいかなる役割を果たせるのか。

 ソクラテスはアテナイの法律を(まさに)命に代えても守ろうとした。戦争に従軍した。奴隷制に異議を唱えなかった。そのようなガバナンス(統治)を背景とする市民性は現代において可能なのか。ギリシアのアゴラには、理念としてすべての市民に食事を供する「公共のかまど」があり、それが政治共同体の統合を象徴していたが、そのような「中心」は現代の都市には見当たらないだろうーたとえ「かまど」の機能の一部、和やかに議論と飲食を共にする精神が、哲学カフェによって多少は受け継がれているとしても。

 筆者が体験したある哲学カフェを例にとろう。「先生はえらいか」というテーマだった。ソクラテスが参加していたら、「えらさ」とは何かをまず定義してかかっただろう。また、先生と呼ばれる人が多種多様に存在しようとも、どのような先生が真の先生なのかを吟味しようとしただろう。ところが、哲学カフェはそのように順序だっては進まないのが普通である。一人の女性は、「先生をえらいと思ったことはない」と発言した。それに対して、自分も先生の権威にかたっぱしから反発してきたという男性は、それだから自分は成長することができなかった、自分の生き方を後悔していると述懐した。これは人生経験を論拠として、知的・道徳的権威とそれへの服従を正当化する態度である。筆者の考えでは、哲学カフェで参加者は「生活者」として発言すべきであるから、この男性の態度はその限りで肯定できる。ただ、この人は、その論理を一般化して社会秩序に及ぼすのであり、そこに疑問が生じる。すなわち、先端医療技術の是非などの社会的争点について、倫理学の教授は権威者として社会に指針を示すべきであり、たんに個人として提案を述べるだけでは社会は治まらないと論じたのである。前述のように「中心」のない社会だからこそ根強く残る権威・権力へのあこがれと誘惑がここに窺える。これに対して、他の参加者や進行役はどう対応(尊重? 介入?)すべきか。哲学カフェのゆらぎの一つはここにある。

市民の/市民との対話

 臨床哲学は一般市民との間で哲学カフェをはじめ多くの哲学的「対話」を実践し、サポートしてきたが、その方法論の中にはネオ・ソクラティク・ダイアローグ(NSD)、すなわち新ソクラテス的対話と呼ばれるものも含まれている。ソクラテスがやはり知的権威者として対話に臨み、対話をリードしたのに対し、NSDの進行役は対話への介入を極力避け、交通整理に徹する。対話参加者(市民)たちが主人公なのである。ただし、このように反権威的に、その意味で民主的に振舞ったとしても、そのことだけで対話の思想的質が保証されるわけではない。ソクラテス同様、あるいは彼以上にわれわれも時代の子であり、この時代に支配的な言語ゲームに多少とも無自覚に取り込まれていると思われる。

 たとえばべ/~の止命・医療倫理は、少なくとも理論のうえで、「むだ」な延命治療のマイナス面が指摘され、クォリティーオブーライフ(生命・生活の質)が重視される方向にある。ソクラテスなら、生命でなく、「魂」の質を訴えただろう。たとえ生命に代えても守らなければならない上位の何か。現代のわれわれはそのような拠り所をもっているだろうか。むしろ、「人の命は地球よりも重い」という類の短絡したヒューマニズムが、しょせん論理的でありえないその情緒性のままで、われわれの日常的行動と公共的価値秩序のかなりの部分を席巻しているように見える。逆にそのセンチメンタリズムにいらだつ人々は、暴力の不可避さを偽悪的な表現で擁護する。市民たちを分けるそれら両極の間に共通の言語は成り立つのか。
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裏ロジック 歴史編

4.1 歴史に関心
 分析対象の拡大
  戦間期から分析を始めた。世界は全体主義になり、同じ流れから、民主主義というグローバリズムが始まった。
 変化
  全体主義に対する民主主義。その突破口はローカルを支配するグローバルをどう意識するか。ローカルを取り込んだ。
 反発
  グローバルはローカルを圧迫する。ローカルも様々な反応を示している。新しいローカルが解決していく。
 次の世界へ
  歴史は変わっていく時に来ている。多くの要素が絡み合っているが、全てが偶然ではない。その姿を見ている。

4.2 歴史の分析
 ローカルから国を見る
  ローカルとグローバルの関係で見ている。グローバルとしての各国の歴史から知恵を得る。小国は魅力にあふれている。
 歴史をどう捉えるか
  ギリシャに見られるように、地形との関係、民意、政治体制、それらが時間とともに時代に合ったり、背いたりします。
 歴史観の仮定
  全体としての歴史を捉えて、ローカル・グローバルでの歴史観から仮定できた。将来から見ていきます。
 歴史は作られる
  歴史は過去から将来を見ていくだけでなく、偶然の情報は私に何かを示している。そこから、将来を見ていきます。

4.3 歴史の行方
 存在と無
  個人が直接生かされる世界はありえない。グループを作り、意図をまとめて、自分たちの国を作るプロセスがいる。
 まとまること
  一国での体制を固めて、そのまま拡大するのではなく、連携することで、世界を変えていく。イレギュラーへの対応。
 流れを変える
  支配するグローバリズムは限界に来ている。世界は有限であり、上から下への支配力は腐敗する。流れを変えるときです。
 サファイアでの方向
  サファイア循環はローカルの活性化を求め、それをグローバルが支援していくカタチで全てをつなぐ。

4.4 平和への道
 存在と無
  個人が直接生かされる世界はありえない。グループを作り、意図をまとめて、自分たちの国を作るプロセスがいる。
 まとまること
  一国での体制を固めて、そのまま拡大するのではなく、連携することで、世界を変えていく。イレギュラーへの対応。
 流れを変える
  支配するグローバリズムは限界に来ている。世界は有限であり、上から下への支配力は腐敗する。流れを変えるときです。
 サファイアでの方向
  サファイア循環はローカルの活性化を求め、それをグローバルが支援していくカタチで全てをつなぐ。

4.5 時期が早まる
 グローバルの崩壊
  クライシスで、グローバルの崩壊でシナリオが早まった。悲劇を避けるために早急に、ローカルを再生する必要があります。
 腹を括る
  日本は歴史に寄与できる、機会かもしれない。未知の領域に市民がどこまで絶えられるか。どの道で腹を括れるかです。
 連鎖反応
  手順が販売店を変えるシナリオが活用できる。それだけヂュアルな世界です。ということは層での連鎖などの可能性が高い。
 本当の「元へ戻る」
  今回のクライシスで「いい町」「いい社会」が展開できたことになります。それができれば、歴史はの元に戻ります。

4.6 変えるシナリオ
 グローバルの崩壊
  クライシスで、グローバルの崩壊でシナリオが早まった。悲劇を避けるために早急に、ローカルを再生する必要があります。
 腹を括る
  日本は歴史に寄与できる、機会かもしれない。未知の領域に市民がどこまで絶えられるか。どの道で腹を括れるかです。
 連鎖反応
  手順が販売店を変えるシナリオが活用できる。それだけヂュアルな世界です。ということは層での連鎖などの可能性が高い。
 本当の「元へ戻る」
  今回のクライシスで「いい町」「いい社会」が展開できたことになります。それができれば、歴史はの元に戻ります。

4.7 LとGのバランス
 ローカルの力
  歴史は民主主義を選んできた。結果として、ローカルがグローバルに取り込まれた。ローカルの力が発揮できる形態を志向。
 歴史の主役
  グローバルではいろいろな試みがされているが、受ける方のローカルが変わってきていない。歴史の主役になっていく覚悟。
 変わり始めた
  ローカルが変わり始めてきた。インフラのネットワークの上に、ライブラリ・コラボレーションを武器にして、動き出した。
 循環型社会
  平和で、多くの人が共存でき、共通のテーマを解決できる、循環型のサファイア社会への準備ができた。

4.8 超民主主義
 自分たちの問題
  市民エネルギーをコミュニティに集めて、自分たちの問題を明確にして、自分たちで解決できるようにしていく。
 モノを作ること
  モノを作ることで、ノウハウはカタチになり、安定的循環のエネルギーになる。企業と一緒になって、社会を再構成する
 インフラ要望
  平和でないと市民エネルギーは機能しない。インフラは行政に求めないといけない。市民の専門家のレベルもあげていく。
 数学的思考
  サファイア社会の構成を保証するのは、数学的な志向です。ローカルとグローバルの関係を明確な目的と手段でつなぐ。
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裏ロジック 社会編

3.1 社会観察
 社会に入り込む
  誰でも入れる、コンビニ、ファーストフードから社会の観察から始めました。図書館研究で習得した、観察手法を使いました
 全体を捉えるには
  社会は断片しか見えない。マスメディアで対応してもらいたい。偶然を使って、本をベースに全体イメージをつくる。
 推察する
  個人の情報源から社会構造を仮定し、社会全体を把握する。偶然を活用して、女性の意識と本などの情報が頼りです。
 全体を見る
  サファイアの仮説を社会に適用して、社会全体を4つのフェーズと4つの関係で捉える。それらを数学的思考で表現する。

3.2 社会構造
 入り込む勇気
  社会構想解析のために、本だけでは分からない所をボランティアとかNPOから始めた。私には動くことはしんどいです。
 身近な権力
  ローカルである市民からすると、直接的なグローバルな存在である市役所にも関係するようにした。格差の塊みたいです。
 適切な問題解決
  環境問題などの解決策を、NPO・ボランティアなどの市民の意識などに押し付けている。問題の根本を明確にしてしない。
 つながりを見る
  グローバルとローカルの間のつながりから社会構造を見ていく。社会一般ではなく、環境問題などにターゲットを絞る。

3.3 支援
 ローカルの要件
  ファシリテーションはグローバルがローカルを支援する体制をどうみるかです。ローカルでの要件を動きながら、見てきた。
 環境学習施設
  グローバルからの支援として、フィンランドの環境学習設備でヘリさんから習った、4つの機能は有効です。
 ローカルからグローバルへ
  サファイア社会で見た時に、 Local meets Globalの行動がグローバルからローカルへの流れをグローバルにつなげる。
 構図が不明
  とりあえず、市民と市役所の関係で考えましょう。この構図をそのまま拡張しても、社会一般にはならない。

3.4 活性化
 まやかしを超えて
  あまりにも、実社会でのまやかしが多い。グローバリズムの限界をハッキリさせ、超国家体制志向に対抗していく。
 いかにまとめるか
  理念的だけでなく、ローカルが生きていけることと、それまでのシナリオを作り出していく。そのための事務局構想が必要。
 まとめていく
  事務局機能は仕事編で述べてきた。市民間のループ、地域のループ、政治のループをつなげ、ライブラリを蓄積していく。
 シナリオをつくる
  市民生活をしながら、新しい世界に持っていくためのシナリオを作る。実行する人にメリットを与える。

3.5 国を当てにしない
 反応の遅さ
  3.11で見えてきたものは多い。政府などの反応は非常に遅い。ふだんから考えていないからです.考えれば分かるはずです。
 アイデアをシナリオへ
  偶々のアイデアではなく、この時のためのシナリオを作り出しましょう。ソフトエネルギーパス自体は35年前のアイデアです。
 将来の職業
  新しい社会では、現在の配置が変わる。それに伴って、10歳児が将来の職業選択にも影響がある。そこから変えていく。
 次のクライシス
  次のクライシスに耐えられるか。地域社会の横の連携と、グループとか政府を含めた縦の配置の頑強さで決まります。

3.6 地域活性化
 さあ!プレゼンです
  未唯空間でまとめたものを、社会との接点にさらすことで、耐久力をつけるのと、影響力をつける。ニーテェの「山を下りる」
 シェアを支援
  情報の目的は市民がシェアすることを支援することです。その時に、非日常での対応と日常での対応を関係づける。
 自前主義
  コミュニティの原則は自分自身で行うことです。ライブラリとかコラボレーションなどを自前で用意することが肝要です。
 事前対応
  社会での最大の課題は事前対応。起きる前に手を打つ。そのために必要なのは想像力と枠を超える力です。

3.7 コミュニティ
 社会を変える認識
  個人がコミュニティへ参画することでコミュニティが拡大していく。一過性での盛り上がりでなく、社会の認識を変える。
 商売とつなげる
  市民のエネルギーの実体は、自分のことは自分でやる。それで全体が助かり、グローバルに縛られない生活を商売にできる。
 ネットワークは拡大
  将来も含めて、ネットワークは拡大する。シェアする仕組みをネットを前提として作られる。コラボレーションも保証される。
 真の情報共有
  バラバラであった、市民をつなげるのは思いとICT技術です。映像、事例等を多用して、情報共有を武器にしていく。

3.8 サファイア社会
 自分たちの問題
  市民エネルギーをコミュニティに集めて、自分たちの問題を自分たちで解決できるようさせることで多くの人が共存できる。
 モノを作ること
  モノを作ることで、ノウハウはカタチになり、エネルギーになる。安定的な循環には必須。企業と一緒に社会を再構成する。
 インフラ要望
  平和でないと市民エネルギーは機能しない。インフラは行政に求めないといけない。市民の専門家のレベルもあげていく。
 数学的思考
  サファイア社会の構成を保証するのは、数学的な志向です。全体と局所を明確な目的と手段でつないでいく。
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