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未唯への手紙

未唯への手紙

自分に関する根源的なこと

2011年04月06日 | 1.私
未唯へ。一昨日、買ったばかりのマナカが見つかりません。1万円入っていたのに。元町厚生センターのロッカーを探しに、朝、25分ぐらい歩いていきました。見つからなかった。歩いていく途中に色々考えました。

孤立と孤独で、相手の存在が分からない。逆の立場から見ても、私の存在を相手に認めさせることができない。同じ世界に生きている、同じ空間に生きていることが証明できない。

生まれた時に与えられたモノがあまりにもでかくて、不明な存在で、その説明がされていない。その中で生きろ!と言うのですか。親との関係も同じです。あなたは何で、何をするために来たということを教えてくれることはないです。。私も子どもに対して、それは語れないです。単に生まれてきたというだけです。その中で、未唯は絶対的な存在に決めました。

思いはわからないと言うけど、これだけ分からない世界はないですよ。これだけの世界でやっていけと言うのであれば、なぜコラボレーションが発達しないのか。相手を知るために、自分の意見を出すことをしないのか。仕事も含めて、意見を言う人はいません。未唯空間ではないけど、自分が何を考えているかを探るだけでも、何年も掛かります。それを遂行できる体力を持っている人は殆どいません。

そこに在るものが、なぜ、動いているのか。動かなくてもいい。自然もそうです。それに対しての説明はありません。こういうのを、「離人症」とかの名前を付けるけど、では、どういうのが正しいのか、正しいとは何か。私は狂っているとは思えない。こんな世界を作っておいて、ほかっている方が狂っているのです。

自然のありがたみとか、自然の脅威とか、農業とはこういうものだとかの素朴さで済ましてしまうけど、根源的なところは考えているのか。「自然」「自然」というけど、自分で作ったわけではない。偉そうに言わないでもらいたい。

ニュースで、ジャック・アタリが日本の環境政策について、語っていると聞いた。国の基準値は何か。それを超えたものを捨てても、何のおとがめもないのか。誰が責任を取らないのか、と思っていた時に、超国家を志向する。彼の怒りは妥当です。日本の対応は国際ルールに反している。制裁の対象になりかねない。

パートナーは、朝はいい調子だったけど、元に戻って、「作業」をしています。なぜ、俺の言葉を聞かないのか。わからない。単なる味方ではないのは確かです。本来、ネットワーク会社とのコミュニケーションはパートナーの役割です。やりたくなさそうだから、代わりにやってきました。室長の頭の中とネットワーク会社との関係が錯綜します。私にもなくすものがない。いくらでも、言っていけます。

未唯空間は、詳細編にはいります、仕事編の詳細が一番多いから、仕事編から始めます。詳細に題名をつけましょう。そうすれば、分解できます。5月の連休までにどこまでできるかです。詳細を書きながら、項目で、同じことを書いていることを見つけて行きましょう。

この会社を救う処方箋を作りましょう。あとはインタープリターを待つだけです。

ちょっと、根源的なことを振り返ってみた

2011年04月05日 | 1.私
未唯へ。ICレコーダーからの転記が増えたために、散発的に同じことしか言っていない。ちょっと、根源的なことを振り返ってみます。

根源的なことと言うのは、別に今から探らなくても、ブログに記録しています。それを未唯空間に反映させます。それが提案事項です。

知らない間に話して、書いていることが多いです。未唯空間の穴埋めにしても、よくこれだけのことを知っているということに我ながら、感心します。書くことはすごいことです。

雑記帳は、未唯が生まれた前からですから、25年以上になります。

その記載を他人から見ましょう。それがブログから未唯空間の反映の意味です。新しい観点を入れます。

その中でも、今年の3月は色々あった。新しい社会のキーワードとして、「シェア」に気付いたこと。

これには、元町のサウナでの会話からのヒントも大きい。我々は商品を作っている。今は部品がなくて作れない。作らないと食べていけない、そんな会話からも、作らなくても、使っていくこと、それをサービスする会社であってもいいのではないか、と気づいた。

同じ時に、複数発注にしていないから、こういう時に困るんだよね。かといって、安全を見越して、複数の会社に発注していたら、コストが高くなってしまう、ということも言っていた。なぜ、安くなくてはいけないのか、個人に売ることこと、所有する形態でなかったら、高くてもいいじゃないか。シェアして使う電車は高いようね。

そんなたわいない会話には、私の心が反応して、「シェア」社会のイメージを作り上げた。

一番、ショックだったのは3月2日のパートナーの次期ネットの2時間にわたる説明です。パートナーは時間が過ぎていくことしか考えてなかった。私は半年以上掛けて、やってきたことに関心がないことがわかった。これで次期ネットのプロジェクトは始まる前に終わりました。

次の日に、この職場は「作る」ことしかないことを知らされた。販売店の夢を語っても、ここでは、成し遂げられない。

3.11クライシスでは、「お客様第一」と言いながら、お客様状況を把握しないことでした。これもショックだった。今こそ、お客様の信頼を受ける時なのに、元に戻すことだけしか伝わってこなかった。

それとネットワークの弱さと強さを感じて、次期ネットの要件を見直した。ネットワークは多様であることが基本になります。「次」への対応です。

あわせて、情報とエネルギーを装備した、商品自身が地域防衛のツールになることを感じたそれらを未唯空間に織り込みながら、どこへ持ち込もうか考えるようになった。

「する」としての老い,「ある」としての老い

2011年04月05日 | 7.生活
『はじめて出会う生命倫理』より

芹沢は,「老い」に関して次のように言及している。彼によると,私たちは自分の人生を常にできること,しうること,すなわち「する」を基準にして考え,私たちの社会もまた「する」を基準にして成り立っている。そして,「する」を基準にして「老い」を見ると,「老い」はひたすら「できなくなる」こととしてだけとらえてしまい,「する」の世界が縮小していくという認識から離れられなくなってしまうという。 ここで、老いることをたんに「できなくなる」(=[する]の不能化)という見方で把握するだけで足りるのか,と疑問を投げかける。彼はそこで,「する」という基準を相対化する言葉として「ある」をあげる。「ある」とは〈存在そのもの〉であり,それはたとえば胎児や生まれて間もない新生児であり,人間の出発点だ,という。彼によると,子どもというのは,〈存在そのもの〉として生まれてきて,やがて何かできるか,何を成しうるのかということを問われ,自分自身に対しても何かできるのかということを問いかけながら成長する。「ある」から「する」へ,これが自然なプロセスだという。

しかし,人間は一方通行ではない。もうひとつ,「する」からまた「ある」へ戻るというプロセスがある。「ある」に始まって「する」という段階を経て,もう一度「ある」という段階に戻っていく,これが人生のプロセスの原理的な把握だというのだ。ここから「老い」の過程を,「する」のくびきから脱し,「ある」という段階に戻れる状態に入ったことを意味すると論じる。「する」を視点にしている限り,老いの過程は,「する」の後退や縮小といったマイナスなものとみなされる。しかし,「ある」に視点を置いてみると,後退・縮小とみなされてきたことは,「ある」への着地・回帰ととらえなおすことができるというのだ。

芹沢は,「する」「ある」論から介護についても次のように言及している。現実社会の中では人間は「する」を基盤に秩序づけられ,そこに日常生活がある。だとすれば,それは仕方がないことなのだが,本来の人間のあり方というのは「ある」から「する」の段階を経て,もう一度「ある」へ回帰していく,この道もまた避けられない,という認識をもてるかどうかで,介護の仕方,介護する者のあり方というのはずいぶん違ってくるのではないか,と。

暮らしのさまざまな場面で介護が必要になった人は,「する」という眼差しからは価値がないとみなされてしまう。介護する側も,その人のために介護や世話や見守りや気遣いなど,いろいろな「する」を強いられる。こうして,介護する者の価値観も,「する」というところに意図せずしてしばられてしまう。

「介護される」とはどういうことか,について考えた場合,「他者に自分の生と身体をゆだねる,あずける」ということがひとつにはあると私は考える。そして,「他者に自分の生と身体をゆだねる,あずける」者にとって,他者とどう生きていくのか,他者とどう関係を築いていけばいいのかが切実な問題となる。その問いに対する答えとして,他者の援助は受けるが支配はされない,ということがあると思う。「他者に自分の生と身体をゆだねる,あずける」者にとって,他者の援助は受けるが支配されないためには,介護される者自身の「自己決定」が重要である。ところが,「他者に自分の生と身体をゆだねる,あずけること」と,「自己決定すること」とは,相いれないことであると考えてしまう節がある。それはなぜなのだろうか。それは,「他人の力をかりない=自分の力で」自立観にとらわれて「自己決定」というものをとらえてしまうからであろう。誰にも依存しないことを「自立」と定義するこの社会では,他人のケアに依存しなければならない状態に陥ったとたんに,その人の自己決定能力は否定されるのである。しかしながら,「他者と関係を築こうとする、自立観からしてみれば,そもそも「自己決定の尊重」とは,相手の欲求や意思を尊重しながらも,何か最善の決定なのかを共同で考えていこうとすることとしてとらえられる。ただし,「介護される」人たちの中には,周囲の呼びかけに応じられないと見られる人たちもいる。また,自身で相手に呼びかけられないと見られる人たちもいる。そういった人たちの「自立」「自己決定」は,どうあればいいのだろうか。

朝のまとろみの中でボケ~と考えるのが好き

2011年04月04日 | 7.生活
未唯へ。休みはいいよね。面倒くさくない。寝れる。

仕事についても、まあ、その内、分かるでしょう。寝てましょう。自分の中のすべてを表現し尽くした時に、次を考えましょう。それまで、ひたすら繰り返します。そのために、根源的なことを考えていきます。今、根源的なことは何でしょうか。

やはり、分かるように表現することです。エッセイです。毎日がそれにつながる体系にしていくことです。それを持っていく先はその後です。もっと、もっと。先です。

どんなことに対しても、自分の考え方を明確にできる。未唯空間がすべてであることを確認します。「いい町・いい社会」のキャッチフレーズは人質にとります。今まで、販売店のことをやって、B-B-Cの概念を出したのは、このためです。それに即して、ネットワークもポータルもやってきたはずです。メーカーの仕事のすべてを、お客様との接点にするにはどうすればいいのか。

やはり、私は正しい、ということの証明です。その証明をしたからと言って、どうなるかというものではない。単にそれをしたいというだけです。

アゴラではないけど、それから発展する部分を作っていかないといけない。そのためのベースです。それによって、未唯空間の内容は進化させていきます。個人の意見でしかない。いずれの哲学者は自分の意見を通してきました。

アレキサンドリアも周りの喧騒に関係なく、真理を求めました。自分が知りたいことを知る。彼女は殺された上に、著作はすべて、焼かれてしまった。彼女は自分の生徒だけに対して、教育をしました。そして、1600年を超えて、残りました。伝わりました。私も知りたいことをどう表現するかということと、それをすべて、表に出すということです。目の前にいる人を含めた、全ての人にアピールします。直接はアピールできない。真理はあまりにも広大です。そして、シンプルです。そのシンプルさが問題です、

朝のまどろみの時間は私の味方です。いつもゼロから考えています。テーマはいくらでもあります。どのジャンルから答にいける。答は多様だし、シンプルです。

映画は60歳以上は千円みたいです。隔週の水曜日は映画にしましょう。映画「アレキサンドリア」でこれだけの影響を受けた。テレビよりもはるかに刺激的です。水曜日の意味が生きてきます。その間の水曜日は考えるスタバですかね。土日のスタバは本漬けです。

月曜日はなるべく、考えないでおく日にしました。土日で20冊以上の本を処理するのに、疲れています。クールダウンさせないと。私は厄介ですね。本当にそう思いますよ。自分に対する言い訳をリピートするのは止めます。この職場自体が持っていないのに、夢が出せる訳がない。

入れ歯を洗っていたら、真っ二つに折れた。歯医者で入れ歯の修理に行ったけど、1時間以上待たされた。診察は不要だから、早く直してくれ。結局、歯医者で2時間。昼時間1時間と離業1時間です。

なぜ、アメリカは中国に進出しようとしたのか。やはり、フィリピンとの関係ですかね。そうなると、米西戦争ですね。あそこから、アメリカのグローバルは狂ってしまった。クジラでも採っていればよかったのに。

35年前に一緒に働いてきた、IBMのSEは先月、リタイアしたそうです。62歳だから、年金まで3年あります。丁度、いいかもしれない。65歳だと、私は亡くなっている。少しは違うことをやる期間を設けた方がいいかもしれない。と言いながら、元々、考えてきたことをやっています。まあ、どっちでもいい。この会社にしてみれば、本当は居た方がいい。何しろ、最後の救世主です。

マナカを買いました。なぜならば、別の用途で買った袋が手元にあったからです。こういう偶然を私は信じます。何かいいことがあるはずです。


明日は考えられるようにしましょう。ネタだけは作ってきました。

奮い立たせてくれる科学者の言葉

2011年04月04日 | 6.本
『奮い立たせてくれる科学者の言葉90』より、好きな人の言葉を抜粋しました。

1.「わたしたちが相手にしているのは、無限なんだからね。」

 ポール・エルデシュ 『放浪の天才数学者エルデシュ』より

 今なら僕の頭は営業中なんだけど? そう問いかけ、難問に取り組んでいる数学者を見つけては、転がり込んで一緒に問題を解決する。終わったら、次の研究者をまた探す。けれども、誰も彼を拒んだりしません。

 なんせ相手は、「20世紀に生まれた最も偉大な数学者」と言われる人物。ともに研究をすれば、大きな業績を残すことができました。

2.「考えることがこんなに面白いのだから、これほど人生を楽しくしてくれるこの最高の仕掛けを壊したくはない。」

 リチャード・P・ファインマン 『ご冗談でしょう、フアインマンさん』より

 ノーペル賞を受賞した科学者の話は、本書に数多く収録しています。賞が科学者に贈られる最高の栄誉とすれば、当然のことですか、「何とかもらわずに済ませる方法はないか」と、あれこれ手を尽くそうとした科学者もいます。

 それが日本の朝永振一郎博士とともに物理学賞を受賞した、ファインマン博士です。

 賞だけでなく、彼は大学などからのスカウトを断るため、給与額の提示を禁止したとか。「言われたら迷うから、言わないでくれ」ということです。

3.「グーム理論のアイデアについて述べた言葉 もしあなたが数学は単純なものだとは思えないというなら、それはあなたが単に人生がどれほど複雑なものかを理解していないからに過ぎない。」

 ジョン・フォン・ノイマン

 私たちの人生も、人間社会の未来も、すべて数学によって理解できる。そんな信念に基づいて研究を続けたのが、「ゲーム理論」の確立者であるフォン・ノイマン。20世紀が生んだ、最高の数学者と称される人物です。

4.「狂気は逃避でもある。物事がうまくいかないときには誰でも何かよい状態を想像しようとするだろう。私は狂気の中で自分は世界で最も重要な人間だと考えていたのです。」

 ジョン・ナッシュ ドキュメンタリー映画「輝ける狂気」より

 ノーベル賞を受賞した天才数学者、ジョン・ナッシュの人生は、何より映画『ビューティフル・マインド』で有名になりました。スター俳優、ラッセル・クロウが演じた彼の姿を、すぐに思い出せる方も多いでしょう。

 退院後は意味もなく、プリンストン大学をふらつく日々。「キャンパスの幽霊」と称されます。その彼にノーベル賞を与えていいものかどうか、反対も多かったそうです。

 しかし彼は自己(本は「事故」になっていた)を客観的に見直すことに成功、仕事にも復帰しました。どんな境遇に陥っても、「やり直し」はできるのです。

5.「諸学問において将来どんな進歩をなし遂げる希望を持っているのか、わたしはここで個別的に語ろうとは思わないし、完成できる自信のないような約束を一つでもして公衆に責任を負いたくもない。だが、次のことだけは言っておこう。わたしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使うまいと決心した。その知識は、そこから医学のための諸規則を引き出すことができるようなもので、それらの規則はわれわれが現在までに持っている規則よりももっと確かなものである。」

 ルネ・デカルト 『方法序説』より

「アレクサンドリア」のヒュパティア

2011年04月03日 | 2.数学
ヒュパティア(Hypatia)は、数学者テオンの娘であり、父親から勉学の手ほどきを受けた。彼女の造詣深い注釈は、アポロニオスやディオパントスの幾何学に輝きを与えた。彼女はアテナで、アレクサンドリアで、プラトン、アリストテレスの哲学を一般の人に教えた。美しく、洗練された知恵をもつ控えめなこの未婚の女性は、愛人を退け、弟子たちを教えた。地位を誇る人たちは、この女性哲学者を訪れるためにじっとしておれなかった。

ヒュパティアは、ローマ帝国の終わり頃に生まれた。時代は、女性がそのキャリアを自由に伸ばせない頃であった。これはまた、因習的な信じ込みが科学的発見を退ける時代でもあった。古いギリシアの著作物が燃やされ、学者たちはひどい目にあわされた。ヒュパティアは、ヘレニズム時代の不思議さを持つ最後の人であった。読者は、アメリカや、そして実に世界全体の多くの最新事情に不思議に似かよったものを見ることであろう。ヒュパティアは、実在の、歴史的に文書に裏付けられたヒロインで、今日の若い世代が求める、強い、そしてフィクションでない人物像である。

女性が、技術者や物理学者同様、数学者であることは稀である。その希少さは、詩人や画家に較べても、まことに重大なことである。その結果、「女性の数学者」の研究は、それを始める前から重大な危機にある。というのも、20世紀に至るまで、そういう議論をつくるための継続的な伝統というものがなかったからである。

哲学者であり数学者であるヒュパティア、紀元後415年にキリスト教の暴徒によって殺されたのは間違いなく歴史的事実である。その彼女は、言い伝えられてきた人たちの中で最も古く、創始的な人物であり、彼女の生活、活動についての諸問題は、いろいろな問題を指し示していくことになると思われる。というのは、もしわれわれが、ギリシアの数学者の中から誰か他の人を何かの「代表」として挙げることになったら、彼等の生涯について知られているほんのちょっとのことを元に、それを一般の形にするのは難しいことであろう。たとえその仕事が物語を作る基礎になったとしても。ヒュパティアについては、事情は全く異なる。彼女の生涯は、他にないほど、後のキリスト教徒の著述家たちにより、好意的、あるいは敵意的な説明で、一般のギリシアの数学の中に文書化されている。特に、彼女の献身的な弟子であったリビアのシレーヌの司教シネシウス(Synesius)は、彼女にいくつもの手紙を書いているし、彼女の生活や教え方についても相当詳しく書いている。彼女の数学者としての能力については、書いたものが沢山あり、またその仕事のタイトルもいくつか残されている。一方、ヒュパティア自身のものとしてあるテキストは現存しないし、「ヒュパティアの定理」と名のつけられたものもない。彼女自身のものというものは発見されていないのである。ヘロンについては、すでに述べたように、業績は残っているが彼がどんな人だったかは何もわからない。ヒュパティアについては、事情は全く逆である。

彼女の生活、彼女の哲学については、文献はいろいろある。(シネシウスは、数学にはあまり関心はなかったようである。)マリア・ジェルスカ(Maria Dzielska)の著書(1995)は、近年のすぐれた文献である。ジェルスカは17世紀以来の彼女にまつわる神話から述べ始める。それは、上に、この節の初めにも記した。彼女はキリスト教の犠牲者であり、古い学究の新しい無知の者による死である(Gibbon)。女性崇拝の聖像であり、(たとえば)マリー・キューリーの先駆者である(Margaret Alic)。ヨーロッパの規範をアフリカに押しつけた一つのシンボルである(Martin Bernal)。ジェルスカはヒュパティアを、数学、天文学、新プラトン的哲学↑9を、クリスチャン、異教徒にかかわらず教えた影響力のある先生としての納得できる像を描いている。

今回の震災は第二の敗戦、という評論家

2011年04月03日 | 3.社会
未唯へ。今、起きて日曜日だと知って、ホッとした。会社イヤイヤ病ですね。

ジンメンの「社会的分化論」。個人と社会との関係を定義した、社会学の古典。すべてを証明するわけにはいかない。リーマン予想を信じて、無限次元が存在するものとします。個人と社会との関係はあるモノとします。その間にグループを入れます。

歴史の本を見ていると、感じるのですが、皆、細かいところをやっています。それか大きいところをやります。私が知りたいことは、大きいところです。歴史とどう変えるかです。当然、歴史がどう変わるかというのが裏にあります。それがないと変えることができません。

これでも、60歳まで生きてきました。何もしなかったわけでもない。「アレキサンドリア」にしても同じです。自分が知りたいことことが全てです。それは非常に大きいことです。図書館も守っていません。単に、本を持って逃げただけです。最後に、哲学者と主張したけど、単なる、異教徒として、殺されただけです。その覚悟だけしておけばいいんじゃない。

どちらかに組みしないといけないとか、組織の中に入らないとか、その中で葬式をうけるとかは、関係ない。組織に入っている理由は、葬式を受けるためです。そこから外されるのが恐くて入っている、生き方の覚悟を決めないといけない。といっても、これしかない。

「これは第2の敗戦だ」だから、復興と言っている評論家がいる。それ以前に、太平洋戦争は起こったのか。どうすれば、起こさないですんだのか、を分析しないといけない。

アメリカに対して、あまりにも無謀な戦い、成り行きでそうなっただけです。日中戦争での20万人の犠牲をそのままにして、300万人の犠牲を出した。20万人の段階で、救う手はあった。敗戦してみて、分かったことです。今回も同じことをしないことが、戦略ではないのか。

アメリカがそれだけの力を持っているのは予想外だった。そうじゃないでしょう。力ではなく、そう出てくることを想定していなかっただけです。自然も含めて、多くの力を持っている。高々、100年ぐらいの知識は及ぶはずはない。10,000年の範囲で見る力がなかった。

それと同等なことが、ナチの第六軍にも言える。ロシアがもっと弱いと思っていたら、強かった。弱いと思った理由はフィンランドに対して苦戦していたから。そこで出掛けて行って、出掛けて行って、全滅した。その後ろには冬将軍が居た。国を守るフィンランドが強かった。そこを全然見ていなかった。

皆、想定外。そうじゃないでしょう。勝手読みです。予測できたことであり、対策できたことです。同時に、次を考えることです。原子発電をどうするのかが、皆に開示されていない。5年前の国会討論で、福島原発の発電設備を津波で持っていかれたら、どうするかの議論がされていたという、事実は話題になっていない。

太平洋戦争の時も誰もイニシアティブを取らずに突入していった。原子力発電もナアナアできている。チェルノブイニの時に、ヨーロッパでは皆でディスカッションされた。フィンランドは原子力発電なしには生きられないので、徹底的な防御を掛けた。日本の場合の原子力はすべて、コストメリットです。今回のことで、対応には10兆円掛る可能性が出てきました。コストメリットが成り立ちません。今こそ、アゴラです。皆の意見を聞くことです。「がんばれ!日本」ではない。

復興するにしても、新しい視点を入れないといけない。10階建てにして、最上階には全員が集まれるようにするとか、これなら勝てるようにする。同じように、平屋にするのはいいけど、10階建て、アパートで囲うことです。そんな風景を見たことがあります。ペテルスブルグのアパート群です。

誰も答を持ってはいません。なのに、大きな顔をしているのはなぜなのか。ずっと、この世にいるような顔をしている。この間来たばかりではないのか。組織自体にも、存在と無があります。無くなっても誰も構わない。自分たちはそこで存在かもしれないけど。ましてや、組織の中の個人はどんな人でも同じです。

地球環境と生態系の長期変動を明らかにする

2011年04月03日 | 6.本
3.11クライスにも関係する概念を見つけました。感動的です。それの一部を記録します。

私たちはどうしても、人間生活の時間スケールにとらわれます。生態系のことを考えるなら、見ている対象の生物がもつ時間スケールで考えなくてはならないのは当然のこととはいえ、言うほどに簡単なことではありません。100年に一度のササの開花や巨大な台風の来襲は、生態系にとっても大きな変化をもたらす現象です。このような100年に一度の現象は、人間には一生に一度経験できるかできないかというものです。しかし、1000年以上生きる樹木にとってみれば、100年に一度のまれなできごとも、一生のうちに10回くらいは起こる現象です。頭でそのことを理解しているつもりでも、なかなか実感はできません。

長期間の研究はなぜ必要か?

生態系は常に変化しつづけています。その変化やメカニズムを理解するために、いろいろな手法が開発され、短期間の研究でも分析的に解明できることが多くなってきました。しかしそれでも、長い時間の観察や、広い範囲をつないだネットワーク、大規模な実験などを用いて初めて解決できるような、本質的な問題は最後まで残ってしまいます。

たとえば、生態系を理解するために、数十年あるいは数百年に一度というようなまれな出来事が重要な場合があります。何十年もかけてゆっくりと変化する現象もあれば、その変化自体が毎年の大きな変動を繰り返しながら進んでゆく場合もあります。こうした変化のメカニズムを知ろうとするなら、複雑な食物連鎖のしくみやエネルギーの流れを理解することも必要になり、長期間をかけて生態系レベルで実験することも必要になるでしょう。

また、非常に広い範囲で共通して起こる現象があり、加えてそれが地域や環境によって異なったふるまいを示すこともあります。こうした場合には、同じ現象を研究する仲間のネットワークを通じて、比較研究を行うことになります。

こうした「長期間・広範囲」で生態系をとらえる研究は、近年の地球環境問題の解決にも重要な役答を果たすと考えられています。ここでは、そのためにどんなことが行われているのかについてお話しします。

長期生態研究のネットワーク

このような長期にわたる生態系変動の重要性は1970年代の後半から認識され、米国では1979年から、長期生態研究(LTER)のネットワークが設立されました。その後、この動きは各国に広がり、1990年代にはそれが国際的なネットワーク(ILTER)に広がり、30以上の国と地域のネットワークが参加し、共通のデータベースづくりや共通メニューによる実験、生態系や生物多様性の地球規模での観測事業への参加などを行って、温暖化や生物多様性など、地球規模の環境問題に対応した貢献を行ってきました。日本でも1990年代から関心が高まり、多くの研究者が個別にさまざまな活動を行ってきましたが、2006年に正式な組織(JaLTER)として発足し、lLTERにも加盟しました。

おわりに

生態系がかかえる問題を理解するには、以上のように長期間にわたる研究や、ネットワークによるデータ収集、大規模な実験などが重要な役割をはたす場面が少なくありません。とくに、近年の人間活動がもたらした環境変化の影響を知るには、長期間の観測が必要になるでしょう。温暖化の問題は、過去の人間活動によらない気候変化に較べて変化のスピードが著しく速いうえに、土地利用変化など他の人間の活動が複合的にかかわる可能性が高いため、自然に生する変化とは質的に異なります。気候変動の予測そのものが不確実性を持つうえ、生物や生態系も複雑な相互作用系をもつので、変化を見つけ出したりその対策を行うためには、長く・広く生態系とその変化を見続ける研究手法が不可欠なのです。

今日中に、本を片付けて、明日は情報整理です

2011年04月02日 | 6.本
未唯へ。朝5時から、本を読んでいます。

まずは、『アメリカの政治』をローカルとグローバルの関係で読んでいた。

アメリカ独立戦争はローカルがグローバルを作った。そこでは、13の植民地が独立すると同時に、連邦を作っていった。ルールがベースです。それ以前に土地が豊富にあった。巨大な、連邦国家を作り上げた。
アメリカ国民は地方政府を選べる。地方政府は多様です。アメリカからは逃げられないけど、地方政府から逃げられる。「足による投票」15%以上の人が住居を移動する。大統領府の下に「社会変革市民参画」局がある。

アメリカはローカルから始まった。イギリスとの戦争から、大統領府が必要だったので。グローバルを作り上げた。あまりにも広大だったので、グローバルを作り上げた。実質的にはローカルで動いている。ただし、州政府に対して、市民の態度は高圧的です。州によってバラバラです。住民の移動性は高い。

物理的な土地がありながら、移動できるようになっている。登録制が整備されていない。日本の場合は県民性があるように、土着率が高い。登録制になっている。土地そのものを離れたコミュニティが必要です。グローバルをなくてもいいカタチにしていくことです。

朝のまどろみの中で、難しい本を2冊読んでいます。『市民社会と独裁制』はもっと、DDRとナチと比較したものにしてほしい。それにしても、旧東ドイツのDDRは役に立ちそうもないです。ナチに比べるとインパクトはありません。過ぎ去ったことという感覚です。著者のユルゲン・コッカという人はかなり、有名みたいですね。

はじめて出会う生命倫理の「生命倫理」は実感が伴わない。人の数を減らすことの倫理感です。人の数が多いほど、楽になる生活、そういう社会

居間に行ったら、奥さんと長男は、自分がいなくなった世界を演出しています。これで見えてきました。その世界があるとは限らないけど。そうやって、居場所がなくなっていく。元々ないのです。だから、正しいのでしょう。やはり、存在と無です。無です。

TV番組録画で、「世界の果ての日本食堂」を見ていた。そこまで行って、なぜ、日本なのか? オーロラを毎日見ていたい。そんな現地人がいるわけではない。どうみても演出です。オーロラを見に行くのは。日本人とドイツ人ぐらいです。

午後から、気にいった、または気になった文章のOCRです。『地球環境問題に挑む生態学』から、「100年に一度のササの開花や巨大な台風の来襲は、生態系にとっても大きな変化をもたらす現象です。このような100年に一度の現象は、人間には一生に一度経験できるかできないかというものです。しかし、1000年以上生きる樹木にとってみれば、100年に一度のまれなできごとも、一生のうちに10回くらいは起こる現象です。頭でそのことを理解しているつもりでも、なかなか実感はできません。」

想定外と言っても、起きているのだから。それは簡単に! なぜ、想定外が今、起こるのか。そのカギは私です。私に何かを感じさせるために、起こされている。それが私のスタンスです。

『コンビニがなくなる日』は題名だけの本です。中身は従来通りのコンビニ紹介です。私は1999年にアメリカ視察に行った時に個人に託したテーマは「どうしたら、コンビニをなくせるか」です。その時の観点と大違いです。年金受給者が2020年に1/3になると、皆、老人ホームに入ってしまうので、コンビニまで買いに来る人がいなくなる。だから、潰れる。本当に短絡的なやり方です。

ガソリン代がないから、外へ出ないから。コンビニが流行っている。これも短絡的です。どんな社会になるのかの理念がなくて、なんでもかんでもコンビニとつなげているだけです。市民はもっと賢くならないといけない。自分たちはどうしたいのか。こんな短絡なことで、本を出していいのか。いつも、それで「歴史が変わるのか」ぐらいは考えておかないと。

先週、岡崎図書館で借りた『数学はいかにして創られたか』をチェックしていたら「ヒュパティア」の項目がありました。「アレクサンドリア」の主人公の数学者です。何という奇遇なのか。OCRしておきます。ブログにも載せます。

21冊の新刊書を借りてきた。冊数が中途半端です

2011年04月01日 | 6.本
午後年休で豊田市中央図書館に出掛け、金曜日3時配布の新刊書をゲットしてきた。今日から、2011年度図書借り出しを始めます。

読むことが負担になっているので、新刊書を漁るのを止めようかと思った。今日の成果次第で考えることにした。あまりにも、少なければ、止めるつもりでした。

結果としては21冊です。中途半端です。結論持ち越しです。

 318.3『豊田市制60周年記念誌』未来へ続く豊田のものがたり ⇒ 豊田市最大の設備、豊田市中央図書館が載っていない

 312.53『アメリカの政治』

 234.07『市民社会と独裁制』ドイツ近現代史の経験 ワイマル共和制の自壊とナチズムの台頭、その破局に続く冷戦下の東西両国家の並立から再統一へ--近現代ドイツの歴史は、ナチ・ドイツ、東ドイツという二つの独裁制と市民社会との対抗の歴史でもあった。

 159.8『奮い立たせてくれる科学者の言葉90』人生と仕事にキク!

 468.04『地球環境問題に挑む生態学』市民のための生態学入門 日本生態学会編「エコロジー講座」

 490.15『はじめて出会う生命倫理』科学や医療の進化により、「いのち」をめぐる問題はかつてないほど複雑になっている:「正解」を見つけない問いの前で、それでも考えることをやめないために、生命倫理学が蓄積してきた「考えるための道具・すじ道」とは。

 557.8『海を守る海上保安庁巡視船』

 335.21『就活とブラック企業』現代の若者の働きかた事情

 746『デジタル一眼カメラの基本ノート』もっと自由に、あなただけの世界を表現しよう。

 007.35『30分でつかむ!IT業界』会社・仕事の仕組みから最新事情まで ハード、ソフト、システム開発、ITコンサル、半導体、通信・携帯・インターネット…

 809.2『どんな人ともあとで落ち込まず話せる本』もう後悔しない!

 188.62『法然と極楽浄土』地獄とは何か、極楽とは何か! 法然の生涯と教えの中に浄土への道しるべがあった

 913.6『ざらざら』川上弘美

 070.17『戦場カメラマンという仕事』戦争を伝える写真家たちの知られざる実像と本音 ハイリスク・ローリターン!! それでも戦場に行く理由 ⇒ 9.11のあとに、講演を聞きに行った、長倉洋海さんも入っていた。マスードの写真で有名。

 816『100ページの文章術』わかりやすい文章の書き方のすべてがここに

 319『自治体の姉妹都市交流』 岩手県の自治体における姉妹都市交流

 210.7『ニッポン時空写真館1930-2010』名所旧跡・街頭風景の今昔 現代版 日本地理風俗体系

 392.1『最強自衛隊の国防力』尖閣諸島・北方領土・朝鮮半島有事に即応!

 302.36『スペインのガリシアを知りための50章』

 673.86『コンビニがなくなる日』どうなる? 流通最終戦争 コンビニはもはや勝ち組と言えなくなった。

 686.21『日本全国!「新幹線」をとことん楽しむ本』