goo

ナチ時代のドイツの兵器生産

『ヒトラー政権下のドイツ』より

兵器生産

■兵器生産量 

 イギリスと比較してみると、戦車や自走砲などの装甲戦闘車両の場合、1939年の生産量はドイツが247両、イギリスが969両である。 1940年はドイツが1643両に伸ばし、対するイギリスは1399両だった。この後は措抗する状態が続く。軍用機の場合は、1941年の時点でもドイツの生産量はイギリスの半分程度で、1944年になってようやく追いついている。

 次にソ連、アメリカと比較すると、その差は歴然としている。 1939年から1945年のあいだで見ると、装甲戦闘車両の生産量は、ドイツは4万6857両、ソ連は10万5251両、アメリカは8万8410両だった。大砲は、ドイツが15万9144門、ソ連が51万6648門、アメリカが25万7390門である。軍用機は、ドイツの18万9307機に対し、ソ連が15万7261機、アメリカが32万4750機だった。

■生産をめぐる対立

 ドイツの兵器生産量は、ナチス政権初期から1930年代後半にかけて300パーセント伸びた。軍事支出は1934年度が10億9500万ライヒスマルクであったのに対し、1938年度は170億2500万ライヒスマルクにまで増加した。

 兵器生産には大規模な予算が投入されていた。しかし、とりわけ初期はそれが必ずしも有効に使われていたとは言えない。そしてその原因のひとつが、兵器の生産にかかわる各組織の、方針の違いによる対立だった。ドイツ本土と占領地域において、資源の配分をはじめとする兵器生産にかかわる一切を、軍の機関によって監督しようとした。しかしゲーリング、経済省や労働省といった省庁、各大管区もそれぞれの方針を持っていたから、軍は彼らと真っ向から対立していた」

 各組織はそれぞれに予算を握り、独自の方針で動いた。各組織のあいだで一貫性のある生産戦略が立てられることはなく、それが生産性の低下を招いていた。

■新しい軍需大臣

 シュペーアは兵器の生産態勢を見直した。その結果、戦車の生産量は1942年からの2年間で、4500両から1万7300両に伸びた。軍用機の生産量は、1941年と1942年がそれぞれ1万1772機と1万5556機だったのに対し、1943年は2万5257機、1944年は3万9807機となった。火砲は、1941年から1944年のあいだに1万1200門から7万700門に増えた。全体の生産量の割合を見ると、シュペーアの大臣就任からわずか6か月間で59パーセント伸び、その後も1944年の後半まで伸び続けた。

■シュベーアの改革

 シュペーアは、1942年4月に中央計画委員会を設立し、軍をはじめとする関係組織に分散していた、兵器生産に関する決定権の多くをこの委員会のもとにまとめた。また、シュペーアは兵器生産にかかわる企業の経営陣や技術者らの意見を重視した。労働者の作業能率の向上にも努めた。また、原材料や完成品を効率よく運ぶことができるように輸送システムを改善した。

■限界

 ドイツの兵器が、種類が多様であり、そのぶん製造に手間がかかった。とくに戦車と火砲は種類が多く、対戦車砲には21もの型があった。そしてそれぞれが専用の弾薬、部品、輸送費用を必要とした。それと比べて、例えばソ連はほんの数種の型を持つだけで、それを大量生産していた。ソ連は戦車でも、おもにT-34戦車とT-34-85戦車の2種のみを集中的に生産していた。そのため戦争期間中に5万7000両もの戦車を製造することが可能だったのだ。一方ドイツは1943年の時点で、20もの型の戦車と自走砲を製造していた。

 ドイツの兵器が多様だったのは、ドイツが兵器の性能や質にこだわり、たいへん熱心に開発を行ったからだ。そのためドイツでは優れた兵器がいくつも生み出された。しかし、ドイツのティーガー戦車は連合国軍のシャーマン戦車よりも性能で優っていたかもしれないが、最終的に勝負で勝ったのは、数で優っていた連合国軍の戦車のほうだった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

議論する相手も議論する場もない。これは致命的

未唯へ

 自律神経がおかしい。寒気と震えが止まらない。病名を見つけないといけない。手足が寒い。絶対に原因がある。だけど、知りたくない。

仕事の進め方

 パートナーを引きずり込もうとしているのかわからない。本人は気づいていないけど、大きな可能性を持っている。昨日のような類は他の人にやらせばいい。関係部署の調整もやらせればいい。大きな目で見ていけばいい。先のことを馬鹿にしてはいけない。それがない限り、今やっていることは無意味です。

 首尾一貫して、販売店の立場をとればいい。販売店が助かるようにすることです。印刷会社とかシステムの立場ではない。そのために、パートナーは存在しているのです。その道具を使うのが目的ではない。ましてや、その道具を守ることではない。

企業が変わることの意味

 この会社を救って、社会を変えて、世界の歴史を変える。この順番はどうでもいい。逆になるかもしれない。世界が変わって、日本が変わって、そして企業が変わる。

 企業が変わるといっても、私にできるのは、そういう意識にさせていくぐらいです。自分で仕事を造ることはしません。

 これは社会とか、歴史になった時は、そういうことでしょう。キリストとムハメッドは自分で動いて変えていったのは。その時は、神の啓示で周りが動いていった。当たり前のように抵抗はあった。

次期ネットの進め方

 これは5月のテーマです。やはり、システムとデータは分けないといけない。当初にすべきことことでした。情報系システムはごちゃごちゃになっています。

 予算から見ると、9割が維持です。人だけです。何も残らないし、先も見えない。個別対応するのであれば、販売店の中をいかに変えていくかです。

 社会がどう動くかは見えてきました。5月に仕事への展開です。その前に、せめて、3月分までのブログを未唯空間に織り込みます。ポイントは基幹系のスムーズな解体です。そのためには、データとシステムを分けて、データをネットワーク上に置けばいい。後は、販売店が自由に使えばいい。アプリケーションはクラウドに作って、販売店で使えるようにすることです。

 そのためにカルテ構想を出した。それ以上は担当する人間が考えればいい。

議論する場がない

 本当に、まともに議論するところがない。議論する相手もいない。ニーテェは「尋ねろ」というけど、相手がいなくてはムリですね。

 何を皆、警戒しているのか、自分のやり方を変えたくない。大きく変わろうとしているときに。

スタッフのナレッジ化の可能性

 元々、工場にはその場でラインを止めて、考えるというDNAがあります。メーカーはマーケティングを理解していないから、スタッフを甘やかしてしまった。当時は、商品を売ってくれればいい、という状態でした。

基幹系が変わるための想定

 室長が居なくなれば、だれも全体が分からないし、システムを守ろうとする人間がいなくなる。電算部の若い連中に新しいカタチを作り出していくでしょう。これも生きる道です。

 それとも、室長がインタープリターになって、販売店とは私の意見を聞いて、関係者に考えるように指示するかです。

 長期になっても、先のカタチを考える人に権限を渡すことです。今やっていくことに、後付の理屈をつけてでも、やり始めることです。それらがどう関係するかは未唯空間が示します。

組織を超えて、権限を超えている

 そんなことはCEOが考えるレベルのことと言われるかもしれないけど、私は数学者です。数学者に考える境界はないです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )