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哲学で解くニッポンの難問

『哲学で解くニッポンの難問』

Q働きづめに働いてきた。なぜ妻は感謝してくれないのか。(60歳会社員)

 感謝しなければならないのは奥さまではなく、あなたのほうです。

 あなたが結婚後、三十年とか、四十年近い期間、月給やボーナスを得てきたということに、奥さまが感謝していることはまちがいありません。しかしただひたすら感謝しているというわけではないのです。働きづめに働いてきたということは、そのぶん、家庭サービスが不足していたのかもしれませんし、奥さまの悩みごとをちゃんと聴いてあげるといったこともなかったし、子育てについては奥さま任せにしていたのではないでしょうか。

 奥さまは耐えてきたのです。爆発しそうなほどに不満がたまっているのです。あなたが働きづめに働いてきた間、奥さまは耐えに耐え続けてきたのですね。

 それでも奥さまが耐え続けてこられたのは、あなたが働いて給料を稼いでいたからです。あなたへの不満と、給料を貰えることの感謝の気持とが、ちょうどつりあっていたのでしょう。あなたが定年になり、給料が貰えなくなると、いままでつりあっていた天秤のバランスが壊れてしまいます。

 確かに、あなたの過去の労働に対する感謝の気持はいまも存続しているでしょう。しかし過去というのは、日ごとに遠ざかり、記憶がうすれていくものです。いつまでも過去に感謝していろというのは、無理な話です。

 大切なのは、いまです。たとえ過去のあなたが、有能な会社員であり、社会的な地位があり、人並み以上の収入があったとしても、それが過去の話であるなら、そんな過去のことは、きれいさっぱり忘れてしまったほうがいいでしょう。男と女は、対等の存在です。あなたが社会に出て働いたのは、有意義なことです。しかし主婦として家事をこなしてきた奥さまも、有意義な仕事をしてきたのだと認めてください。感謝しなければならないのは、むしろあなたのほうではありませんか。

Qわたしたちの老後は大丈夫なのでしょうか。(63歳主婦)

 国債を買い支え、団塊の世代がいなくなれば、国家財政は好転する。

 いまもらっている年金が一挙にゼロになるということはありません。国債の発行高がこれから増えていき、国民一人あたりの借金が一千万円を突破するようになれば、国家の破綻という可能性が懸念されることでしょうが、高齢者が、元本割れになるかもしれないファンドなどに手を出さずに、積極的に国債を買い支えれば大丈夫です。

 国債からの利子はもとより、国債を子どもに相続させる場合も非課税にするなど、超法規的に国債を買う人を優遇すれば、資産家がこぞって国債を買うようになるでしょう。もちろん相続した子孫が国債を売却すれば税金がかかるということにする必要があります。そうなれば、未来永劫売ることのできない国債が、この国を支えることになるでしょう。ただし国債には利子がかかります。国は利子を払い続けなければなりませんから、国債そのものを減らすことは難しいというべきでしょう。結局のところ、国は借金をかかえたままで、綱渡りを続けることになります。

 しかし大丈夫です。何とか綱渡りを続けているうちに、団塊の世代を含めてすべての高齢者は死に絶えます。もちろん、次の世代が徐々に高齢者になっていくでしょうが、団塊の世代というのは大きなカタマワですから、このカタマワが死んでしまえば、国家財政は楽になります。年金制度も高齢者医療の問題も解決します。老人ホームが余ってしまうので、各地に廃墟ができるでしょうが。

 とにかく団塊の世代がいなくなれば、国家財政は好転しますので、それから少しずつ国債を減らしていけばいいでしょう。団塊の世代が生きている間に国債を減らそうとすると、わたしたちの首が締められることになります。福祉を切り捨て、老人を見殺しにするような制度ができないように政治を見張っている必要があります。

 団塊の世代はただ人数が多いという世代ではありません。この世代はかつての全共闘運動の世代です。政治への関心が高いのですね。わたしは長く大学の先生をやっていますので実感しているのですが、若い人は政治に無関心です。投票にもあまり行きません。ですから、老人が団結すれば、政治を動かすことができます。

 団塊の世代はいま《第二の青春》をスタートさせた、自由な若者のような存在です。団塊世代の皆さん、もう一度、みんなで団結して《老人全共闘)を結成し、政治を動かそうではありませんか。
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政治コミュニケーション

『政治コミュニケーションを理解するための52章』

社会建設に不可欠の要素

 どの政治システムにおいても、支配機構と国民との間で行われるコミュニケーションは根幹である。とりわけ民主主義国家では、政治コミュニケーションは、社会建設に不可欠の要素となっている。政治コミュニケーションによって、国民は、国家と結びついていると考えるようになる。それ故、政治コミュニケーションは、人々に積極的に働きかけなければならない。しかし、それは、エリートや支配集団が描く社会を人々に伝えるだけであってはならない。社会からのフィードバックを可能にし、人々の政治参加を促進しなければならない。定期的に選挙が行われていれば、その国を民主的と見なすこともできるが、その状況を期限つきの独裁とも捉えることもできる。現代の民主主義国家では、国民の意見に応答することが求められており、応答の核心に対話がある。政治コミュニケーションの古典的な定義は、情報の発信者とその動機に焦点をあてる。政治コミュニケーションは、何らかの政治的な目的で始められると考えられてきた。しかし、この定義は、多くの民主主義国家では適切なものでなくなっている。メディアの役割を考えるなら、問題は一層明らかとなるであろう。

政治コミュニケーションを理解する

 政治コミュニケーションを、当事者として操作するにせよ、外側から研究するにせよ、非常に複雑な作業である。進化が激しい現状において、コミュニケーションの種類と形式は多様である。さらに伝達者とコミュニケーション状況によっても、多様な機能を有している。様々なメッセージが、あらゆるメディアを通じて、自律的で強制を嫌う視聴者のもとへ運ばれる。私たちは、コミュニケーションの形成に文脈(コンテクスト)が非常に重要であることを発見した。したがって、政治コミュニケーションの研究者は、コミュニケーションの機能と役割を真に理解するために伝達者、様々なメディア、伝達される人々を理解しなければならない。政治コミュニケーションの理論の多くは、アメリカのH.ラズウェルが博士論文で扱った政治宣伝研究を基礎としている。彼の中心的な問いは、「誰が、何を、誰に、どのチャネルを通じて話したのか、その効果は何か」であった。

 これら4つの要素はどれも研究対象となってきたし、時には個別的に扱われ、またある時は全ての要素を一連のものとして議論することもあった。この本は、このモデルを明確に適用しているわけではない。しかし、この本の議論が、このモデルに沿ったものであることは容易にわかるだろう。私たちは、政治コミュニケーションの情報源を、とりわけその信頼性という観点から眺め、その情報源が後に続く三つの連鎖をどのように操作しているのか、つまり視聴者が抱く認識をどのように操作しているのかを見ることで議論,を進める。同時に私たちは、メッセージの構築、それが伝えられる方法、独立したマスメディアの役割について必要な議論も扱う。最後に、実際に政治コミュニケーションの中心にいる受容者、つまり視聴者について、特に彼らが政治コミュニケーションをどう受け取り、どのようなプロセスを通して、どのように行動するのかという観点から議論する。ここでの議論は、最新の研究4・紹介するとともに、21世紀という変化の時代における、政治コミュニケーション領域の全体像を示す。
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連休中は家のパソコンで未唯空間への折込 ②

考えれば分かる

 3.11で見えてきたものは非常に多い。政府とか企業を含めて、反応は非常に遅い。それはふだんから考えていないからです.考えれば分かることはいくらでもあります。私は、それらを10年以上に亘って、考えてきたことを蓄積してきた

山を降りる

 とりあえずは、それをやったことを未唯空間のまとめて、山から降りることにします.これは堕落です。と言っても、ある特定の人間を説得することではない。社会全体に対して、会話をしながら、観察していきます。応用すると言うことです。

 これはニーチェとかデカルトと一緒で、旅に出るんです。それでの事象で、社会がさまざまであることを認識するのです。この歳になっての旅は危険だということは、よく分かっています。

 来週が、この生活の山場です。まだ、山の頂上に来ていないのに、山を降らないといけないのか。また、戻ってくるからいいか。頂上はムリだから、それぞれの尾根を伝わっていきます.それぞれの上をピョンピョン。

自分を変えること

 自分で得てきたものを、自分で変えられるのは、抵抗があります.この歳になると守ろうとします。未唯空間はドンドン変えていかないといけない。その訓練は毎日行っています。

 パートナーを見ていると、自分を維持するために、変えない部分があります。自分を維持することは危険です。その場で、全体をどう変えるのか。小さな現象に対しても、全体を見直す勇気が必要です。

 これができるのは数学者の特権かもしれません。どんな小さなことでも、インバリアント二影響があれば、全てを作り替えます。そのための忍耐力です。

未唯空間の本当の成果

 今回は、未唯空間全体に対して、ブログからの一つ一つの攻撃を掛けています。ドンドン、具体的にします。本当の成果は、未唯空間の作り方、考え方そのものかもしれません。

図書館というジャンル

 社会編などを項目以外に、図書館編を入れています。おかげで、思考する範囲が拡大した。

 図書館の機能はもっと拡大できます。グーグルそのものは図書館です。それもネットワーク上に拡がっています。販売店が生き抜けるための図書館がライブラリです。そのライブラリを使っていけるようにしないと、後、ヤバイです。それが5月のテーマです。

店舗でのコラボレーション

 コラボレーションとして、「店舗ミーティング」に限定した部分を「店舗での状況把握]に拡張させます。これによって、お客様との状況把握につながっていきます。

 また、スケジュール管理などの世界とも一緒になります。スケジュール管理も、一つのものをどうやって皆で使うかの観点です。

歴史というジャンル

 歴史というジャンルを入れたのは正解です。広い範囲で考えられるので、未唯空間が全体としてまとまる。今回もマーケティングが変わることで、どっちに向かうのは、新しい民主主義を作り出す。それは単に社会が変わるだけでなく、歴史が変わっていく。

 社会編だけでは、そこまで想像力が働きません。歴史が入ったから、影響が見えるようになった.
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連休中は家のパソコンで未唯空間への折込 ①

未唯へ。

 喜納は9時半に寝たので、朝の2時半から、色々考えていた。決まったのは、会社のロッカーの整理だけ?

存在の無

 今日は、少し変えよう。考えよう。片付けよう。この間に集中できるように。だから、会社の荷物も整理します。大きなバックを持っていきます。さらに空っぽにします。

休みにパソコン業務

 昨日のシェアする世界をもっと、総合的に見ます。そうすれば、来週以降のことがハッキリします。休みにパソコン業務を仕事にしていないことになります。

 なぜ、休みまで含めて、考えないといけないのか。本を読まないといけないのか。奥さんの口癖ではないけど、誰からも頼まれていないけど、自分が何をやりたいことがあるからですよね。

 家で、パソコン業務をやるには、覚悟が必要です.その覚悟を付けます。

幻想を断つ

 そうはいうけど、目の前に見えているのは、汲々とした世界です。周りの無関心な世界を超えたの先の世界を目指してやります。何かあるという幻想を断ちます。本当は何もありゃしない。
5月から現実的な世界に向かう
その前に、今までやってきたことを未唯空間に入れることの悲しみと喜びが精神を不安定しています。その最終段階から、5月の現実的な世界に向かおうとしています。

 他人の思惑よりももっと広い世界を目指しているけど、反面。他人が動かないと意味がないとも言われます。本当にそうなのか。

具体的なモノは作らない

 夢をカタチにすること、具体的なモノを作ることを私は止めました。それによって、可能性を作ろうとしています。

 これを未唯空間の大きな特徴にします。自分では作らない。インタープリターを待つ。それは社会の変化を待つ。そうならざるをえない。それぞれの人はそういうカタチで生きていくしかない。

日本の社会の方向

 グリーン・ニューディールは単に技術だけでなく、人が生きていくための役割分担を変えていこうとするものです。つまり、社会を変えていくことです。そうでないと、成功しないのは、彼らは分かっています。。

 日本の社会には本来そういうものがあるはずなのに、見えてこない.何なのか。

 ドイツなどを知れば知るほど、日本はモノを作っていればいいという傾向。また、我慢すればいいという傾向。何ら、新しさを感じません。新しければいいというものではないけど、今のままではダメだという認識がない。

日本は一つ?

 今回のようなことで、天恵に対して、「元へ戻ろう」、「日本は一つ」しかない出ていない。それもテレビのマスメディアだけで騒いでいます。政府からは何も出てきません。追認しているのか?

 日本が一つであるはずがない。挙国一致ではない。太平洋戦争開戦時とよく似ています。敵は、アメリカのように日本の数倍とか数十倍ではない。

 そして、克服べきものは自分たちです。一人ひとりが生きていける世界をどう作っていくのか。

 元々、日本はそういうレベルのことをやってきているはずです。それがあまりにも機械的になってしまって、自分で思考停止に入ってしまった。世界の中で、日本が新しい概念を持ち、新しいやり方をしないといけない。

日本のモノづくり

 日本はモノづくりといいながら、本当にモノを作っている人がどれだけいるかです。ラインで働くこと、企業で働くこと、それはモノづくりではない。

 研究開発部署に居たときに、そういう専門家がいた。だけど、さほどいらないです。それをどう使っていくのかという人たちです。それがお客様そのものだということです。

 つまり、使っていくことに関しては、モノづくりよりも上なんです。
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