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頼ること・尋ね合うこと

NHK ニーチェ『ツァラトゥストラ』の「永遠回帰とは何か?」から

最後にあえて「超人への疑問」を提示してこの回を終えたいと思います。ニーチェのいう超人が、孤独に一人がんばる、というイメージを伴ってりることが気になるのです。はたして人間は、ニーチェのいうように一人でがんばれるものなのか、またがんばるべきものなのか。

ニーチェの思想にはまりやすい人に、孤独で他人と打ち解けず、週刊誌の吊り広告のゴシップ記事を嫌悪する、そんな大衆嫌悪的な人がいます。こういう人は明らかに「孤独病」でニーチェにもそのにおいが大いに感じられます。しかしかなりの孤独病に冒されてしまっている。ルサンチマンを抱かず、既成の価値観や大衆的なものから距離をとりつつ、常に創造的であろうとする--まさに「超人」の像を地で行こうとしたように見えます。

ニーチェのいう「お前はお前の道を行け」というのは、非常によい考えだと思うのです。でも、何でも一人でがんばれるわけではありません。なによりニーチェ自身が寂しがり屋で、いつも自分と心が通じる話し相手を求めてやまなかった。ぼくは思うのですが、一人でがんばるイメージではなく、お互いに共振し刺激し合う空間のなかで一緒に高まっていくイメージを抱いたほうが「生きることのイメージ」としてはよりよいと思うのです。

そうした生き方のために大事なことの一つは、「頼ること」を学ぶということだとぼくは思っています。ニーチェは「同情」をものすごく嫌いました。同情は相手に対して失礼だというのです。ニーチェが語る「友」とはあくまでもライバル関係の友で、互いが競い合うべき存在とされているからです。そこには同情の入る余地などないようにみえる。

しかしぼくは人間の関わり合いのなかでは、同情を期待するのとはちがいますが、「頼る」ことは大事だと思うのです。もちろん「自分の生き方は最終的に自分で選ぶ」という気概は必要です。これがない人とは接したくないし頼られたくはありません。でも、その人が自分の主体性をもちつつ「ここが必要なので助けてくれないか」といって助力を求めてきたときは、もしそれが自分にできる範囲のことなら助けてあげたいと思う。そして自分も同じように人に頼っていいし迷惑をかけていい。相手に迷惑をかけても、相手が嫌でなければかまわない。そして自分もその分またお返しすればいい。独力で突き進もうとするよりも、他者に必要な助力を頼めることが、自立して自分の意志で生きていくためには大切ではないかと思うのです。

第二に、生き方のイメージとして重要なことは、尋ね合う関係をつくることだと思っています。「他者ときちんとキャッチボールできる関係があって、はじめて人は創造的になれる」というイメージをぼくはもっています。たとえばゼミの場では、相手の発言のいちばん芯にあるものを聞き取ろうとするように、といっています。もちろんうまく受け取れないこともあるわけですが、そんなときは「いいたいことはこういうことかな? それで合っている?」と尋ねればいい。聞く側は、自分が相手のいいたいことをきちんと受け取れているか、必要があれば尋ねて確かめる。発言する側も、相手にきちんと自分のいいたいことの良っ芯を川けようとして、言葉を工夫する。-ぼくはこのようなキャッチボールの仕方を「尋ね合う関係」と呼んできました。
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幼子のように、未唯空間を完成させる

未唯へ。何も考える気はない。太陽が白いです。なぜ? 朝はまだ、寒いです。

今は6時に家を出ています。どう見ても、バス停に着くのが早すぎます。6時10分に出るようにするか、思い切って、バスの逆方向に回るようにしましょうか。これなら、どこでも乗れます。歩きながら考えることを増やしましょう。

ニーチェの考え方を延長したものが気になっています。私は「孤立と孤独」でやってきた、それを死ぬまで継続させるかです。本では「孤独病」から「頼ること・尋ね合うこと」に持っていくことが必要と書かれている。
この先をどうもって行くかです。「超人」プロセスの第三段階としての「幼子」として、どこまでやっていけるかです。

人生の中で、心が震える時、それを元にして、永遠回帰しているというニーチェ。私にとって、心が震える時はいつか。アイデアがつながったときです。明確に覚えているのは、サファイア空間ができたときです。今は、未唯空間が完成したときです。それがこわい。その先が想像できない。本来、それをもって、「次の」ことをやればいいけど、それは面倒です。

未唯空間を完成させることは、考えることと、行動することと一緒です、考えるのは自由だけど、行動することは一つに絞ることです。考えが終われば、行動しないといけないのか。これに悩んできました。

行動するのは、私ではない、というのが、今回の結論です。以前は、インタープリターである室長と、ファシリテーターであるパートナーがいたから、うまく循環できました。今は、共にいません。

だけど、考えるところは顕在です。これさえあれば、インタープリターとファシリテーターが来た時に、いつでも動けます。これは私が求めるものではなく、相手が求めるものです。

人材育成の年度方針を聞いていました。販売店が「自前で」育成するのをメーカーが支援するのは難しい。メーカーができることは、マニュアルを作るぐらいです。販売店がそのマニュアルで自分たちの行動を変えられるかどうかです。

メーカーのもう一つの武器は、集合教育です。販売店にカリスマに育成させる方法です。これはその場しのぎで有効性がないので、「自前」主義になったのです。

本当に自前でやるのであれば、必要なのは、システム思考です。そんなに簡単にスタッフに思いが伝わるものではありません。事例とかコラボレーションとか、そういったものの集まりをキッチリさせないといけない。

ネットワークは店舗に入り込んでいます。テレビ会議も含めて対応できます。それこそ、ポータル・ライブラリの世界です。自分たちのコンテンツと思いを入れれば、使えるようになっています。また、コラボレーションのツールも無料で使うことができます。

なぜ、そういう発想にならないのか。メーカーに手柄にならないからでしょう。この部分が「販売店の要望ではない」というところにつながっていきます。メーカーの思惑というフィルターで、「要望」が落ちてしまうのです。

教育にとって、一番効いているのは、調べることも含めて、ネットの世界です。個人を生かす世界です。ライブラリにノウハウを集約しておいて、自分たちがどうしたらいいかもできるし、それぞれが何を考えているのかのコラボレーションもできます。

「研修」を未唯空間のどこに入れ込むか。全て、この中に押し込みます。

さいごに、35年の結果だから、もっと、幼子のように、後先考えずに、楽しんで、未唯空間を完成させます。
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