『キューバの歴史』中学校の歴史教科書より
経済封鎖、妨害活動、革命の主な指導者に対する暗殺計画、テロ集団の浸透、さらに国際的にキューバを孤立させるための外交圧力の拡大などは、米国の直接侵攻が迫っていることを示すものであった。プンタ・デル・エステの茶番劇はその前哨戦であり、キューバ周辺地域における米国の軍事演習もそれを立証していた。
このような状況のなかで、1962年夏、ソ連代表団がキューバを訪れた。わが国の最高指導部に対し、国内に核弾頭搭載中距離弾道ミサイル設置を提案するという使命を帯びていた。提案は分析され、受け入れが決定された。このような決定がなされたのは、米国帝国主義はあらゆる口実を使い、キューバヘの直接攻撃のためにその軍事力を使うであろう、またそれを抑止するために考案された手段[ミサイル設置]は社会主義陣営全体を強化するものとなろう、という確信によるものであった。
これは防衛能力の強化のために適切な合法的手段をとるというキューバの主権に関わる問題である。だが、それは米国の政界に激しい怒りを巻き起こした。米国のあらゆる宣伝装置が動員され、ヒステリックな反キューバ・キャンペーンが繰り広げられた。すなわち、「キューバは米国と西半球全域の安全にとって脅威である」というのである。米国帝国主義の最も反動的部分は政府に対し、わが国への軍事行動の即時実施を求めた。
当時、U-2偵察機によるキューバ領空の侵犯が強化され、キューバ領海線に位置する米国軍艦による無線探査が常態化していた。 10月半ば、米国はフロリダとテキサスの軍隊を増強し、キューバ沿岸に近い海域の海軍を強化した。
10月22日、ジョン・F・ケネディ大統領はキューバヘの海上封鎖を発表し、ソ連のミサイルを撤去しなければキューバを爆撃すると警告した。こうして現代史上最も危険な事件の一つである10月危機が勃発した。世界は核戦争の縁に立たされた。
深刻な事態を前に、22日午後5時35分、フィデル・カストロ総司令官は臨戦態勢を整えるよう命令した。キューバ人民は核の脅迫にもひるむことなく、勇気をもって応え、再度、革命防衛の決意を示した。
情勢は緊迫し、核戦争を回避し、交渉によって紛争を解決するために、途方もない外交努力が必要になった。国連安全保障理事会では重要な議論が繰り広げられ、国連事務総長が交渉の仲介者に指名された。この問、ソ連の二キタ・S・フルシチョフと米国のジョン・F・ケネディの2人の最高指導者の間で頻繁にメッセージが交換された。また、そのほかの政府の指導者の間でも会合が行なわれ、影響力のある、さまざまな世界的科学者や文化人が戦争反対を表明したりした。わが国もソ連と毎日接触し、米国の脅迫に対しては原則的立場を維持しなければならないという意見を伝えた。
世界が戦争回避の努力を続けているときにも、米国政府はキューバ侵略の脅迫を続けていた。ケネディ大統領は10月26日、自国の航空機に対し低空飛行の強化を命令した。
そのためフィデル・カストロ総司令官は対空砲による領空侵犯機への発砲を命令した。
10月28日、ソ連指導部のイニシアチブとして、フルシチョフはケネディに公開メッセージを送り、米国がキューバを侵攻しないことを約束するならば、わが国からの核兵器撤去を受け入れると伝えた。この提案は、当時としては戦争の回避に役立った。しかし、帝国主義がキューバヘの侵略政策を放棄することを全面的に保障するものではなかった。
同じ日、フィデル・カストロ総司令官は声明を発表し、キューバの立場を明らかにした。これは「5項目」という名で知られているが、米国政府が海上封鎖の解除のほかに、以下の点を約束しない限り、キューバにとっては確固たる保障とはならないと表明していた。
1962年11月から12月にかけて重要な意見の交換が続いたが、キューバは自らの立場を断固として維持するとともに、平和的手段による危機解決のために建設的立場を提案した。 11月20日、米国の対キューバ海上封鎖は停止され、ソ連とキューバの軍隊は通常の態勢に戻った。
1962年10月の事件はキューバにとっても、また世界にとっても、極めて重要なものであった。第2次世界大戦以降、人類はこれほど危険な瞬間を生きたことはない。
経済封鎖、妨害活動、革命の主な指導者に対する暗殺計画、テロ集団の浸透、さらに国際的にキューバを孤立させるための外交圧力の拡大などは、米国の直接侵攻が迫っていることを示すものであった。プンタ・デル・エステの茶番劇はその前哨戦であり、キューバ周辺地域における米国の軍事演習もそれを立証していた。
このような状況のなかで、1962年夏、ソ連代表団がキューバを訪れた。わが国の最高指導部に対し、国内に核弾頭搭載中距離弾道ミサイル設置を提案するという使命を帯びていた。提案は分析され、受け入れが決定された。このような決定がなされたのは、米国帝国主義はあらゆる口実を使い、キューバヘの直接攻撃のためにその軍事力を使うであろう、またそれを抑止するために考案された手段[ミサイル設置]は社会主義陣営全体を強化するものとなろう、という確信によるものであった。
これは防衛能力の強化のために適切な合法的手段をとるというキューバの主権に関わる問題である。だが、それは米国の政界に激しい怒りを巻き起こした。米国のあらゆる宣伝装置が動員され、ヒステリックな反キューバ・キャンペーンが繰り広げられた。すなわち、「キューバは米国と西半球全域の安全にとって脅威である」というのである。米国帝国主義の最も反動的部分は政府に対し、わが国への軍事行動の即時実施を求めた。
当時、U-2偵察機によるキューバ領空の侵犯が強化され、キューバ領海線に位置する米国軍艦による無線探査が常態化していた。 10月半ば、米国はフロリダとテキサスの軍隊を増強し、キューバ沿岸に近い海域の海軍を強化した。
10月22日、ジョン・F・ケネディ大統領はキューバヘの海上封鎖を発表し、ソ連のミサイルを撤去しなければキューバを爆撃すると警告した。こうして現代史上最も危険な事件の一つである10月危機が勃発した。世界は核戦争の縁に立たされた。
深刻な事態を前に、22日午後5時35分、フィデル・カストロ総司令官は臨戦態勢を整えるよう命令した。キューバ人民は核の脅迫にもひるむことなく、勇気をもって応え、再度、革命防衛の決意を示した。
情勢は緊迫し、核戦争を回避し、交渉によって紛争を解決するために、途方もない外交努力が必要になった。国連安全保障理事会では重要な議論が繰り広げられ、国連事務総長が交渉の仲介者に指名された。この問、ソ連の二キタ・S・フルシチョフと米国のジョン・F・ケネディの2人の最高指導者の間で頻繁にメッセージが交換された。また、そのほかの政府の指導者の間でも会合が行なわれ、影響力のある、さまざまな世界的科学者や文化人が戦争反対を表明したりした。わが国もソ連と毎日接触し、米国の脅迫に対しては原則的立場を維持しなければならないという意見を伝えた。
世界が戦争回避の努力を続けているときにも、米国政府はキューバ侵略の脅迫を続けていた。ケネディ大統領は10月26日、自国の航空機に対し低空飛行の強化を命令した。
そのためフィデル・カストロ総司令官は対空砲による領空侵犯機への発砲を命令した。
10月28日、ソ連指導部のイニシアチブとして、フルシチョフはケネディに公開メッセージを送り、米国がキューバを侵攻しないことを約束するならば、わが国からの核兵器撤去を受け入れると伝えた。この提案は、当時としては戦争の回避に役立った。しかし、帝国主義がキューバヘの侵略政策を放棄することを全面的に保障するものではなかった。
同じ日、フィデル・カストロ総司令官は声明を発表し、キューバの立場を明らかにした。これは「5項目」という名で知られているが、米国政府が海上封鎖の解除のほかに、以下の点を約束しない限り、キューバにとっては確固たる保障とはならないと表明していた。
1962年11月から12月にかけて重要な意見の交換が続いたが、キューバは自らの立場を断固として維持するとともに、平和的手段による危機解決のために建設的立場を提案した。 11月20日、米国の対キューバ海上封鎖は停止され、ソ連とキューバの軍隊は通常の態勢に戻った。
1962年10月の事件はキューバにとっても、また世界にとっても、極めて重要なものであった。第2次世界大戦以降、人類はこれほど危険な瞬間を生きたことはない。